前編
人間の三大欲求を満たすことはとても大事だ。
睡眠欲は嫌でも満たさないわけにはいかない。
性欲については、最近かわいい彼女ができたので全く問題ない。
となれば、あとは食欲をいかにして満たすか、これが重要だ。
朝起きて仕事に行く前、シャワーを浴びているときにふと思った。
今日は焼き肉が食べたい。
それはもうがっつりむしゃむしゃと。
そう思ったらもう、口の中が完全に焼き肉モードだ。
肉の油と、タレと、煙。
今日はもう我慢できそうにない。
私は出勤前の化粧を雑に仕上げていきながら、朝っぱらだというのに、愛する彼女へ電話をかけてしまっていた。
「……あ、おはよう。クミだけど。ごめんね、まだ寝てたよね?」
電話ごしに、彼女の寝起きの雰囲気が伝わってくる。
ベッドの上でごそごそ動いているような衣擦れの音が聞こえた。
『んー? クーちゃんですか? ……おはよう。どうしたのこんな朝早くから』
寝起きのふんわりした柔らかい声。
スマホから聞こえてくる大好きな恋人の声に、私の表情は揺るんでしまって、片手で続けていたお化粧は少し目元にミスが出た。
私の彼女は結構お嬢様育ちだ。
世間知らずが災いし、私のような肉食系どスケベ百合女にペロリと補食されてしまったのがその証拠。
「へへ、おはよう、お嬢。今日は金曜日だし、夜は焼き肉を食べに行かない? 予定空いてたら、だけど」
毎週、金曜日の夜から日曜の夜までは、必ずお互い予定を空けているけれど、いつも私はわざわざ確認してデートに誘うようにしている。
お嬢がその方が喜ぶから。
『わあ、焼き肉かあ、たまにはいいねえ。じゃあお仕事終わったら連絡して下さいね。あ、わたし夕方まで駅前で用事あるから、良かったらついでに迎えにきてくれたら嬉しいかも』
よし、今晩は焼き肉デートに決定。
お嬢は細い体のくせに、私に負けず劣らず食い道楽で、ちょっとびっくりするくらい何でもよく食べる。
その栄養はほとんどお胸にとられているようで、そこだけたわわに実っているけれど。
ちなみにお嬢様が焼き肉と言えば、当然一人一万円を軽く越えるようなお店が想像されるだろうが、私は知っている。
お嬢はもっと、大衆的なお店との出会いを求めていることを。
「了解、今日は絶対残業なしで帰るから、楽しみにしといてよ。……じゃ、行ってきます。朝から声が聞けて嬉しかったよ。愛してる」
『うん、クーちゃんもお仕事頑張ってね。行ってらっしゃい。大好きだよ』
かわいすぎる彼女の声に励まされながら通話を終える。
うむ、充電完了。
今日は金曜。明日からはお休み。
夜はかわいい彼女と焼き肉デート。
うん、仕事もなんとか頑張れそうだ。
◇◇◇◇◇
15時頃、仕事の合間に喫煙所に向かうと、先輩のおじさん社員とばったり出くわした。
「おっすクミちゃん、お疲れ。……お前なんか痩せたか? やせっぽちがまた痩せたら、せっかくの彼女にまた捨てられちまうぞ。最近ちゃんとうまいもん食ってんのかよ」
このおじさんにはデリカシーというものは一切ない。
典型的くそオヤジだが、今どき貴重な喫煙仲間でもあり、食い道楽仲間でもあるので妙に気が合い、私の同性愛のことも結構詳細に話してしまっている。
こういうのはかえって、価値観の古いおっさんたちの方が、理解はできないにせよある種の笑い話的に受け入れてくれるので話しやすいくらいだ。
「先輩もお疲れ様です。いやあ、幸せ痩せって感じですかね。夜のアレが結構ハードなんすよ。だから今日はデートがてら焼き肉に行こうと思ってるんです」
年は離れているものの、喫煙仲間との心休まるひととき。
女子にはあるまじき下の話も、喫煙所の中では当然のことである。
おじさんは、ぐははと下品に笑いながら、タバコの灰を意外とマナー良くきれいに灰皿に落とした。
「そうだ、焼き肉ならあそこ悪くなかったぞ。隣町の国道沿いのホームセンターの横に最近できた、あの、名前なんだったかな」
「ああ、焼き肉チャンピオンとかいうとこですか? あれ食べ放題ですよね、うまいんですか?」
二人で煙を交換するように吐き出しながら、今日の焼き肉デートのアイデアを頂いていく。
「ああそれそれ。食べ放題にしてはなかなかやるな、って感じだけどな。うちはガキもでかくなってきたし、最近は食べ放題が安くつくんだよ。肉もまあまあだし、サイドメニューが多くてな。いらねえもんばっかり食っちまうけど、まあそれも楽しいんだよ」
ほう、悪くなさそうだ。
「そうだ、これやるよ。そこのドリンクバーの無料券。確か会計のときにもらったんだわ。クミちゃんはあんまり酒飲まねえんだし、ちょうどいいだろ」
おじさんは汚い財布からクーポンを取り出し、こちらによこしてくれた。
ありがたい。紙のクーポンってなんか好きだ。
「あざっす。じゃあとりあえずそこ行ってみますわ。今日はお昼ごはんも少なめにしといたんで、食べ放題バンザイですよ」
場所は決定ということで、あとはなんとか定時退社を目指して残りの仕事を片付けるだけだ。
私は短くなったタバコを灰皿で揉み消し、背伸びをした。
「おう、そうだ彼女と行くならせっかくだし、その子の写真でも撮って送ってくれや。ブスだったら笑ってやるからよ」
おじさんもタバコを消しながら嫌らしく笑う。
案外、このゲスぶりが嫌いになれない、味のあるおっさんなのだが。
「は? うちの彼女めちゃかわいいんですけど。写真見て嫉妬しないで下さいよね」
さすがにそこは譲れず、私もフンと笑っておいた。
◇◇◇◇◇
17時半。私は予定通り車を走らせ、彼女を迎えに駅前に到着した。
定時退社の秘訣は非常に簡単だ。
仕事を雑に済ませて後日怒られるか、終わっていない仕事から目を背けて逃げるか。
この二択しかない。
駅前のロータリーを見ると、こちらに手を振るお嬢様を発見した。
かわいいかわいいうちの彼女である。
車を一時停車スペースに止め、速やかに運転席を下り、助手席のドアを開けてやる。
近づいてくる彼女に手を振ると、ふんわりした笑顔がかえってきた。
季節感のある秋色のワンピースに、品のある手提げバック。
ゆるふわのロングヘアも、いかにもいいとこのお嬢様という感じだ。
これから焼き肉に行くファッションとは思えないが、これがこの子の標準スタイル。
一週間ぶりに会うといつも、胸の膨らみがエロく見えて困る。
「クーちゃん、お仕事お疲れ様。迎えに来てくれてありがとう」
私に促されて助手席に座りながら、彼女はまたふわふわと微笑んでいる。
かわいいやつだ。
「いや、ごめん少し待たせちゃったみたいだね。じゃ、早速行こうか」
私は運転席に座るとシートベルトを付け、左手で彼女の手を握り、片手で車を発信させた。
ロータリーを出て信号にひっかかったとたんに、私の頬に柔らかいキスが飛んできた。
「クーちゃん、会いたかったよ。ふふ、やっと週末が来たかーって感じ」
私もぜひともキスをお返ししたいところだったが、信号がすぐに変わりそうだったので断念しておく。
「お嬢、今日は焼き肉だけど、お店は私に任せてもらって大丈夫かな? 先輩からオススメされたお店があるんだけど」
「お、もちろんいいよ。ふふ、楽しいとこだったら嬉しいなあ」
それはもう、楽しいでしょうよ。
なにせこのお嬢様は、チェーン店の焼き肉食べ放題なんて、まず行ったことが無いだろうからね。
「味は保証しないけど、間違いなく楽しいから。肉のアミューズメントパークだよ。ちゃんとお腹は空かせてきてくれた?」
「そりゃもちろん。お昼ごはんはコーヒーだけにしたんですから。お腹ペッコペコだよ」
こやつ、なかなかやりおる。
さすがは我が恋人よ。
私は幸せを感じてニヤニヤしながら、隣町の目的地まで車を走らせて行った。




