姉の話.4
「お姉ちゃんおはよう!」
次の日の朝一番にエレナはやってきた。
遠くから駆け寄る間に、大声で姉を呼ぶ。
一秒でも姉と一緒にいたかったようで、早起きをして家の手伝いもすっぽかしてきたらしい。
ツヅメは姉であるミミに「優しくね」と耳打ちをした。
ミミは表情を変えなかったが、少しだけ腹部にムズムズとした違和感を覚えた。
エレナは駆け寄った勢いのままミミに抱きつく。
ミミはそれを受け止めて、エレナのされるがままだ。
ツヅメが草原に体を横たえている間、二人はずっと何時間も話していた。
「お姉ちゃん。あれ覚えてる?お隣さんのお家で猫の赤ちゃんが生まれた時のこと」
「ああ、覚えているよ」
「可愛かったなあ、子猫こんなに小さくって」
「そうだね」
「私が飼いたいって言ったらさ、お母さんがダメだ~っていうからさ、お姉ちゃんと一緒に毎日のように見に行って一緒にお世話してね。最後にはお母さんも一緒になっちゃって」
「そうだね。でも、お母さんはお家では飼えないよって言ったんだよね。お家は宿だから駄目だって。お隣さんにも迷惑だからってもう行くのも辞めなさいって言われてしまったね」
「うん...。あのときは悲しかったな...。でも!猫ちゃん私たちのこと覚えてくれててね!今度は毎日のように来てくれたんだよね!」
「そうだったね」
「うん!...お姉ちゃんが死んじゃった後も、毎日来てくれてるんだ...。それでお姉ちゃんどこって鳴いてるの。私、そうしたらね。ぎゅって抱きしめてあげるんだ。寂しくないよって」
「えらいねエレナは」
そう言われたエレナは、少し複雑そうにしながらも微笑んだ。
一緒に過ごしたただの日常風景を語り、彼女の友人のことを語り、もう一度出会えたという奇跡を噛み締めるように優しい時間が流れた。
最初はぎこちなかったミミも、昨夜に取り込んだ記憶の断片を整理しながら少しずつエレナに調子を合わせた。
ミミはただ彼女に話を合わせたというわけでなく、記憶の破片を辿りながら味わうこともなかった雑音を思い出として語り合った。
時には「お姉ちゃんは何時もこうしていました!」とエレナからの注文が入り、そのたびにミミはタジタジだったりもしたが。
幸福な時間はあっという間に流れた。
エレナが持ってきたサンドウィッチを食べて、ツヅメも話に加わった。
彼にとっても他愛もない会話だったが、紛れもなく楽しいといえる時間。
何処となく懐かしさを覚えるような感覚だった。
それからもエレナはミミとそこら中を走り回ったり、花冠を作ったり、寝転がって話したり、できる限りのやりたいことをやり尽くせるように春を謳歌した。
そうしている間にいつしか空が橙色になり始めた。
少しばかり冷たくなった風が草原を撫でる。
茜色に染まったそこに、姉妹は並んで寝転がっていた。
ミミは遊び疲れた子供のように目を瞑っていた。
エレナもそうしていたが、すくりと立ち上がるとツヅメの方へと近づいた。
「ツヅメさん。ありがとうございます」
頭を下げる少女に、ツヅメは軽く手を上げて挨拶をする。
「お姉ちゃんと会えて本当に、本当に幸せです」
「うん。それはよかったよ」
少女は暫し俯いてから木にもたれ掛かったツヅメの隣へと腰を下ろした。
「少しお話をしてもいいですか?」
ツヅメは肯定の返事をした。
「お姉ちゃんが死んじゃった時のこと、覚えていないんです、私」
そうしてエレナは姉の亡くなった日からのことを話し始めた。
昼下がりに、エレナはいつものように自室に籠もっていた。
すると段々と空が雲に覆われて雨が降りそうになったので、彼女は洗濯物を取り込もうと急いで二階の自室を飛び出した。
姉がなくなる前の記憶はそこまで。
次に思い出せるのは、目を覚ますと自宅のベッドで寝ていて、隣にお医者さんがいた事。それと母親が泣いていたことだった。
外はいつの間にか薄暗くなっていた。
それから姉の話を聞いた。
姉が階段から落ちたこと。
階段下にいたエレナにぶつかって、彼女の記憶が一部曖昧なこと。
姉が亡くなったこと。
医者に連れられ自宅の一室に安置された姉を見たとき、エレナは何も言えなかった。
「私、お姉ちゃんが死んじゃった時に涙が出なかったんです。目の前にお姉ちゃんの身体があるのに、ただ眠っているだけに見えるのに、お姉ちゃんいなくなってしまったことが信じられませんでした」
ツヅメもエレナもお互いの目を見なかった。
少しずつ濃くなっていくオレンジ色と、体を冷やす風だけを感じていた。
「私はだめな人間なんでしょうか。大好きな人がいなくなって、涙が出ないなんておかしいです」
エレナは自嘲するよう笑みを浮かべた。
「いつも自分を呼んでくれていた声がもう聞こえなくって寂しいはずなんです。でも、寂しいはずなのに...。変ですよね。こんな話」
「エレナちゃん」
ツヅメは優しく彼女の名前を呼んだ。
エレナは表情を変えて、声の主へと視線を送る。
「わかるまで。時間が来るまでゆっくりするといいよ」
それだけを言うと、しばし二人の間を沈黙が支配した。
その言葉には何処となくエレナの事だけでなく、別の意味を含んでいるような、自分に言い聞かせるような何かを纏っていた。
ツヅメはそんな暗くなった雰囲気を壊すかのように、さてと立ち上がる。
「エレナちゃん。そろそろ夕刻だ。続きはまた明日にしよう」
ツヅメの提案にエレナは寝そべっていた姉の方へと目を向ける。
いつの間にか姉は草はらに座り、二人を見つめていた。
「...まだ、もう少しだけ、駄目ですか?」
エレナはツヅメに目を向けて、懇願するようにそういった。
「そうだなあ。いいよと言いたいところだけど、あんまり遅くなると家の人も心配するからね」
「まだ、あとちょっとだけ...!まだ明るいですし!あと少しだけお願いします!」
ツヅメは少しだけ考えてから、首をふることもなく、一言だけ呼びかけるように言った。
「お姉さんはどうかな?」
離れた姉に向かってツヅメはニコリとわざとらしい表情を浮かべる。
エレナは振り向いてミミを覗う。
そして何も言わない姉の方へと小走りで向かって
、小さな手で力強く姉の手を握った。
ミミはいつもの表情でエレナを見つめる。
ミミは何を言えばいいのかも、何か言うべきなのかも分からなかった。
「お姉さん」
ツヅメがそんな彼女に声を掛ける。
ミミが声の主を見ると彼はニコリと微笑んで、わざとらしく両手の人差し指で自身の口角を上に持ち上げた。
「少しだけだよ」
小さな手の主に向かってミミは少しだけ口角を上げた。
エレナはぎゅっと姉に手を回した。
「お姉ちゃん」
「なんだいエレナ」
「...また前みたいに一緒には居られないの?」
「そうだね。難しいと思う」
「......そう、だよね。ごめんねお姉ちゃん」
「ううん」
エレナの表情はミミからも、ツヅメからも見えなかった。
姉の胸に顔を押し付けて、別れを惜しむようにした。
そしてエレナはしばらくそうしていた。
まるで何かを姉にしてもらいたいかにように、ずっと、ずっとそうしていた。
そして小さく「お姉ちゃん、あのね」と言ったかと思うとパッと姉から離れた。
「ごめんなさいお姉ちゃん。やっぱり今日は暗くなってきちゃったし帰るね!また明日、絶対絶対来るからね!待っててね!」
そう言うと足早に荷物をまとめて街の方へと駆けていった。
その途中で立ち止まった彼女は大きく手を振った。