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ヒカリゴケが繁る谷の奥は太陽の光の下には負けるものの、十分な明るさを保っている。崖の上からは決して見えない位置。そこに私の住処はあった。
幼子を連れ帰ると、ひとまずは私の寝台に横たわらせる。
『ひどいものだな。魔封じどころか、二重三重によくわからん呪いがかかっている』
ディーが興味深げに幼子の顔を覗き込む。
「よくわからん?」
『よほど恨まれていたのか、陰湿なことこの上ない。幾重にも上書きされている。一つずつ、解かんと何がかかっているのかはっきりとは見えん』
たいそうなことを言いながらも、声色は嬉々としている。まるで、新しいおもちゃでも手に入れたように。
それにしてもこんな幼い子が、なぜそんな目に遭わねばならないのか。
『一つ目の呪いは眠りの呪いだな。いきなり大掛かりな魔法だ』
「眠りって……それじゃあ、この子は眠ったままなの?」
『こいつは運が良い。闇の精霊王の我に拾われたのだからな。眠りは闇の領分だ』
拾ったのは私なのだが。腑に落ちず傍らにたたずむディーを見上げたが、彼はお構いなしに幼子に手をかざした。
フードの奥の金の光が二つ。嬉しそうに細まっていく。
――ディーに任せておけば問題ないか……。
何せ、彼は闇の精霊の中でも特別だ。
「これが呪い?」
幼子の額から黒い煤のようなものが立ち上り、ディーの手のひらに収まっていく。
『今はもう、ただの魔力だ。解呪して元の魔力を闇に返した。それだけ』
握りつぶすように最後のひと固まりを掬い上げた。
「ん……」
弱くかすれた音が、幼子の喉の奥から漏れる。
「……目が覚めた?」
ディーがさりげなく私の背に回った。怖がらせまいとした配慮か。中が空洞であることに気が付かなかったとしても、これだけ深くフードをかぶった人物が急に目の前に現れたら驚くだろう。横柄な物言いはするが、この世界で彼ほど親切な人に出会ったことがない。クックと漏れるような不気味な――おそらく笑い声――音からは想像もできないが。
「だ、誰だ! お前は‼ ここはどこだ!」
子犬が吠えるようにけたたましい。この体のどこにそんな元気が残っていたのか。ずいぶんと生意気な口調は貴族の子息かもしれない。
「落ち着いて? ここはリズベルトの谷……って、しらないか」
さすがにナステの谷とは口にしない。知っているかどうかはさておき、ぼろをまとった幼子に告げるのはためらった。
この辺りはリズベルト子爵領。子爵が持つには不釣り合いに広大な土地だが、実のところ荒廃した地域が多く、人の住める土地は少ないらしい。そしてこの谷は、そんなリズベルトの西の端に位置する。ナステの谷というのは周知であるが、表立って呼べないときはそう呼ぶ。まだそう口にした方がマシな気がした。
町の子供であればリズベルトは自分たちが住まう地だ。幼くともその名くらいは知っているかもしれない。谷の意味はもしかすると、大人から聞かされているかもしれないが。しかし、貴族だとして――いやそうでなくとも、この地と縁遠い土地の者だったらどうだかわからない。
「な……うそをつくな!」
幼子が跳ね起きる。足に力が入らないのか、頭が重いのか。重力に耐えかねて、前のめりにたたらを踏んだところで、その体を支えた。
「ど……どういうことだ?」
呆然と、幼子が床を見つめる。ややって、自身の手を見て息を飲んだのが分かった。
「鏡はどこだ⁉」
「えーっと?」
「姿見だ! それくらいあるだろう」
やはり貴族の子息か、と小さくため息をつく。
周囲を見合渡せば、この部屋のどこにそんなものがあると思うのか。鏡など贅沢品、それこそ貴族の持ち物だ。街でも裕福な家にしか置いていないだろう。それが認知できないほど、鏡が常にそばにある環境が出身だとしたら――彼は貴族の子息確定だ。
――レイリア……妹にそっくり。
貴族という生き物は、こんなに幼いころから横柄なのか。ふと、忌まわしい記憶がよぎった。
この子はあの娘以上に過保護に育てられたのだろう。
「おぼっちゃま、ここは谷底。こんなところに、姿見などございません」
わざとらしく、慇懃に答えてやった。ごっこ遊びのように。
「また下らぬことを……!」
幼子が部屋を見渡した。ようやくだ。
「……いったい誰が……俺が眠っている間に何があった……? こんな小汚い場所にどうやって……」
闇の精霊ディーと魔法の力を借りてできた私の住処は、木でできた小屋だった。実家――リズベルト邸にあった庭師の小屋をもとに作ったもので、私のお手製だ。雨漏りこそしないが、素人感が溢れている。そこに薬草やら野菜なんかをぶらぶらと干しているのだから、おとぎ話の魔女の家と言っても差し支えないほどの見た目だろう。
「失礼いたします」
「な、何をする!」
百聞は一見に如かず。見せるほうが早かろう。私は彼を抱き上げ、ディーが押し開けた扉をくぐる。離せとわめいていた彼が、その途端言葉を失った。
「見えますか? あそこが崖の上」
指さした先は、到底普通の人間が登れるような高さになかった。