開戦
おれはアイプニアの顔をじっと見た。最初は普通の男の顔だと思った。しかし、光学的に不自然な点はないのに、段々とその顔に焦点を結ぶことができなくなった。
データ上、アイプニアの顔はしっかりと捕捉できている。だが、意識のレベルでおれがその顔を認識しようとすると、途端に視界がぼやける。何かしらの魔法が働いているのは明らかだった。
おれがレンズの調整をしていると、アイプニアがふふふと笑った。
「やはり、面白い男だ。私は天体観測が趣味でね。あの日もぼんやりと空を眺めていた」
アイプニアの言葉に、おれは首を傾げた。何を話そうとしているのか……。思い当たることが一つあったが、まさかという思いだった。
「最初は真昼に流れ星が見れたと思った。しかしどうも、途中で減速し、地上に無事に着陸したように見えた。空を飛んできた――というより、星の海から降ってきた。そんな気がしたのだが、間違っているかな?」
アイプニアは、おれがこの星の人間ではないということを知っているのか? だが確証はないはず。しらばっくれるだけなら簡単だ。
「天体観測が好きなら良い望遠鏡を持ってる。貸してやろうか?」
「それはありがたい。宇宙のことを、やはり詳しく知っているのかな?」
「つい最近、事情があってこの辺の宙域について詳しく観測した。もしかするとあんたとは話が合うかもな」
おれとアイプニアが核心を避けて話を続けるので、隣に立ったグリゼルディスが脇腹をつんつんつついてきた。
「スズちゃん、何の話してるのかしら?」
「ああ、すまない。魔王アイプニア、あんたが本当に用があるのはカスパルだろう」
おれの言葉に、アイプニアはカスパルのほうをようやく見た。まじまじと見つめる。
「まあな。魔王リーゴスは余裕がなかったようだ。せっかく現世に降り立ったのに、起きたときにはギルドの人間にダンジョンが囲まれていた。ダンジョンから脱出するため、魔族の体を強奪した。ギルドからの追手を防ぐ目的で、ダンジョンの入り口を塞がせ、ギルドの人間に仲間を救う労力を割かせた。しかし、私に言わせれば、魔族を使い捨てるべきではない。貴重な我々の下僕であるからな」
これまで黙っていたカスパルが唸る。
「誰が下僕だ。俺は魔王の下についた覚えはねえ」
アイプニアは愉快そうだった。手を叩いて笑う。
「ふふふ。確かに貴様はそういう認識だろう。だがな、魔族は生まれたときから魔王に隷従する運命にある。お前が成す術もなく肉体をリーゴスから奪われたときのように、貴様に拒否権はない」
「俺を迎えに来たのか?」
「そうだな……。私は最近、魔族を積極的に回収することにしている。アドルノとかいう男が魔族を保護し、その居場所を隠匿しているようだが、そのアドルノ傘下にある貴様を回収し、記憶を探れば、芋蔓式に多くの魔族を見つけられるだろう」
カスパルは気味悪そうに顔をしかめ、唾を吐いた。
「……ますますお前についていく気がなくなったな」
「言っただろう。貴様に拒否権はない。それに、リーゴスはお前にダンジョンの主たる資格を与えたようだが、全くなっていない。ダンジョンにはあるべき姿というものがある。お前が掻き回したダンジョンの形を、私が直してやったのだ。感謝しろよ」
「あるべき姿だと? そんなこと知ったこっちゃねえ」
アイプニアはそんなカスパルに冷たい眼差しを送る。
「だろうな。その程度の認識では、やはり私に従うほうがいい。リーゴスは貴様にギルドの人間をぎりぎりまで引き付けてもらい、最終的に死んでもらいたかったようだが、人材は貴重だ。事を起こすのに、どうしても人手は必要になってくる」
「もういい。黙れ。俺は確かにこのダンジョンで死ぬんだろう。最悪の気分だ。だが、お前ごときに付き従うつもりねえ。そんなことになるくらいなら死んだほうがマシだ」
「ふむ。ところで、このダンジョンにはもう一人、魔族がいるな」
アヌシュカのことか。おれは少し緊張した。カスパルのことはある程度覚悟していた。だが人の社会に溶け込むアヌシュカまでもこの魔王に奪われることになるのは避けたい。
カスパルも似たようなことを思ったのかもしれない。声に怒気が混じる。
「……あいつは関係ねえ。もうほとんど人間みたいなもんだ」
「アヌシュカというのか。そしてユリア、シーナという魔族もいる。ふむふむ」
アイプニアはこれみよがしに言う。カスパルはついに感情が爆発した。
「俺の記憶を勝手に読むな! あいつらと俺は違う! 俺は……、俺は! 人間が大嫌いだ! 全員ぶっ殺してやりてえ! だが魔王、お前も気に食わねえ! この感情が偽物ではないこと、お前には分かるだろう!」
「分かるさ。そう興奮するなよ、カスパル。しかし、アヌシュカはともかく、ユリアたちの現在地がよく分からないな。私が出現させた魔物の渦に飲み込まれたとも考えにくいが」
ここでアイプニアはおれに視線を向ける。
「何か知らないかな、宇宙の彼方から来た男よ」
おれは冷静に魔王と向き合った。ダンジョン近くの小屋に、ユリアとシーナが待機していたはずだ。今はどこにいるのか分からない。魔物を捕食する魔族が、魔物に殺されるとは考えにくいが、あの数だと何が起こるのか分かったものではない。
「どうかな。記憶を読み取れるんだろ。やってみろよ」
おれの挑発に、アイプニアは微笑んだ。
「魔族相手なら簡単だが、人間相手となると、私もまだ習熟していない。しかし、貴様は格別に読み取りにくいな。人間離れしている。うん、貴様の後ろに控えている女も読めん。というか、この場にいる人間のほとんどが読めない。私もまだまだだな」
アイプニアは面白がる様子を見せた。そんな魔王をカスパルは苛立ったように睨み、吠えた。
「誰もユリアたちの居場所を知らねえってよ! もういいだろう! 俺と戦え! 俺はお前には従わない!」
「戦う?」
アイプニアは意外そうにした。そしてケタケタと笑う。
「戦わないよ、私と貴様は。そろそろお喋りはよしておこう。自我なんて邪魔だろう? 特にカスパル、貴様はもう自分の肉体を失い、乗り移った魔物の肉体を自分に似せて作り直すしかない状況だ。私についてこい」
「誰が……!」
しかしそれきりカスパルは絶句した。そしてうなだれ、もう激しい感情を吐露することはなくなった。
「カスパル……?」
おれが呼びかけても返事はない。カスパルの肉体がどろどろに溶け始める。泥人形に水をかけたときのように、表面から溶けて流れていく。おれやグリゼルディスはそれを黙って見ることしかできなかった。
「ここだ」
アイプニアが指を一つ立てる。その先に、青い炎が浮かび上がった。炎の芯に淡いオレンジ色の光が宿っている。それが激しく揺れ動き、まるで生き物のように蠢いた。激しく叫んでいるようにも見える。
「カスパルには、私のほうからそれに相応しい肉体をあてがうとしよう。アヌシュカも回収したいところだが……。傍になかなか強力な魔法使いがついているようだな。今の私では骨が折れるかもしれん。そちらは、そう焦らずともいいか。この場で死んだとしても仕方なし」
アイプニアが踵を返して、ここから去ろうとする。おれは呼び止めようとした。だがグリゼルディスがそれを制した。おれの前に手を出して行く手を遮る。
「スズちゃん。今は見送りましょう」
「なぜだ?」
「この異変の元凶を、魔王が回収してくれた。そして大人しく帰ってくれようとしている。ギルドの仲間を地上へ帰還させる算段ができたということよ。わざわざ魔王にケンカを売る必要はないでしょ」
「そうだな。だが、大人しく帰らせてくれるとは限らないだろう?」
ここでアイプニアは振り返った。くすくすと笑っている。
「さすがに、よく分かっているじゃないか。私がこのダンジョンを訪れた目的は二つ。カスパルを回収すること。そして貴様らを確実に始末することだ。今から、地上にいる無数の魔物をこのダンジョンに雪崩れ込ませる。いったい、何日間戦い続ければ全て倒せるものかな? 一人でも生き残れたら驚きだ。楽しみにしているよ」
ふっ、とアイプニアの姿が消えた。おれはその場に立ち尽くしていた。そして、探査船のアルファに尋ねる。
「おい! 魔物の様子はどうだ。何か変化はあるか」
《マスター。魔物がダンジョン内に侵入しているようです。段々勢いが増して――土石流のようです》
どうやら本当に、このダンジョンは魔物で埋め尽くされるらしい。逃げ場はない。おれがそれを伝えると、グリゼルディスは何度も頷いた。
「ターゲットが私たちに向くのなら、良いことだと思うわぁ。近隣の村が襲われ始めたら、どうしようもないもの」
確かに、そうだ。逆に言えば、ダンジョン内で魔物を対処できれば、被害の拡大は防げる。少し離れた場所で話を聞いていたロートラウトが走ってきて言う。
「魔物を相手するなら、まずは皆さんと合流しましょう。適切な位置に陣を張れば、そう簡単には突破されないはず。数の利などさしたる問題ではありません」
「そうだな」
おれはギルドの人間の逞しさに感心した。だが、数十万の魔物がダンジョン内に押し寄せてくるなら、対処も何もない気がする。本当に止められるのだろうか。
だがやるしかない。おれはダンジョン内を探査して、生き残ったギルドの人間の位置を割り出すようにベータに命じた。そして当然のように、ベータは言われる前にやっていた。ほぼ全員、おれたちより深い階層にいるようだが、一人だけ入り口近くまで移動している人間がいた。
ベルギウス。彼だけはもうすぐ入り口に着きそうだった。大量の魔物を前にして、彼は何を思うのだろうか。早急にギルドの人間を集結させ、対抗しなければならない。持ちこたえている間に何か策を考えねば。おれはすぐに行動を開始した。




