哀れなクレメンス
灰色の仮面とタイツが特徴的な一団は、イングベルト、ヴァレンティーネ、レダの三人が立ち塞がったことでいったんは足を止めた。先頭の数人がひそひそと会話をしたがよく聞き取れなかった。ヒミコの地獄耳に期待したが彼女もうまく音を捉えられなかったようだ。ヒミコの内の一人が集音能力を高めておきますと通信で伝えてきた。
やがて一人の男が仮面を外して最前列までやってきた。男はタイツの他に襟の大きなマントを着ていて、一人だけ武器らしい武器を携行していなかった。この一団の統率者らしい。灰色の髪に、黒々とした瞳。薄い唇とねじ曲がった細い鼻が、酷薄そうな印象を与える。
「守銭奴の破壊屋イングベルト。グリ派のアイドルヴァレンティーネ。そしてそこにいるのは、田舎から皇都へやってきて、汗水垂らして必死こいてやっと見習い魔法使いになった、レダ女史ではないか。ギルドの登用試験の参加基準すら満たしていないクソガキが、お人好しのグリ派に取り入って冒険家の真似事か?」
レダとこの男は知り合いらしい。レダは一歩後ずさった。その顔は困惑と嫌悪、そして大部分は恐怖に染まっていた。
「クレメンス……。皇国騎士ではなく、ギルドに所属しているなんて」
クレメンスと呼ばれた男は表情に怒気を含んだ。
「貴様のような下賤が、この僕を呼び捨てるか。ふん、とことん物を知らないようだ。教育してやろうかと思ったが、今は時間が惜しい。十秒以内に道を開けたまえ。同じギルド員同士、仲良くしようじゃないか、なあ、ヴァレンティーネ」
ヴァレンティーネは無表情のまま反応しなかった。クレメンスが舌打ちすると、彼女は静かに抜剣した。その巨大な剣の圧力に、クレメンス一同だけでなく、おれも息を呑んだ。
「やる気か!? ギルドの構成員同士の私闘は禁じられている。規則を破れば追放だぞ!?」
クレメンスの上擦った声。ヴァレンティーネの佇まいは静謐そのものだったが、迫力が尋常ではなかった。
「別にそれでもかまいません。部下を守る為なら」
「はあ?」
そう言ってクレメンスはおれのほうを見た。そして苛々と何度も首を曲げて関節を鳴らす。
「ああ……、ダンジョン内に逃げ遅れたマヌケがいるって話だったか? そんな嘘を信じると思うかね。仮に本当だったとしても、ちょいと入り口から火で炙るだけだ。まともな戦士なら死にはしないだろうさ」
「比較的弱い魔物を大量に駆除し、いち早くその戦果をギルドに届ける。封印破壊まで長引いた場合、発見者の権利主張に有利な立場を確保しようとしていますね」
ヴァレンティーネの指摘に、クレメンスはにやにや笑いを浮かべる。
「だからどうした? 当然のことだろう。そんな誹りを受けるような行動ではないはずだが?」
「妥当な行動かもしれません。しかし、今はそれを許すわけにはいきません」
「全く、分からないな。おい、もういいぞ。強引に突っ切れ」
クレメンスが合図したが、ヴァレンティーネの殺気に圧されて、彼の部下は前進できないようだった。痺れを切らしたクレメンスがその場で地面を踏み鳴らす。華奢な拳を振り回した。
「いいから進め! 所詮、ダンジョン探索なんて、そこの箱入り娘からしたらお遊びなんだよぉ! 同じギルドメンバーを斬る覚悟なんてあるわけがない! 減給するぞ、おおらぁ! 進めぇ!」
クレメンスが部下の尻を蹴飛ばして先を急がせた。仮面の一団は吹っ切れたようにダンジョンの入り口に突進した。
「おっとっとぉ」
イングベルトが手を翳して、青く着色された風を巻き起こした。風が一団を押して、バランスが崩れる。しかし仮面の一団はイングベルトに文句を言うことはなかった。なぜなら、もしその妨害がなければ、ヴァレンティーネの大剣が彼らを真っ二つにしていただろうからだ。地面に深々と突き刺さった大剣の切っ先を、彼女はゆっくりと引き抜いた。そして静かに構え直す。
「部下の為なら人殺しになれます」
ヴァレンティーネが呟いた。仮面の一団は一歩、更に一歩と退いた。
「バカが」
クレメンスが吐き捨てた。
「終わったな、グリ派のマヌケ女が。この件はギルドに報告させてもらう。破壊屋、貴様も同罪だぞ。仮にお前らがここの発見者の権利を獲得しても即座に破棄させられるだろう。規則を破ったんだからな。泣きついてももう遅いからな!」
「どっちもどっちだろう」
おれは思わず口を挟んでしまっていた。クレメンスがおれのほうを睨む。
「なんだ貴様は? 部外者は口を挟むな!」
おれは片手を持ち上げ、軽く咳払いした。
「失礼。しかし、第三者の公平な立場からして、ヴァレンティーネの行動と、クレメンスの行動、どちらにも非があるように見受けられるが」
「貴様まで僕を呼び捨てだと……。ふん、まあいい。僕の行動のどこに非があると?」
「ダンジョン内にいるエルンストを殺そうとしている。このままいけば助かる命だ」
クレメンスの顔面がどんどん赤くなっていく。興奮しているようだ。
「だからそれが欺瞞だと言っている! 証明する手立てがあるのか?」
「あと数分待て。エルンストを救出できる」
「バカが。それも仕込みだったらどうする? ダンジョン内に取り残された人間の“役”だ。そうやって時間を稼ぎ、別動隊がダンジョンの奥に進む。報告によればこのダンジョンは第四層まで既に開放されており、発見者権利の確保までどんなに早くとも数時間はかかる長丁場になるだろうが、それでも時間稼ぎが有効なのは間違いない!」
おれはゆっくりと首を振った。もちろん、この話し合い自体が時間稼ぎになると分かっていての振る舞いだった。
「証明できる」
「あ?」
「この顛末は全て記録している。映像記録として、提出できる」
おれの言葉に、ヒミコ三人が一斉に詰め寄って来た。
「マスター、それは」
「これ以上の証拠はないだろう。それともヒミコ、録画していないのか?」
ヒミコ――アルファはおれを恨むような目で見た。
「まさか。映像記録を提出することはもちろん可能ですが、この組織でそれらが証拠として効力を持つか甚だ怪しいですし、それに何より、いきなり干渉し過ぎです」
「お前はどっちが正しいと思うんだ」
ヒミコ――ベータは動じる様子もなく淡々と答える。
「正しさなんて立場によって変わります」
「そんな優等生の言葉なんて期待していないよ。お前は必要とあれば意図的に嘘もつける女だろう。どっちの味方につくのが好ましいと思っているんだ、ヒミコ?」
ヒミコ――ガンマは観念したように、
「それは……。もちろん、ヴァレンティーネです」
おれとヒミコのやり取りを半分も理解していない顔のクレメンスが、ずんずんと詰め寄って来た。
「何を言ってる。映像記録とは、なんだ? わけのわからないことを言うな!」
「必要になったら見せてやるよ。とりあえず今は大人しくしておいたほうがいい。言っておくが、お前のために忠告してやっているんだぞ、クレメンス。後で大恥をかかないようにしてやってるのさ」
「何を――ちっ!」
クレメンスは踵を返した。そして救出作業に勤しむグリゼルディスのほうを睨んだ。
「――グリゼルディス様! ただでは済まないと思っていてください! 貴方の部下は最悪揃いだ。ゴミ、カス、クズ以下だ! 好き勝手できるのも今の内だけだ!」
グリゼルディスは糸を引っ張りながら体をくねらせた。それから耳に詰めていた綿を外した。
「あらー。まさか私、話しかけられてる? クレメンスちゃんの声、ほんのちょっとだけ、耳障りなのよねえ。耳栓ちゃん大活躍。彼、今、なんて言ってた?」
話しかけられたヴァレンティーネはクレメンスのほうを見やったあと、
「えー、彼は、ゴミ、カス、クズ、などと言っていましたね」
「自己紹介かしら? 彼にあまり卑下するなと言っておいてね。そこまで酷くはないわよ、たぶん」
「……だ、そうです。クレメンス」
クレメンスの怒りはいよいよ頂点に達しようとしていた。そのとき、グリゼルディスの糸がぴいんと張った。グリゼルディスの目配せを見て、イングベルトとヴァレンティーネがダンジョン内に入っていった。数十秒後、二人は重傷を負ったエルンストを担ぎだしてきた。相当危険な状態だが、息をしている。エルンストの手首にまきついていた金色の糸が、すぅっと空気に溶け込むように消えた。
クレメンスが忌々しそうにエルンストを睨んだ。そして部下たちに合図をする。灰色の仮面集団はずかずかと音を立ててダンジョン入り口に殺到し、火炎放射の準備を始めた。
クレメンスはグリゼルディスを見下ろすように顎を持ち上げた。実際には二人は同じくらいの身長だった。
「我々が作戦を実行しても構いませんね、グリゼルディス様」
グリゼルディスはにっこりと笑んだ。少し乱れていた髪型を手櫛で整える。
「もちろん。お先にどうぞ。私たちは怪我人の救護を済ませてから行くわ」
「――ちっ! おい、後発隊が来るまでにタンクの燃焼剤を使い切れよ! ベルギウス様が到着するまでに万端整えておくのだ!」
クレメンスが威張り散らす。それを聞いたグリゼルディスがあらあらあらと意外そうに言った。
「あら。ベルちゃんが来るの? メテオラのダンジョン攻略にかかりきりとばかり」
「答える義理はありません。僕の声は耳障りなのでしょう、グリゼルディス様」
グリゼルディスは挑発するように大袈裟に笑った。
「あらー。ふて腐れちゃったわ。どうしましょう、嫌われちゃったかしら? どう思う、インベルちゃん」
急に話しかけられたイングベルトはあたふたした。
「え!? あー、正直に申し上げますと、グリゼルディス様は万人に好かれておいでですよ」
「あらー、そんなー。ということはインベルちゃんも私が好きってことかしら? ごめんなさい、私には愛する夫がいるの。インベルちゃんの思いに応えることはできないわ」
「気づいたら振られてたわ」
イングベルトがヴァレンティーネにそう言うと、彼女は久しぶりに笑みを見せた。それを見たグリゼルディスも、くすりと笑った。エルンストは重傷だったが、ヒミコが見事な止血をし、内臓や手足の損傷個所を正確に見極めると、てきぱきと処置を下していった。
それを見たグリゼルディスが感心したように唸った。
「あなた、ギルドの人間じゃないわね。見かけない顔だわ。こんな美人で有能ちゃんがいたら記憶に残るはずだし。あれ、というか、妙な気配ね……?」
「私は旅の者です、グリゼルディス。応急手当はしておきました」
グリゼルディスはエルンストの頬に手を当て、労うようにさすった。そして満足げに頷く。
「ありがとう。見事なものだわ。ところで、そちらにある棺はあなたが?」
「ええ。この国の風習について詳しくなく、宗教観に反するものであったら、申し訳ないのですが……」
「あら。運びやすいように配慮してくれたのね。本当にありがとう。……異国というのは、どこの国?」
明らかにグリゼルディスはヒミコのことを怪しんでいた。もちろん敵対する雰囲気ではないが、人間ではないことを見抜いてしまったのかもしれない。
ヒミコはおれと目配せした。おれは頷いた。
「氷の大陸」
ヒミコは言った。まるでその極寒の地と思われる氷の大陸の冷気が突如としてこの場に降りかかったかのように、一同の動きが止まった。しばらくして、グリゼルディスは力なく笑った。
「納得したわ。氷の大陸ね……。色々尋ねて悪かったわぁ。気を悪くしないでね?」
「もちろん」
クレメンス隊が火炎放射を開始した。燃焼剤をばらまき、そこに魔法で点火するというやり方だった。炎はダンジョン内の魔力を伝って、奥へ奥へと向かっていっているようだ。熱がここまで伝わってきたので、おれたちは後方に下がった。
エルンストを移動させる途中、意識が僅かにあった彼が何か言っていた。謝罪や感謝の言葉だろうかと思いおれは耳を寄せた。すると彼はこんなことを言っていた。
「中で……、人と会った。男と……、女……、ま、お、ってた……」
「え? 今、なんと?」
一部聞き取れずおれは聞き返したが、エルンストは完全に意識を失った。他の人間も満足に聞き取れなかったようだ。ヒミコのほうを見ると、深刻そうな顔をしていた。
《ヒミコ、聞き取れたか?》
通信で尋ねると、彼女は頷いた。
《ダンジョンの中で人と会った。男と女。魔物を食ってた、と》
《そいつは……》
この情報を共有すべきだろうかとおれは考えた。エルンストは間違いなく自分の上司たちにこの事実を伝えたがっていた。だから当然伝えるべきなのだが、おれはしばらくこの言葉を口に出す勇気が出なかった。この世界の常識を知らないが、おれにとっては衝撃的な事実に思われたのだ。ヒミコがこっそりエルンストに輸血しているのを横目に、おれは人間が魔物に齧りつく様子を想像してはぞっとしていた。