1
枯れ木すら見えない、深い谷の底。天を仰げば、ずいぶんと先のほうに青い空が見える。かろうじて日の光は届くものの、ここは地上の夕方ほどの明るさでしかない。
『サチ! こっち!』
やや遠くで、銀糸が揺れた。
「ジル?」
銀狼のジルは、二年来の私の相棒。十二歳でここに来てから、ずっと一緒に暮らしている。
『コレ、人間?』
「え……っと、ひ、人の子⁉」
足元にはぼろをまとった幼子が転がっている。魔法で小さな光の玉を出し、様子が見えるようにと近づけた。
「……生きてる!」
喉に指をあてると、弱々しいながらも脈が伝わってくる。
「こんなところにどうして……」
上から落ちてきたのなら、こんなきれいな状態で転がっているはずがない。しかし、誰かが置いて行ったにしても不自然だ。ここは人が降りてこられるような場所ではない。
『これはなかなか大物だな』
魔法の光に当たって伸びた私の影から、大きな闇がたゆんで盛り上がる。瞬く間にローブを深くかぶった人形が完成した。顔かたちはわからないが、金色に輝く球が二つ。瞳だろうか。何せ、このローブの中は空洞だ。空気が布をまとっているだけと言ってもよい。ふわふわと、ローブの裾が波打っている。
『規格外な魔力を内包している』
「魔力? 感じないよ?」
ローブの人形、闇の精霊ディーは手も触れず、浮かすようにして幼子のぼろをまくった。鎖のような黒い模様が、首にぐるりと幾重も巻き付いているのを見て目をむく。
「魔封じの呪い⁉」
文字通り、魔法を封じるための魔法。こんなものを使える魔術師はそうそういない。
「これじゃ、わかんないはずだわ……」
私だってそれなりに魔力は高いほうだ。でなければ、二年もこんな場所で生きてはいない。魔力を持つものなら、対する相手の魔力も大なり小なり感じるものだ。なのに、この幼子からは一切の魔力を感じなかった。
『外傷はなさそうだな。魔力切れといったところか』
ディーの言った通り、青白い顔をしているものの呼吸の方は安定している。
「……あなたも捨てられたの?」
見れば六歳か、七歳くらいか。
人とは残酷だ。生活の負担になるのならば、老いも若きも関係ない。
ここは「ナステの谷」。ナステ=名捨て。この国では「名」が特別な意味を持つ。「名」は存在意義。名捨ては存在を捨てること。ここはひそかに要らない人間が捨てられる場所。その後の生存はお察しだ。
捨てられるのは口減らしのためか子供が多い。そう、かつての私も、この谷の底に投げ捨てられた。
私の場合、奇跡があってここで暮らしている。ふと、ディーを振り返ると、彼は肩をすくめて見せた。この幼子に奇跡が起きたわけではないようだ。
『どうするの? サチ』
ジルが足元にすり寄ってくる。
「とにかく、家に連れて帰る」
こんな底地だ。凶暴な魔物は少ないが、全くいないわけではない。このままにして帰って、丸かじりでもされたら寝覚めが悪い。
『背中に乗せようか? その子』
「大丈夫……無茶苦茶軽いわ」
抱え上げた少年は、思ったよりもずっと軽かった。