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振り返れば真っ暗な穴がぽっかり開いている。いや、違う。大きな裂け目がずっと横に広がっていた。
「まさか……」
聞いたことはあった。黒の森のさらに先――ナステの谷のことを。底が見えない深い谷。町で親子が話していた。昔いらなくなった子供を捨てる場所だった、と。
言うことを聞かない子供を嚇す常套句だ。今では、と翁は言っていたが、過去には本当にあったこと。父は、子爵は私をここに捨てる気だ。
「や、やだ……た、たすけ……」
「任務完了……っと」
私が叫ぶよりも早く、その男が私の体を突き飛ばした。
「いやぁ!」
指の先がむなしく空を切る。男の顔もわからないまま。真っ黒なシルエットがぶれて消えた。
背中から裂け目に落ちた私は、天を仰ぐ。森はいつの間にか途切れていた。大きな月が、星はまばゆい。空気の層が背中を、頭を、頬を叩く。
浮遊感に腹の底が持ち上げられ、言い表せない気持ち悪さと恐怖に染まった。
――あぁ……死ぬんだ……ううん……もう死んだのかも……。
いつまでたってもやってこない衝撃、自由にならない四肢。得体のしれない浮遊感こそ、すべて終わった後のソレなのかもしれない。
――そっか……死んだのか……でも、二度目だし……。
一度目はこんな経験なかったな、と、脳裏によぎった言葉に眉を寄せたが、違和感に気が付かなかった。
「星がきれい……」
感覚のなくなった体に資格だけが鮮明に残っている。言葉はちゃんと音になったかは分からない。
濃紺の闇にぽっかり浮かんだ月に負けずと、星が瞬いている。きらきらと星粒の絨毯。なんと幻想的な光景か。手を伸ばせば届きそうな場所にきらめきが見える。
『そう? そんなにきれい?』
頭の中に響いた声に、驚きはなかった。もう、私の命は尽きたのだ。もはや、何も怖くない。それが私を迎えに来た闇の使者のささやきだとしても。
たった十二年。ろくでもない人生だった。だったら、ここで終了してしまったところで惜しくもない。
『人間とは愚かな生き物だ。見たか? あの男の顔を』
『血を分けた子供をこんなところに突き落として、安堵した醜い素顔?』
声が二つに増えた。一つは弾むような柔らかい女性のもの。もう一つは落ち着いた男性のもの。父と母の声とは全く違う、どちらも耳当たりの良い温かな音。しかし、内容は穏やかでない。
『ガラスティアの子供を葬るとはな』
「……ガラ……?」
『この国の貴族はね、十二歳になると魔法の記録に引き合わされるの。ガラスティアって呼ばれる大きな大樹があってね、実の代わりに宝珠をつける不思議な樹よ? 宝珠には、それぞれ特別な魔法の記憶が刻まれている……貴族はそれを受け取る資格があるらしいわ』
『ハッ! あの傲慢な一族が勝手にぬかしているだけだ』
不機嫌そうな男性の声に、女性がくすくすと笑いで返した。
王宮のどこかにその樹があるらしい。それぞれ誰のものかはわからない宝珠。十二歳の年になると、王宮の礼拝堂で洗礼式が行われる――もっとも、私も今初めて知ったわけだが。死んだことになっていたのだから、連れていく気はもちろん、知らせる気もなかったのだろう。
その洗礼式で、極秘に子供と宝珠が引き合わされるらしい。子供がその宝珠の持ち主であれば、宝珠の中の記録を継承する特殊な魔法使いになるという。
『あなたはその資格があったのよ』
宝珠が実るということは、この国のどこかに対なる者がいるということ。どこでどう漏れたか、洗礼式に参加していない貴族の子女の存在が明らかになった。
『あの男はお前を死んだものとして扱っている。今更生きていました、とは言えまい』
「そう……ですか」
『まぁ、悲観するな。こういった話はお前だけではない……しかし、今回は相手が悪かった。よりによって星の宝珠だ』
『この国の王族の待ち望んだ、星の魔女。生きている可能性があるのなら、血眼になって探すわね』
どう反応してよいのかがわからない。星の魔女が何なのか、自分がその資格を持っていたと言われても。
父である子爵が、この谷に私を捨てるつもりだと悟った時、もう怒りもわかないくらいに、そう、諦めてしまったのだ。
「もう私は死んでしまったから……どうでも良いです」
一瞬、声はやみ、静寂が落ちた。が、すぐにけたたましい笑い声が満ちた。
『ははは……! 残念だが、まだ死んではいない』
『私たちが同時に干渉すると、時が止まってしまうの。だから、あなたは崖から投げ出されたまま、宙にとどまっているってわけ』
「えぇ⁉」
一気に現実に引き戻され、嫌な汗が体中から噴き出した。
「じゃ……じゃあ、私はこのまま落ちて死ぬの⁉」
嫌なことが気づかないうちに終わったと思った矢先、これから待ち受ける恐怖に戦慄する。
『そうなるわねぇ』
こんな時に、場違いにおっとりとした返答。
「た、助けてください! あなたたち、神様なんでしょう⁉」
いや、悪魔かもしれない。
「私が何をしたっていうの⁉」
ここに来て、諦めきっていたはずの不満が爆発した。ただ、ありもせぬ疑惑と容姿に恵まれなかっただけで家族から見放され、挙句の果てに殺さる。使用人に混ざって、泥を食らっても、命があるならとそれだけで生きて来たというのにあんまりだ。
『やっと人間らしくなったか。どうにも前が混ざって、諦めが良すぎたようだからな。それでは面白くない』
クックと男性の声が笑いを漏らす。
『うーん、私たち、神様ってわけじゃないのよ。でもって、あなたが何をしたかって? 強いて言うなら「あなたはまだ、何もしてない」かしらね? 本来の役目はこれからだもの。私たちはそのためにここに来たのよ……星の魔女?』
天上の星が一つ、大きくはじけるように煌めいた。そのまぶしさに、たまらず瞳を閉ざす。
「くぅ……!」
視界を遮ったはずなのに、瞼の裏は真っ白で目が眩む。そのまま私の意識は真っ暗な闇の中に呑まれていった。