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 血のつながらない五つ年上の兄が引きこもりになったのは、紗希が中学一年生の時だった。

 きっかけは大学受験の失敗。確実に受かると思っていた大学に落ち、予備校に通い始めたものの一か月もしないうちに家から出なくなり、そのままずるずると半年がたった。

 父も母(正しくは義母)も、もちろん紗希も心配したが、兄は「家で勉強した方が集中できるから」と予備校に行こうとはしなかった。

 引きこもりとは言っても自分の部屋にずっといるわけではなく、家の中は自由に行き来していた。家族とも会話を交わす。ただ、家の外に出る気は一切ないようだった。

 その様子から「次の受験で合格すれば、もとに戻るだろう」と両親は判断したようで、あまり口うるさいことは言わなかった。言えば逆効果になると考えたのかも知れない。

 紗希自身も兄の部屋でお喋りをしたり、逆に自室で兄から勉強を教えてもらったりもしていた。「そのうちお兄ちゃんも外に出るようになる」と信じていた。

 ところが……。

 そうはならなかった。

 兄は次の年の大学入試を受けなかった。

 さすがに両親は強く叱責し、それが兄の心を頑なものにした。兄はあまり部屋から出てこなくなった。

 兄が紗希のことを妙な目つきで見るようになったのは中学二年の終わり頃だ。

 両親は共働きで、夜が遅くなることもしばしばだった。紗希が兄の食事を用意することも珍しくなかった。

 兄は両親がいる時は自室で食事をとるようになっていたが、そうでない場合は紗希と向かいあわせで食事をすることを好んだ。その時の兄の目つきを紗希はいまも忘れることができない。

 ある時、二人きりで食事をしていると、兄が言った。

「紗希。お兄ちゃんはいま、妹萌えにハマってんだ」

「妹萌え?」

 聞くとアニメやゲームに兄と妹が恋に落ちるというジャンルがあるらしい。そのジャンルの魅力について語る兄を見て、何も感じないほど紗希は鈍くはない。兄が自身と紗希とをその妹萌えの物語に投影していることは分かった。

 その時点で両親に相談していたら、どうなっていただろう? また違う展開もあったのだろうか?

 おそらくなかった……と思う。

 血のつながりがないとは言え、現実に兄が妹に恋をし、兄妹以上の関係を求めるようになる状況を両親には受け入れられなかったはずだ。

「そんな現実離れしたことが起こるはずがない」

 と一笑に付すか、真面目な顔で首を横に振ったことだろう。兄の引きこもりを直視せず、そのうち自然に解消するはずだ……と考えていることからも、それは容易に推測できた。

 だが、兄はそれを決行しようとし、未遂には終わったものの、紗希の心に深い傷を残した。

 激怒した父によって家を出された兄はアパートで一人暮らしを始めた。母が朝晩に立ち寄っては食事の面倒を見ていたようだが、詳しくは紗希には分からない。


 中学三年生の終わりに、今度は紗希が引きこもりになった。

 高校受験の当日、兄が待ち伏せをしていたことが原因だ。

 紗希の志望校は真桜高校。その日は滑り止めとして私立サンノウ学院を受ける日だった。幸いなことに同級生たちと一緒だったので実害はなかったが、紗希にとっては受験どころではなかった。

 次の日から外に出られなくなった。当然のことながら真桜高校の受験も見送った。

 中学校は卒業できたものの、高校には入学できなかった。

 そんな彼女のもとに二三日に一度のペースで訪ねてきたのが、岩志木星児だった。一つ下の幼なじみ。

 星児が紗希の抱えている事情を知っていたのかどうかは分からなかった。何も言わなかったし、何も聞いては来なかった。ただ「一緒に勉強しよう。教えてくれ」と言ったのみだ。そして二人は一緒に受験勉強にいそしんだ。

 紗希は小さい頃から星児のことを知っている。かつては、どちらかというと線の細い男の子だった。

 ところが久々に間近で見てみるとずいぶん身体が逞しくなっていた。剣道部に入っていることは、校内で時折り道着姿を見かけていたので知っていたが、それにしても変わったものだと紗希は感心する思いだった。

 ある時、紗希はそのことを口にしたことがある。ずいぶん身体が逞しくなったんだね、強そうに見える。星児の答はこうだった。

「弱いと大切な人を守れない」

 紗希は、兄への恐怖心から男性そのものに対して苦手意識を抱くようになってしまったかも知れない、と思っていたが、どうやらそこまで傷は深くなかったようだ。星児とは平気で接することができた。もしかすると、幼なじみという安心感もあったのかも知れないが……。

 高校受験は父が付き添ってくれた。母は兄の住む部屋に行って監視をしていたようだ。紗希はサンノウ学院にも真桜高校にも合格し、本来の志望校に進んだ。

 真桜高校に入学すると星児とは再び距離ができた。別のクラスになったことも影響したのかも知れない。

 紗希はいつしか幼なじみというよりも、それ以上の対象とした星児のことを考えるようになっており、その気恥ずかしさから距離を取るようになってしまっていた。

 星児は文芸部に入り、紗希はどこの部にも入らなかった。


 一年生の終わり、つまりはこの春になって兄は再び姿を現した。春休みのことだ。

 両親は仕事に出ており、紗希は一人で家にいた。ドアノブがガチャリと音をたて、紗希はドキリとした。次いでドアチャイムが鳴る。室内のモニターで確認してみると、そこに兄が立っていた。紗希の顔から血の気が引いた。

 いつかこういう日が来るかも知れない……とは思っていた。だからこそ玄関には鍵をかける習慣を身につけていたし、来客があった場合は必ずモニターで確認するようにもしていた。

 そのため紗希が不用心にドアを開けることはなかったのだが……兄は執拗だった。何度もドアチャイムを鳴らし、しまいにはドアを叩き始めた。その叩き方には「居留守を使ってもムダだぞ」という威嚇の意思が感じられた。

 紗希はパニックになり、その混乱のなかで星児の携帯に電話をしていた。

「どうした?」

「お兄ちゃんが、うちに来て、ドアをどんどん叩いて」

「すぐ行く」

 通話は一方的に切れ、五分もしないうちに星児が現れた。兄はその姿を見るや、すぐさま立ち去った。

 紗希は星児を家に招き入れ、そこで初めて一連の出来事を話した。黙って聞いていた星児は紗希が話し終えると一言だけ言った。

「キツかったな」

 その言葉を聞いて紗希は思わず号泣してしまった。

 紗希が落ち着きを取り戻すのを待ってから、星児は兄のアパートの住所を聞いてきた。紗希は知らなかったが、母が朝と晩に立ち寄っているらしいことは告げた。星児は「それで充分だ」と言った。

 その後、春休み中に星児と会うことはなかった。兄が家に来ることもなかった。

 星児は兄のアパートを聞いたが、もしかして会いに行ったりしたのだろうか? でも会ったとしても何がどうなるというのだろう? ひょっとすると私を守るために兄をやっつけてくれたとか?

 紗希はかつて星児が言った「弱いと大切な人を守れない」という言葉を思い出した。しかし、星児にとって自分が「大切な人」だとは思いにくい……。

 二年生としての新学期が始まる当日、紗希がふと後ろを見ると星児が少し離れて歩いていた。

「え?」

 と紗希が首を傾げたのは、星児が軽く足を引きずっていたからだ。

「どうしたの、足?」

「ちょっと痛めた。そのうち治る」

 とだけ星児は言った。

 星児の足を傷つけた相手が兄だと知ったのは、もう少し後になってからだった。星児はあの後、兄の部屋に行き(母を尾行したらしい)、紗希には近づかないでほしいと言ったのだった。激昂した兄は星児に殴る蹴るの暴行をはたらいた。その気になれば簡単にねじ伏せることができるであろう兄に、星児は一切抵抗をみせず、血まみれになった顔で要求を迫り続けたという。


「部長、もういいよ。大丈夫」

 紗希が部長の背中をとんとんと叩くと、

「そうか」

 とハグを解いた。本当はずっと抱きしめていてほしかったが、いつ他の部員が来るか分からない。

 部長にハグをされている光景を見せることで彼女たちを傷つけたくなかったし、ハグされた理由も知られたくなかった。

 部長が立ち上がったタイミングで部室のドアが開き、倫子と春奈が入ってきた。

「遅くなりましたー」

「ホ、ホームルームが長引いちゃって」

「そうか」

 と部長はいつもの調子で二人に応える。

「あれ? 紗希、どどどうしたの? なんか顔色悪いよ」

「え、大丈夫」

「あ、部長!」と倫子が言う。「二人きりであるのをいいことに、紗希に何かしたでしょ。この幼なじみ大王!」

「おれにはそんな度胸はないよ」

 部長が笑って答える。

「これだから最近の草食系男子は」と倫子が言いながら自分たちのお茶の用意をする。「今日は売店でチョコの新商品を見つけたから買っちゃった」

 春奈は心配そうに紗希の背中をさすってくれている。

「ありがとう。でももう大丈夫」

「そ、そう? だったらいいけど」

 やがてあわたが顔を出し、掃除当番だった美帆も顔を出したところで、いつもの文芸部の日常が始まった。


 宗像先輩の卒部式には全員が参加を表明した。

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