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グリゼルディス


 人間の脳の秘密は未だ底知れない。

 どれだけ科学技術が進んでも、脳の全てを解き明かしたとは言えない。人間の脳以上の演算能力を持った装置ならば20世紀には登場した。人間の脳構造をバイオ素子で代替した完璧な模型も登場し、脳の全ての機能を再現する試みもあった。人間の脳の1000億個のニューロンが発火する様子を詳細に記述し、意識、記憶、感情、脳活動全てを解明したと豪語する研究も過去にはあった。


 しかしそれでは不十分だった。地球人類ができたのは脳内に拡張装置を埋め込み脳機能を補助すること、βアミロイドをはじめとする脳内老廃物を効率的に排除する方法を確立し脳細胞をいつまでも若く維持すること、更には神経細胞の情報を転写し若い細胞に代替させ実質的に不死なる脳を生み出したこと。


 所詮、人間の脳という手本があって、それを捏ね繰り回しているに過ぎない。脳にはまだまだ新しい事実が眠っている。おれは異世界イフィリオス人の脳構造を見て、地球人のものと酷似していることに驚愕すると共に、これならば人類が積み上げた知見をそのまま適用できると喜んだ。そして、もしかするとイフィリオス人の脳を通して、地球人類の更なる可能性を開拓できるかもしれないという興奮を覚えた。


 ニュウが笛を吹くたび、ニュウはエルンストが持つ笛との距離を感知する。観測箇所を変えて繰り返すことでエルンストの現在位置を割り出すことができる。ニュウの感覚はあまりに鋭敏で、笛を吹くたびに発生する彼女自身のぶれのようなものは発生しなかった。同じ地点から笛を吹けば、同じ結果が出力される。これは驚嘆すべきことだった。


 おれはニュウを連れ回すのをやめた。ヒミコが完璧にエルンストの位置を把握したからだ。イングベルトが持ってきたダンジョン内の構造図と照らし合わせる。


「第二層に入ってすぐ、左手の袋小路に細い下り道があるようだ。そこに逃げ込んで助けを待っている状況だな」


 おれの言葉にイングベルトは自身の頭を叩いた。


「なんてことだ、見過ごしてたな。しかし、相当負傷しているに違いない。行って帰ってくるだけなら10分もかからない距離だ。万全な状態なら強引に突っ切って帰ってくるだろう」

「あるいは」


 ヴァレンティーネが沈んだ声で言う。


「まだ、私たちを助けようと、更に奥へ潜ろうか葛藤しているのかも……。彼にはそういうところがあります」

「さすがに、そこまで愚かじゃないだろう」


 イングベルトが言うと、ヴァレンティーネは睨みつけてきた。そしてすぐに目礼して、すみませんと小声で謝った。

 イングベルトは危うい表情をしているヴァレンティーネの腕を掴んだ。


「今にもダンジョンに潜りそうな顔をしているが、許さないよ。相当消耗している。第一層の魔物相手でも苦戦しそうな状況じゃないか?」

「部下はこの手で救い出します。私の迂闊さが招いた事態です」


 イングベルトは心底呆れた表情で、


「きみがこんなに冷静でいられないとは思わなかったな。今、ここにきみしかいないのであれば、それもいいだろう。しかしあいにく、ここには俺がいるわけだが、それについてはどう考えているんだ?」

「これ以上ご迷惑をかけるわけには」

「迷惑? 何を言っているんだ。ちゃんと報酬は貰うよ。まさか慈善事業でこんなことをやっていると思っていたのか? それに、ギルドにはダンジョン内で死者が出たと報告しておいた。エルンストくんを救出するとしたら後発隊だ」


 ヴァレンティーネの目が見開かれた。そしてじっとイングベルトの顔を見る。


「え? 報告をしたんですか」

「当然だろう」

「……我々はまだ、ダンジョン発見の報告をしていません。来るとしたら……、事後処理をするような部隊ではなく……、一線級の」


 ヴァレンティーネの言葉にイングベルトが一瞬呆けた表情になった。そしてその場にうずくまる。


「しまったぁ……。てっきり、このダンジョンはヴァレンティーネさんが最初に着手したものだと……。まだ申請を行っていないのか!」


 ヴァレンティーネは頭を下げた。そしてまた別種の困難を抱えたとばかりに、二人は嘆く様子を見せた。


「申し訳ありません。個人的事情があり、この近辺の調査に来ましたが、正直言うと本当にダンジョンがあるかどうもわからない状況で」

「それなのによく俺を呼びつける気になったな。確信はあったんだろう?」

「ええ。レダさんから聞いた情報から、確信はしていましたが、封印がどれだけ緩んでいるか分からず、それもあってイングベルトさんに来てもらいました」

「ヴァレンティーネさんの控えめな性格が裏目に出たな。普通、新しいダンジョンの当たりがついたら、ギルド前に担当者を張らせたおくものだ。ダンジョンを発見したらすぐさま連絡して申請に入る。ダンジョンの発見者というだけで、今後攻略が進んでも一定の分け前が貰えるからね。当然の動きだが」


 おれはイングベルトとヴァレンティーネがそんなに動揺している理由が分からなかった。


「ダンジョン発見の手柄を別の人間に取られるかもしれないから、そんなに焦ってるのか?」

「いえ」


 ヴァレンティーネは少し狼狽した様子で言う。


「それは大した問題ではありません。ただ、未登録のダンジョンがあると知ったら発見者の権利を巡って諍いが生じます。ギルド内には大きく分けて三つの派閥があり、その代表者がこのダンジョンに殺到するでしょう」


 三つの派閥……。同じギルド内にそんなものがあるのか。それぞれ独立すればいいじゃないかと思ったが、そう簡単な話でもないのだろう。


「争奪戦が起きるってことか? そいつらについでにエルンストを助けてもらえないか」

「最初に到着するのが、私が所属している派閥の人間なら、そうしてくれるでしょう。しかしそうでない場合は、ほぼ間違いなく、見捨てられます」

「仲間じゃないのか。同じギルドの」

「ライバルです。殺し合いをするほど険悪な仲ではありませんが、情報共有は拒むくらいには」


 イングベルトが苦笑しながら立ち上がる。


「そうは言うが、ヴァレンティーネさんはお人好しだから、誰にでも情報を渡すよな。しかし、厄介だな……。じきにこの辺は大騒ぎになるぞ。魔物を駆除するという意味では好都合だがね」


 おれは、エルンストを救出できるのなら何でもいいと考えていた。派閥争いをしているとは言うが、エルンストの救出を依頼する代わり、発見者の権利を譲れば、全てことがうまく収まると考えていた。

 ただ、この目論みが成功するには条件が二つある。ヴァレンティーネがこの件を了承すること。そして、三つの派閥の代表者が鉢合わせしないこと……。


「あらー。インベルちゃんじゃない。久しぶり!」


 天から声が降ってきた。おれは驚愕した。緑色のひらひらとした薄い布の上に立ち、空を浮かぶ金色の髪の美女。日差し除けの大きな黒い帽子をかぶり、白とピンクの肌にぴったりと張り付いたドレスを着ている。

 おれが驚いたのはその出で立ちではない。空に放ったプローブ十数機が、彼女に隷従するように、飛行している。調教済みかのようにプローブが編隊を組み、その場で回転したり逆さになって飛行したりする。

 おれはヒミコを見た。ヒミコは通信で事情を伝えてきた。


《プローブのコントロール権を失いました。完全に彼女の指揮下にあります》

《いったい、どういう理屈だ。魔法でおれたちの偵察機を制御しているってことか?》

《分かりません……》


 おれは絶句した。ヴァレンティーネのほうを見ると、彼女はほっとした様子だった。どうやらヴァレンティーネと同じ派閥の人間らしい。金髪の女性はゆっくりと地上に降り立つと、自分より頭一つは大きいヴァレンティーネを優しく抱きしめた。彼女に隷従していたプローブは、一斉に正気を取り戻したかのように、空に飛び立った。コントロール権を放棄したようだ。


「グリゼルディス様。まさか貴方が来てくださるとは。エルンストが……」


 ヴァレンティーネは涙声だった。安心しきって、気が緩んだのかもしれない。


「あら、グリちゃんって呼んで、ティーネちゃん。エルちゃんがどうしたの?」

「第二層で遭難しています。私の責任です」


 グリゼルディスが首を傾げながらイングベルトを睨んだ。


「第二層? 駄目じゃない、インベルちゃん。未登録のダンジョンの封印を破壊したら、最悪死刑よ? 分かってる? 残念だわ、こんなところで若い才能が潰えるのは。こうなったら死刑執行人に立候補して、インベルちゃんの最期をこの目で見届けないとね。新しい斧を買っておかないと……」


 イングベルトは慌てて首を振った。


「ち、違いますよ、グリゼルディス様! 既に第四層まで封印が解かれていたのです! それより、一刻も早くエルンストくんを救出しないと。他の派閥の連中が到着するとややこしくなります!」

「それもそうね。さすが、インベルちゃん」

「場所なら大体分かっています」


 イングベルトがダンジョン内部の大雑把な構造図を見せると、グリゼルディスはおっとりと頷いてみせた。


「そうねー。これならぎりぎりなんとかなりそう。じゃあ、釣るわね」


 グリゼルディスは指をぱちんと鳴らし、自らの豊かな髪に手を突っ込んだ。そして手を引くと、するすると金色の糸が伸びてきた。自らの頭髪を何本か束ねてり、それを長い一本の糸に仕立てる。そうして出来た糸を投げると、糸の先がダンジョン内に侵入した。

 それから数分間、グリゼルディスはときどき難しい顔をしながら、どんどん糸をダンジョン奥へ送っていった。おれたちはそれを黙って見ていることしかできなかった。


「……うまくいくのか? 糸を中に送っているが」


 痺れを切らしたおれがイングベルトに尋ねると、彼ははっきりと頷いた。


「グリゼルディス様はギルドでも五傑に数えられるほどの魔法の達人だ。グリ派閥の長でもある。あの方で無理なら、誰もエルンストくんを助けられないよ」

「やーん、ほめ過ぎ、インベルちゃん。私なんてまだまだよ」

「……そういうわけで信用していい」


 しかし、とイングベルトは続ける。


「妨害が入れば分からない。何もなければ問題なく救出できるだろうが、他の派閥は救出作戦なんてお構いなしに突っ込んでくるだろうからな」

「いったい何をすればそのダンジョンの発見者の権利を得られるんだ?」

「色々あるが、一番強力なのが、封印破壊の証拠を提出することだ。このダンジョンの場合、第五層への封印を破壊し、その残骸を提出した派閥が発見者の権利を得る」


 おれは嫌な予感がした。


「ちょっと待て。このダンジョン内は魔物がうじゃうじゃいるんだろう。その全てを掃討してから次の封印を破壊するんだよな?」

「もちろん違う。スピード勝負だからお構いなしだ。ほとんどの場合、第一層の魔物を無視して第二層の封印を破壊するだけだから、それほど危険はない。しかしこのダンジョンの場合は地獄を見るかもな。もっと多くの死人が出るかも」


 おれはさっさと救出作戦が終わってくれと願った。しかしそうはならなかった。グリゼルディスがちらりと振り返る。そして叫んだ。


「インベルちゃん、ティーネちゃん、あと数分時間を稼いで!」


 なぜグリゼルディスがそう言ったのか、おれにはすぐに分かった。別の派閥と思われる人間が林の中から現れた。その人間は手に物騒なものを持っていた。巨大なタンクを背負い、そこから伸びた金属製のホース……。ホースの先から、小さな炎が湧いては、消える。 

 おれは背筋が凍った。


「おいイングベルト、あいつが持っているもの、火炎放射器に見えるんだが、おれの勘違いだよな?」

「そのまさかだ。ダンジョン内に火炎放射してザコ魔物を一気に仕留めようとしている。おれやヴァレンティーネさんならそれくらいじゃあ死なないが、エルンストがもし負傷した状態なら、間違いなく死ぬ」

「中に人がいると伝えろ!」


 思わずおれの声が裏返った。イングベルトの表情は凍ったように動かなかった。


「無理だ。言葉だけで止まるわけがない。俺たちで止めるしかない」


 イングベルトとヴァレンティーネがダンジョンの前に立ち塞がった。レダもそれに続く。ニュウも行こうとしたのでおれがその腕を掴んで引き離した。


 火炎放射器を持った人間は、男か女か分からない出で立ちをしていた。全身を黒いタイツのようなもので覆い、顔も灰色の仮面で隠している。眼だけが外に露出し、そしてそれを見る限り、好戦的な雰囲気を感じた。


 同じく灰色の仮面をしたタイツ姿の人間が、ぞろぞろと林の中から現れる。いずれも、火炎放射器や、刀剣、用途不明の巨大な器具を抱えており、空気がひりついていた。総勢20名は超す。


「中に人がいる! 救出作業のため、あと数分だけ待ってくれ!」


 おれはダメ元で叫んだ。しかし彼らは止まる気配がなかった。もしかするとグリゼルディス派閥がダンジョン発見者の権利を得るためのでまかせだと思ったのかもしれない。


 おれは、おれの目の前で争いが起こるかもしれないという事実が、耐えられなかった。何かできないか。何か。しかしおれは彼らのことをあまりに知らなかった。せめてもう少し情報があれば、平和的な手立てが考えられたかもしれないのに……。

 おれはニュウを連れてもっとその場から離れることしかできなかった。ヒミコが、それでいい、という顔をした。彼らの争いに巻き込まれるべきではない。分かっていても、おれは考えるのをやめる気になれなかった。



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