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「そんなはず……」
幼子は喉の奥からようやくそれだけを絞り出した。
「こんな谷底だけど、あなたは傷一つなくあそこに横たわっていたの」
彼を抱きかかえたままで、私はジルが座っている位置を指す。刺激しないように柔らかい口調を意識して。
「どういうことだ……あ……!」
呆然と、そこを眺めていた幼子がややあって、私の腕の中から滑り降りる。少し離れた場所に流れる川をめがけて駆けだした。
「ちょっと!」
私の時とは違い、やせ細っていても体力はあるらしい。そんな幼子が、水面を覗き込み大きく肩を震わせた。
「ありえない!」
そのセリフに成り行きを見守っていたディーと顔を見合わす。幼子を避けるように迂回したジルが、私の足元にすり寄った。
「こいつは……誰だ?」
「え……?」
同じように水面を覗き込んだが、見えるのは薄暗い自身の影だけだ。その容姿がはっきりと映るほどここには光が届かない。ましてや形を留めないで流れ続けている川の水では、まともに姿を確認することもできないだろう。水面に目を凝らしていると、幼子が自身の顔を確かめるように撫で始めた。
「まさか……この私が……」
うっすらと弛んで映るシルエットも同じように自身の顔を撫でている。
「うーん……そうね、もう少し明るくしましょうか」
小さく詠唱を漏らすと、彼を見つけたときに使った光の玉を二つほど作った。これだけのことで、ずいぶんと周囲が明るくなった。
「あと、ディー、川の流れを少し止めたい」
『面倒くさ』
そう言いながらも、川の流れを一部だけとどめる。光と闇が干渉しあうと、時が止まるらしい。私の光ではまだ及ばないが、小さな鏡もどきを作るくらいには役立ったようだ。水面に目を向けると、私たちの姿が鮮明に映って見える。
――少し髪が伸びたかな……。
黒い髪が肩にかかって滑り落ちる。家族のだれも持っていなかった漆黒の瞳が、水鏡の向こうから私自身を捉えていた。自分では何の違和感も持たなかったこの容姿が、家族のだれからも疎まれていた。十四歳には見えない小柄なこの体は、当時よりずっと肉付きが良くなっている。
――こんなところで一人で暮らしている今の方が、栄養状況が良いだなんて皮肉なものね。
今では薄れつつある感傷がまた頭をもたげた気がする。目をそらした先、へたり込む幼子の姿は、乱雑に伸びた灰色の髪と、推定年齢に不相応なかさついた肌が光でさらされ、一層みすぼらしく映っていた。ただ、そこにあった幼子の表情はさっきの威勢はどこへやら、「表情が抜け落ちる」という表現が言い得て妙なほどに血の気を失っている。
「ちょっと……大丈夫?」
顔を覗き込むと、見開かれた大きな瞳に私の姿が映りこむ。
「アメジストの瞳……」
深みのある紫色。こんな色を持った人間は見たことがない。
『ははぁ……なるほど、紫紺の系譜か』
すべてを悟ったかのような、深いため息とともにディーが漏らす。
「紫紺の系譜? なにそれ?」
『この国の王族だ』
「えぇっ⁉」
慌てて、幼子から距離を取る。なるほど、王族ならば先ほどまでの偉ぶった態度も頷ける。
この国のことはディーに習ったことくらいのことしか知らない。それでも、王族というのだからこの国のトップにある一族だ。偉いに違いない。とりあえず、それだけの認識で十分だろう。私は崖の下に捨てられ、すべてに忘れ去られた――とされる――存在なのだから。
『しかし、こんな幼子がいたとはなぁ……王族の子供は精霊が守護するなんていう面倒くさい約束事があるからな。知らないはずはないのだが……』
「約束事?」
『王族はな、その血をさかのぼると「光の」の子孫にあたる』
「エデンの……? だって、エデンは人間じゃ……」
エデンは私が崖から落ちたときにディーと一緒に助けてくれたもう一人の精霊だ。ディーとは違い、金の巻き毛を持った、美しい女の人の姿をしていた。私の魔法とは相性が良いらしく、たまに遊びに来てくれる。じっくりと見たことがなかったが、そういわれてみれば彼女の瞳は紫がかっていたかもしれない。
ちなみにディーはエデンのことを『光の』と呼ぶ。その名の通り、エデンは光の精霊だ。
同様にディーはほかの精霊も『風の』『土の』と呼ぶようだが、私は会ったことがない。
そう、この世界には人間以外の種族が存在する。精霊はその中の一種で、特に不思議な生き物。神に準じる存在らしい。
――生き物と呼んでいいのかよくわからないけど……。
そんな精霊は、契約したり守護したりして魔法の使い手に力を貸してくれている。彼らは気まぐれで、『お気に入り』にしかその姿を見せないし、力になってもくれない。私がディーやエデンに会えたのは、本当に幸運なめぐりあわせだった。
ディーの名前は私が付けたものだが、エデンは最初から名を持っていた。全身がオパール色に輝くお姫様のような精霊で、とにかくまぶしいのでディーは一緒にいるのを嫌がる。
「精霊って人間の子供も産めるの?」
生き物の生態については一応知っている。赤ん坊がキャベツから生まれてくることではない程度には。むしろ、キャベツから生まれてくるのが精霊や妖精ではないのだろうか。
『「光の」はその昔、人であった。詳しく知りたくば、本人に聞けばよい。まぁ、ゆえにアレは子孫を守り続けておる』
上位精霊と契約している人間は、トラブルにならないように情報が共有されるらしい。そういった情報に疎い下級精霊でも、守護の魔法がかかっているのでトラブル防止のために避けて通るのだとか。
上位精霊の中でも格別のエデンが守っている一族。それに倣ってほかの精霊も何かと力を貸し与える。それが守護と呼ばれるものの正体だ。
――王族、最強じゃない……。
何やかやで闇の精霊に守られている自覚のある私が、口を尖らせたくなるのも無理はないだろう。