スクラヴォス
日に日に皇帝は若く、逞しくなっている。傍らには黄金の仮面をかぶった魔王バシリスがおり、自在に操っている。
おれは皇都に潜伏している機械を操作して、今世界中で起こっている魔王の進撃映像を映し出すことにした。
スクリーンは空。皇都の空いっぱいに、七か所で同時に起こっている戦闘の模様を伝えることにした。
皇都の住民はすぐに異変に気付いた。空を見上げて指を差す。
これは現実なのか、それともまやかしなのか。彼らは空の映像に夢中になった。
その異変はすぐに皇帝に伝えられた。皇帝は若返ってからというもの、食欲旺盛になり、一日に七度食事を摂っていた。武芸を嗜み、若い女を寝室に呼び寄せ、貴族や王族とのはかりごとに邁進していた。皇都の異変を伝えられたとき、皇帝は横たわって部下に整髪させていたが、すぐに立ち上がった。
「スズシロだ」
皇帝は憎しみに満ちた顔で言った。
「私の命を狙っている――摩訶不思議な能力で皆を騙そうとしているのだ。気を強く持て、けして惑わされてはならんぞ!」
随分と敵対視されている。バシリスにあることないこと吹き込まれたか。
しかしその皇帝も、城から外に出て空を見上げたとき、魔王と他国の軍隊の戦いの映像に一瞬飲み込まれたように見えた。
鮮明でダイナミックなその映像。
地を埋め尽くす魔物の大群と、巨大な躰を揺すり上げながら進む魔王。
死屍累々。破壊された都市。焼けた山。呪いが蔓延り、異国の空が歪んでいる。
皇帝が映像に見入っているとき、黄金色の仮面をかぶった女――バシリスがいつの間にか背後に立っていた。
バシリスはおれの監視機械が近くにあることを十分承知の上で、皇帝に話しかける。
「惑わされてはいけませんよ、王。事前に言い含めておきましたよね?」
「ば、バシリス様」
皇帝は動揺し、振り返った。
「しかし、あの映像、事実なのですか? いずれこの国にもあのような魔物が……」
「来ませんよ。言ったでしょう。あなたが治める国は永遠の栄華に包まれ、神の祝福のもと、一切の苦しみを生み出すことのない神の国になると。統治者であるあなたは永遠の命を持ち、永遠の統治と永遠の喜びを約束されている……。その若く美しい肉体が何よりの証左です」
バシリスが指差した先は、皇帝の若く膨らんだ筋骨隆々の肉体だった。
皇帝は自分の姿を見下ろし、そして笑みがこぼれる。
「ええ、そうでした。私にはあなたがついている。この後、私はどうすれば?」
「特に何もする必要はありません。ただ民を宥め、戦争に導けばいい」
皇帝は満足げに頷いたが、ふと表情が翳り、
「戦争……。そういえばつい先日、港湾に集めている造船所で異常が発生したとか……。報告がありました」
「スズシロの仕業でしょう。戦争の開始を遅らせようとしているようですね」
バシリスの淀みのない言葉に、むしろ皇帝は不安そうになった。
「……彼は何者なのです? なぜあなたに敵対を?」
「知ってどうするつもりですか?」
バシリスの冷たい声音。皇帝は若者の肉体を縮こませた。
「いえ……」
「……何者なのか、彼に直接尋ねてはいかがですか」
「え?」
皇帝はきょとんとした。バシリスは一点を指差し、そしてぐるりと四方八方へ腕を動かしていく。
「ありとあらゆる場所に彼はいますよ。比喩ではなく、事実です。本当、うんざりするほど、彼は目を増やしているようです。正直な話、まともにやっては、私は彼に勝てないでしょう」
よく意味が分からなかったらしく、皇帝は挙動不審になっていた。
「バシリス様……?」
「皇帝。あなたは私が魔王と呼ばれる存在であることに気づいていますね。この名は伝承で、古くから伝えられている。それなのに、なぜ私に従っているのです?」
皇帝は生唾を飲み込んだ。
「はい? それは、永遠の統治を――」
「そうです。他のことにかかずらっている場合ではないはずです。約束しましょう、スズシロを滅ぼせばあなたは永遠の栄華を手にする……。あなただけではなく、あなたの国そのものが、永遠の命を得ることにもなる」
「はい、バシリス様。私はあなたに従います……」
皇帝はもう空の映像を見ることはなくなった。とぼとぼとした足取りで城へと戻る。
しかし皇都の民はそうはならなかった。今にもこの都市にも魔物が押し寄せてくるのではないかと不安の声が上がる。
遠隔地との交信ができる魔法使いが、この映像で起こっていることは事実だと証言した。戦場から救援を求める声が世界に向けて発信されていた。
バシリスは混乱する民を皇城の尖塔の上から眺めていた。そんな彼女の背後から現れたのは、禿頭の男――アドリオンだった。
グリ派の幹部の一人であり、ギルドの重要人物でありながら皇国の軍部に通じている男。
バシリスは振り返った。
「あなたは……。アドリオンさん?」
「皇帝陛下と何やら親しいようだが……。何者だ」
くすくすとバシリスは笑う。仮面の奥で彼女は嬉しそうにしているようだった。
「あら。堂々と姿を現し過ぎたようですね。一応、人の認知にかかりにくい隠匿魔法を使っているのですが。大したものです」
「……まさか、陛下に戦争を促している……、あの不自然な若返りの、その元凶か?」
アドリオンは殺気を放っている。彼の鋭い眼差しを受け流すようにバシリスは歩き始めた。
「心外ですね。そもそも私が促す前から、彼は氷の大陸への侵攻を考えていました。だからこそ私はこの国に来たんですよ。それに、若返りに関しては感謝して欲しいくらいですし」
「何者だ。場合によっては、皇帝陛下の食客であったとしてもこの場で斬る」
「やめたほうがいいですよ。忠臣として名高いあなたでも、私を傷つければ死罪は免れない」
バシリスは黄金色の仮面にゆっくりと手をかけ、外した。
アドリオンは彼女の顔を見てぎょっとして怯んだ。
仮面の奥の顔――若い女――おれは城内の肖像画で見ただけだが、皇帝が30年前に死別した妃の顔と同じだった。
「皇妃様……、なぜ……」
「皇妃の顔に見えますか? 良かった……。うまくいっているようですね」
バシリスが手をかざす。おれが対処する暇もなかった。近くには兵器も何もないからどうすることもできない。アドリオンの体に三つ、穴が開いた。銃弾で穿たれたかのような傷。樽の蛇口をひねってワインを垂れ流すかのように、アドリオンの躰からとぽとぽと血が噴き出していった。
アドリオンは声もなく倒れ、バシリスは笑む。
「アドリオンさん。もう少し鈍い人間だったら死ぬこともなかったのに。あなたの体、借りますよ」
アドリオンの死体の影が急に濃くなった。
黒い手が彼の背中をまさぐる。
死骸から黒い体が立ち昇ってくる。何者かがアドリオンの体に寄生し、そして今ここで生まれ始めているようだった。
黒い影はやがて人間の形になった。徐々に色を得て、浅黒い肌の男になる。バシリスがにこりと笑んで手を振る。
「スクラヴォスさん。首尾はいかがです」
「魔物のタネは仕込んだ。スズシロは今、この会話を聞いているのか?」
「ええ、もちろん」
「スズシロ、世界中を睥睨してこの世の支配者にでもなったつもりかもしれんが、きっと驚くぞ。これから起こることにな」
スクラヴォスはそう言うと、体が溶けて黒い影となった。そしてズルズルと移動し、建物の濃い影に紛れて消えてしまった。
残ったバシリスも仮面を着けると、パンという音と共に消滅してしまった。あとにはアドリオンの萎んだ躰だけが残っていた。誰かが彼の死体を見つけるまで、皇城の人々は空の絶え間ない戦闘の映像に夢中で、騒然となっていた。




