歌姫の話.1
山の天気は変わりやすい。
すっかり夏めいた夕暮れ時、草木に大粒の雫が落ちる。
零れたひと粒はやがて集まり大きくなって、意思を持ったかのように動き、溜まり、形作る。
つかず離れぬ二人の声が聞こえないほど、轟々とした夕立は未だ去らずに空を埋め尽くす。
永遠にさえ思える時間に虹がかかるのを目にすることはない。
「ひどい雨だ」
「ああひどい雨だ」
和装の青年がひとり山中に、激しく降りしきる雨を凌ぐために洞の入口に身をかがめていた。
岩肌は湿った苔やシダにまみれていて、おおよそ居着きやすいとは言い難い。
雨粒は蒸した空気を冷ましたが、纏わりつく嫌な感覚に代わりはない。
「やっぱりもう少し滞在するべきだったなあ」
「そういったじゃあないか」
青年は微々たる後悔を自らの左腕に口にした。
はたから見れば独り言に見えるそれに、彼の袂から覗いた何かは忌憚なくきっぱりと応えた。
顔を向けた先、彼の腕には獣の、それも猫のような耳が生えている。
およそ人ではない左腕の獣は、表情もないのに呆れ顔をしていた。
「ツヅメ。君には計画性がない」
ツヅメと呼ばれたその青年は、洞にたどり着く前に近隣の町に立ち寄っていた。
文明が発展しているとはいい難い街だったが、人々にはとても活気があった。
立ち寄った当日には久しぶりの柔らかな布団に身を包み、好物の甘いものを口にして精一杯の堕落を楽しんだ。
次の日には街中の歴史や風土が纏められた博物館へと立ち寄った。
案内人の男の解説を聞きながら昼までをそこで過ごす。
街に他所から人が来ることが珍しく、さらには歴史に関して興味を抱く人間もそうそういないらしく、案内人は躍起になって離し続けた。
「続いてはこちらです。この町に伝わる伝承をまとめたコーナーです」
「伝承ですか」
「ええ!まずは街とは切っても切れません。開拓を進めた英雄についてですね」
案内人は連連と語った。
数十年前、元々山だった一体を切り開き、掘っ立て小屋一軒から大きな街を作り上げた人物についてを、まるで目の前で見ていたかのように。
そしてその英雄が街の長となり人々をまとめ上げた事を自分のことのように嬉々として、亡くなるまでを涙ながらに語る様は、一本の舞台を見るに匹敵する見事な演技だった。
「というわけでして旅人さん。偉大な先人の供養といたしまして、どうぞこちらを御覧ください」
「なんでしょうか?」
「これは失礼致しました。こちらにありますのは亡くなられた英雄の遺骨でございます」
ツヅメの前にはこじんまりとした机がひとつあった。
机には黒い布が敷かれており、全体を覆うように足元まで垂れ下がっていた。
その上には四角く深い器が置いてあり、中には灰色がかった粉末が盛られていた。粉末にはいくつか指先で触れたような跡がある。
そして器の前にはもうひとつ深く丸い陶器があり、その中には細かな木々が重なり合って火をともしていた。
「遺骨...ですか」
「ええ。ですが既に形はございません。この街では風習として亡くなった者を火葬に付すのです。そして燃え残った骨を擦り、粉末状にいたします。それからこの様な骨壺に入れ、毎日少量を取り出し火に焚べて供養するのです」
そう言うと案内人は台の上に置かれている粉末をひとつまみ手にとって、そのまま眼前、額の前に手をやって目を瞑る。
しばらくして目を見開くと、粉末を火に焚べた。
「どうぞ」と促されたツヅメも、慣れない風習に案内人の手を借りながら儀式を終えた。
博物館を出るときに案内人は「明日もいらっしゃいますか?」とツヅメに尋ねた。
ツヅメは少々眉をひそめながら答える。
「いいえ。今日中には街をたとうと思いますので」
「そうなのですか?まだ街に来られて二日目とお伺いいたしましたが、何かは私の不手際が有りましたでしょうか」
「いえいえ。そんなことありませんよ。ただ、僕達はこの街の人々に何もできないと思っただけです」
「はあ...?ですが、今たつとなると天気が心配です。山の天気は代わりやすいですし、それに」
「それに?」
案内人は口ごもり、言って良いのかどうかと思案しているようだった。
するとツヅメに近づいて、耳元に顔を寄せた。
「出るのでございますよ」