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StruggIes/Unities  作者: 和秋
2/2

~Tiffin~

強くありたいと願った矢先の事だった。

世の中は急激に変化してしまい私たちが住む国は隣国との戦争を開始した。

多くの人が死に 多くの町が焼かれ 多くの悲劇を繰り返した。

私たちが住んでいる所は被害こそなかったけれど、お国の命令で生活の自由が少しずつなくなっていった。

気がつけばそんな生活にも慣れてしまったある日。

戦争は私たちの住む国が勝利して終わった。

けれども戦争前の生活が戻ってくる訳ではない事は肌で感じていた。

戦時中、ユメはずっと呆れたように同じ事を言っていた。

「人間共はまた馬鹿やってる」と

長い長い年月を生きてきたユメにとって私には初めてなこうした出来事も歴史の中で定期的に起こるいつもの事らしい。

今は私もその伴侶のような物だが。


戦争が長引くにつれていつも出かけるシュテーフィンの町は大きく変化した。

お店で売っている物は質素な物ばかりになり、町からは活気が消えてしまった。

国境近くという立地もあっていかめしい軍服を着た憲兵が日増しに増えていき、お散歩するのも億劫になる。

そしてこれも初めて見た。

難民である。

戦場になった地域に住んでいた人々が生活圏を失いこの地域まで流れ着いてきたのだった。

服はボロボロで身一つな多くの人々。

そんな人たちをお国は敵国だからといって助けようとはしなかった。

むしろ積極的に迫害して町から追い出していったのである。


そうしてさらに居場所を失った彼らは文句の言われにくい森の中で掘っ立て小屋を作って生活し始めた。

助けたいと思った。

目の前で苦しんでる人がいるのに自分だけ何食わぬ顔で生活は出来ないと思った。

けれどもユメは冷たくお国と同じように関わるなとだけ言って許してはくれなかった。

これも業であると。

彼らの運命だったのだと。

私はユメの言ってる事は所々納得がいかなかったが目を瞑るしかなかった。

そうこうしている内に戦争は終わった。

町は緊張感から解き放たれ、懐かしい賑わいを取り戻していった。

しかし難民である彼らは何も変わらない。

その事が余計に私の中で葛藤を生んだ。

そして遂にユメを振り切って難民キャンプに足を運んだのである。

ただ来た所で自分でもどうしたいのか分からなかった。

ユメは最後まで反対したまま投げやりになってしまったし、私自身先の事を考えていなかった。

何もかも半端なままで訪れたこの場所で。

一人体操座りして空を見つめる女の子と出会った。

話しかけても無言のままどこを見ているのか分からない目でこちらを見つめている。

聞けば一緒にいた祖母とされていた人はその場で亡くなっていた。

私の意を察していたユメは何も言わなかった。

表情からだけでなくユメにはそもそも心が読まれている。

私の中の葛藤も全て把握済みだ。

気がつくと女の子は私のスカートの裾を掴んでいた。

喋ってはくれないがこの子が見せてくれた全てを込めた意思表示。

私はその子を私の娘とした。

自分が産んだわけではないけれど。

今のこの子には私しか頼れる人がいないのだ。

この瞬間から私はお母さんなんだ。

私は自分の娘と定めた子にLuIIラルと名付けた。

「癒やし」の意味を持つ。

今のこの子に最も必要な物だ。

私が癒やしになってあげられるかは分からないけど

そうなるように私が努力するしかない。

ただそれだけだ。


家に帰りラルを家の皆に紹介した。皆と出会ってちょうど1年が立つ。

ユメがいなければ今の私はここにはいない。

ラトゥは私の何よりの心の支えだ。

花円はここへ来てからデザイナーになって服の仕立てをしている。

なんだか前よりも明るい子になってしまって別人のようだ。

ナーティーはもうすっかり我が家の料理長。

長と言っても我が家で料理を触れるのはラトゥとナーティーしかいないのだが。

「さてと」

一通りの事を済ませて一息ついた。

ラルの身だしなみを整えるため花円にお洋服を作ってもらう。

かつてラトゥが私にしていたように今度は私がラルの髪を解いてあげたいと思った。

その前に無造作に伸びたこの髪を整えたい。

と思って鋏を持ったは良いものの、

お風呂上がりのラルの髪を片手に立ち止まってしまった。

…そういえば自分の髪すら切った事がなかったと気がついてしまった。

ラトゥに頼もうか。

しかし母たる私が何事も面倒を見てあげねばと責任感だけが込み上げる。

「アイリーン様。私がやって差し上げましょうか」

「いや、なんとかするわ」

「左様ですか」

返事をしたはいいがさて。

今度は勢い余って傷つけないかと身構えてしまう。

ショートカットにまとめてあげたいが鋏を入れる勇気がない。

それでも、と最初の一太刀を入れてみたが思い切り斜めに切ってしまった。

焦って反対側から鋏を入れて同じ高さに整えようと思ったが先ほどではないものの真っ直ぐには切れておらず、全体として毛先の長さはバラバラになってしまっている。

我ながらラルが可哀想に思えて泣く泣くラトゥに委ねるしかなかった。

その後も何かと整えてあっと言う間に夕食時。

そうして一段落したラルは大きな食堂テーブルの椅子の上にちょこんと座っていた。

なんとも愛しき光景だ。

「次はご飯よね」

ラルに直接問うてみても首をかしげるだけで何も言ってくれないのが悲しい。

ユメが言っていた。

心的外傷によるストレスを受けて話せなくなってしまっているのではないかと。

ようするに戦争から逃げてきたダメージやショックが大きすぎたという事なのだ。

難民キャンプには祖母とされていた人しかいなかった。

この子にも本来の両親がいたはずだ。

けれどもあの状況を察するに恐らくは-。

私も自分の親の顔を知らない。

育てていた人は突然その世界事消えてしまった。

今では顔も名前も思い出せない。

その後はユメが親代わりとなった。

色々ありはしたけど今はこうして皆がいる。


ナーティーがふるってご馳走を作ってくれた。

それをラトゥと私でラルの前に並べられるだけ並べた。

豪勢な料理の数々を前にどちらかと言えば私が食べてしまいたいと思ってしまう。

「全部食べて良いのよ!」

どんな顔をするか。

きっとお腹をすかせていたに違いない。

期待して見つめていたが…

「お腹空いてない?」

ぼーとテーブルを見つめたままラルは動かなかった。

思わずその場の全員で互いの顔を見合ってしまう。

だがユメだけはつまらなそうにそっぽを向いている。

「ま、まぁ本人の意思が食べたくないって言うんだったら仕方ないんじゃない?」

花円が気まづい空気を茶化すように言った。

「君は自分が食べたいだけだろう」

「な、失敬ね!」

「二人とも辞めて」

ユメの毒づきに花円が食ってかかる。

いつもなら見ていても飽きない光景だが今は流石の私も腹ただしかった。

と思ったが花円はいつの間にか銀食器に盛られたアイスを立ち食いしていた。

いつの間に…。

そんな花円から視線を反らしラルに目線を戻すとラルが固まった人形のようにこちらを向いている。

「どうしたのラルちゃん」

儚げな視線の先、見つめているのは

「アイス?」

花円の方を見ていた。

正確には花円の手元。

あれが欲しいのだろうか。

私としては主食の後にして欲しい気もしてしまうのだが。

「ナーティー、花円が食べてるのと同じのを頂戴」

「かしこまり」

そうして盛られた物がラルの前に出される。

表情は少し和らいだ気がしたけどあまり変わらない。

と思って様子を伺っていた時、ラルはアイスを手掴みして口にした。

「…食べてはくれたわね」

思わず私も呆然としてしまう。

でもまぁこの子ぐらいなら?と思わなくもない。

「1から教育しないといけないわね」

「当たり前じゃないか」

ユメが逐一突き放すように言う。

「ユメは黙って頂戴!!それとも言いたい事があるならはっきり言ったらどうなのよ!」

いろんな事に対する怒りをユメにぶつけてしまった。

ユメはなんとも言えない面白くなさそうにブスッとして

「はいはい。娘の反抗期と孫が同時に出来たお婆ちゃんは用済みですよー」

そう言って家を出て行ってしまった。

その言葉に私はキョトンと固まってしまったが。

ユメの姿がドア向こうに消えると花円とナーティーはお腹を抱えて大笑いした。


つまんないなぁ。

面白くない。

これがジェラシー?この私が?

ふらふらと浮遊し続けながら一人問答をする。

別にラルを引き取った事に異論はないのだが、どうも私の居場所がなくなったようで寂しいような悲しいような。

この国が戦争に明け暮れている間、ユメは情報収集もかねてアイリーンたちはまだ行った事のない町まで足を伸ばしていた。

アレキ第二の都市、エスティーブルク。

この町を探索していた時、今どき珍しい店を見つけた。

今まで知らなかったのが不思議なくらいだ。

ただ調べている内に分かった事がある。

エスティーブルクはアレキ王国が3代前まで首都としていた場所でいわゆる旧都なのだ。

そのためどこか古めかしい町並みが揃っている。

それに魔術師と思われる人相が普通に出歩いているのにも驚いた。

旧社会の名残を残すこの町だからこそ魔道具小売店喫茶「フルム」の存在は頷ける。

カランカランと相変わらず良く響くドアベルを聞きながら店に入った。

「いらっしゃーい。あらやだユメちゃんじゃないのぉ。お久」

1回2回と通う内に常連となる。

ましてやユメのような目立つ出で立ちでは相手もすぐに覚えると言う物。

こういうキャラをおネェと言うのかどうか良く分からないがここの店主ジン・ぺーはいわゆるオカマである。

「どうもです」

「どうしたよ。なんか元気ないわね。元気が取り柄のようなユメちんがお悩み?」

「…聞いてくれますか」

「うん、聞く聞く!」

「とりあえず魔力酒ください」

「度数60%!!いきなりキツいの行くわね~。了解、ちょっと待っててね」

「あ~」

自分でも間抜けと思うぐらい大きなため息をついてカウンターにもたれた。

「お疲れのようねぇ」

棚から取り出されたボトルから並々と注がれる透き通った水色の液体をユメの顔の前にジン・ぺーが置いた。

「マスター」

「なぁに」

「子育てってなんでしょうか」

「子育て?そういやユメちゃん育て親かなんかだっけ」

「えぇまぁ。それが今では孫も出来ましたが」

「孫!?お子さんって成人した子だったの。意外」

「これが子離れってやつなのでしょうかねぇ。正直娘にも親らしい事は何も出来てませんが」

「まぁ家族も色々あるわよねぇ。分かる分かる」

チビチビと魔力酒をやりながらアイリーンと出会った時の事が昨日の事のようだと思えてきた。

しかし今、アイリーンが一人の親となった事で私の立場は不思議な物になった。

元よりアイリーンは私と【契約】して不死身となっているが、あの子は、ラルは普通の人間だ。

私もアイリーンと出会った時は後先なんて考えていなかったし、空間消滅というイレギュラーな場での関わりのせいで考えられなかった。

アイリーンも同じなのかもしれないとふと思った。

今は目の前の事で精一杯。

先の事はケセラセラ。

私とて今まで何かがしたいと思って生きてきた分けじゃない。

とか昔を振り返っていたらとうの昔に記憶の彼方へ追いやった人物の顔がよぎった。

ギルバート

かつて私に大きな影響を与えた男との奇跡の夢物語。

いかんいかん。

ふと我に返るとくらっと来た。

結構酔いが来たらしい。

「マスター、これソーダで割ったら美味しい?」

「まぁやる人はやるわよ。やってみる?」

「お願い~」

「出来ちゃってるわねぇ」

追加したソーダで残りを飲み干すと姿勢を正して以前からジンに聞いてみたかった事を問う。

「そういえばこのお店っていつからやってるの?」

「まだそんなにたってないわよ。戦争の前ではあるから1年は過ぎたかなぁ。あら、いつの間にかそんなに経過してたかしら」

「ここって魔道具売ってるんだよね?」

「まぁ何でも屋みたいな所はあるわねー。私は人間だけど親戚に魔術師系の人たちが昔からいたから私は特に人種とかうんちゃらみたいな事には興味ないのよ。商人気質っていうか売れれば何でも良いし。なんでぶっちゃけた話相手によってはドラッグも売ってるわよ?その気があれば紹介するわ」

「いやそういうのは遠慮しとくよ。でもマスター顔広そうだね」

「と言ってもお店をそう宣伝してる分けじゃないから物好きな常連が少しいるくらいよ」

「ふーん。それじゃ次は何かおまかせ料理を一つ」

「りょーかーい。そういやユメちゃんって人間ではないわよね?」

「まぁ一応、夢魔って事にはしてます」

「夢魔かぁ夢魔って夢を食べるんでしょ?」

「人も食べた事がありますよ。特に生娘好物」

「こっわーい!美味しいのそれ」

「私はね」

「それならちょっと試食がてら良いのがあるわ」

そう言ってカウンターの置くにある厳重そうな観音開きの戸棚を開けて一つの瓶を取り出し、丸っこい固形物をいくつか皿の上に転がした。

「なんですかこれ」

「アラビアゴムに人の霊魂を凝縮させて煮詰めた物よ」

「想像がつかん…」

「ちょっと一粒食べてみて」

恐る恐る口にしてみる。

表現の難しいグミのような弾力のある食感の後に中に込められた霊魂が体に吸収されていくのが分かる。

悪くはない。

「まぁ割といけるんじゃないかなこれ」

「本当?ちょっと試作品でいじってたのよ。お菓子の材料に出来そうだなって」

「私は好きだね」

「ありがとうぅ自信とお墨付きが出来たわ!」

「それは何より」

その後も飲み食いと談笑を続けあっという間に時間が過ぎていった。

「そろそろ行こうかな」

「気が晴れたようなら何よりよ」

「今度は娘たちも連れてこようかな」

「え!ユメちんの家族見たい!」

「じゃあそうするよ」

「うんうん!」

「ごちそうさまー」


ここは静かな所だ。

ここにいる人たちは騒がしいけど。

でもしばらくあの嫌いな音の数々は聞いてない。

…アイスとクッキーを同時に食べたら美味しいのかな。


綺麗に晴れた日の事。

アイリーンたち一同は家の前に拵えた広場に集まっていた。

アイリーンの稽古の時間である。

かつて強くなりたいと願った本人の申し出で色々試してみた。

アイリーンには一応魔術師の血が流れてはいるが本人は魔法を使う気がないらしい。

心身の成長に伴ってかつて空間を消滅させたような魔力暴走も今の所起きていない。

精神的に安定しているのとユメが半ば抑制させているような状態だからだ。

そして本人の意向で武闘をいくつか訓練していた。

稽古相手はラトゥだ。

元より人の身ではないため殴り相手にはちょうど良い。

「それじゃあ行くわよ」

一声かけるのと同時にアイリーンが突っ込んでいく。

ラトゥを前にして顔目がけて殴りにかかった。

ラトゥはそれを華麗に交わすとアイリーンの後ろに回り込む。

アイリーンもそれは承知済みで軽く目線で追いながら右足を軸にして左足で華麗な後ろ蹴りを繰り出した。

これがラトゥの左肩に当たり、ラトゥが軽くよろめいた。

「前よりも素早さが上がったような気がします」

「でも私はまだまだ物足りないわね」

「少しずつ精度をあげていくしかないと思いますよ」

「そうね」

「アイリーンは筋力強化に魔力を使わないの?私みたいに」

隅に設置されたテーブルで紅茶を飲みながら訓練を見ていた花円が問う。

「うーん。使いたくないのもあるけど正直使い方が分からないのよね」

「まずは自分の中で魔力を感じないとダメだけど本人が認識しない事にはなぁ。私がサポート出来るのはそこからだから」

花円と向かい合って座り茶菓子をつまみながらユメがごちる。

「それ故に武闘をやるってなってるのよね。まぁ私がどうこう言う事ではないのだけれど」


「ラトゥ、背負い投げをやってみたい」

「かしこまりました」

ラトゥが片手を差し出しアイリーンがそれを掴んでラトゥに背中を向ける。

軽くしゃがんで掴んだラトゥの腕に全力を込めて引っ張った。

見事に成功しラトゥは放り投げられたが地面につくと同時に受け身を取ると横へ少し転がりすっと立ち上がる。

「まぁ今の状態では護身術の域を出ないね」

そう言ってユメはふと思い立った。

『フルム』の魔道具を与えてみたらどうなるのだろう。

この前ついつい口が進んで物を見る事が叶わなかったがユメも何があるのか気にはなっていた。

ラルとあやとりをしていたナーティーを振り返って問う。

「今日の夕飯って決めてある?」

「もう少ししたら買い出しに行こうかなぁと。厨房は今あまり蓄えが残ってないですね」

「たまには君も休みたくはないかい?」

「いや、衣食住貰ってるし私も好きでやってますから」

「今日外食にしたら困る事ってある?」

「今決めて頂けたら特にはないですよ」

ユメはカップの紅茶を一気に飲み干すとラトゥの華麗な回転蹴りを真似しようとしているアイリーンに近づいていった。

「提案なんだけど今日の夕飯は外食にしないかい?」

「お外?」

「そう。ちょっと皆に紹介したいお店があるんだ」

「楽しそうね!」

子供のようにテンションが上がるアイリーンを見てなんだか出会った頃の面影を見た気がした。


戦争がもたらす物は惨禍だけではない。

皮肉にも戦争を目的に高められた技術は戦後になると日常生活や文明そのものを向上させ、その様子を一変させる。

その一つに鉄道があった。

膨大な物資を前線や他地域へ輸送するためにアレキは開戦に先立ち、領土内に編み目のように巡らせた鉄道網を敷設した。

アイリーンたちの最寄り町であるシュテーフィンはルリアに近い事もあり前線に物資や兵士を供給するため新たに線路が敷かれ、重要な補給基地として整備された。

ルリア全土でゲリラ蜂起が起こった時も迅速な物量確保を行えたのは鉄道の存在があったからだ。

シュテーフィンからエスティーブルクまでは汽車で40分ほど。

ユメ一人なら気ままに浮遊して移動できるが他はそうはいかない。

そのため今回は見物がてらついでに乗ってみようと言う話になったのだった。

皆こうした文明の進化に触れるのは初めてである。

「ただの片田舎だったのにこの町も大きく変わっていくなぁ」

日々発展していくシュテーフィンを前にナーティーが呟いた。

「そういえばナーティーはここの出身?」(ユメ)

「そうだね。私は流行病で両親を早くに亡くしてから帝都トルリンの親戚の元で育った。でも成人してからはこの町に戻って何かと働いた後に自分の店を構えたよ」

「昔やっていたお店はこの辺りじゃなかったかしら?」(アイリーン)

「まぁ戦争前に閉めたっきりになったけど鉄道敷地にするための土地買収に売ったよ」

「あの頃が懐かしいわね。ナーティーの料理は本当に感動したわ」

「ありがとうございます。我が主」

駅前に着くとぽぉーというけたたましい音が響いた。

黒煙を吐きながら一台の汽車がプラットホームに滑り込んでくる。

「あれが汽車というやつかしら!」

黒光りする蒸気機関車を前にアイリーンがはしゃぐ。

「想像していたよりも随分な物ねぇ」

花円が関心したように呟いた。

「ラルちゃん。今から私たちあれに乗ってお出かけするのよ」

アイリーンに抱っこされたラルはぎこちなくではあるがにこりと微笑んだ。

「あ!ねぇ見てラルが!ラルが笑ったわ!可愛い!!初めて笑ってくれたわよ!」


背広がピシッと決まった駅員に切符を切ってもらい、改札を抜けてプラットホームに立つ。

プラットホームは乗り降りする人でごった返していた。

「はぐれないでね皆」(アイリーン)

「エスティーブルク行きは3番線だね」(ユメ)

目当ての汽車に乗り込むと意外と人は少なかった。

「良かった。落ち着けそう」(アイリーン)

やがて出発の時刻となる。

駅員の笛とぱっと振り下ろされた赤旗を合図に汽車が発車を告げる警笛を鳴らしゆっくりと動き出し始めた。

そしてどんどんスピードを上げていく。

アイリーンはラルと外を覗き込んでテンションが上がりまくっている。

「すごいわねラルちゃん!」

次々と後方へ去って行く景色を眺めながら親子は心を近づけていった。

エスティーブルク規模の町をこの親子は初めて見た。

駅から出るなり石造りの見事な町並みを前に思わず呆然としてしまう。

旧都が醸し出す威厳ある風格は時が立っても変わる事なく、訪れた者を今でも魅了させるだけの物がある。

「凄い。何もかも大きいわ」

呆けた顔でアイリーンが立ち止まってしまう。

「ほら行くよー」

道案内のため先を行くユメはもう歩き出していた。

「待ちなさいよー」

「ラル様、お手を」

ラトゥがはぐれないようアイリーンと繋いでいる手と反対側のラルの手を握った。

大通りをしばらく歩いた後、小道に入った。

「こっちが近道なんだ」

建物の間に挟まれた道ではあるが洒落たタイルの床や外灯など細かな所まで歴史を感じさせる。

「ラルちゃん疲れてない?」

歩くスピードが遅くなったと感じたアイリーンはラルを抱っこした。

「ユメーまだなの?ラルがお疲れよ」

「もう少しだよ」

そうしていくつかの路地を抜けて再び通りに出た。

「ここさ」

三階建ての小柄な建物の前でユメが立ち止まった。

「お洒落ねぇ」(花円)

「店主がちょっと変わり者だけどまぁ見過ごしてくれれば良いよ」

そう言ってユメはドアを開けた。

「あーらやだ、ユメちゃんじゃないのお!」

「今日は家族を連れてきたよ」

「え、本当!気になるわぁ」

ジン・ペーはいつもの調子だった。

遅れてアイリーンたちが店内に入る。

「紹介するよ。こっちが一家の主で娘のアイリーン。この子がその娘で私の孫のラル」

「こんばんは」

「まぁお二人とも可愛いわねぇ。今日は来てくれてありがとう。こんな小さい店でごめんなさいねぇ」

「この二人はメイドのラトゥとナーティーだよ。家の事をやってくれてる」

「なぁにユメちんのお家ってお金持ちなの!?」

「ははっそういう分けでもないんだけどね」

店に一つだけあるテーブル席を占領し皆が席についた。

「来てくれて本当嬉しいわ!私何でも作っちゃうわよ!」

「それは楽しみね!」

「ここのお料理は何がメインなのかしら?」

アイリーンに負けず食い意地の張っている花円が問うた。

「そうねぇ。元々バーでもあり喫茶店でもありメニューになくてもなんでも作れるわよぉ」

「お酒かぁ最近飲んでなかったなぁ」

「あら花円って飲むの?」

「飲めない事もないわ。そういえばアイリーンはどうなのかしら」

「私……ユメ、私ってお酒飲んだことあったかしら」

「私が知ってる限りではないと思うよ。デビューしてみる?」

「気にはなるわ」

「まぁ最初だから少なめにね」

各々が料理を注文しジン・ペーが厨房に消えていく。

「ユメはあの店主と知り合いなの?」

ジン・ペーが最初に来た時に置いていったピーナッツ菓子をつまみながら花円が問う。

「何度か来た事あるね。いつか皆も連れてこようと思ってんだ」

「しかしあの店主、さっき言ってた通り変わり者ね」

「オカマってやつじゃないか?」(ナーティー)

「オカマ?」(アイリーン)

「男性だけど女性のように振る舞う人の事だよ」(ナーティー)

「オカマねぇ」(花円)

アイリーンはピーナッツ菓子をラルの口元に運んでみた。

ラルはしげしげと見つめた後に口にする。

「食べた!」

「ラルの食べれる物が一つ増えたかな?覚えておかないとね」(ナーティー)

「美味しい?」

アイリーンの問いには答えずラルは自分で次を口に運んだ。

「これも食べて良いわよ」

アイリーンは自分の分も差し出した。

談笑を続けているとジン・ペーがカートに積んだ料理を運んでくる。

「お待たせー。フィッシュアンドチップスよ」

それを皮切りに肉料理やワインがテーブルに並べられていった。

「後来てないのは何かあったかしら」

「すいませんアイスクリームって頼めますか?」

「あるけど今持ってくるの?」

「えぇ、この子好き嫌いが多くて。あはは…」

「ダメよ。何でも食べなきゃ。バニラで良かったかしら?」

「お願いします」

ジン・ペーが去った後、アイリーンがふとラルを見るといつの間にかスプーンを持ってスープに突っ込んでいた。

「欲しいの?熱いわよ」

ラルのスプーンを取り上げてすくったスープを冷ます。

「はい。あーん」

飲み込むとラルは満足げにアイリーンを見た。

「これは何のスープかしら」

「コンポタージュだけど色々入ってるね。中々オリジナルだ」(ナーティー)

「このワインも絶品ね。名前覚えておかなきゃ!」

花円は早くも飲んでいた。

皆それぞれ自分の料理を食べ始める。

「このフライも味がちゃんと染みこんでて良いな。調理法を聞きたいぐらいだ」(ナーティー)

「ラルもいつになく食べてくれるわ」

「なんか悔しいなぁ。ラルちゃん私の料理は嫌いかい?」(ナーティー)

「恐らくナーティーの料理が問題と言うよりラルが少しずつ私たちに心を開いてくれていってるんじゃないかな。外へ出たことで気持ちも上がってるし」(ユメ)

「ナーティーの料理でも麵は結構食べるじゃない」

「あれがこれがというより成長を考えて色々食べて欲しいんだけどなぁ」(ナーティー)

「お待たせ」

ジン・ペーが持ってきたのはソフトクリーム状になっていた。

それを見てラルが持っていたスプーンを手放し盛られた更に手を伸ばす。

「焦らないの。もうラルったら」


ジン・ペーがカウンターに戻ると席では全身黒服に身を包んだ一人の男が飲んでいた。

「今日は珍しく忙しそうだな」

「珍しくは無いわよ。ランチは大繁盛、まあ夜は貴方の思っている通りだけどね」

ポンペイオサファイアという綺麗な水色の瓶に入ったジンとコーラを1体1で割っている。

「それいっその事一つの商品にしちゃおうかしら。前から売れそうだと思ってて」

「ふん、発明者の俺に著作料が来るのなら」

「えー、良いじゃないのよぉ」

男は自分でサファイアコーラと名付けているカクテルを一気に飲み干した。

「で、だな」

「ええ」

「例の件はどうなったか知ってるか。あの野郎、金に困って事もあろうに[あの組織]に手を出したぞ」

「え、ばっかじゃないの?」

「ったく。元々が阿呆のくせに起業なんてしやがるからだ。そもそも事業内容すら違法行為だったじゃないか」

「結局潰しちゃったのよねぇ。いやドゥーチェが潰したんだな。うん」

お皿を拭きながらジン・ペーが心底呆れたように呟く。

「何しても墓穴を掘る愚か者の極みだよ」


黒服の男の名は長村和景。

ジン・ペーとは子供の頃からの仲である。

ドゥーチェもこの二人とは同様に付き合いの深い人物の一人だ。

この辺りでは名の知れた楽器製作の職人である。

しかし元より常識を無視する風変わりな性格もあって多方面に顔が利く人物だった。

かつての戦争の際には自作の武器弾薬を和景の手で非合法に売りさばいてまとまった金を手に入れた裏の顔を持つ。

ドゥーチェは元々一人で工房を構えている身ではあったが、その資金を元にドリームトラベルマン商会という名で工房運営を組織化した。

頭文字を取ってDTM商会と呼ばれていた。

内部構成は長村和景、ジン・ペー、そしてヤンスとエーフという男たちも加わった5人だ。

和景は販売先との取引、ジン・ペーは商会内の実務、ヤンスは店番でエーフが雑用のアルバイトだった。

最初の頃は中々言いスタートを切ったと思っていた。

一度は降伏したルリア王国がゲリラ戦で1年にも及ぶ抵抗を続けたためドゥーチェが秘密裏に行っていた武器弾薬は作れば作るほど売れた。

それにドゥーチェが作ったこの武器弾薬の類いは何もアレキのためだけではない。

裏取引で抵抗を続けるルリアの国民たちの間にも流れていた。

いわば死の商人を演じていたのである。

そのため資金は豊富にあったのだ。

しかし時が立つにつれてエーフが待遇について不満を言い出すようになる。

だが楽器制作のスキルがある訳ではなく、醜男のため表に立たせる分けにもいかなかった。

そのため取引の場に連れて行く分けにも行かず、何かと周りからは都合良く扱われている節があった。

そもそもはドゥーチェの知り合いでしかなかった身でDTM商会を作るとなった時に半ば強引に働かせてくれと頼み込んで来た経緯もあって下働きとして扱われていた。

そんなエーフを何かとかばっていたのがヤンスである。

日頃からエーフの愚痴を聞いていたヤンスはDTMの代表であるドゥーチェに待遇改善を求めていたが聞き届けられなかった。

そうしてDTMの中がギクシャクし出した頃、事件が起こる。

DTMの金庫を管理していたのはジン・ペーであったがエーフは夜中に工房へ忍び込んで金庫を破り、中にあった資金を全て持ち出して行方をくらませたのである。

金庫のダイヤル暗号はジン・ペーしか知り得なかったはずだったのだがどうしてエーフはこれを解けたのか。

それは日頃から嫌われていたヤンスの性格にある。

3重のハネと1から99までのダイヤル状を鍵として構成される暗号の組み合わせは100万通りを越える。

ジン・ペーはそれを1ヶ月事に暗号の数字を変えていた。

しかしいつからかその様子を眺めていたヤンスはある時その3桁の数字の暗号を触らずに解いてしまった事がある。

いわくジン・ペーの手の動きを目で追って100万通りの組み合わせを暗算しただけ、君は動きが分かりやすい、番人たるものもっと自覚を持てとは言うがこの件でドゥーチェやジン・ペーからはかなり嫌われた。

元々防犯上のために1ヶ月事に暗号を変えようと言ったのはヤンスでもあった。

こうして普段から知識自慢が癖であったヤンスであるが、今回ばかりはその変態とも呼べる暗号解読にドゥーチェたちは呆れもし恐れもしたのだ。

そうしていく内にヤンスの話相手は自然とエーフになった。

エーフは他の二人とは違いヤンスのそうした才能を大げさなまでに褒め称えた。

そしてエーフは事件を起こす少し前にヤンスを飲みに誘い出し、煽てるだけ煽てるとその月の暗号をヤンスから聞き出す事に成功したのだ。

和景はこの時、武器の販売でルリアに赴いていて長らく工房にはいなかった。

そうした中で起きた事件である。

エーフは元よりダイヤルの暗号を漏らしたヤンスに対しドゥーチェとジン・ペーは激怒。

ヤンスを追放の処分とした。

失意したヤンスは最初ルリアから帰国途中だった和景の元に助けを求めた。

和景の大体の日程は知っている。

そしていつも行きつけのバーで飲んで帰ってくる事も。

ヤンスは先回りしてそのバーの周辺で和景を待った。

事情を知らない和景は取り敢えず自分の所に匿ったが、すぐに事の顛末を知る事となり追い出した。

行き先を失ったヤンスはエーフを探そうとするがエーフは後日、エスティーブルグの郊外で何者かに殺害された無残な状態で発見された。

どうも資金を奪うに辺りそそのかした人物がいたようだが、その人物に金だけ持ってかれて殺されたようだった。

こうしてヤンスは路頭に迷う事になる。

結果、自ら起業しようと思い至りその資金を求めてある組織から多額の借金をした。

公爵事、フランデル・メシュトゥーンである。

フランデルは先の戦争においてアレキの大王、アレキメッシュサンダー1世に多額の資金提供をした功績で勝利に導いたとして公爵の爵位と広大な領地を授けられた。

戦後はアレキの大蔵大臣に任命されている。

しかしドゥーチェたちは自分たちが非合法の売買を行っている事もあってフランデルの正体をそれとなく聞き及んでいた。

そのためフランデルの組織にだけは関わらないという方針でいたのである。

顔が広い和景は人づてでヤンスの動向を探っていたが先日、フランデルの所から多額の借金をして起業したと聞いた。

しかも起業と言ってもドゥーチェが制作する楽器の転売を行っているとの話だ。

ドゥーチェはヤンスを捕まえようとしたが、ヤンスに手を出せば後ろ盾となっているフランデルの一味を敵に回す事になる。

渋々目を瞑ってはいたもののしばらくしてヤンスの起業が失敗した。

ドゥーチェが直接手を出さず裏で手を回して圧力をかけ転売出来ないようにしたのだ。

元々借りていた資金に倒産で背負った負債を加えてその額は途方もない物になった。

進退に困ったヤンスは全てを捨てて夜逃げしたが当然一味からは追われる身となる。

話では今は帝都トルリンにいると言う。

フランデルは大蔵大臣にこそなった物の、帝都ではまだ自分の勢力を広げ切れていなかった。

フランデルの一味がその幅をきかせているのはエスティーブルクや自分の領地であるバンレノンの一帯である。

「いつ死ぬかねぇ」

「さぁ私はもう興味がないわよ」

「賭けてみないか?」

「賭ける価値も見いだせないわね」

「違いないな」

この事件を受けてジン・ペーは金庫を守れなかった責任を取る形でDTMを辞めた。

ドゥーチェは罪に問わないとしたが、ジン・ペーはこれを断り自分で店を開いて今に至る。

DTMはこうして事実上解散し今はドゥーチェが組織化以前の状態で一人自分の工房で楽器製作を続けているのだった。


アイリーンたちは食事を終えた後、ユメの提案でジン・ペーが販売する魔道具の類いを見せて貰った。

基本的な魔導書から最近流行のアイテムまで。

色んな物が品揃えてあった。

「これは何かしら」

アイリーンが気になったのは一件何の変哲もない白い手袋である。

しかし細かなレースの刺繍が施されていて美しい。

「アイちゃんは魔術師の類いなのかしら?」

「まぁその血はあるんだけど自分でも良く分からなくて」

「その手袋はめてご覧なさい」

言われるがままに両手にはめてみる。

「その手袋はね。はめられた手のサイズに自然と合うようになってるの。それで本来の目的は自分の魔力調整が出来るのよ」

「なんだか面白そうですね」

使い道がいまいち掴めなかったがアイリーンはこの手袋を購入する事にした。

「ここって楽器の類いも売ってるの?」

棚に置かれたいくつかのヴァイオリンを見てユメが問うた。

「あらユメちん興味がおあり?」

「一応弾けるからね。この世界でも同じものがあるとは思ってなかったからさ、興味って言われると、構造が気になるところだね」

ジン・ペーはカウンターの引き出しからカタログを取り出す。

「実は私の知り合いが職人なのよ。その関係でそこから仕入れてるわ。他にも種類があるわよ」

ジン・ペーから渡されたカタログをペラペラと開いていたがある所でユメが手を止めた。

「ハープ?」

横で見ていた花円がおもむろに覗き込む。

「懐かしいなぁ最近は弾いてないけどまぁ得意だよ」

「ユメちんって何かと幅が広いわよね。何歳なのよ」

「乙女の秘密」

「もし興味があるなら紹介するわよ?」

「うーん」

「ユメのハープ聞いて見たいわ」(アイリーン)

「私も気になる」(花円)

「今ならお値段の方、私が話しつけていてあげるわよ」

ウィンクしながらジン・ペーがすかさず煽ってくる。

どうにも商売上手なようだ。

「そうだなぁ子育ても一段落したし自分の時間にするのも良いのかも」

「そうよ。そうよ。最近ユメちんお疲れだったじゃない」

「え?」(アイリーン)

「こら、余計な事を言ってくれるな。うーんよし。今度その工房を訪ねてみるよ。場所はどこ?」

「クレッチモンドよ」

「クレッチモンドってどこなの?」(アイリーン)

「この町から東へ行ったトルリンに近い所ですね」(ラトゥ)

「ねぇユメ、買ってしまいなさいよ。お金なら」(アイリーン)

「大丈夫。自分で買うよ。マスター、工房の住所教えて」

「はいはーい。そこのドゥーチェって奴には私から連絡しとくわね」


店を後にし駅を目指して家路に着く。

ラルはいつもより多く食べ楽しそうだった。

今は眠ってしまいアイリーンがおんぶしている。

シュテーフィンを目指す汽車の中でアイリーンはユメに問うた。

「クレッチモンドにはいつ行くの?」

「まだ何も考えてないよ」

「善は急げって言うじゃない。それに」

「それに?」

「私今までユメにお世話になりっぱなしだったから何か恩返しがしたいの。ハープの代金はやっぱり私が出すわ」

「またどういう気の回し? まぁでも……嫌ではない、かな」

「それにトルリンって所に近いんでしょ?そこって今日行った所より大きいのよね?」

「この国の帝都です」(ラトゥ)

「私やっぱりまだまだ知らない世界の方が多いのよね。今日だって何もかもが新しい世界だったわ。トルリンを見てみたい。それにラルには広い視野を持って欲しいの」

「ふうむ。次はトルリン見物か、まぁ良いんじゃないかな」

「じゃあ今週末にしましょうよ」

一行を乗せた汽車はやがてシュテーフィン駅に到着する。

帰りの足を見つけるべくラトゥが馬車を探しに行った。

「ラルは私がおぶろうか?」

ナーティーが気を利かせてアイリーンに問う。

「ありがとう。でも大丈夫よ」


暖かい。

この人をお母さんと呼んで良いのだろうか。

今はこの人しかいない。

周りの人はいつも遊んでくれる。

今日のご飯美味しかったなぁ。


「よぉ調子はどうだい」

和景がクレッチモンドにあるドゥーチェの工房を訪ねた。

「おぉ久しぶり。まぁぼちぼちやってるよ」

ドゥーチェは床掃除をしている所だった。

「相変わらず死の商人ですかね」

「つっ、今はやってない。どこも戦争してないし。それに実際売りさばいていたのは君だろ」

「ふん。仰る通りで」

「最近ヤンスの事は聞いているのか?」

「さぁな。ただこの町で目撃情報があった」

「えぇ…まさかそれを探りに来たのか?」

「それもあるが純粋にお前さんの顔を見に来ただけさ。もしかしてヤンスの野郎、ここへ来るんじゃないか?」

「いやいやいや来たら今度こそ射殺してやるよ。何があっても僕は許さないからな」

「その方がヤンスのためでもあるかもしれないな」


流石にシュテーフィンからクレッチモンドは遠かった。

ユメはアイリーンとラル、ラトゥを従えてクレッチモンドを目指していた。

汽車を途中で乗り換えなければいけないのもあり目当ての工房に着いた頃には日が傾いていた。

町の中心部にある煉瓦の塔が目印だ。

「すいませーん」(ユメ)

「あ、お客さんだ。いらっしゃいませー」

「どうもです。私ユメと言います。先日ジン・ぺーさんの方からこちらを紹介されまして」

「あぁ貴女がユメさんですか。お話は伺っておりますよ。私は店主をやってます。お気軽にドゥーチェ(頭領)と呼んでください。」

ドゥーチェは手を差し出しユメと握手を交わす。

「こっちは娘のアイリーンとその娘のラル」

「私はラトゥと申します」

「ご丁寧にありがとうございます。今日は楽器の下見でしたっけ。なんでもハープがご所望とか」

「えぇ。久しぶりに新品を購入しようかなって」

「うちは完全オーダーメイドです。ご注文を受けてから製作に取りかかります」

「それはある意味話が早いかも。私のサイズにあったのが良いんですよね。出来るだけ軽いのが」

「ふむふむ。まぁおかけください。あ、長村悪いんだけど表の看板を〔閉店〕にしといてくれないか」

「あいよ」

「あ、やっぱりもうそんな時間でしたか。すいません」

「いや、閉店時間はいつも気まぐれです。個人相手の商売ですから集中するために閉めた事にするだけですよ」

「そうですか。それでですねハープの素材とかー」

ユメは店主と話し込み始めた。

今日はラトゥに小切手を入れたアタッシュケースを持たせてある。

そのためラトゥはユメの横で話を聞いていた。


アイリーンは工房の中を見学してみる。

既に形をなしたヴァイオリンがずらりと壁一面に並んでいるがまだ塗装はされていなかった。

「楽器ねぇ。私は触った事ないからなぁ。ラルちゃんはやってみたい?」

思わず品々に見入っていてラルから目を離していた。

ラルに話を振ろうとしてふと横を見るとその姿が見えない。

「あれ?」

慌てて周囲を見回すと反対側の壁際に散らばっていた加工されて端材となった木片を触っていた。

積み木か何かだと思っているらしい。

「こーら。触っちゃダメでしょ」

アイリーンに怒られると思ったのか、ラルは持っていた木片をぽいっと放り投げた。

放り投げられた木片は看板を〔閉店〕に切り替えて店の中に戻ってきた和景の前に飛んでいく。

「痛っ」

木片は和景の帽子の鍔に当たって床に落ちる。

「あ、あぁ!すいません!うちの子が」

アイリーンは謝ろうとして慌てて和景の方に向かおうとしたが何かに滑って倒れかかった。

「きゃっ!」

「おっと。大丈夫ですか」

和景の方へ前のめりに倒れ込んだが和景がそれを受け止めた。

「あ、あのなんというか。もう色々とそ、その!ごめんなさい!!」

アイリーンは混乱し赤面しながら腰を90度に曲げて謝罪する。

「あ、しまった!さっきニスをそこにぶちまけた所だったんだ!」

様子を伺ったドゥーチェがはっと我に返って叫び自分の頭を叩く。

「片付けとけよボケ」

「違うんだって、やってたら君が来たんじゃないか」

「そういや床拭いてたな」

「大丈夫かいアイリーン」(ユメ)

「え、あぁうん。どうしよう…」

「いえいえお気になさらず。お怪我はないですか」

「はい…」

そう言って和景の顔を見直したアイリーンはそれまで感じた事のない何かがふと心の中に沸いた気がした。


どうにもならない。

あれやこれやといつも考えてはいるのだがどうにもならない。

四方が塞がれている状態だ。

なんでこんな事になったのやら。

考え込み過ぎてさっきまで吸っていた水煙草の味も忘れてしまった。

いつも考えるだけでなく行動しろとドゥーチェたちに言われてきた。

だが行動した結果がこれである。

いつも斜め上の場所に着地するのだ。

追われる羽目になってしまい逃亡を続けているがいつまで持つか。

取り敢えず居場所がない。

まずはドゥーチェに謝ろうと思った。

私が漏らした情報でエーフが金庫を開けたのは事実だが何も追い出しまでしなくとも良かったではないか。

エーフが死んでからもしばらく立つ。

ドゥーチェとの仲だ、今なら気も変わっているかもしれないと思った。

取り敢えず様子を伺おうと数日前からクレッチモンドにやってきた。

だがどういう顔で合えば良いか考えている内に時間だけが過ぎていった。

そして今日、ついに重い腰を上げたヤンスは引きずるような足取りで闇夜に紛れてドゥーチェの工房を目指した。

すぐそこまで来た時である。

工房の中から人が出てきた。

慌てて物陰に隠れる。

店から漏れる光で確認出来たのは緑を基調としたカラフルな服装の小柄な少女に続いて子供を連れた背の高い黒服の女性。

最後にアタッシュケースを持ったメイドが出てきた。

思わずずれた眼鏡を調整して凝視する。

中身は現金だろうか。

ヤンスはフランデルの一味から借りた金を返せずに追われている身だ。

それならばまず金を手に入れるしかない。

自分の中でも葛藤はあった。

だが逃亡生活を続けるのにも疲れてしまった。

金を返せば一味が全てをチャラにするかどうかは分からない。

借金をなくせばドゥーチェの所に戻っていけるだろうか。

しかしまずは目の前の案件を片付けなければならないのは確かだ。

工房から遠ざかっていく女性たちを見ている内にどんどん黒い感情がヤンスの中で芽生えていった。

女性しかいないのにあのように堂々とアタッシュケースを運んでいるのは不自然ではないだろうか。

そう思いもしたがヤンスは女性たちを尾行した。

やがて女性たちはクレッチモンド駅に入っていきトルリン方面行きの急行列車に乗車した。

しめた!トルリンなら自分の庭のような物だ。

ヤンスは女性たちを見逃さない位置に席を取り、今後の策を必死で練った。

クレッチモンドからトルリンの間には二駅あるがこの汽車は急行。

トルリンは終点のため女性たちは確実にそこで降りる事が明白である。

問題はその後だ。

この汽車がトルリンに到着するのは21時前ぐらい。

そこからどこへ向かうのか。

恐らくだが女の足でそう遠くへは行かないと予想した。

駅周辺のホテルか身内などの家に泊まるだろうと。

だが馬車に乗られてはやっかいだ。

自分もそれに続く足が必要となってしまう。

取り敢えず狙うのはアタッシュケースだ。

不用心かつ堂々と持っている事が間違いであったと思って貰うしかない。

ヤンスはピストルに弾を装填しておいた。

熟考している間に汽車はトルリン駅のホームへ滑り込んだ。


時間という事もあり駅内には人影がまばらであった。

女性たちは車内で切符を切って駅の外へ出た所で立ち止まる。

アッタシュケースを持っていたのはメイドだったが、カラフル少女に預けるとそこから離れていった。

あれは辻馬車を探しに行ったのだろう。

焦りを押さえつつ目線をずらさないようにしていたが、ふと目に入った駅員室の扉が開いていた。

そして手の届く範囲の壁に外套が掛けられていた。

幸い駅員は見える範囲にはいない。

ヤンスはそれを盗んで身にまとうと女性たちに近づいた。

自分を偽っている事への動悸で目の前にいる女性たちのとの距離が異様に遠く感じられた。

出来るだけ自然な形を意識し、意を決して話しかける。

「失礼、馬車をお待ちですか?」

「あ、はい」(アイリーン)

「少し離れた所にあります。案内しましょう」

「ちょうど良かったね。ラトゥを呼びに行ってくるよ」(ユメ)

カラフル少女がアッタッシュケースを地面に置いて掛けていった。

残るは子供をおんぶした黒服の女性だけだ。

ヤンスは忍ばせていたピストルを取り出し、女性の足を目がけて発砲した。

殺すつもりは最初からなかった。

後を追ってさえ来なければ良い。

パーンと乾いた音が響く。

女性は何が起きたかも分からず崩れ落ちる。

ヤンスはアタッシュケースを持ったが思いのほか軽い。

そこでふと我に返った。

どうしてこれに現金が入っていると思ったのか。

急に焦燥感が沸いてきた。

ヤンスは仕方なく床に転がり落ちた幼子を抱えてその場から逃走した。

自分でもどうしてそうしたのかその時はそこまで考えている余裕がなかった。

この町は中心部にある王宮の周りを同心円状に道が張り巡らされている。

ヤンスは持ち前の記憶力でこうした町の地形と通りを全て脳裏に刻み込んでいた。

追っ手を撒くため出来るだけ遠回りして隠れ家を目指さなければならない。


「…!」

御者がすっと何かをこっちに向けたかと思うと破裂音と共に右足の太ももに焼けるような痛みが走った。

アイリーンは前のめりに崩れ落ちた。

おんぶしていたラルはアイリーンが両手を離した事で真下に落ちた。

痛い!何が起こったかは分からない。

取り敢えず痛い!苦しい!

おんぶしていた両手を離して足を押さえる。

穴の開いたスカートから血が滲んで湧き水のように流れ出す。

状況が理解出来ず地面にうずくまってしまう。

アイリーンが悶絶している間に御者は一度アタッシュケースに手を伸ばそうとしたものの、ふいにラルの首根っこを掴んでたぐり寄せると走り出した。

「ああっ!」

声にならない声を上げ片手を伸ばしたがそれ以上体が動かなかった。


トルリンの駅から少し行った所にアレキ一の歓楽街「ゴールドハーバー」がある。

和景はその中の一つのキャバレーで両手に花を抱えて豪遊していた。

しかしただ単に遊んでいた分けではない。

女性の体に手を回して雑談に浸りながらも目線はずっと同じ人物を追っていた。

追っている男の名はB・M・アムウェールという。

細身の体に紺色のスーツを着こなし、同じ色の帽子を被りステッキを持っていかにも紳士前といった出で立ちだが柔和に浮かぶ微笑など顔からして胡散臭い。

この男はトルリンの片隅で宝石商を営んでいる。

しかしこの男が販売しているのはどれもガラスを丁寧に小細工した偽物ばかりだ。

いわばペテン師である。

今も富豪と商談をしているようだったが口だけが良く回るタイプの輩だった。

やがてアムウェールと富豪たちはすっと立ち上がり握手を交わすと退店の準備を始める。

「悪いなぁ。今日はお開きだ」

もたれかかっていた女性たちを無理矢理払いのける。

「えー。もう1本ぐらい行けるでしょう?」

「そうよそうよ。まだこれからよ」

「用事があるんだ。また来るよ。ほらお釣りはお前らで好きにしろ」

無造作にポケットから掴んだ札束を机に置いて足早に席を立った。

女性たちはもう和景など眼中になく奇声を上げて札の奪い合いをしている。

なぜアムウェールを追っているのか。

それはこの男がヤンスと組んでヴァイオリンの転売を中心的に行っていた人物だからだ。

これは最近掴んだ情報だった。

商売慣れした口先でドゥーチェが作ったヴァイオリンの銘柄だけ変えて売りさばいていたのだ。

先日ドゥーチェの所を訪れてこの男の事を伝えるとドゥーチェはただ一言

「殺せ」

とだけ命じてきた。

DTM商会の汚れ役は大体和景の仕事になっている。

まぁDTMという存在も今はないに等しいのだが。

店を出たアムウェールは歓楽街の人混みを抜けて人通りの少ない町並みに向かっていく。

代わる代わるに迫ってくる客引きたちを振り払い、尾行する和景はいつでも殺れるように愛用のワルサーを忍ばせていた。

問題はどこで殺るかだ。

人目につかないのは勿論の事、遺体も処理しないといけないので道端で襲うのはナンセンスだ。

アムウェールは一人暮らしと調べがついている。

室内で殺して何らかの物に押し込み、どこかに遺棄するつもりだった。

しかししばらく追ってからある違和感に気がついた。

どうも自宅である宝石店には向かってないらしい。

まぁ次にどこへ向かうかなど本人にしか知り得ない事ではあるが。

和景も通った事がない寂しい路地裏に入っていく。

このまま追ってもチャンスは来ないだろうか。

今日は引き上げるべきかと示準していた時、とあるアパートの前でアムウェールが立ち止まった。

アムウェールが一定の間を開けてドアを4回ノックすると棍棒のような太い腕が内側からドアを開けた。

次なる商談だろうか。

すぐに出てくる可能性もあると考えて仕方なく身を潜め、様子を伺う事10分ほど経過した頃。

静まりかえった空気を切るように突然バタバタとけたたましい足音がやってきた。

物陰から覗き見ていると息を切らして走ってきたのはなんとヤンスではないか。

しかもはっきりとは見えないが何かを抱えている。

月明かりが僅かに照らしたその姿は人の手足のようだった。

「子供・・?まさか、次は何を始めるつもりだ」

ヤンスはアムウェールが入っていったアパートのドアを乱暴に開けて室内に消えていった。

偶然にもヤンスの隠れ家を知る事となり今宵の暗殺計画は色々と変わってしまった。

今アムウェールを殺ろうにも室内に複数人いる事は明白。

「どうしたものかねぇ…」

一人ごちて遠巻きにアパートを見つめる。

ひとまずここの住所を把握しなければいけない。

物陰から出て何か表札でも出ていないかと探そうとした時だった。

「な、なんだ……?」

明らかな異様な気配にこの場が、いや……この街が静寂に覆われていた。

無音の中に肌がひりつくような感覚。誰かに見られているようなおぞましさが一瞬にして体の自由を奪った。

「ミツケタ……」

女の声。

それに、どこかで聞いたことのある声だった。

自分の心臓の音だけが無駄に大きく聞こる。今まで普通に出来ていた筈の呼吸の仕方が分からなくなり、体中からは嫌な汗が噴き出してくる。

何かが近付いてくる、首も動かせずただ視線だけしか動かせないでいると、声の主である女がやがて暗闇から姿を現した。


(アイリーン負傷前)

辻馬車を探しにいったラトゥを追ってしばらく歩いたが姿が見当たらない。

が、馬車は見えた。

ラトゥは馬が牽引している車の横に立っていた。

「どうしたの?」

「あぁユメ様。御者は見つけたのですが眠ってしまっていまして」

車には外套を毛布代わりにした御者とおぼしき男が椅子に座って眠っていた。

「それなら大丈夫だよ。ちょうど別の御者と話がついたんだ」

「左様でしたか。なら安心ですね」

「早く戻ろう」

二人が歩を並べて歩き出した時、パーンと乾いた音が響いた。

「っ!?」

「銃声…? ――っつ!!」

言うと同時に二人は駆け出す。

どうかアイリーンとは無関係であって欲しいと思いながら。

しかし駅前についた時、その願いは無残にも砕けた。

足から血を流したアイリーンが倒れている。

同時に銃声を聞いたとおぼしき駅員がホームから走り寄ってきた。

「アイリーン様!」

ユメは目の前の状況にショックを受けながらも整理して冷静に務める。

少しずつ頭が冴えていく。

アイリーンが不死身であるという事が分かっているので怪我の処置も去る事ながら他の事にも気を回せたのだ。

まず一瞬しかその姿を見ていなかったが話しかけてきた御者がいない事に気がついた。

そしてふと冷たい物が背中をよぎった。

ラルがいないのだ。

周囲を見渡すが御者もラルも見当たらない。

「あ、あう…」

荒い息をするアイリーンが何かを言おうと必死に口を動かす。

「大丈夫。君は死なないんだから。今は痛いけど傷もすぐ直るさ。だから落ち着いて」

「あの、御者が。御者に撃たれたの」

「そうだね。それしか考えられない。所でラルは?」

「え?…」

その一言で混乱状態のアイリーンはラルがいない事を再認識した。

「え、え?ラル…ラルちゃん!」

本能的に起き上がろうとするがアイリーンはもうパニック状態だ。

足の痛みで我に返り少し浮かせた体はまた崩れ落ちた。

「大丈夫落ち着いて、ラルは私が絶対取り戻すから。それで、御者はどっちに行ったか覚えている?」

アイリーンは弱々しく震える手で向かって左手を示す。

「ラトゥ……後は頼んだよ……」

ユメは一瞬で霊体化するとアイリーンの示した方へ去って行った。

「取り敢えずこちらへ!」

駅員とラトゥがアイリーンの両脇を支え駅員室へと運んでいった。


後ろ髪を引かれる思いでアイリーンの元を去ったは良いが、さて肝心の標的をどう見つけたものか。

感覚を研ぎ澄まして半径1キロ圏内の生命体を感知してみる。

しかしここは大都会の帝都。

一歩大通りへ出れば人だかりがあり、屋内にも無数の人々が存在している。

ここまでノイズが酷いと感知機能は当てにならないばかりか元々御者の顔とてはっきりとは覚えていない。

アイリーンの示した方向に突進してきたものの一度頭を冷やすため上空で立ち止まった。

「あ~~~~~~~……」

冷静になろうとすればするほど苛立ちが募ってくる。

その時ふと脳内にあるアイデアが浮かんだ。

匂いだ。

ラルの匂いを追えば良い。

幼子特有のあの柔らかい匂いだ。

幸いにも普段食している動物の嗅覚をコピー出来ているので人間の何倍も優れた動物の嗅覚機能を使う事が出来る。

普段使わないので自分でも忘れていた所だ。

それに匂いで思い出した。

あの御者がふいに現れた時、独特な香りがしたのだ。

煙草か何かだろうか。

ユメは頭の中と全神経をその二つの匂いだけに集中させて目を閉じた。

微かではあるがラルの匂いを感じた気がした。

まだ遠くへは行っていないと感じた。

だがこれだけの都会だと流石のユメもすぐ見失ってしまいそうだ


ユメは闇の中へと姿を消し、この街と同化し始めた。

深く、深く、細部までこの街の全てを感じ取れるように街と同化していく間に、一つだけ妙な影を補足した。

人通りの多い道を選ばずに、誰の目にも止まらない路地裏を縦横に走っている。

ほんの少しだけその妙な影へと意識を集中させると、見えてきたもう一つの小さな影。

肩に担がれた子供の影にユメは確信へと変わる。

――ミツケタ

御者をどうやって始末してやろうか。

ただでは死なせない。

街の輪郭まで同化したところで、御者の動きが変わり、建物の中に入る所まで確認する。

市街地まで出ることは無いだろうと思い、御者が入った建物から五km圏内と同化した。

建物の中には大人が四人と子供が一人。周りの建物からは人の気配がなく、これならこの一帯を崩壊させても大丈夫かと思っていると、御者が入った建物の外に一つの影を感知した。

これだと、被害が増えてしまうのでどこかに行ってほしいのだが……

ああ、それかこのまま消してしまおうか?

案外同じ仲間かもしれないし、うんそうだねそうしよう。

体を再構築しながらユメは外にいた男の元へと歩き出す。

中にいる仲間だったら殺す。仲間でなかったら丁重に引き取ってもらおうとするが、簡単に脅かす程度で問題は無いだろう。

「……ん?」

この男、どこかで見たことがある?

そして頭の中である記憶が蘇る。

それは向こうも同じようだったが記憶力は相手の方が上だったようだ。

「貴女は…ユメさん、でしたよね?」

「そうだけど。どこかでお会いしたでしょうか」

「先日、ドゥーチェの工房で一度。魔の類いのお方であるとは伺っておりましたがいやはやなんとも」

「あぁ、あの時の……再開を喜びたい所ですが、急いでいるのでそれではこれにて」

「あ、待ってください!」

ユメは扉に手を触れようとしたところで静止の声を掛けられ、軽くイラついた表情を和景へと向ける。

「なんですか?」

一つでも言葉を間違えれば一瞬で殺される、今まで対峙してきたことのないタイプの魔物に和景は冷静さを保とうと必死で言葉を手繰り寄せる。

「私は人を探していましてね。ここにいると突き止めた所でして」

「うん」

「中にいるのは犯罪者です。もし、見間違いでなければ、小さな子供を連れ込んでいるのを見ましたが……もしかして?」

「あぁ、うん。そのまさかの事態が起こりましてね。ラルが誘拐されました」

ユメはぴしっと扉を示す。

「誘拐!?あのヤンスが…」

「……知り合いですか?」

「ええ……私も探していた男です。元は同郷の者ですが。しかしあの小心者のヤンスが誘拐……」

「理由はどうあれ誘拐したのは事実だし、早くラルを取り戻します」

「ご協力しましょう」

「それはどうも」

「と、言いたい所ですがこれは少々話が複雑になりそうです」

「複雑?」

「ヤンスが誘拐に至った原因は分かりません。ですがあいつは今借金を理由にある組織から追われている身です」

黒服の男はそこで一度言葉を切った。

そしてしばし考えたようだったが次の言葉を紡いだ。

「貴女も名前はご存じかもしれませんがその組織のドンはフランデル・メシュトゥーン。……この国の大蔵大臣ですよ」

「うわ……」

ユメはまさかここで久方ぶりにその名を聞くとは思わず、状況も忘れて絶句してしまった。


走りに走って隠れ家に辿り着く。

忘れぬうちに内側から鍵をかけて初めて落ち着く事が出来た。

呼吸が乱れまくり肺は悲鳴を上げる。

小脇に鞄のように抱えていた子供を床に置いた。

その子が初めて女の子だと認識した。

女の子は泣くでもなくぼーっとヤンスを見つめている。

「俺は何がしたかったんだ…」

唐突にこの数時間の自分の行いに対して謎の後悔が込み上げてきて鬱になる。

いつもこうだ。

あぁいつだってそうなのだ。

やんぬるかな。

ヤンスは力が抜けるようにその場にへたり込んだ。

室内から一回り大きな体格をした男がやってくる。

「騒々しいな。帰ってきたのか」

ヤンスには答える気力がない。

そして大男が傍らにちょこんと座っている子供に気がつく。

「っ!なんだこのガキはよぉ」

その声を聞いて今度は大男と服装こそ似ている物の今度は子供ほどの身長しかない小男がやってきた。

「なんだなんだ。…どういう状況だよこれ」

「…客人だ。丁重に持てなせ」

ヤンスはよろよろと立ち上がるとキッチンのテーブル席にドサリと座り込み、集点を失った目で天井を仰ぎ見た。

「何があったか説明しろってんだよ。あぁ?」

大男は短気だ。

力はあるが頭が悪い。

対してその大男とバディになっているのがチビでネズミのようにすばしっこく、ずる賢さが取り柄の小男である。

この二人はかつてドゥーチェの金庫を破ったエーフとつるんでいたゴロツキ連中である。

ヤンスは二人の問いかけには答えず、この騒ぎに目もくれないで部屋の隅に置かれたテーブルで宝石もといガラスを熱心に加工しているアムウェールに話しかけた。

「やぁ。来ていたのか」

「今しがた着いた所です」

アムウェールは手元から目を離さずに素っ気なく答えた。


「フランデル…。そいつの事は嫌というほど知っているよ。あぁ本当に。大蔵大臣になったと聞いた時は国事滅ぼしてやろうかと思ったさ」

ユメは自分でもどこから出したか分からない殺意の籠もった声で喋る。

「子供さんは確かに取り返さなければ行けません。ですが今ヤンスにふっかけるのはフランデルとも揉める事になります。ひいてはこの国と」

「うん」

「信じてはくれないでしょうがヤンスは虫一匹殺せない臆病なやつです。長年やつを知っているが今回のような事は実にイレギュラーだ」

「うん、それで?」

ユメは募る苛立ちを剥き出しにしている。

「もしかしてですがヤンスは子供さんを担保に貴女方へ身代金を請求するつもりかもしれません。何せ金に困った身ですからね」

「だから?」

「今室内には複数の人間がいます。ここで乱闘を起こせばそれこそ子供さんが危ない」

「うん、知ってる」

ユメはそう言ってイライラを男へとぶつけるように首元を締め上げる。

「がっ……はぁ……」

「知ってるよ、この場所に四人の人間がいるってこと、無作為に突入すればラルの命が危ないってこと。そして、君がそれを誰に向かって言っているのかってこと」

「それ……なら」

「だって私、君の手を借りなくてもラルを奪還出来るし、なんなら今すぐこの街ごと消してしまっても良いけど……あ、そうだ」

ユメは男から手を放して解放してやる。咳き込んでいた男の顔を覗き込むと、先ほどまで浮かべていた憎悪の顔ではなく、にんまりと無邪気さの仮面を被った笑みを浮かべていた。

「ならさ? 君が考えてよ。この状況を何とかする方法」

「え……?」

「だって、私は今、この瞬間、直ぐに何とかする方法が出来るけど、君はそれを止めたんだ。だから、やってくれるよね?」

「え、あ……それは」

ぞぶりと気味の悪い音。

男の視線の先にはユメの腕が自分の体を貫通していという事実だけ。

しかし、その手先には血が垂れていないが、体の中に大きな異物が入り込んだことは分かっていた。

「ドクンドクン、うん、脈が速くなったね。怖い? 死ぬのが怖い?」

心臓を鷲掴みにされている。ただその事態に男はユメの恐ろしさを痛感した。

こんなことが出来るやつに声を掛けたこと。

自分というちっぽけな存在が強大な力を持ったモノに歯向かったこと。

「わ……分かった。俺が全部やる」

「うん、よろしい」

そう言ってユメは何事もなかったかのように手を取り出した。

「それなら君に依頼するね。ラルを助けるという事。あ、ちなみに条件なんだけど、私を使ってもいいよ。ただ、私が君の計画した作戦が失敗に終わるなって思ったら私は私の意志で動きます」

「あぁ」

「それは失敗という事で君を殺すね」

男は何も言わずただ静かに頷いて肯定し、二人は扉の前から少し離れたところに移動する。

「まずは貴女が出来ることを教えてほしい」

「なんでも出来るよ? なんならこの世界の全てを滅ぼすことだって出来るよ?」

「……ユメさん。貴女は風になれると表現して良いか分かりませんが最高速度で移動して何キロぐらいでますか?」

「さぁね。人間世界の単位なんて私には当てはまらないよ。でも夜明けまでにリッチモンドぐらいには着けるんじゃないかな。知らんけど」

「汽車よりも充分速い、か。ユメさん、子供さんは私が必ず救いだします。貴女はそのスピードをいかしてリッチモンドのドゥーチェの所に事の顛末を告げてください。あいつならフランデルの介入を阻止できる可能性がある。ヤンスたちは私が責任を持って見張っています。元々このチンピラたちを追ってここにいる身です」

「なるほど、分かった。そういう作戦で行くってことね?」

「はい」

ユメは自分の孫が危険な状態だというのに、この状況を楽しむかのように口角を吊り上げる。

「名前はなんだっけ」

「長村です。和景と呼んでくださっても」

ユメは手のひらに黒いモヤのような球体を召喚し和景に投げた。

「それは私の分身みたいなものだよ。それに話しかければ応じるから。それじゃあね」

楽しそうにそう告げると思い出したように和景に目を向ける。

「君の物語、しっかりと楽しませてもらうね?」

ユメはそう告げて闇の中へと姿をくらませた。


しかし目指したのはリッチモンドではなくアイリーンの所だった。

トルリン駅に着くと人混みが出来ている。

警察だろう。

それに騒ぎを聞きつけた野次馬。

ユメはわざと野次馬の中に突っ込んで着地した。

周囲にいた20人ほどが無残にもはじき飛ばされる。

疲れた顔をしたラトゥが駅員室の前に立っていた。

「ユメ様」

「アイリーンの様子はどうだい」

「私が医術も心得ていれば良かったのですが。弾は来てくれた医者が取り出してくれました。最低限の傷口は私の魔力で防げたのですが至近距離で撃たれたので足の骨が砕けてしまっています。治癒には時間が必要かと」

「私がすぐ手当出来てれば良かったんだけどね…」

最悪の報告を受けてユメは一層腹が立った。

命に別状がない事は保証されているとはいえアイリーンが傷つけられた事が許せない。

ユメの顔は無表情だが目には爛々と怒りと殺意が滲んでいる。

しかし、あの長村にすべてを任せたのだ。私はただ傍観者としての立ち位置として振舞わなければならない。

「帰るよ」

「よろしいのですか」

「ここにいても仕方がない。アイリーンを連れてリッチモンドに向かう」

「かしこまりました」

ユメがラルを連れて帰ってくると思っていたばかりに流石のラトゥも困惑を隠しきれないがそこはメイド。

余計な事は聞かず命令には忠実だった。

最初に駆けつけてくれた駅員と看病していた医者に礼を言うとユメはラトゥと眠っているアイリーンを気泡に包み、暴風となってドゥーチェの店を目指す。


店の扉を叩いたのはお日様が昇る直前だった。

「すいません。急用です。開けてください!」

ユメが乱暴に表の戸を叩いた。

眠ったままのアイリーンはラトゥがお姫様だっこしている。

何度かしている内に店の奥から髪がぐしゃぐしゃのままのドゥーチェが現れる。

「はあい。ったく誰だよこんな時間に。なんか約束してたっけ」

「おはようございます。すいません突然に」

「ええと、貴女はユメさんだよね。ハープはまだ出来てないよ」

「はい。でも今はハープのお話じゃありません。長村という男を知っていますね?」

「長村」

ユメの口からその名前が出ると思っていなかったのだろう。

ドゥーチェは寝ぼけて薄め目だった眼を見開いた。

「取り敢えず中へ」

「ありがとうございます」


「で、金を奪い損ねて変わりに持ってきたそのガキをどうするんだよ」

ユメが和景の元を離れた頃、ヤンスのアパート内では論争が行っていた。

「仕方がないだろう。私も子供をさらう気はなかったんだ!」(ヤンス)

「…取り敢えず、今は目の前の事について議論すべきでは?言い争っていても始まりません」

大男とヤンスの怒鳴りあいをアムウェールが押しとどめる。

「その女共は本当に金持ちなんですかね」(小男)

「さぁな。ただ身なりは整っていたしメイドを連れて歩いているんだ。それなりの身分だろう」

「手元にある内はなんとか使えませんかなぁ」(小男)

「例えば?」

「単純にですよ。そいつらに身代金を要求するなんてどうです?要求額は公爵に借りている額と同等にしてしまえば」

ウシシ、と小男が意地悪く笑う。

こいつは面白ければ何でも良いのだ。

今のも嘲りである。

「公爵でしたらぁ」

アムウェールが間延びした口調で割って入った。

「いっその事その子供を差し出すのはどうでしょう。公爵の裏の顔はご存じのはず。子供を担保に借金のチャラも非現実ではありますまい」

「ううむ」

「お前はそうやっていつも考えてばかりだ。行動する時には運ってものがあるぜい」(大男)

「脳筋は黙ってろ」

「あああん?」

大男が鼻息荒くヤンスの顔に詰め寄った。

「だからそこ揉めない」

アムウェールはやれやれと首を振る。

協議の結果、公爵に直談判して失敗した後に身代金を要求する作戦を行う事にした。

その間ラルはトルリンではなく、アムウェールが隣町に所有する宝石店に置いておく事になり、ヤンスはトルリンの官庁街にあるフランデルの屋敷に訪れる算段だ。


暖かい背中がない。

お母さんじゃない。

こいつらは嫌いだ。

またあの音がする。

怖い。怖い。怖い。


深淵に沈むラルの精神がラルから言葉を奪ってしまっている。


「だー、あの大馬鹿野郎!」

ユメから事のいきさつを聞いたドゥーチェはノミを力一杯振りかざし作業台に突き刺した。

「何考えてるんだ。やはり殺しておくべきだった!」

ふうぅと一息ついてユメを振り返った。

今は行動すべき時だ。

「お話は分かりました。トルリンの刑事に知り合いがいるので手は回しますがこの件は長村に任せた方が良いでしょう。穏便に済ませるためにも。とにかくフランデルが厄介だ。あーもう!あいつとだけは関わりたくなかったのに!!」

ドゥーチェはユメたちにというより自分に対して叫んでいる。

いや、ここにいないヤンスに向かって言っているのか。

ドゥーチェとはまだ関わりの薄いユメには判断がつかなかった。

「まずはどうなされるのですか?」

「私とユメさんでトルリンに向かいましょう。アイリーンさんはラトゥさんに見てもらうって事で。この家は自由に使ってくれて構いません。そうだ!用心棒にジン・ペーをここへ呼ぼう!そうしようそうしよう」

「トルリンに行くのは良いのですが私は日が昇ると霊体化してしまいます」

日が差し込む工房の中でラトゥの影を依り代にして形を保っていたユメは半透明になった自分の手を上げた。

「あー、うーん。じゃあトルリンには取り敢えず僕が向かって和景と合流します。ジン・ぺーに電報を出さないとな」

「呼びに行く事は出来ますよ。霊体化した私をジン・ぺーさんが捉えてくれるなら」

「そうなの?ま、取り敢えず行ってくれるならありがたい。トルリンへはその後に」

「ではそのように」

ユメは忘れない内に、と和景に渡したテレパシー球体をドゥーチェに渡した。

和景の時もそうだったがこのドゥーチェもすんなりとその異質の存在を受け入れて疑問を持たないのが不思議ではあった。

が、何にせよ話が早いのはありがたい。

逐一その仕組みを聞かれても答える気はなれないという物だ。

ユメが消え、ドゥーチェが慌ただしく身支度を調える。

「あー今日は店閉めないとなぁ全く」

「…よろしければ店番は私がしましょうか?」

ラトゥが申し出た。

「え?悪いよ」

「いえ、こちらもお世話になる身ですからそのぐらいの事は。キッチンをお借りしても?」

「あぁうん好きに使って。じゃあ頼もうかな。もしむかつく客が来たら「くたばれ馬鹿野郎」って笑顔で言ってくれれば良いから。店も適当な時間に開けてくれれば良い」

「左様ですか」

「よし、こんな所かな。始発の汽車はまだ2時間後なんだよね。そんだけあるなら自転車で行った方が早い」

弦を外した弓と矢を布に巻き、ドゥーチェはそう言って店を出る。

「じゃあよろしくね!」

前輪が異様に大きく後輪がこれまた異様に小さい自転車に跨がるとドゥーチェは颯爽と大通りの坂を下っていった。

ドゥーチェが去った後にキッチンに入ったラトゥは愕然とした。

天井からぶら下がった手つかずの干し肉が数枚あるにはあるがダイニングには食べかけのパンとサラダが転がったまま。

恐らく昨夜の残しだろう。

他もどれも中途半端な物でまとまった食材が見つけられない。

部屋の隅にまとめてはあるが空になったワイン瓶の山がかなりの面積を占領していた。

どういう食生活をしているのか想像がつかなかったのと、アイリーンの朝食を作ってあげられないと悟ったラトゥはパタンと扉を閉めると今自分が置かれている状況に一人悪態をついた。

「くたばれ馬鹿野郎」


和景は寝ずの番をしてアパートの入り口を監視していた。

長屋になっているアパートの入り口は各部屋に一つだけ。

他から出入りする事はないだろう。

それに和景にはもう一つの算段があった。

ヤンスは何事も手をつけるのが遅い。

朝の時間も家を出るのでさえ人をいくらでも待たせるやつだ。

そのため和景ものんびりと扉だけを見張っていられたのだ。

日が昇って寒さが和らいだ頃、ユメから預けられた球体が振動した。

「おっと…どうするんだったかなこれ」

「…きー…聞こえますか?…」

「あぁなんとか。ユメさんかい?」

「…はい。そちらは……どのような…」

「これもう少し音を大きく出来ないかね?」

「そちらの様子は!」

「ふぁ!?あぁ、ああ。大丈夫聞こえた」

「遠慮して小声にしていただけです。このぐらいの音量が良いのですか」

「助かる。扉を見張っているがこちらに変化はない。あいつは、ヤンスは動くのが遅いんだ」

「私は今ジン・ぺーさんの所に向かっています。そちらにはドゥーチェさんが」

「そうかい。まぁあいつが来るなら話は早いな。てかなんでジン・ぺーを?」

「工房に残してきたアイリーンさんの用心棒にと」

「なるほど。まぁあいつなら断るまい」

「ドゥーチェさんにもその球体を渡してあります。いずれ連絡が来るかと」

「了解した」

「ふふ……ごめんね、巻き込んでしまって」

「良いって事よ。私もやつらとは方をつけないといけなくてね」

「まぁそちらの事情は聞かないで置きます」

「そうしてくれ」

「ではこれで」

和景はとんとんと球体とつっついて見たがユメの声はしなくなった。

不思議な物だとは思いつつまぁそんな物かぐらいに受け取った。

そうこうしている内にアパートの扉が開いた。

昨夜からずっといる物陰から様子を伺う。

出てきたのはラルを連れたアムウェールとヤンスだ。

アムウェールは和景から見て左手にヤンスは右手に進んでいった。

何を考えているかは分からないが今はラルの奪還が最優先である。

幸いにもヤンスが向かった先の方が早くに通りへ出る。

ヤンスが視界から消えたのを確認しアムウェールの後を追った。

ここからワルサーで撃つのはたやすいが銃声で部屋の中から郎党が出てきては面倒。

しかし郎党が来ない距離を測っていればアムウェールは通りに出てしまう。

ここでは仕留めず密かにアムウェールを尾行した。

まだ朝の早い時間。

道行く人はまばらである。

アムウェールは身なりだけはきちんとしているせいでラルを連れて歩いていても違和感がない。

やがて正面から毛並みの良い馬二頭が並んで走ってきた。

牽引する車は4人乗りの大型である。

アムウェールはその馬車を止めた。

和景は小走りし発車する前に呼び止めた。

「相席をお願いしても?」

「私はレットン街まで行きますが」

座ったアムウェールはねめつけるように和景を見る。

「大丈夫だ。それまでに降りる」(和景)

半ば強引に乗り込むと馬車内で向かい合って座った。

下手に意識しないよう和景は帽子を目深に被り腕組みをして様子を見る。

奇妙なお客たちを運ぶ車輪がゴトゴトと石畳の道を進んでいく。

レットン街とはまた結構な距離だ。

どこへ連れていくつもりだろうか。


ユメのスピードであってもクレッチモンドからエスティーブルクは遠い。

それに昨夜からの何やかんやで疲れてしまった。

長旅をしている間に少しずつ頭が冷静になる。

どうして面識の浅い和景たちを信用したのか自分でも不思議ではあった。

だが自分の知らない所で複雑化していた話に自分たちが不幸にも触れてしまったのだ。

そして何よりあのフランデルの名前をここで聞くとは思っていなかった。

1年前にフランデルを殺し損ねた事を後悔した。

ラルは…。ラルは本当に取り戻せるのか。

和景たちが失敗した場合、ユメが殺す人数が増えてしまう。

汽車でも半日かかる足取り、お昼前に『フルム』の前に着いた。

ジン・ペーが店の前にあるメニュー表の黒板に「本日のランチ」を書き混んでいる。

今の時間帯、ユメは一番力を失ってしまう。

影たる存在に太陽が一番高い所にいる時間は天敵なのだ。

開け放たれた扉から中に入り、一番影の濃いカウンター裏で半透明ながら具現化した。

呼吸を整えながら小休憩する。

やがて鼻歌を歌いながらジン・ペーが店内に戻ってくる。

「お邪魔してるよマスター」

「うわっと!え?え?な何。え?ユメちん?」

芸人のようにオーバーなリアクションをしながらも消えそうなユメをジン・ペーが捉えた。

「どうしたのさ」

「話すと長いけど火急の用事なんだ。ドゥーチェからの伝言でクレッチモンドに来て欲しい」

「ドゥーチェから?一体なんなのよ。でもただ事ではなさそうね」

「ラルが誘拐されたんだ。それも君たちの知り合いに」

いつもはオカマながらも可愛げのあるジン・ペーの目が急にトーンを落とした。

「私たちの、知り合い?」

「ヤンスって言えば分かるかな」

ジン・ペーは拳を振り上げるとカウンターを叩きつけた。

人間の力とは思えない威力でカウンターが凹む。

「ヤンスがラルちん、を…?」

「そうなんだ。今トルリンで和景とドゥーチェが対処してくれてる。でも色々と変なのが絡んじゃってね。アイリーンも怪我してるんだ。私はトルリンに行かないと行けないからリッチモンドにいるアイリーンを見てやってくれないか?」

「行こうか」

「ありがとう。じゃあ後はお願いね」

そうしてユメは霊体化した。

ジン・ペーは先ほど書き込んでいた表の看板にある「今日のランチ」を-人肉ミンチのハンバーグ-に変えてから汽車に乗るべく駅を目指した。


目を覚ますと体が気怠い。

ここはどこだろうか。

ふと見やるとラトゥがこちらを覗き込んでいる。

「起きられましたか」

「ラトゥ…私、っ!」

足に激痛が走った。

そうだ、私撃たれて。

ラトゥが乱れて目に掛かっているアイリーンの髪をどけながら優しく説明する。

「アイリーン様。どうかお気を確かに。ラル様はユメさまたちが連れて帰ってきます。今は遠くにいるのでまだ時間が掛かりますが」

「ラルは…。ラルちゃんは無事なの?」

「えぇ。誘拐犯はユメ様がもう始末されました。もうすぐ会えますよ」

「そう…良かった」

アイリーンは気が抜けたようにもう一度目を閉じるとまた寝息を立て始めた。

主に嘘をついたのはこれが初めてである。

だが嘘も方便という。

今ここで正直に話してもアイリーンに負荷が掛かるだけだ。

アイリーンの様子を見ながらではあったがなんとか干し肉を解体してアイリーンがいつでも食事をとれるようにはしてある。

心苦しいながらもアイリーンを見届けるとラトゥは工房のドアを解錠し看板を〔開店〕に変えた。

後は人形のようにカウンターに立つ。

しかし工房内もキッチンに負けず劣らず散らかり放題である。

先日ラルが木片を投げた所もあの時のままだ。

「ラル様…」

ラトゥは普段は滅多に感情を表に出さないがこの時ほど悲しげな顔をした事は初めてであっただろう。

そういえばアイリーン様はあの時…。

すっ転んで男性に助けられた時のアイリーン様の顔はなんとも言えない表情であった。

あれはまるで…。

まさかと思いながらそれは本人の意思だとあれこれ示準する。

そんな事などつゆ知らず工房のドアが勢いよく開けられた。

「よろしいかしら」

入ってきたのは赤いドレスもどきのワンピースを着た女性だ。

雰囲気こそ大人びているが、よく見ればそれが顔にまだ幼さの残る未成年である事が窺える。

「いらっしゃいませ」

「私何度も店前を通ったのよ。ここは10時開店じゃないの?」

女性は苛立ちを隠そうともしなかったが、言われて気がついたラトゥは今日初めて時計を確認した。

既に11時を過ぎている。

「申し訳ありません。店主はただいま急用で出かけておりまして。何かとばたついておりました」

「そーいえば貴女見ない顔ね。ドゥーチェのやついつの間に使用人を雇ったのかしら」

「店主不在のため私には伝言をお聞きする事しか出来ませんがご用件はどのような」

「私はアクヴィラ。もう3ヶ月も前からヴァイオリンの修理を頼んでるの。今日はその受け取りに来たわ」

「大変申し訳ありませんが私にはアクヴィラ様のヴァイオリンが把握出来ておりません。なので今お渡しする事は-」

「はぁ!?何よそれ。訴訟よ訴訟よ。客を舐めてるにもほどがあるわ!!まさかまだ修理が終わってないなんて言うんじゃないでしょうね!?引き取るまで私は帰らないわよ!」

「くたばれ馬鹿野郎」


和景は時折ラルの様子を盗み見ながら次の手を考えた。

ラルはこちらの視線に気がついているかのように見る度に目があう。

いや、ずっとこちらを見ていると言っても過言ではない。

そういえば私はいつもこの服だ。

子供とはいえこの出で立ちでは記憶に残りやすかっただろうか。

終始無言のまま車輪と馬の足音だけが響いた。

次第にアムウェールの視線を感じるようになる。

いつ降りるのかと言いたいのだろう。

レットン街にも近づきつつある。

その時、ポケットの球体が振動した。

アムウェールの前で見せて良いか迷ったが下手に隠しては挙動不審。

堂々と取り出し受け取った。

「誰かね」

「ドゥーチェだ。トルリンの1番通りに着いた。あー疲れた。僕自転車だよ」

「ご苦労さん」

「で、ラルって子はどこに」

和景はアムウェールの顔を凝視してわざと大声で答えた。

「そうだ。ラルだ。可愛い可愛いラルちゃんはお家に返してあげないといけない」

アムウェールの顔が凍り付く。

「今すぐ止めろ!」

アムウェールの甲高い声で馬車が急停止した。

アムウェールはラルの腕を掴もうとしたが和景が長い足を伸ばしアムウェールの腹部を蹴った。

「ぐふ!」

間を置かずに和景はアムウェールの首を片手で絞めワルサーを眉間に押しつける。

「抵抗しなければ撃ちはしない」

アムウェールはガタガタと歯を慣らしながらすぐに両手を挙げた。

「た、頼む。俺は、俺は無関係だ!撃たないでくれ」

アムウェールから視線を外さず和景が叫ぶ。

「御者!」

「な、なんでしょう」

「ここから一番近い交番へ行け。こいつは悪党だ」

「さ、左様で、ありますか」

状況が読めず困惑気味の御者だったが素直に従った。

「撃つ価値もない俗物だよ」

「な、なにが知りたいんだ。お前はこの子供の親か」

「その知り合いだ」

「取引しようじゃないか。この子供をさらった奴の事を全て教える。俺は協力させられてるだけなんだ」

和景は首を絞める力を強めた。

「う!ぐふぅ!」

「悪いがヤンスの事も知ってるしお前がガラスのおもちゃを売りさばいてる事も全部知ってるんだ。お前の情報に埃ほどの価値もないよ」

アムウェールが絶望の表情を浮かべた。

諦めに支配されて全身の力が抜けたようだ。

やがて交番の前に馬車が止まる。

「悪いが呼んできてくれないか御者さん」

御者はどっちが正しい人間なのかなど判別つくはずもない。

ただ目の前にある警察なら信用できると逃げるように交番に入っていった。

「俺が撃たずともお前は死刑だろうよ」

アムウェールにはもう抵抗する力さえ残っていないようだった。

やがて交番からピストルを構えた警官が出てきて叫ぶ。

「何をしている!銃を下ろせ!」

「こいつの名前はアムウェール!!名高き詐欺師にしてここにいる子供をさらった誘拐犯!こいつと子供の身柄を確保されたし!」

和景は声を張り上げてアムウェールの罪状を述べあげた。

「まずはお前が銃を降ろすんだ!」

やれやれと思いつつワルサーを地面に投げた。

その頃には新たに二人の警官が周りを囲んで和景にピストルを向けていた。

格上と思われる一人の警官が他の警官に指示を出す。

「全員捉えろ!話は中でだ」

和景はアムウェールの首からようやく手を離し、床に転がった球体を回収して馬車から降りた。

顔を真っ赤にしたアムウェールは酸素を求めて大きく息を吸いながら和景が座っていた所に崩れ落ちる。

ピストルを降ろした二人の警官がアムウェールを引っ立てた。

「ドゥーチェ」

「なんとなくは聞こえていたけど方がついたのかな」

「ペレスボー通りの交番に来てくれ。ラルは無事だ」

「また遠いな。あ、でもラルちゃんは無事なんだね!」

「何をしている!早く中に入れ!」

警官が和景とドゥーチェの会話を遮った。


早朝に公爵邸の門前に立ったヤンスは早速門番に訝しまれた。

「すいません。公爵様と関わりのあるヤンスと申します。どうかお取り次ぎ願えないでしょうか」

左右に一人ずついる門番はアレキの伝統的な武器として甲冑に鎧を身につけている。

一人がヤンスの背後に回って逃げ道を立つ。

これは万が一不審者だった場合の形式的な物だ。

その間にもう一人が小屋に控える使い番に屋敷内へ連絡するよう指示。

屋敷内へ入った使い番が戻ってくると門番が格子状の正門とは別に隅にある木戸を開けた。

ヤンスは使い番に連れられ屋敷内に入る。

一室に通されてコーヒーだけだされてまた待たされる。

ヤンスはうなだれながらコーヒーの湯気を見つめていた。

ほどなくして女性が現れた。

大人しそうな見た目とは裏腹に強く放たれる色気、太ももまで辿り着く長い黒髪。

服装はエクゾチックで同じようなデザインを他で見た事がない。

ソファに座るヤンスの向かい側までつかつかと歩くと女性は丁寧にお辞儀をした。

「公爵様の側用人をしております。ベラルーナです。公爵様はご多忙により現在お取り次ぎが出来ません。私が承りましょう」

「内容が内容ですので出来れば直接お会いしたかったのですが仕方ありませんね」

「ご公務のお話とは違うとお聞きしております。それなら私の担当管轄の話です。ご用件を」

「…実は公爵様にお借りしているお金の件で」

「誰にでも人は裏と表の顔がある。そうでしょう?ここの話は私と貴方だけしか知る事はない。素直にお話なさって」

ヤンスはベラルーナの意図が読めなくはなかったが思わず生唾を飲んだ。

ドゥーチェたちの所にいた時に公爵の話は大なり小なり聞いた事がある。

なんでも子供をさらっているとか多数の悪事の根源であるとか。

でも今ではこの国の大蔵大臣だ。

大臣としての仕事ぶりに悪評を聞いた事はない。

その面だけを見ているととても風の噂で聞くような話は信じられなかった。

「借金をなかった事にしてくれとは言いません。ですが私には既に返済不可能な額になっております。逃げた事は謝ります。故に今日は恐れながら提案を持ってきたのです。先日とある子供を手元に置きました。公爵様はその…子供が大変お好きなお方と聞き及んでおります。この子供を公爵様に献上する代わりといってはぶしつけではありますが、返済額のいくらかを相殺しては頂けないかと思いまして…」

「俗物が」

「!?」

「要件は取引か」

「身の程知らずとは知りながら何卒お考え頂きたく…」

「私からお伝えしておこう」

「ありがたき幸せでございます」

「今日の所はお引き取り願おうか」

「お返事はいつ頃…頂けるでしょうか」

「今日の今後のご予定は?」

「特には考えていなかったですが」

「公爵様に取り次げるまでお待ち頂いても?」

「可能です」

ベラルーナが退出し短い会談を終えたヤンスは冷や汗を吹きながら冷えたコーヒーを一口に飲み干した。

「あの女が」

人を鼻にかけるようなベラルーナの事はどうにも好きにはなれなかった。


「はぁぁあ!?何よその態度はあったま来たわ。私こう見えて魔女なのよまーじょ。もうこんな店私がその気になればどーにだって出来るのよ。良いの!?」

「くたばれ馬鹿野郎」


上層部に顔が利くドゥーチェが交番に来てくれたおかげで話は早く方が着いた。

ラルを警察に預けて次なる仕事をなすべく外へ出ようとした。

しかしそんな和景の服の裾をラルが引っ張った。

「ラルちゃん。もう心配する事はない。もうすぐお母さんと会えるぞ。ここで良い子にしてるんだ」

和景はしゃがんでラルの頭を撫でながら諭した。

「っと。ユメさんに連絡しないとな」

「あぁあの球体便利だよね。流石、人じゃないだけあるよ」

球体を取り出し呼びかけてみる。

「こちら和景。応答求めます」

「はい。ユメです」

「ラルさんは取り戻しました。トルリンのペレスボー通りに交番に預けてあります」

「本当ですか!?怪我とかもなく?」

「えぇ。無事ですよ」

「預けたって事はそちらは今どこに」

「私たちはまだ片付けなければいけない仕事があります。ユメさんは今どちらで」

「ジン・ペーさんの店を出てしばらく。まだクレッチモンドまでも遠いです」

「ラルさんの引き取り手はユメさんでよろしいでしょうか」

「えぇ。私がこのまま向かいます。本当にありがとうございました」

「ではまた後ほど」


「失礼いたします」

ヤンスとの会談を終えたベラルーナはそれから2時間後ぐらいではあったが取引の提案を大蔵大臣として働くフランデルに告げた。

「などと言っております公よ」

「……」

仕事中に使用するメガネを掛けて書類を注視するフランデルは答えない。

ベラルーナはフランデルの横に立って屈むとその頬を撫でる。

「何かご指示をくださいな公」

「私はその名前を知らん」

新たに手にした書類にサインをしながらフランデルは淡々と答える。

大臣に就任してからのフランデルは以前とは人が変わったように真面目に政務に取り組んでいた。

「そうでございましょう。俗物が金を借りたのは公そのものではなくて公の傘下にいるどこぞの悪党でしょうから」

フランデルは持っていた羽ペンをようやく手から離してペンスタンドに戻し一息ついた。

「しかし子供か。トルリンに来てからしばらく遊んでいなかったな」

「一度くらいバンレノンに戻られては良いじゃないですか」

フランデルは今自分がサインした書類をベラルーナに押し付けた。

「これは?」

「今アレキが総力をあげて取り組んでいる大艦隊計画だよ。新たにアレキメシャーア級新型戦艦4隻の建造申請に許可した所だ。予算の7割は私の出費だよ。私はまだまだここから動けんのだ」

「あらまぁ陛下はまた戦争をするおつもりですか?」

「前回のルリア戦で海軍の増強に迫られたからだろう。勝ったからこそいいものの今の戦艦は旧型ばかりであまりに貧弱だ」

「大変ですねぇ」

フランデルから離れたベラルーナはコーヒーを入れようとポットを手にした。

「そうだ!」

コーヒーを入れるのをやめ再びフランデルに詰め寄る。

「公はお忙しい身。この件私が引き受けても?」

「好きにするが良い」

「公が遊戯に集中出来るよう子供を引き取ってまいりますわ」

「コーヒーを入れてからにしてくれ」

ベラルーナはフランデルの許可を得てヤンスの元に戻るとこれを引き連れ自分が所有する馬車でレットン街にあるアムウェールの宝石店支店を目指した。

が、既にこの時護送が終わったと思っていたラルの身柄がここに届く事がない事などヤンスは知るよしがなかった。


「次はどうするの」(ドゥーチェ)

「ヤンスは朝どこかへ出かけた。アムウェールがそれと同時に出かけてラルをどこかに連れて行こうとしたのを追ったって事さ」

「なるほど」

「アジトの場所は分かってる。何人で組んでいたかは分からんが、他にもまだ郎党がいる」

「潰しに行く?」

「その武装があれば充分だろう」

「つっ、ただ最近射てないからなぁ」

そう言って昨夜アムウェールを追って辿り着いたアパートを目指す。

「そういえばユメさんとどこで合流したんだ?」

「私の目の前に現れたんだ」

「はい?」

「状況が分からないがユメの御一行は昨夜トルリンにいた所をヤンスに襲われた。ユメはラルをさらったヤンスを追ってきていた。するとそのヤンスは私がさっきの愚かなペテン師を追って辿り着いた所に駆け込んできたんだ」

「でもヤンスはなんでまた誘拐なんて大それた事を」

「それは知らん。だが犯した罪は償うべきだろう」

「まぁね」

軽い口調で断罪を語っているとアパート前に辿り着いた。

「ペテン師があのドアを4回ノックしていた。それが合図なのだろう」

「和景叩いてみてよ」

「お前は弓を構えていろ」

「はあい」

ドゥーチェは持っていた布巻きをくるくると解くと弓を立てて弦を張った。

持ってきている弓は6本。

「用意は良いか」

後は矢を放つだけとなったドゥーチェが軽く頷く。

和景はそれを見届けるとドアを一定の間を開けて4回ノックした。


アパート内では大男と小男が呑気にトランプに興じていた。

「あ、てめぇ今イカサマしただろ」

「何言ってるんだい。自分の計算ミスだろ。ウシシ」

「あーもうかったりぃ。やめだやめだ」

大男は自分の持っていた手札を全部放り投げてしまった。

いつもの事なので小男もゲームを放棄し床に散らばったカードを回収しにかかる。

「しかし子供を連れて行くのはアムウェール一人で良かったんですかね。今更ですが」(小男)

「目立たないように朝早く出てったんだろ」

「まぁあいつなら見てくれがしっかりしてるから疑われる事も少なそうではありますが」

「おかげで眠ぃわ。もう一眠りするかぁ」

その時、ふいにドアが4回ノックされた。

4回ノックはアムウェール、大男が3回ノック、小男が2回ノック、ノックなしがヤンスと決まっている。

「うん?アムウェール?なんで戻ってきたんだ」

大男がドアを開けるとその先にいたのは矢をこちらに構えた男が一人。


和景はドアが開くと壁に面する方向に隠れた。

間を置かずにドゥーチェが矢を放つが外れたようで室内に飛んでいった。

ドアを開けた人物は一瞬固まったようだったが

「なんだてめぇわ!」

と大声を張り上げ外に出ようとした。

そこを和景がドアを急に閉めて動きを妨害する。

しかし出てきた男は大柄で和景をドア事跳ね返しドゥーチェに向かっていった。

和景は大男の背中に飛びつき首に手を回そうとしたがすぐに振り払われ地面に落ちる。

その和景目がけて大男は殴りかかってきたが寸での所で横に転がった。

空ぶった拳は地面に当たったが石畳を砕いていた。

とんでもない馬鹿力である。

その間にドゥーチェが次の矢を構え放つ。

矢は肩に突き刺さったが大男はびくともしなかった。

「化け物かこいつ!」

ドゥーチェに矢で射られた大男はポケットに突っ込んであった空瓶を振り回しドゥーチェ目がけて突撃した。

その間にドゥーチェが次の矢をつがえている余裕は無く、弓を捨てて逃げ惑った。

「なんとかしてくれ!」

ドゥーチェが悲痛な叫びを上げてひらりひらりと大男の攻撃をかわす。

「やむなしか」

和景はワルサーを構えて大男に標準を定める。

「おい!デカブツ!!」

ドゥーチェを追い回す大男の足を止めるため和景は声を張り上げて叫んだ。

大男がこっちを見据える。

和景は帽子の鍔で軌道を定め、発砲した。

弾は真っ直ぐ大男の眉間を貫き、被っていた帽子が宙を舞った。

大男は声もなく倒れそれから動く事はなかった。


室内にいた小男は持っていたカードにあらぬ所から飛んできた矢が刺さり、そのまま壁に突き刺さったのを見て変事に気がついた。

しかし小男は気の弱い男である。

おじげついた彼は訪問者たちと戦う事なくそのすばしっこさを利用してリビングの窓から逃走した。玄関とは真反対であったためそれに気がつく者はいなかったのである。


ドン!とドゥーチェの工房のドアが荒々しく開けられた。

いつまでも拉致のない言い合いをしていたアクヴィラとラトゥがそちらを振り向く。

「邪魔するよ」

サングラスを掛けたジン・ペーがクレッチモンドに到着したのである。

「で、状況はどうなってるんだ」

ジン・ぺーはカウンターにいるラトゥに問うた。

「ごめんなさいね。まだ私の用事が終わってないの。後にしてくれないかしら?」

アクヴィラが眉根を釣り上げてジン・ぺーを睨み付ける。

「私も君に用はないんだお嬢さん」

「ちょ、何よそれ!私だって貴方なんて知らないわよ!」

ジン・ペーは背負っていた鞄を開けると持ってきたライフル銃を取り出しアクヴィラに突きつけた。

「静かにしてくれないか。私は今非常に苛立ってるんだ」

「ふん!私は魔女よ?そんな人間のおもちゃなんて意味ないわ!」

「所がどっこい。こいつの弾は特殊だ。魔力の装甲をも打ち砕く特別仕様でね。試してみるか?」

「や、やってみなさいよ!私はこれでもその昔「トンチキ魔女の死の波」にすら耐えた女よ?撃つなら撃ちなさいよ!」

ジン・ぺーは言われた通りに、と言わんばかりに容赦なくアクヴィラの頭を打ち抜いた。

室内に響き渡る銃声にラトゥがビクッとなる。

頭が半壊したアクヴィラはその場で斃れた。

肉片が周囲に飛び散りグロテスクな光景を作り出す。

ジン・ペーはそんな事などお構いなしに銃を降ろしてラトゥに向き合った。

「今はどういう状況だ」

「お怪我をなされたアイリーン様は奥で眠っておられます」

「ユメちんは今トルリンに向かっている。和景たちはラルちゃんを取り戻せたのかね」

「私の所には何も連絡がございませんので…」

「ふーむ。何をした物かね」

その時、ふと背後に人の気配を感じた。

ジン・ペーが振り向くと斃れていたアクヴィラの亡骸がすっと起き上がっている。

「なんだぁこいつは。ゾンビか?」

ジン・ペーは再び銃を構えたがそうこうしている間に飛び散った肉片が少しずつ元に戻って端正なアクヴィラの顔を再構築していく。

「っとにもー!痛かったじゃないの!!」

すっかり元に戻ったアクヴィラが金切り声で抗議した。

「お前はなんだ」

「私の名前はアクヴィラ。名高き吸血種一族の末裔にして全ての弱点を克服した最強の存在よ。少しは思い知ったかしら?」

ジン・ペーは動じる事なく、ため息をつくとやれやれと首を横に振る。

「ちょ、何よ!もう少し驚きなさいよ!私は不死身の存在なのよ!?今見たでしょ!?」

「悪いがそう言った類いの物は見慣れているんだ」

和景の報告を受けたユメは移動しながら心から安堵した。

長旅ばかりで疲労は計り知れない物があったがとにかく今はトルリンに急ぐしかない。


誰もいない。

お母さん。

お母さんはどこなの。

黒い人は良い人。

でもまた一人になっちゃった。

アイスが食べたい。


ユメが嫌う昼間の空を長距離移動してきたがトルリンについた頃には多少日が傾き始めていた。

が、今のユメはまだ影でしかない。

言われた交番を探し出しその付近に着地した。

降り立った場所は西日にさらされて出来たパラソルの日陰だった。

見ると菓子を売り歩く台車のパラソルだった。

ソフトクリームもある。

交番は既に視界に入っていた。

「すいません。ソフトクリーム1つお願いします」

どこからともなくすっと現れたユメに店員は驚きこそしたが問題なく売買を済ませる。

交番のドアが開いた時、中にいた警官は宙に浮いたソフトクリームが入ってきたため状況が理解出来ずにポカンと間抜けな顔をさらした。

しかしラルには浮いたソフトクリームの意味が分かる。

「ばぁば!」

「今の言葉、アイちゃんにも聞かせてあげたかったなぁ」

突如部屋の隅で具現化したユメに対し警官たちは右往左往したがドゥーチェが事前に話をつけていたのでなんとかなった。

「ごめんねラルちゃん。迎えにきたよ」

いつになくはしゃぐラルはユメが渡したソフトクリームをひったくった。

「全くこの子は。アイスに喜んでいるのか私に喜んでいるのか分からないな」

ユメは苦笑しつつも鼻にクリームをつけて夢中で食べるラルを見て安堵した。


レットン街についたヤンスは人気のない宝石店を見て首をかしげる事しか出来なかった。

「おかしいな。どこへ行ったんだ…」

ヤンスにはこの状況がどうしても理解出来なかった。

「俗物。子供はどこにいるんだ」

ベラルーナの冷ややかな声がヤンスを突き刺す。

周囲にいる何人かの男たちも物々しい視線をこちらへ投げていた。

「いや、あのここで落ち合う予定だったんですが」

ヤンスが説明に困っているとベラルーナがどこから取り出したのか長い鞭をしならせてヤンスの手をはじいた。

「っ!」

「お前、私たちをたぶらかしたんじゃないだろうね?」

「い、いえ!決してそんな事は!」

ベラルーナの氷のような冷ややかな目線におびえながらもヤンスは必死に弁明の言葉を探す。

しかしいよいよ場が持たないのではないかという空気になった時、小男が息を切らして走り寄ってきた。

「お、おい!兄貴」

「何があったんだ」

「分からない。だが何者かが隠れ家を襲ってきて」

「なんだと!?」

「矢だ。矢が飛んできたんだ」

「矢…?まさか…。所でアムウェールを見ていないか」

「アムウェールですかい?ここへ来てないんで?」

「いないから困っているんだ。公爵様は子供を引き取ってくださると仰せになった。こちらの方はその受取人だ」

「私は知りませんよ」

ヤンスはいくつかの状況証拠から導き出した仮説を打ち立てる。

が、これしか思いつかなかった。

矢を討ってくる輩などヤンスが知りうる限りではドゥーチェしかいない。

恐らく子供はドゥーチェたちがかっさらっていったのだろう。

「ちくしょー!」

「どうるんですかい」

「クレッチモンドだ!クレッチモンドに向かうぞ!今すぐに!!」

「はぁ?クレッチモンドだぁ?今から私にそんな所まで行けと言うのかい!」

キレたベラルーナがヤンスに鞭打つ。

「も、申し訳ありません。何かの手違いがあったようでして。しかしそこになら確実に子供がいると思われます」

ヤンスは泣きそうになりながら土下座した。

「私をそこまで行かせてもし子供がいなかったらどう落とし前つけるんだい。えぇ?」

気迫ある問いかけに対しヤンスはこれ以上答えられる気力がなかった。


ヤンスの隠れ家を首尾良く陥落せしめた和景とドゥーチェであったが隠れ家にはめぼしい物は見当たらなかった。

アムウェールは逮捕され、荒くれ者は討ち取り、ヤンスは行方知れずである。

ただもう1人この輪に加わっていた小男の存在をこの2人は知らないままであった事が次なる悲劇を生む事になってしまった。

「そろそろうちに戻らないか」

探索に飽きたドゥーチェが帰還を促してくる。

「そうだな。今頃ユメさん達も戻っている頃だろう。次の事を話し合おうじゃないか」

次の事とは無論、ラル誘拐事件の原因であるヤンスの後始末についてである。

ラルは奪還したとてまだ事は終わっていないのだ。

トルリン駅に戻ると入口付近の床に拭き切れてない生々しい赤い染みがまだ残されていた。

昨夜のアイリーン襲撃現場である。

「痛々しいな」(和景)

「本当ね。アイリーンさん少しは回復したかな」

プラットホームに立つと何やら周囲が騒がしい。

長い客車の後ろの方に規制線が張られ、人だかりが出来ている。

「なんだなんだ」(ドゥーチェ)

規制線の向こう側では駅員たちが忙しく動き回っているようだがここからでは遠くて見えない。

僅かに見えるのは最後尾に新たな客車を繋ごうとしているようだった。

「御用列車じゃないかあれ」(ドゥーチェ)

御用列車とは一般人の客車とは違う要人輸送に使われる専用車だ。

内装も外装も一品の装飾で飾られた気品ある物である。

「お国の偉いさんでも乗るんじゃないか」

なんとか背伸びして垣間見ようとするドゥーチェとは裏腹に和景はあまり興味を示さなかった。

しかし2人が客車に入ると同時に連結が完了した御用車両に搭乗したのは他ならぬヤンスを従えたベラルーナの一向だった。

そしてそんなトルリン駅上空を人知れず通過していったのが気泡に包んだラルを大事そうに抱えて飛んでいくユメである。

悲しいかな、全ての行き先は風靡な片田舎にして技術職人が集う町・クレッチモンドである。

慌ただしく整備された臨時の御用車両も準備が整い、本来の出発時間からはやや遅れて汽車が煙も勇ましく走り出していく。

「ほら、ラルちゃん。あれがこの前乗ってた機関車だよ」

宙に浮いても意外と怖がらなかったラルを抱えてユメは夕暮れの荒野をアイリーン目指して飛んでいく。


トルリンで一通りの方が着いた頃、クレッチモンドの工房は無駄に騒がしかった。

「で、お嬢ちゃんのヴァイオリンはどこにあるか分からないんだろ?」

「はい。私は受付をしているだけですので」

「だとよ。大人しく帰りな。今日は臨時休業だ。メイドもさんも無理して店やる事ないぜ」

「まぁその場の思いつきで引き受けてしまったのもありまして」

いつもはキリリとしているラトゥらしからぬ苦笑いで答える。

昨夜からの色々で流石のラトゥも情緒不安定だ。

「だーかーらー。明後日までに必要なんだってば!」

アクヴィラは依然として話しが噛み合いそうにない。

「全く。聞き分けのない嬢ちゃんだ」

「気安く嬢ちゃんだなんて呼ばないでくださる?私にはアクヴィラ・ドラクル・イルフネーゼ・フォン・コジナ・バートリーっていう列記とした名前があるの。少しは敬いなさい!」

「バートリー?そいつは確か2世紀も前にここらにいた名前じゃないか?」

「あら、徳生な事ね。その名前で反応してくれたのは貴方が久しぶりよ。そう。何を隠そう我が一族は-」

アクヴィラが得意げに祖先自慢を話そうとした時、ラトゥがふと背後を振り返る。

「アイリーン様!」

壁にもたれかかってではあるがアイリーンが工房の奥から姿を現した。

急いでラトゥが介助に入る。

「心配…かけたわね。ごめんね。皆」

「まだお休みになられていてください。ラル様たちはもうすぐ帰られます」

「なら母親である私がなおさら迎えてあげないといけないじゃない」

「アイリーン様、足の方は」

「多少はユメから教わった魔術回路の弄り方で直してみようと思ったんだけど。どうも上手くいかなくて。なんだか歩き方を忘れちゃったみたい」

「申し訳ありません。私が不出来なばかりに」

「良いのよ。貴女は悪くないわ。自分を責めないで」

椅子に一息ついたアイリーンはスカートを捲る。

痛々しい弾痕がまだ残されていた。

「怪我してるの?」

アクヴィラが覗き込む。

「貴女は?」

「あぁ私は通りすがりの魔女とでも認識してくだされば。ところで何の怪我かしら」

「ちょっとピストルで撃たれたんです…」

「ピストルね。それは一般的な物?」

「だと思いますが」

「医術の心得ならあるわ。失礼するわね」

そういってアイリーンのスカートを下からクルクルと巻いていく。

が、途中でジン・ペーの方を振り返り

「奥へ行きましょうか。私が見てあげる」

とジン・ペーをわざとらしく尻目にベッドのある部屋へと消えていった。

「覗きやしねぇよ!」

ジン・ペーはバツが悪そうに吐き捨ててふん、とふんぞり返った。


「貴女も魔女の類いよね?」

「えぇ。でも恥ずかしながら魔術の使い方をまだ心得てないんです」

「ふーん。確かに骨に支障を来たしてるけど今って感覚を消してる?」

「応急処置ですが。なんとか形になるように」

「全然なってないわ。傷口を防いでるのがやっとじゃない。これじゃ膿むわよ。それに感覚だけ消しても骨の方は全く触れてない。よくさっき歩けたわね」

アクヴィラは片手を開けて小瓶を取り出す。

緑色の液体が入った洒落た小瓶だ。

「全部飲み干して。味は気にしないで」

言われたとおりにしてみるがとてもおいしいとは言えなかった。

油のように舌に張り付く。

それを見届けるとアクヴィラはアイリーンの傷口に手を触れ念を込める。

ほのかに光を放ち、弾痕が少しづつ消えていく。

「凄い…」

「喋らないで。足に神経を集中して」

やがて太ももの中で何かがかき回されているような不思議な感覚を得てしばらく、アクヴィラが手を離した。

「さっき飲んで貰ったのは魔力を込めた外科用接着剤。骨は元に戻ったわ。でも数日安静にしてね」

「ありがとうございます。凄いお方ですね」

「これぐらい嗜んでおかなきゃダメよ。ただ貴女の魔術回路を今ちゃっかり除いたんだけど回路そのものはしっかりしてるじゃない。後は貴女がそれを引き出せていないだけ。自分の中にある魔術回路を意識できないんじゃない?」

「えぇ。仰るとおりです。どうしたら認知出来るのかが不思議で不思議で」

「あらこれって」

枕元にある白い手袋をアクヴィラが手に取る。

「先日買った物です。魔力の強化が出来ると聞いて」

「良い物持ってるじゃない。はめてごらんなさい」

スッと手袋を装着するアイリーン。

するとこれまでとは違いなにやら全身の血が騒ぐようだ。

「その手袋はね、はめるだけで全身の魔術回路を活性化させられるの。物としては初歩的だけど便利な道具よ」

「凄い。前はこんな事なかったのに…」

「それは私が今魔術回路を弄ったから視覚で体内の魔術回路を認知したんでしょうね。後は自分でコントロールするだけよ」

「何から何まで本当にありがとうございます」

「いいえ。お騒がせしてごめんなさいね」

今までは見せなかった優雅な身のこなしで工房の方に戻っていく。

「それじゃ失礼するけどドゥーチェにはくれぐれもさっさと直しといてって言っといてね。じゃないと修理代踏み倒すわよ!」

そう言い残しアクヴィラは箒に跨がって去って行った。

「なんだったんだ結局」

ジン・ペーは月夜に遠ざかっていくアクヴィラを見つめながら1人ぼやいた。


すっかり日も暮れた頃にクレッチモンドに到着したベラルーナたちは町の市庁舎一室に陣どった。

フランデルの肩書きがあるのでこうした政府関係の場所へはどこにでも入れてしまう。

こうした場所とは縁のない人生を送ってきたヤンスはベラルーナの護衛に囲まれて1人ソファの上で縮こまっている。

それとは対象にベラルーナの持つグラスに赤ワインが並々と注がれていった。

「で、どうするって」

「お引き渡しする子供は私の知り合いであるドゥーチェの所にいると思います。あるいはそこから既に親元に帰されたのか…」

ベラルーナはヤンスの背後に立っている2人の男に顎で合図すると男たちは両脇からヤンスを抱え、ソファから床に落とした。

「そんな事は聞いてないんだ。自分で頼んできた話だろう。なんでも良いから連れてくるんだよ早くしろよ」

ヤンスはベラルーナの高圧的な態度に思わず土下座してしまう。

「お願いします。時間をください、なんでもしますから」

「今夜中だ」

「はい。必ずや」

「荒事になるかどうかは知らんがうちの者を何人かつけてやろう。感謝する暇があるならとっとと行きな」

ベラルーナが言い終わるよりも先にヤンスは部屋の外につまみ出された。


ユメがドゥーチェの工房に着いたのと同時に和景たちも店の前に姿を現した。

流石の度重なる大移動にはユメも堪えてしまい途中で移動スピードが落ちたので汽車と平行する形になったようだ。

「今お着きですか」

2人並んで歩く戦場帰りの男たちに歩み寄る。

「お二人ともご無事そうで」(和景)

「いえ、それはこちらの台詞です。もうどう感謝していいか」

「なんの。対した事はしておりませんよ。さぁ中へ」

ドアが開くと壁にもたれて眠るジン・ペーがいた。

和景はそのつま先を軽く蹴る。

ジン・ぺーは一瞬ムッとした顔をしたがすぐにこちらを認識した。

「あらおかえり」

続けて他の面々も室内に入ってくる。

「ラルちゃんじゃないのぉ!あんたたち上手くやったのね!!」

ジン・ぺーはいつものオカマ口調で大仰に騒いでみせる。

その声を聞いて奥からアイリーンたちが出てきた。

「ラル!!!!」

走り寄ってラルを抱き寄せたアイリーンは潰れそうな勢いで抱きしめる。

「ごめんね。本当にごめんね…」

「アイちゃん。ラル苦しそう」

「ラル、私のラル…!」

諫言するユメの声は大粒の涙を流し続けるアイリーンには届いていない。

「まぁこれで一安心ですね。今夜はもう遅いですしここに泊まっていってください」

「本当は帰ってナーティーや花円にも無事を報告したいけど正直私もくたくただ。泊まって良いならありがたいです」(ユメ)

「じゃ奥の部屋片付けてくるね」

ドゥーチェはそう言って足早に駆けていった。

「そういえばアイちゃん怪我の具合は?」

疑問に思うまで忘れていたが今アイリーンは自力でラルの所まで来たような。

「あぁそれなら」

横からジン・ぺーが割って入る。

「私がここへ来た時にいた変な魔女が治療していったわ」

「魔女?」

「なんかぁラトゥちゃんと揉めてたんだけどアイちんが怪我してるって知ったら直して帰っちゃたのよのぉ」

「ふむ。まぁ念のため」

ユメはアイリーンの魔力回路に意識を繋げ全体図を把握する。

怪我も含めて問題はなさそうだ。

むしろ以前より魔力回路とアイリーンの結びつきが強くなっている気がする。

「害がなければ別に良いのだけれど」

「では私はおいとましましょうかね」

和景がそそくさと店を出ようとしていく。

「あ、待って」

ユメが慌てて引き留めた。

「アイちゃん。この人がラルを救ってくれた人だよ。ちゃんとお礼言って」

泣きはらしていたアイリーンが顔を拭って立ち上がりようやく和景の存在を認識した。

「あら。貴方、以前ここでお会いしまして?」

「ちょうどこの場所で倒れそうになった所を」

「わざわざ言わないでください」

顔を赤くしたアイリーンが深々と頭を下げたのは照れ隠しかお礼のためか。

「この度は我々一同が大きなご迷惑をおかけし、和景さんにはこうしてラルも取り戻してくださいました。本当にありがとうございました。何かお礼をと思いますが」

「いえ、気になさらないでください。私も偶然が重なっただけですから」

「でも何かしないと私の気が…」

そこでアイリーンは言葉が詰まってしまった。

どうもこの男の顔を直視できない。

この妙な感情はなんだろうか。

ふと目線を反らせばユメがジト目でこちらを見据えている。

ユメの前で隠し事は出来ない。

それならいっそ思った事を言った方が良いのではないだろうか。

「和景さんは独り身の方でしょうか」

「ふぇ!?」

ユメが素っ頓狂な声を出した。

「お、おう?」

ジン・ぺーまでもが思わず腰を浮かせた。

「私思い知らされたんです。この子を守っていくには私1人では限界があると。子供って普通は両親が二人三脚で育てていく者じゃないですか。でもこの子には私しかいません。確かに家には皆がいますし何より最も頼れるべきユメがいます。でも我が家には男手がいません。それで…」

アイリーンは段々と小さくなっていく自分の声を仕切り直すため一度小さな深呼吸をし前を見据えた。

「私と結婚してください。そ、そのもちろん断る権利は貴方にもありますが…」

「アイちゃん、これはまたどういう風の吹き回し…」

急な事に口をパクパクさせたユメがかろうじて言葉を紡ぐ。

「和景ぇ。貴方も捨てたもんじゃないわね。ぼさっとしてないで答えてあげなさいよ」

ジン・ぺーは茶化すように和景を小突いた。


が、それと同時に店の外にいつの間にかいた存在に気がついた。

ヤンスである。

ジン・ぺーは打って変わって冷ややかな顔つきに変わるとサングラスを取り出し、壁に立てかけてあった鞄からスッとライフル銃を取り出すと店の外へ躍り出た。

ヤンスは何かを言おうとしたが、その声は銃声にかき消された。

ジン・ぺーの発砲は確実にヤンスの心臓を射貫き、即死に至らしめた。

それはあまりにも秒の間に起きた事でヤンスの両脇にいたスーツ姿の男たちが銃を取り出すよりも早かったが、今度は男たちが店目がけて発砲してきた。

「伏せろ!」(ジン・ぺー)

店内にいる面々が従うと同時にショーウィンドウが粉々に砕けた。

ジン・ぺーは目の前にいた2人を即座に射殺したが今度は別の方向からの発砲があった。

すかさず和景が外に出てジン・ぺーと背中合わせになり構える。

「敵の数は」

「さぁね。とりあえず見えてる分を始末しな」

どこに潜んでいたのか2人、3人とスーツ姿の男たちが現れてくる。

良く見れば全員同じ顔だ。

「人じゃないな」(和景)

「そのようだが。今時ホムンクルスでもあるまい」

ジン・ぺーが呆れたように言いながら慣れた手つきで弾を装填する。

「正解よ」

聞き慣れぬ女の声にジン・ぺーが顔を上げるとエキゾチックで風変わりな服装をした鞭持つ女性が1人。

「誰だてめぇわ!」

「私はベラルーナ。フランデル・メシュトゥーン様のご命令で来た者よ。でも文句ならそこでくたばってる俗物に言う事ね」

「く、公爵の手の者か。ヤンスの野郎、そっちに行っていたか!」(和景)

明朝、ヤンスを追わなかった自分を責めた。

が、ラルの奪還を目的としていた以上あの場ではヤンスを追っても意味はなかっただろう。

「俗物はねぇ。私たちに大きな大きな借金があるの。俗物はとある子供をその引き換えにしてくれと頼んできて私たちはそれを飲んだ。こっちでは取引が成立しているわ。なので子供が必要なの。ここにいるんでしょう?

「ふざけやがって!」

ジン・ぺーがベラルーナ目がけて発砲したがベラルーナは長い銅鎖の鞭を器用に振り回し、その弾をはじく。

「ヤンスは立った今死んだ。これで借金もチャラだろう」

「それは無理よ。殺した責任として貴方が払って暮れても構わないけど?」

「誰がそんな金払うかよ」

「私、面倒事は嫌いなの。でも最近フランデル様の肝いりで出来たホムンクルス部隊を使ってみたくてねぇ私自ら出てきちゃったってわけ。丁度良いわ。人ならざる物にどこまで抵抗できるか。死ぬまで踊ってご覧なさい!」

ベラルーナが宙に一線鎖を舞い上がらせると先ほど倒したはずの男たちまでもが起き上がってくる。

「ち、キリがねぇパターンか」

「今度はなんなんだよ!」

騒ぎを聞きつけて弓矢を持ったドゥーチェが飛んできた。

店の入り口には銃を構えたラトゥがアイリーンたちをかばっている。

「全く無駄な抵抗が好きなお馬鹿さんたちばかりのようねぇ」

ホムンクルスたちはぐるりと店の前を取り囲んだ。

向けられている銃口は明らかに向けている銃口より多い。

双方共に激しい銃撃戦が続いた。

ホムンクルスは被弾しても軽傷で感情がないのか反応せずに発砲を繰り返している。

その様子を見て憤慨する物が1人。

「あ~~~~~もう、ほんっとに面倒だなぁ。殺してしまえばよかったなぁあの時に!」

アイリーンの側にいたユメが誰に言う分けでもなく叫ぶ。

店の外に出ようとするユメをアイリーンが押しとどめた。

「?」

「ラルをお願い」

「いやいや君が戦闘に立ってどうするんだい。疲れてはいるけど私がいつも通り…」

「私が、守らなきゃいけないの」

決意を込めた重みのある発言に思わずユメも足を止めた。

そのユメを追い越しアイリーンが外へ出る。

「アイリーン様!」

「ラトゥ、貴方にはいつも助けられてばかりね」

ラトゥの肩に手を置き、一呼吸置くとベラルーナに向かって進み出た。

「私はラルの母親、アイリーン・ブランです。当然ながら娘を渡す事など言語道断です。それに周りにいる人たちは関係ないわ。一対一で決着つけましょう」

「アイリーンさん、何を言ってるんだ。ここは私たちが」(和景)

「二度も助けられては何もお返しが出来なくなってしまいますわ。それに貴方の実に何かあっても困りますもの」

「ふーん?お宅らそういう関係なわけぇ?」

「まだです」

「まだって…。まぁ良いわ。私とどう決着させる気よ。他の物たちの動きは止めてあげるわ」

何かの支持を出したのかホムンクルスたちは全員銃を下げた。

それを見届けてアイリーンはゆっくりと白い手袋をはめた右手を挙げて指先で鉄砲の形を取る。

アイリーンの意図が読めずベラルーナが眉根を寄せた時、アイリーンの体が光に包まれた。

「ほう?多少は骨があるやつなのかしら」

アイリーンの体から発出される光はやがて大きくなっていき巨大なドラゴンの形を作り出す。

「わーお……」

一番驚いているのはユメだ。

こんなモノがアイリーンの中にあるとは把握していない。

アイリーンが銃の形を作った指先を上に上げるとドラゴンは口から巨大なビームを発射した。

「!?」

ベラルーナは鞭を半円形に回すと透明なバリアを形作った。

そして、渾身の力を込めて鞭を振り払った時、ビームの一部が跳ね返り煉瓦造りの古い塔の上層部を破壊した。

「あれ一応文化財なんだけど…」(ドゥーチェ)

ビームの発射が終わった時、ベラルーナにこそ致命傷を与えられていなかったが周りにいたホムンクルスたちはビームの巻き添えを受けて大半が消滅していた。

同時に光のドラゴンも形を失っていき、アイリーンがふらりと揺れた。

そこを和景が後ろから支える。

「こんなのがいるなんて聞いてないわよ…!」

驚愕して怯むベラルーナにジン・ぺーがすかさず発砲し肩を掠めた。

間を置かずにドゥーチェが矢を穿ち、ベラルーナの長髪の一部を抉る。

「ち、全く冗談じゃないわ」

ベラルーナは捨て台詞を残し人とは思えぬ跳躍で近くの建物の屋根に移動するとそこから闇夜に姿をくらませた。


シュテーフィンから帝都トルリンへと一人敗走するのはなんとも惨めであった。

人よりは足があるものの、フランデルの元へ辿り着いたのは翌日の朝方である。

「誠に申し訳ありません公よ」

フランデルの前に跪くベラルーナ。

どのような処分をされるか分かったものではない。

乱れ髪もそのままに片膝を立てて唯々平服した。

「ホムンクルスの兵たちは左様に脆弱であったのか」

フランデルは朝日差し込む窓辺に立って外を向いたまま口を開いた。

「いえ、当初はこちらが有利でありましたが予想外の魔術師に抵抗され…」

「ふむ」

「この失態の責任は…」

「もうよい」

「はい?」

「当初の目的こそ果たせなかったとは言え子供など世の中にはいくらでもおる。それに、だね。今の私の身で周りであまり大きな騒ぎを起こす事は好ましくない。分かるであろう?」

「はい。心得ております」

「ホムンクルスはまだまだ試作の段階であった。生身の兵よりはと思って作ってみたのだがまだまだ改良の余地があるようだな。そのデータがとれただけ良しとしようではないか。この話は終わりだ。」

「いつもの、コーヒーをお入れしましょうか」

「頼む」

ベラルーナは取り敢えず許されたと解釈しお湯を沸かしにかかった。

「それよりもだね」

「なんでしょうか」

「今宵、よろしいかな」

「かしこまりました」

ベラルーナはフランデルの夜伽を務めてもいた。


騒動が終わり、一同がドゥーチェの工房で一息つく。

「アイちゃん、さっきのは一体」(ユメ)

「私の傷を治してくれた女性がいたの。その後から私自身が魔力という物を知覚出来るようになったみたい。前からそれとなく掴んではいたの。でもあの女性のおかげでまとまった力として使役出来るようになった。まぁ一度にかなりの魔力を消費したいみただけど」

「ふーむ。その魔女は何者なんだ。別に私でも同じような事はしてあげれたけどこれまでの鍛錬は護身術の域を出なかったからね」

「名前なら聞いたぞ」(ジン・ぺー)

「それはなんと?」

「アクヴィラ・ドラクル・イルフネーゼ・フォン・コジナ・バートリー。ありゃ恐らくかつてこの地域を治めていたコジモ家の末裔か何かじゃないか。私も詳しくは知らないが」

「うーん。薄らと聞いた事はあるなぁ。でもコジモ家はそこまで大きな存在ではなかった気がするぞ。あくまで地方領主程度でしかなかったんでしょう?」(ユメ)

「関係あるかどうかは分からないが」

和景が口を挟んだ。

「ドラクルは爵位だろう。古く西の遊牧民からこの地を守るために結成されたドラゴン騎士団の意味だ。イルフネーゼはこの地域の古い呼び名で地名から取った封号と言った所か。その名前の城があったはずだ。フォンは貴族の意だな。何、少しばかりそうした事に興味があるので」

「ドラゴンか。さっきアイちゃんが形作ったのもドラゴンだったね」

「私、ドラゴンなんて出してたの?」

「意識してなかったのか。立派なドラゴンだったよ。なんとなくだけどその魔女もドラゴン繋がりな感じでその魔女の血統みたいな物がアイちゃんの魔力に混入したんだろうね」

「強くなれたって事かしら」

「充分だったよ。後は自分でコントロール出来れば良いんじゃないかな」

アイリーンはしゃがみ込むとラルの頭を撫でる。

「お母さん、かっこ良かった?」

ラルはぎこちないながらも笑顔を形づくった。

「で、ですね」

ジン・ぺーが話の流れを変える。

「和景さん、アイちんとの話どうするの?」

その場にいた全員の目が和景とアイリーンの2人に注がれた。

「…そういえばそんな事を話してたね」

疲労がピークに達していたユメはすっかり忘れていた。

アイリーンも今更になって気恥ずかしそうにうつむいている。

「…今は返答しかねる」

「長村、お前そういうとこだぞ」

したり顔のドゥーチェが茶化すように突っ込みをいれた。

「私はアイリーンさんの事をまだ詳しく知りません。まずは双方近づいた関係になってからではないでしょうか…」

和景は目線を泳がせながら曖昧な返答を繰り返す。

「男ならはっきりと応えてやりなさいよ」

ジン・ぺーがどん、と和景の背中を叩いた。

「で、では!後日お食事などでも…」

「アイちんもすっかり大人になっちゃってぇ」

ユメは感慨深そうに呟いたが頭の中では色々と他の事を考えていた。

「和景とやら」

「あ、はい」

「くれぐれもアイちゃんを傷つけるような事だけはしないように」

ジト目のユメに凄まれて和景が思わず縮こまる。

「恐れ多いですが私自身、こういった経験がないものでして…」

「いや、あるにはあっただろ」

ドゥーチェは煽りたくて仕方ないようだ。

「お前は黙ってろ」

売り言葉に買い言葉、そんな応酬の中でラルがとことこと歩いて行き和景のコート裾を掴んだ。

「ラルちんは和景をお認めなのかしら?」(ジン・ぺー)

「うーむ」

和景はラルの頭を撫でながらも渋った顔を崩さなかったが

「アイリーンさん」

「は、はい」

「ひとまずこの件は後日改めてお話しましょう。今日はもう遅い」

結局は逃げたのであった


翌日、ユメとラトゥはラルを連れてシュテーフィンへと帰って行った。

残ったアイリーンは和景の迎えを待っている。

「和景はああ見えて孤独を好むと言うか。出来そうな奴に見えてそうでもないのよぇ」

古くから和景を知るジン・ぺーが昔を振り返るかのように語る。

「悪い奴ではないね。癖は強いが。そう度数の強いスッコチのような」

「でも、ラルを救ってくれた恩を返さなければ行けませんし。それにその…」

「和景が好き?」

「そう言った感情は私にはなんとも分かりません…。でも他の人とは違う何かを感じます」

「うぶねぇ。全く可愛らしいわねもう!」


帰路につく汽車の中、外を眺め続けるラルの頭を撫でながらユメが感慨深そうに言う。

「アイちゃんはこれからどうする気なのかな。何を考えているのか私には分からなくなっちゃった」

「私は主に従うだけです」

「ま、君がいてくれればおかしな事にはならないだろうけどね」

「?」

「私もね、もう一度世界を見たくなったよ」

「世界、ですか」

「アイちゃんには今の私は必要ないのかもしれない」

「そんな事は」

「思い返せば渦中の中で拾ったのが全ての始まりだ。あの子の親を名乗ってはいたけど所詮は他人なんだ。それにラルちゃんもいるしあの男とはどうするか知らないけど私の入る余地はもうなさそうじゃない?親離れ子離れっていうじゃないか。アイちゃんはもう立派な大人だよ」

「ユメ様…」

「元々私は長い事1人で生きてきた、ただ餌を食らうだけの存在でしかなかった。搾取以外で人と関わる事なんて本当になかったんだ。あぁでも案外そうでもなかったかな。まぁそれは言いさ」

「ユメ様のお話聞かせてくださいな」

「今から話す事は皆には言わないでいてくれる?」

「誓います」

シュテーフィンまでの道のりはまだまだ遠かった。


和景はいつもとは違う洒落た服装を着こなして現れた。

「あらやだ。やる気出しちゃって」

ジン・ぺーがしたり顔で和景を見る。

「長村、しっかりな」

ドゥーチェは笑いを堪えるのに必死だった。

「お前ら…」

和景も口では呆れているがまんざらでもなかった。

いつもの事である。

「お待たせしました。アイリーンさん」

「いえ、そんな事は」

二人は連れだって店を出て行った。

「上手くいくかしらねぇ」(ジン・ぺー)

「後をつけたいぐらいだよ」

「ま、深くは突っ込まないであげましょ」

「まぁね」

「それじゃあたしもおいとましますかねぇ」

「あぁ。うん。色々急ですまなかった」

「いやいや、面白い物が見れたよ。それじゃ」

「気をつけてー」


アイリーンは翌日の昼頃シュテーフィンに帰ってきた。

ユメが和景に預けた魔力球体を貸したままだったのだが、それで始発の汽車に乗ったと連絡してきた。

シュテーフィン駅で待っているとアイリーンは時間通りに姿を現した。

「おかえりなさい」

「ありがとう。ユメ」

「楽しかったかい?」

「私の知らない世界はまだまだたくさんあるんだなぁて」

「それはどういう…」

「海を見たわ。初めてよ」

「そりゃまた随分と遠くへ行ったんじゃない?」

「えぇ。遠い遠い所よ。今度はラルにも見せてあげたいなぁ」

「是非そうしてあげなさいな」

「船にも乗ったわ」

「船?」

「帆を張った大きな白い船。昔絵本で見たままの景色だったわ。カモメが飛び回って潮風がとても心地良いの。帽子が飛ぶかと思ったけどね。私が舳先にいると和景が後ろに来て-」

「まぁ思い出は胸の内に留めて置きたまえ」

アイリーンはすっかり熱が入っているようだった。


家路に着くと玄関までの道を見渡せる窓でラルがじーと外を見つめていた。

アイリーンを視認するとぱっと駆け出す。

ラトゥが玄関を開けるとラルは駆け足でアイリーンの元へ寄った。

「あらあら。ごめんねラルちゃん寂しかったかしら」

和景から土産に渡された紙袋をラトゥに預けてラルを抱っこした。

「お母さん…」

「え?」

「あぁそうだ。ラルちゃんね帰ってきてから急に喋るようになったんだよ。片言だけど」

「今、お母さんって…」

「言ったね」

「ラル!」

アイリーンはラルを抱きしめクルクルと回った。

「お食事のご用意が出来ております」(ラトゥ)

「もうお昼ですもんね」

昼食中の話題は和景の話題で持ちきりだった。

ラル誘拐事件についてはユメの方から要点だけナーティーと花円の方に伝えてある。

よって重苦しい話を蒸し返すよりそれまでこのような話題がなかった恋話で炎上したのだ。

「というかいきなりプロポーズだなんて。見た目に寄らないわねぇ貴女も」

ラルとアイスを突っつきながら花円のおしゃべり口が止まらない。

「私も今だに何が何だかだよ」(ユメ)

「で、主よ。相手はどう言ってきてるんだ?」(ナーティー)

アイリーンはポケットから魔力球体を取り出す。

「ユメから貰ったの。これでどこにいてもお話が出来るわ。凄いわよね」

「文通仲間って域を出てないわけ?」

「私もあの人の事をもっと知りたいなって」

おしゃべりは終わりを見せなかった。

ユメは秘めたる決意の発表を今夜と定めた。


その日の夜。

皆がそれぞれの寝室へと解散する頃合い、ユメは広間に皆を集めた。

「どうしたのユメ。改まって」(アイリーン)

「ごめんね皆。実は考えてる事があって」

ユメは一呼吸置くとじらさず本題をぶつける。

「旅に出たいんだ」

「旅?」(アイリーン)

「そう。それも一泊二日の遠足じゃない。気が向くままにどこまでも」

「それは…どういう」

「アイちゃん。君はもう一人でやっていける。現にお母さんを努めあげてる。私が教えてあげれる事はもうないかなって」

「何、言ってるの」

「思い出してもごらんよ。私はアイちゃんの保護者のような何かで親って分けじゃないでしょ。元々自立が出来るようになるまでを見届けるつもりだったしね」

「……」

「私もね。広い世界を見たいと思ったんだ。アイちゃんやアイちゃんがラルに願ったように」

「いつ行くの」

「もうこの足で行こうと思ってる」

「そんな。急すぎるわ」

「善はいそげ。時間は待ってくれないんだ。それにその気になったらいつでも顔をだすさ。それに球体があればいつでもお話は出来るさ」

それでもアイリーンは反応に困っているようだ。

「ラトゥ、ナーティー」

二人の使用人は名前を呼ばれて背筋を正した。

「アイちゃんを、いや我が愛しの娘・アイリーン・ブランをよろしく頼むよ」

「承知いたしました」(ラトゥ)

「了解です」(ナーティー)

「君は…」

「まぁ私とユメの関係って表現出来る物じゃないわよね」

「せいぜいこの家を飢饉に貶めないように」

「はぁ!?最後の言葉がそれぇ!?」

がなる花円をよそにユメはしゃがんでラルを見据えた。

「次会う時は何歳になってるかなぁ。子供の成長は早いからね」

ユメはラルの小さな右手を取ると手の甲に口づけした。

「ユメ」(アイリーン)

「はい」

「また、帰ってきてね」

ユメは何言うまでもなくにこりと微笑むと霊体化してその場を去った。


向かった先は「フルム」である。

「あらー、今日は遅いご来店ねぇ」

「やっぱりここに来ないと閉まらなくて」

「あ、でもちょうど良かったわ。前にドゥーチェに頼んでたハープここに届いてるわよ」

「それはありがたい」

ジン・ぺーは奥の部屋から見事に完成されたハープを持ってきた。

「立派だねぇ」

「人格はともかく腕だけはあるからね。あいつ」

「1つ演奏してみるか」

「聞きたい聞きたい!」

ユメが奏でるのはどこか悲しげなメロディー。

民族系の独特な曲調が店内を満たした。

儚さの裏に隠された秘めたる情熱の旋律は今のユメの心境そのものであった。


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