美化された過去に何を見る
最近、体調不良だったので暗い内容ばかりが思い浮かびました。
でも可愛い女の子の絵を見ながら書いたら少しだけ明るくなった気がします。
は!? つまりドロドロの愛憎劇を見ながら書けばドロドロに……!
いえ、冗談です。
会社に入社したのが大学を卒業した二二歳の時、その後三年間地道に働いた。ドラマのような大きな事件も無ければ、ゲームのような驚きも無い生活。ただ大変じゃ無かったかと言われるとそうでは無く、残業がいきなり入ったり休日出勤をしたりした。それでも悪く無かったと思えるのは、会社が法に則った適切な給料を払ってくれたからだろうか。それとも、本当にきつかった時は周りが気を遣ってくれたからであろうか。
二五の時、その女性は入社してきた。年は俺の一つ上で二六、何でも一年の空白を経て今の会社に入社してきたらしい。最初はあまり話さなかったが、次第に打ち解けてきて頻繁な会話をするようになった。
そしてそこから三年、俺はその女性の隣に住んでいた。
会社の所在地から数キロ、自転車で通えば一五分で電車なら一〇分。俺の住む小さなマンションは、そんな場所にある。築一〇年の階段を、手に荷物を持ちながら上がっていく。目的の部屋は二階の一番端、一人暮らしにはやや広い1LDKにその女性は住んでいた。インターホンを鳴らすとすぐにその女性が現れる。
「来たか、待ちくたびれたぞ」
低い声をした女性の声、その声と共に現れたのは高身長の女性だ。俺も一八〇センチとそれなりに高い身長をしているが、その女性はそんな俺よりも五センチ低いだけだ。長い黒髪に筋肉質な体つきをしているのに、可愛らしい寝間着に身を包んでいる。そんな女性が黒く大きな瞳を俺に向けていた。
「随分と大荷物だな。大変だっただろう、加藤」
そう言われたので、俺は少し大袈裟に頷いて見せた。
「そりゃあもう。貴方が酔い潰れた後の事まで考えて水も用意しておいたんですよ。一ノ瀬さん」
そんなおどけた俺の姿を見て、一ノ瀬さんは特に気にすることもない。自然な様子で部屋へと入っていった。
「いつまでも荷物を持っていると疲れるだろう。早く荷物を置くといい」
素っ気なくも気遣いのある言葉に、俺は苦笑する。この人はいつもこんな調子だ。
「せめて俺の行動に、何か言及があると尚嬉しいのですが」
そう言いながら手を使わずに靴を脱ぎ、玄関に上がる。玄関には彼女が普段使いをしている靴と、仕事に使っている靴がそれぞれ一組ずつ。あまり多くの事に興味を抱かない彼女の人柄が分かる。
「何せ、テレビのトークショーのような話は得意では無いのでな。お約束と言う奴についてはあまり知らないんだ」
一ノ瀬さんは特に悪びれた様子も無くそんな言葉を返す。
短い廊下を歩いて部屋に入ると、綺麗に整頓された部屋が見えてくる。カーペットが敷かれ、その上にシンプルな机が置かれている。ハンガーラックに棚、テレビ台。その全てが明るい木目調で統一されている。
「何はともあれ、お互い無事に金曜日を迎えられたな」
一ノ瀬さんはそんななんてことない事を、大きな奇跡のような扱いをして言う。あまり彼女の過去は詳しく無いが、前にいた会社はあまり待遇のいい会社では無かったらしい。それこそ明日どうなるのか分からないような状況だったのだろう。
「俺にとっては、六年の間ずっとこんなんですけどね」
最初に入った会社、そのままずっと転職せずにこの会社にいる。全部が全部好きと言う訳では無いが、まあまあ働きがいもある。
「私はまだ三年だ。少しだけ羨ましい気持ちもあるな」
一ノ瀬さんのその言い方には実感がこもっている。きっと、彼女にとっては大切な事なのだろう。
「それで、以前言った話は考えていただけましたか?」
俺がそう言うと、一ノ瀬さんは澄まし顔で
「籍を入れてくれって話だろう? お断りだ」
と言ってのける。俺はそれを聞いた瞬間、肩を落とす。
「なんだその反応は」
一ノ瀬さんは心底意外そうな顔をする。まるで俺が安堵の表情を浮かべると予想していたみたいだ。
「そりゃ肩ぐらい落としますよ」
このような事を言うというのは、自分なりに考えての発言となる。この人と一緒にいたい、そう想っての事だ。なのにこの人は俺がこの事を言う度に断ってきている。これで何度目だろう、数えるのも嫌になってくる。
そんな俺の内面を知ってから知らずか、一ノ瀬さんは俺の買ってきたウォッカを空ける。
「そうは言っても、お前だって過去をいつまでも引きずってる女なんて嫌だろう」
一ノ瀬さんはロックグラスを食器棚から取り出し、冷凍庫の中に入っていた透明度の高い氷をそれに放り込む。そのまま加水もせずにウォッカを半分程入れると、それを軽く舐めるように飲んだ。以前この人は勢い良く飲みすぎてすぐに酔ってしまった事だあるため、今回は少なめだ。
そんな彼女の顔を横目で見ているが、そこに悪意のようなものは見えてこない。どうやら彼女は悪い事をしたとは考えていないらしい。もしかしたら、本当にこちらの事を考えての発言なのかもしれない。
「そんなに上手くいかないなら、相談でも利用でもしてくれればいいじゃないですか」
俺も食器棚からロックグラスを取り出し、冷凍庫の中にあった透明度の高い氷を入れていく。ウォッカと一緒に買ってきたミネラルウォーターをグラスの四分の一、ウォッカをそれと同じだけ入れていく。これを少し飲むと、良い香りが鼻の奥に広がる感じがすると同時に喉が少し熱い。もう少しだけ水を入れた方がいいかもしれない。
そんな様子を見ながら、彼女は溜め息を吐く。
「相談ならいくらでもするが、利用と言うのはな。普段から世話になってる貴方に、そんな事は出来ないよ」
突き放すような事を言いながら、どこか未練を感じさせる。いかにもこの人らしい言い方だ。
以前からこの人には色々とアプローチをしている。以前は交際を、次は同居を、そして今は結婚を申し込んでいる。だがこの人は過去に忘れられない男性がいるらしく、それを理由に断っている。
その男性はそんなに素敵なんですか
そう思わず言いたくなるが、それは野暮なのだろう。或いは無粋か。
そんな事を考えていると、一ノ瀬さんがこちらをじっと眺めている。
「どうしました?」
そう言うと、この人は暫く何か考える素振りを見せてからこのように言う。
「君ほど行動力のある人だ、私以外に魅力的な女性を見つける事も容易いだろうと思ってな」
一ノ瀬さんにとって、それは拒絶の意味だったのだろう。別の相手を探した方がいいと言う提案、それがこの人なりの言い方なのだろう。
しかしである。そう受け取りながらも、俺の頭の中では違う考えが浮かび始めている。そう、行動だ。眺めても、言っても足りないなら行動すればいい。以前もこの人に要求を受け入れさせ、てはいないが妥協案を受け入れさせた事がある。
「ねえ一ノ瀬さん。その男性と会ってはみませんか?」
そう言うと、一ノ瀬さんは何を言い出すのだと言わんばかりに俺を見つめてくる。しかし構うもんか。もしかしたら、既に酔いが回っているかもしれない。それでもこれはやっておくべきだ。そう考えての発言だった。
「俺も一緒に行きますから」
そう言うと、一ノ瀬さんは困ったように微笑んだ。
土曜日、俺は朝から海岸沿いの公園にいた。少し温度の高い、湿気のある空気が頬を撫でる。梅雨である六月らしく、朝から雨が降っていた。歩きやすいスニーカーとジーンズ、長袖のシャツ。少し大きめの傘を差しながら、スマホの時計を見る。時間は八時半、約束の時間である九時よりも三〇分も早い。理由が理由とは言え、好きな女性と二人で出かける。そんな事に浮かれているのかもしれない。
そんな自嘲をしていると、一ノ瀬さんが現れた。
「待たせたか?」
黒いブラウスに、俺が履いているのと同じ色のジーンズ姿で彼女は現れた。履いている靴のブランドまで一緒と、まるで示し合わせたようだ。
「考える事は一緒のようですね」
時間を見ると、八時三五分。俺がここに付いたのが八時半のため、五分しか違わない。お互いに早く着いて相手を困らせないようにと考えたのかもしれない。それに加えて、お互いの服装である。以前一緒に服を買いに行った時、この人は「面倒だから」と言って俺の買う予定だったズボンのレディースと、俺の履いている靴と同じブランドのものを買っていった。その時、俺は内心で「お揃いがいいのですか!?」と思って浮かれたのだが、この人は特に表情を変えなかったのである。その時の事を思い出すと、この人は俺を異性として見ていないのでは無いかと不安になる。
そんな表情を見て、一ノ瀬さんは真剣な表情を浮かべる。
「仕事ではあまり動じない君でも、初対面の人と会うのは緊張するのだな」
何か勘違いをしている気がする。だからと言ってこの事について追及しても、こちらが求める答えは返ってこない気がする。まあいいさ。今は雰囲気のある言葉とかは考えずに生産性のある会話でもしよう。
「因みに、その人ってのはどこに住んでいるんですか?」
昨日は酒に酔っていたため、当日に打ち合わせをしながら目的地に行こうと言う話になっていた。
「隣の隣の町だ。電車で行けば三十分もかからない」
一ノ瀬さんは俺よりも幾分か小さい傘を差しながらそんな事を言う。俺の持っている傘がシンプルなビニール傘なのに対し、この人はピンクの傘だ。ビビッドな色が好きなのかな、とか思う所ではあるけれど俺は知っている。これ、単に安売りしていた奴だ。以前近所の服屋で処分品として売られているのを見たぞ。
「一ノ瀬さん、思ったよりも緊張してない?」
服装はラフだし傘は処分品だし、なんか近所のスーパーに寄る時のような格好だ。
「まあ、君が一緒だからな。会社と同じと考えれば問題も起こらんさ」
そう言われると悪い気はしない。それだけ信頼されているって事だと……解釈していいんですよね?
「ほら、快速が出るまで後数分だ。さっさと乗るぞ」
そう急かされるので、電車の方向に向く。ここから駅まで徒歩数分だ。
車体が揺れる度に、肩に乗った体重を実感する。一ノ瀬さんは俺の肩に体重を乗せ、静かに寝ている。電車に乗った瞬間、この人はそれが当たり前と言わんばかりに寝てしまったのだ。出会ってすぐの時は電車に乗るときに距離を取っていたのだが、今ではこうして俺を枕代わりにして寝るのが癖になっている。改めて考えると、随分と距離が近い気がする。付き合っている訳でもないのに。
「どうした?」
気づいたら、一ノ瀬さんが目を覚ましている。俺の肩に乗せていた自分の頭を上げて、欠伸もせずに外を眺め始めた。もういいのだろうか。
「心配には及ばないさ。仮眠は十分に取った」
そうですか、と声には出さずに心の中でだけ言う事にする。嘆息をすると、一ノ瀬さんが苦笑いを浮かべる。
「考えてみると、随分と奇妙な関係だな」
突然一ノ瀬さんがそんな事を言う。
「一緒の会社に勤めている隣人って関係がですか?」
すぐに思いついたのはそれだ。
「その過程がだよ」
そう言えばそうだ。
「側にいたい、って俺が言った事ですか?」
あれは俺なりのプロポーズだったのだが、この人は何を勘違いしたのか「私の暮らしているマンションに空き部屋があるぞ」とか言ったのだ。忘れる筈が無い。
「相手の意図に気づかないふりをしていれば、どこかのタイミングで諦めると思っていたんだ」
この人は異性の好意に鈍感なふりをしていたのだ。相手に諦めてもらうために。
「それをまさか、ストーカーのように隣の部屋に引っ越してくるとは」
そう言いながらも愉快そうに笑っている。それもその筈で、俺が引っ越してもいいと言ったらこの人も積極的に協力してくれたのだ。
「俺の部屋の内装まで考え始めた時は驚きましたよ」
この人の意図は分かり難い時がある。このような事をしてくれたのは、果たして好意なのか好奇心なのか、はたまた善意なのか。
「単なる凝り性なんだ。しかも、粘着質な」
その言い方に自嘲の色が見える。どこか苦しそうな表情まで浮かべて、やや痛々しい。
「俺と一線を越えない理由の一つが、それだったりします?」
そう訊ねると、この人は曖昧に首を動かす。縦に振ろうとして、横に振る。肯定なのか否定なのか。
「いくつかの理由が重なってるんだ。これが理由、なんてハッキリ言えるものは無いさ」
本人も自分の感情を正確には把握していないらしい。
「他に何か聞きたい事はあるか?」
一ノ瀬さんが視線をこちらに向ける。これ程までに積極的に自分の事を話そうとする姿は、少なくとも俺の知っている限りは珍しい。
「じゃあ、俺の恋のライバルについて」
少しだけおどけて言うと、一ノ瀬さんは軽く笑う。
「こんな時までおどけて言わなくてもいいだろう」
こちらの意図が透けて見えていたのだろう。この人はそう言って笑う。
「フランクで話しやすい人を目指しているので」
軽口を垂れ流すと、この人はやはり笑ってくれる。
「こんな時でもマイペース……」
そこまで言って、この人は頭を振る。
「マイペースであろうとするんだな」
わざわざ言い直してまでそう言ってから、この人は俺の顔を見る。その顔を真正面から見るのは何だか気恥ずかしく、目線を外す。
「なんの事でしょう」
少しだけ上擦った声が出る。我ながら恥ずかしい。そんな様子を見てどう思ったのか、この人は再度俺の肩に頭を預けてくる。
「昔好きだった彼は、随分と社交的だった」
そんな状態で、この人はそんな事を言い始めた。ゆったりとした、落ち着いた声だ。
「よく舌が回る男でな。多くの人に指示を出して、物事を動かす奴だったよ」
端的で簡潔にそう言った後、一ノ瀬さんは何も言わなかった。随分と少ない情報だけ渡すのですねと、心の中で皮肉を言う。
「あまり言いたくないんだ。昔の事はな」
俺の心を悟ったようなその言い方は、随分柔らかい言い方だ。
「無闇に聞いたらやぶ蛇でしょうか?」
事務的にそのように言うのと、電車が目的地に到着するのは同時だった。
「言葉だけでは、意味が見いだせないだけさ」
そう言うと、この人はさっさとホームに降りてしまう。俺も急いでそれに続いた。
大きく作られた採光窓に、レンガ風の壁紙。フローリングの床に、三枚羽のシーリングファン。店内に設置されているのは二人で使うにはやや大きいアンティークテーブル、脇には二つの椅子があり、対面するように座る事が出来る。俺と一ノ瀬さんはそんなカフェにいた。入店してすぐに、ピシッとした服をきた店員に案内される。
「お二人ですね」
綺麗な声、綺麗な服ではある。しかし目線が俺にも一ノ瀬さんにも向けられておらず、どこか違和感がある。
「ええ」
自分が不信感を抱いているとは気がつかせないように気をつけながらそう言うと、その店員は俺達を静かにテーブルまで案内した。
「さて、感想は?」
席に着くなり、一ノ瀬さんはそんな事を言い出した。
「情報が少なすぎて、何の事だがわかんないですよ」
そう言って、一ノ瀬さんは口をぽかんと開ける。まるで失敗したなと言わんばかりだ。
「まあ、さっきの男がそれだ」
そう聞いてから、俺は少し考えてから答えに思い至る。そうか、あれが過去に一ノ瀬さんが思いを馳せたと言う男か。
「いや……ええ……」
正直、第一印象が良く無い。何だか他人を軽視しているような、傲慢さを感じる。
「感想は後で聞こう。私は感想をここで言いたくない」
そんな事を話した後、ふと気がつく。お客さんがいないと言うか、やけに少ない気がする。そんな事を考えていると、後ろで突然怒声が聞こえる。
「お前は何故こんな事も出来ないんだ!」
先ほどの男が他の店員に怒鳴っている。
「すいません、うちの店員が迷惑を」
どこか白々しい言い方。その言い方を聞いて、一ノ瀬さんは溜め息を吐いた後で席を立つ。
「大丈夫ですか?」
一ノ瀬さんは怒られていた店員に話しかけている。そんな一ノ瀬さんの様子と、先ほどの傲慢さを感じる男を交互に見る。
「えっと、お客さんは何か注文を?」
そう言われたので、俺は首を横に振る。本人が望まない言葉を言った所で無駄だろう。「一ノ瀬さん」
俺が短くそう言うと、その人は俺を見て首を縦に振る。
「すまないが急用を思い出した。手間を取らせた」
そう言って、一ノ瀬さんは頼んでもいないコーヒー代をレジ横に置いてから店を出る。
「馬鹿な事をしたものだ」
一ノ瀬さんはそう言う。
「先ほどの頼んでもいないコーヒー代の事ですか?」
そう言うと、この人は深々と溜め息を吐く。
「無言で金を支払わずに出て行けば良かった。場所を無料で借りてしまって申し訳無いって気持ちが働いてしまったんだ」
そう言いながらも、この人は晴れやかな顔をしている。
「踏ん切りはどうです?」
「ついた」
この人は端的にそう言う。
「人に何か指示を出して動かす所しか、当時は見えて無かった。それだけでは人は動かないと言うのにな」
一ノ瀬さんは、自分の中にある情報と感情を整理するかのように言う。
「昔の私は趣味が悪い」
一ノ瀬さんは駅へと向かう。
「これからどこに?」
そう訊ねると、一ノ瀬さんははにかみながらこう答える。
「家だよ。着替えたい」
その意図が分からず、俺は首を傾げる。
「これから貴方と映画にでも行こうと思ってな。だから、もう少しだけ気合いを入れたいんだ」
そう言いながら、一ノ瀬さんは俺に背を向ける。その耳は心なしか赤くなっている気がする。
「私は貴方の彼女になりたい」
こちらを見ずに、一ノ瀬さんがそう言う。俺はこのような時に言おうと思っていた言葉が頭に浮かぶも、そのどれも上手く言えなかった。だから、端的にこう答えた。
「はい。喜んで」
緊張したせいで、少し変な言い方になってしまった。しかし、そんな俺の言葉でも、彼女は嬉しそうに笑顔を俺に向けて見せた。




