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StruggIes/Unities  作者: 和秋
1/2

~CuttySark~

広い草原の中、晴天の元で漆黒の衣裳に身を包んだ女性が馬を疾駆させていた。

手綱を握る女性は細身でまだあどけなさが残る。

貴婦人を思わせる優雅な服装は高貴な身である事が一目で分かるというものだ。


馬を猛スピードで走らせ続けているが同じ所をぐるぐるまわっているだけで目的がない。ただ風を切っているのが楽しいだけだ。

終わりの見えぬ森の中にある開けた草原ではあるが見渡せる範囲の全てが彼女の家が所有する私有地だった。

やがて何度目かの周回を終えるとこれまでとは違う方向へ馬首を向けた。【SE1馬終】

「どーどー!」

手綱を強く引き、嘶きを挙げながら馬の前足が勢い良く宙を舞う。

そして今度はゆっくりと家路を目指した。


森を背にした石造りの洋館が少しずつ見えてくる。

辿り着いた馬小屋には馬が三頭、彼女の愛馬と父親が使う二頭立て馬車を引くための馬が二頭だ。

年齢不詳なれどこのうら若き娘は世の中という物を知らなかった。

館には父親と無口なメイドがいるだけだ。

ありえない事に、生まれてこの方この2人以外の人間と接した事がないのだ。

父の名はビーモス・アルパチオ。

粗暴な性格であるが手を挙げる事はしなかった。

母親の存在は見た事も聞いた事もない。

自分が生まれている以上、いなければおかしいのだが肖像画なども無く、どのような人物か全く不明である。

それに父親とて名前が繋がらない。

本当に実の親子があやしいのだ。

が、「アイリーンがそれに違和感を覚える事はない」


何でも卒なくこなす寡黙なメイド、ラトゥが物心ついた時からの話し相手だった。

アイリーンはラトゥが与えてくれる情報量を元にしたほどしか知識がない。

後は館内にある図書館の蔵書から得たものぐらいだった。

父親はアイリーンと話す事が少なく、いつもどこかへ出かけている。

馬車を動かすには御者が必要なはずだが何度か後ろ姿を遠くに見た事があるだけで話した事がない。

馬の世話を行っているようだがこの館には住んでいないという事しか分からない。

アイリーンの愛馬もいつの間にか御者が手入れしていて常に見事なブラッシングがなされていた。

父親からは関わるなと言われていた。

恰幅の良い父の顔は常に怒気に満ちており、近づきがたい威圧感がある。

しかし収入には困っていないようで欲しいものは何でも与えてくれた。

館の周囲の敷地は全て我が家の物だというが娘1人の足ではとても全容が掴めない広さである。

ただ館の塔から見渡す先には鬱蒼とした森がどこまでも続いている。

当然父親からは草原の範囲内でしか行動してはならぬと言われており、それ以外の世界を知らない。

だが他所を知らなければこの生活に疑問を抱く事もないのだ。


その日もいつものように部屋の明かりにランプが必要な時間になってくるとアイリーンは眠りについた。

この家には時間の概念がない。

気分次第の生活を営んでいた。

「……」

視界はぼやけて良く見えない。

濃い霧のように真っ白な世界だった。

これは眠る間に起こる現象、夢だ。だがその日の夢は今まで経験した事がない物だった。なんどか蔵書の中で見たおとぎ話のキャラクターたちが出てくる事はあったが、真っ白な世界の中に見知らぬ少女のようなシルエットがある。

それが少しずつ輪郭に始まり目鼻立ちがはっきりとしてきた。

ただ自分が映像を見ていると言うより少女がこちらを覗き込んでいるような――。もっと言ったらこの夢そのものに見張られているようなおかしな感覚。

蔵書の中で読んだ事がある。

世の中には食すると覚醒してしまう草木があるらしい。

知らぬ間に食べてしまったのだろうか。

しかしそんな記憶はない。

それに覚醒という感覚が分からない。

「アナタ、は…?」

気がつくと視界に広がるのは見慣れた自室の天井だった。


そうした夢が数日続いた。

夢は日を追う事にぼやけた視界が鮮明になっていく。

シルエットだった少女はいつの間にか緑を基調としたカラフルな服装をしていて同じ配色の帽子を被っている。

「アナタは誰なの?女の子?」

一度とて相手が答えた事はなかった。

「ねぇラトゥ」

化粧台に座るアイリーンの髪を解かすメイドのラトゥに夢の事を聞いてみた。

この前、毒草についての書物を読んでいた時に思ったのだ。

もしかして気が付かぬ内におかしな物を口にしているのではないかと。

でも料理を作るのは全部ラトゥだ。

ラトゥ以外の料理をアイリーンは知らない。

「なんでしょうか」

「最近おかしな夢を見るのよ」

「夢、ですか」

「そう。誰かが現れては消えるの。でも姿はよく見えなくて不気味」

「夢とは得てして不思議な物ですからね」

「貴女、昨夜の夕食の材料を覚えてる?」

「当然です。全て私が作ってますから」

「葉に盛り付けた魚の料理があったわよね。あれって毒草というやつかしら。本で見た事あるわ」

「そんなわけないじゃないですか。私がお嬢様にそのような物を差し上げるなど。それに本当に毒草ならお嬢様は既に死んでますよ?」

何を喋らせても褐色肌のラトゥはいつも淡々としている。

ラトゥは機械人形なのではないか、子供の頃に肌身離さず持っていた人形を見ながらそう思った事がある。

結局この所続いている不思議な夢は原因が分からなかった。

身支度が終わり、一階へ降りると父親のアルパチオが玄関を出る所であった。

「行ってらっしゃいお父様」

「行ってらっしゃいませ」

ラトゥがスカートの両端を持って形通りの挨拶をする。いつもはしないがアイリーンもそれにつられて真似してみた。

「アイリーン」

心臓がドキッとした。思わず真顔になる。父親が私を名前で呼ぶなど今までそうあっただろうか。

「なんですか?」

「生活には満足か?」

「生活、ですか」

「ああ」

「不満はないですよ。あ、でも最近同じ事ばかりで何か新しい事が欲しいかなぁ、なんて。でもあったら面白そうだと思いました」

「それこそ魔法のように童話の中の生活だろうよ」

「魔法、ですか。おとぎ話の?」

「ああ」


アルパチオはドアノブを持ったままこっちを見てはいないがぶっきらぼうに会話を続ける。

「そうですね。箒で空を飛べたり何かを浮かせたり指の動きで何かを操ったり、そんな事が本当に出来たら楽しそうですよね」

色々想像している内に思わず無邪気にはしゃぐ童女のような顔になっていた事に本人は気が付かなかった。

そんなアイリーンを尻目に、アルパチオは返事をせぬまま出かけていった。

「ラトゥ、お父様は何を言いたかったのかしら」

「私には分かりません」

即答である。アイリーンは何か胸騒ぎがした。

これまでの意味なく繰り返されてきた日常が少しずつ変わっていくような。

でもそれを表現する術をアイリーンは持っていなかった。

昼頃、普段なら外で駆け回っている時間だが連日行っていてはつまらない。

今日は家にいようと思っただけ。

けれどもラトゥの気配が感じられなかった。

遊び相手がいないのだ。

古今東西様々なカードゲームやボードゲーム等、この家にはなんでも揃っていた。

ラトゥは実に色んな遊びを取得していたし、ラトゥ以外の存在と遊ぶ事などないのに不思議と飽きなかった。

しかし知り尽くしている屋敷の中で見つけられないはずはないのに何故か見当たらない。


仕方なく自室でゴロゴロしている内にうたた寝をしてしまった。

そしてまたあの少女が現れた。

「……」

「…え?」

今までにない反応。

相手が自分に囁いたような。

でも今回は違う。

自分はベットに寝たままの状態で天井を向いている。

そこににゅっと自分とは逆向きに謎の少女が顔を突き出した。

「こんな時間に寝られたら困るなあ」

「……!」

喋った。

今まで何度と無く夢に現れた謎の人物が話しかけてきたのだ。

「あら、私を認識しているのね。ますます厄介だわ」

少女はふわふわと真っ白な視界の中を浮いている。

「あ、あの!」

アイリーンは呼びかけてみた。呼びかけて良いのか分からないけど声を出した。

「喋る事は許されますか?」

「誰も駄目とは言っていないよ?ここは貴女の夢の中だし好きにすれば良いと思うよ」

答えた。誰かは知らないが自分に返事をした。

でもこれは所詮、夢。

目が覚めれば元に戻る。

そう信じている。

「いつも私の夢に現れますよね?」

「面白そうな匂いを嗅ぎつけたって感じかな? そしたらビンゴ。作りは歪だけど居心地が良いから少しだけ使わせてもらってるんだ」

「貴女は一体誰ですか?」

「そうね……。返答に困る所だけど、敢えて言うなら……そうだね死神かな?」

にんまりと少女は笑みを浮かべる。

「し、死神!?」

「そう。貴女は死ぬのよ」

「私が……死ぬ……?」

「ええ、残念だけどね」

困惑した表情を浮かべるアイリーンだったがふと思い立ったように自分を死神と呼ぶ少女に向き直ると決意の定まった目で正面を見据えた。

「じゃあ、貴女を倒す!!」

「へっ!?」

アイリーンはガバッと起き上がると勢いのままに少女へ殴りかかった。

しかし見事な右ストレートは当たらない。

「ちょ、ちょっと!乱暴はダメだぞー! ……まぁあたりっこないんだけど」

「死神が何を言うか!お前を倒せばいい事だ!悪霊退散!!」

今度は見事な蹴りを食わらしてみる。

しかし当たっているはずなのに体をすり抜けているような感じだ。

「あー、余計な事言っちゃったね。からかっただけよ。まぁ落ち着いて。私が貴女を殺すわけじゃないから」

「信用できません」

「うーん。困ったなあ。この固定世界で生きてきた結果かしら」

そうだ。これは夢だ。

なら今の私は何だって出来るはず。

それならこれでどうだ!アイリーンは手のひらをくっつけて少女に向けた。

頭でイメージすれば何か光線がでるはずと思った。

そういう絵本を見た事がある。

果たして手の中で青白い光が集まりだしたかと思うと少女に光線が放たれ、爆発が起こった。

「これで、どうだ……?」

「効かないよそんなの」

「最早ここまでか。無念なれど致し方なし我が首とられよ」

アイリーンは正座すると頭を足れた。

「何なんだ君は、もー調子狂うなー!」

少女は1人でキャッキャッと地団太を踏み始めた。

「私は死ぬのですか?」

地団駄を止めた少女がこちらを振り向く。

「お、冷静になった?」

「単純にお話が伺いたいのです」

「なら1つだけ言っておくね。魔法を信じなさい」

そう言って少女は掻き消え、目が醒めたアイリーンはまた自室の天井を見つめているのだった。


魔法。

果たしてそんな物が実在するのだろうか。

1人紅茶を飲みながら思考に耽っていた。

カップの残りをひと思いに飲み干す。そしてふと思った。

紅茶が永遠に湧いてくるカップがあれば良いのに、と。

それこそ魔法だ。

自分で葉を煎じてお湯でひたさないと紅茶は出来ない。

空になったカップにティーポットから注がなければ紅茶は飲めないのだ。

馬鹿馬鹿しいと思いながらティーポットを掴んだ時だった。

思わず我が目を疑う。

さっき自分が空にしたカップに並々と紅茶が入っており湯気まであがっているのだ。

驚きでティーポットから手が滑りかけた。


おかしい、たった今自分が飲み干したはずだ。

そして次は別の事に気がついた。

おやつのクッキーが減っていないのだ。

5,6個ほどばくばく食べていたはずなのに準備した時と同じ数が器に揃っていた。

言い知れぬ恐怖で飛び跳ねるようにテーブルから離れ、隣の部屋に駆け込んだ。

「ラトゥ!」

メイドの名前を叫ぶ。

元より家にはラトゥしかいない。

そうこうしている内に今度はテーブル上に並べられたチェスの駒がカタカタと動き出した。

しかし動きはチェスのプレイそのもの。

黒のルークが白のポーンに体当りして倒した。

駒が自分の意志でゲームをしているようだ。

「ラトゥ!どこにいるのよ!いますぐ来てちょうだい!おかしいわ!」【1-6】

しかしいつもなら知らぬ間に隣にいるラトゥが出てこない。

「ラトゥ!どこなの!お願い出てきて!」

ラトゥが出てこない非現実と先程の経験が相まってだんだんと精神が蝕まれていく。

狂乱状態に陥っていた。

そしてまた1つ気がつく。

先程まで雲1つない晴天だった青空は見た事のない一面紫色の醜い世界に変わっていた。太陽はどす黒い塊になっている。

「嫌ぁ!嫌よ!どうなってるの!?ラトゥ!出てきなさい!助けて!!」

自室を目指して階段を駆け上った。

息を切らして階段を登りきった時、自室の扉前、廊下に探していたメイド服が見えた。

こちらに背を向けている。

「貴女、やはり毒草を入れたのね!これが幻覚ってやつかしら?そうならそう言って。言ってくれた方が許せるわ!だから元に戻して!」

ヨロヨロとラトゥの肩に手を掛けたが、そのまま体重をかける事が出来なかった。ラトゥがバラバラになって床に散ったのだ。

そのまま自分も前のめりにすっ転んだ。

「ラ、ラトゥ!?え、な何なのよこれ…」

半身起き上がったアイリーンの目に見えたのはメイド服を被った古ぼけた木像の人形である。

義眼のような目玉がコロコロとアイリーンの指先に転がってきた。

「あ、あああああああああ!?」

生まれてこの方出した事のない悲鳴を挙げて人形を蹴り飛ばし、すぐ右手にあった自室に飛び込んで壊れる勢いで扉を閉めて鍵を掛けた。

そのままベットに潜り込んで震えた。


これは夢だこれは夢だこれは夢だ悪い夢なんだそうだユメに違いないユメだユメだユメだユメだ!!


「アイリーン!」

唐突に部屋の扉が明けられたかと思うとアルパチオが立っていた。

しかしその声を聞いて毛布をはねのけたアイリーンは絶句した。

室内が炎に包まれている。

大火災が発生していた。

しかし父親は合いかわらずな顔で入口に立っているだけだ。

「お父さん!助けて!」

父親の所へ駆け寄ろうとしたがまるで風に靡くように炎が室内で渦を巻いていて近づけない。

自我を持っているような動きだ。

「魔力回路の暴走か、チッ!」

アイリーンには父親の言っている意味が分からない。

ただ今は外へ出るべきだと思った。

その時、轟音と共に父親の真上の天井が崩れ落ちて下敷きになった。

「ぐわっ!」

最後の叫びを残して父親は視界から消えた。

「お父さん!お父さん!」

もうアイリーンにはどうしていいか分からない。

赤子のように顔をクシャクシャにして泣き喚いていた。

しかし不思議と熱量を感じない。

だがその事に気がつく余裕はなかった。

ふと耳元で聞いたような声がした。

「貴女は死ぬのよ」

これは、、そう死神。夢に出て来た死神の声。そしていつの間にかあの少女が目の前にいた。しかし地に足はつかず浮いている。

「死神…!」

「また合ったわね。ご機嫌いかが?」

「これは貴女の仕業ね!」

「いいえ、私は関係ないわよ?気がついてないかも知れないけど。全部自分でやってるのよ貴女自身がね」

「そんな、私は何も…」

「死にたくないなら1つだけ方法があるけどどうする?」

もうアイリーンには何も考えられなかった。死神でも何でも良い。精神は既に粉々に砕け散っている。今はこの狂った世界からとにかく逃げたい。ただそれだけだ!

「お願い!ここ以外のどこかへ連れて行って!」

「魔法を信じる?」

「信じます!!!」

そう叫んだ途端、アイリーンは視界が真っ黒になった。

死んだと思った。

しかし再び暗闇に色が戻った時、業火に包まれた部屋は消えていた。

ここはどこだ。

目を覚ますと知らない森の中。

ただお空は夜だった。

ミミズクの声が聞こえる。

でも今はただそれだけでもとても心地よかった。

「夢が終わったわね、長い長い夢が」

カラフルな死神が慌てる様子もなく隣にいた。

「何がどうなってるの……?」

アイリーンは呆然としたまま突っ立っているしか出来ない。

状況を掴めないので一歩とて踏み出す勇気がなかった。

「えーと、一応私に説明義務があるのかな?」

いたずらが過ぎた子供のようにポリポリと頭を掻きながら死神が1人ごちっている。

アイリーンは不安そうに死神を見つめた。

両手をクロスしてそれぞれで自分の腕を抱えている。

精神不安な証拠だ。

「そんな顔しないでよ。とって喰いはしないから」

「うう……」

そのまま力なく座り込んでしまった。

そして大粒の涙が堰を切ったように溢れ出す。

「いやね、説明はしてあげれるよ?でも多分貴女が到底受け入れられるとは思えないから。うーん、それにどこから話せば良いかなぁ?

とりあえずここは貴女のお家よ。貴女がずーっと住んでた場所と同じ」

「っ……ひっく。でもお家もお父さんもお馬もないよ?」


死神は今更になって後悔した。

我ながら随分と面倒な事に関わってしまったものだ、と。私は死神なんかじゃない。

夢魔だ。

人が寝ている間に見る夢を喰い生きるだけの存在。

他にする事もしたい事もありはしない。

ただフラフラと漂っていたらこの少女に行き着いた。

しかしこれは何千年と生きる概念だけの存在である自分でさえも今まで見た事がない事例だった。

面白そうだったのでただほんの好奇心から観察していたのだ。

まずこの健気な少女、年齢的にはもう成人女性の方が近いのだが今の状態を見て確信した。

アイリーンは一定の年齢からほとんど精神的な面が変わっていない。

成長に支障が起きている。

原因はただ1つ、物心つく前から囚われの身だったのだ。

アイリーンが住んでいたあの家、正確にはあの「空間」と言った方が良い。

あれは実在しない世界、説明するなら結界の中だった。

そして結界を維持する魔力元は他ならないアイリーン自身である。

この子は普通の人間ではない。

魔女の血が流れている。

しかし本人はその事についてどれほど理解しているのか。

本人が認識できていない魔力回路から僅かに漏れている魔力を悪用して結界を作り上げていたのはあの男だ。

まるで生体ユニットの扱いである。

少なくとも本当の父親ではないだろう。

何がしたかったのかは今では分かりようがないが、ろくな人物ではない事は確かだ。

そして魔術師という事も。

アイリーンが使わない魔力の捌け口として空間を維持させていた。

醜いが実に良く出来ている。

不安定で薄っぺらい結界世界の中でアイリーンの魔力暴走で物理的に死んだのはなんともおかしな話ではあるが。

ああ、逆にあの男だけが結界の中と外に行ける人物だとしたら納得はできるか。

結界の中にこの子を閉じ込めて最低限の知識だけで生活をさせていた。

あの空間内で起こった事は全てこの子が望んだ事。

まずあのメイド。

メイドの存在も名前も姿形さえアイリーンが想像で作り上げたものが具現化していたに過ぎない。

それをあの男が補助していたのだ。

恐らく玩具にしていた人形に名前をつけて遊んでいる状態を実在の形にしたのだろう。

赤子から子供になるにつれ親が相手をしなければ他の依存先が必要となる。

面倒を見させるための存在としてアイリーンが作り上げた存在をそのまま与えた。

あの空間はアイリーンの意志1つで何をする事だって可能だった。

結界の中に閉じ込めておきたいのなら本人が満足する環境を常に与え続けてやれば良いのだ。

そして余計な事を思いつかないよう知識的な成長を常に遅らせ続けていた。

壁を這い上がる虫を天井に辿り着く前に前進する度に落としていたといえば分かりやすいか。

しかし年齢を伴ってくるにつれ体が成長した分、自分で制御していない魔力回路が意志とは分離されて活動を始めてしまった。

更に私と関わった事でバランスが崩れた。外の第三者を知った事で「自我」が刺激されてしまったのだ。

魔力供給が失われた存在は少しずつ朽ちると共に新たな魔力補給先も必要となって世界を保てなくなった。

恐らくそうなる前に父親を名乗っていた男が目的のために次の段階へ進もうとしたのだろうがタイミングを見誤ったのではないか。


と、この子に説明した所で分かってはくれないだろう。

さて、どうしたものか

「ひっく……ぐす」

体操座りで俯いたアイリーンは一向に泣き止まない。

精神が現実に追いついていないのだろう。

「お父さん……お父さんは……ラトゥ……」

「あれは貴女のお父さんじゃないわ何を考えていたかは知らないけど、ひょっとしたら貴女を媒体に魔獣でも召喚するつもりだったのかも。

貴女、化け物の餌にされてたのかもしれないのよ?貴女を育ててたメイドも木偶人形を操っていただけ。本当の人間じゃないわ」

「……」

アイリーンは何も呟かなくなった。

森の中には再び静寂が戻る。

「うーん……」

ユメは地面から数㎝浮いた状態でくるくると回っていた。

自分でもこの状況をどうしていいのか分からないのだ。

あの空間が消滅する時に一緒にこの子を巻き添えさせたほうが良かったのではないか、元々助けるつもりも無かったのに、なんでこんなことをしてしまったのかと後悔してくる。


ぐーぎゅるぎゅるぎゅー

「うん?」

なんとも気の抜ける音がした。

ユメが回転を止めるとアイリーンがすくっと立ち上がる。

首を前のめりにして前髪が顔を隠していた。まるでお化けのようだ。

「……お腹が空きました」

「お、おう」

「何か……何か食べる物……」

アイリーンは夢遊病者のようにフラフラとユメに近づくとユメの両肩を力任せに掴んだ。

「何か食べる物持ってませんかぁっっっ!!!」

森中に響き渡るかのような大声でアイリーンが急に怒鳴る。思わずユメは彼女の手を振り解いて距離を取った。

「うう……耳が。泣いたと思ったら次は食事か。本当に赤子だなあ。悪いけれど私は何も持ってないよ。そもそも食事を取らないからさ」

しかしそんなユメの説明も聞かずアイリーンはとぼとぼと歩き出した。

「どこ行く気だよぉ」

遠ざかるアイリーンの背中に問いかけるが答えはない。

恐らく本能的に食事を求めているのだろう。

まるでゾンビのようだ。

「仕方ないなぁ」

ユメは一人ごちるとアイリーンを追いかけた。

「いい?聞いてないだろうけど。まずこの世界は君が今まで生きてきた世界とは全くの別物だ。

俗にいうと現実世界で、欲しい物はふいに出てきたりなんてしない。全部自分の手で一からなし遂げていかないといけないんだ。幸い君は自由の身だから何をしたって良いんだけどね?」

不安定な足取りで進むアイリーンの横で浮遊しながら矢継ぎ早に状況説明してみるのだがアイリーンは一向に応えない。

ふと、このまま見捨ててしまおうかとも思った。

元々ユメとアイリーンは何の関係もないのだしこれまでのユメなら間違いなくそうしていた筈。子育てなんてまっぴらごめんだ。

私はただの夢魔。だが……


この子には私しかいないという現状がある以上、ユメは無意識の内に傍を離れられなかった。

ユメは今までの自分なら抱く事のなかったおかしな感情に侵蝕されているという事を認めざる得ないと判断し、ため息をつくとアイリーンの腕を掴んだ。

「何が食べたいの?」

「……」

「言わないと分からないよ。なんとかしてあげるから」

「……ハンバーグ」

「ふむ。まずは肉の調達からか。やってはあげたいんだけど――おや?」

ユメはふと前方に目をやった。

森の片隅、家のような建物があるのを見つけたのだ。

空き家かどうか分からないがその家を借りる事にした。

「あそこへ行こっか」

アイリーンを引っ張り見つけた家を目指す。

その姿はまるでぐずる子供の手を引く母親のようだ。

「ふーむ。人の気配がないけれど廃墟って分けでもなさそうだし。きこりの山小屋かな?」

そういってドアノブに触れた瞬間、微かだが消えかかっていた魔力の残滓を感じた。

まさか魔術師の拠点なのか?しかし生命反応は周りに感じられない。

そっとドアノブを回すと鍵はかかってなかった。

中へ入りランプに明かりを灯す。

家の中は小ぢんまりとしているが荒れている様子はない。

普段から人の出入りがあるようだ。

アンティークな家具がキチンと整えられている。

ここにいては家主がいつ帰ってくるかは分からないが……背に腹は変えられない。

こんな人気のない所で鍵も閉めずにいるのが不用心なのだ。

恨むなら己を呪え、とユメは強引に自らの行動を正当化して食事の準備を始めた。


ユメが作った即席料理を食べ終えるとアイリーンはすぐにぐったりとして眠りに落ちた。目覚めた時、再びパニックにならなければ良いが。

私が隣にいればなんとかなるか。

高級そうなソファに横になっているアイリーンに毛布を掛けるとユメは椅子に腰かけた。まずは状況整理だ。


ひとまずしばらくはこの子の面倒を見よう。

とりあえず事が落ち着くまで。

何をもってして落ち着くとするかは分からないけど、今のこの子一人では到底世の中を生きていけない。

人と関わった事もなければ知能は学業を受けていない少年少女。

まるで鳥籠育ちのお嬢様だ。まぁ私も生きてきた中で人を育てた事などないのだが。


これまでにない決心を胸に秘め、ユメは室内の散策を始めた。

ここへ入る時に感じた魔力の残滓、それがいつ自分たちに厄災をもたらすか分からない。しばらくここへいる以上状況把握をしなければならない。

そうしてウロウロしている内に隣部屋へ入ると大きな本棚が目に入った。

棚には幾つかの蔵書が置いてあった。


「これ全部魔導書だ……。でもどれも初歩的」

埃を払いつつパラパラと捲っては適当に次の本を漁っていく。

すると薄いファイルが出て来た。

中身は手書きのメモのような物や切り取った新聞記事などが挟まっている。

その中にとある男の身分証のような物があった。


「ビーモス・アルパチオ……。確かあの男の名前だ」

アイリーンを娘として手元に置いていた謎の魔術師。どうやらここはアルパチオの拠点だったようだ。

ならば家の主は既にこの世にはいない。

「ここをアイリーンの家にしても大丈夫そう」

まずは住処を手に入れた。

これは幸先が良い。

その後もユメは家の中をくまなく漁り、ある程度の資金や食料などを手に入れた。

今日からここは2人の家だ。

だが、私との関係を維持するにあたってアイリーンと【契約】を結ばなければならない。それを本人が拒めば全て水の泡となる。

翌日、まだ夜が明けきる頃。

ユメは日が昇りきると形として顕現し続ける事が難しくなる。

影になってしまうのだ。

これからアイリーンが今後生きていくための【契約】を持ちかける。

アイリーンがどう反応するかはユメにも分かりようがなかった。

「起きてアイリーン」

何度か揺さぶり無理やり起こす。

意外にも素直に身を起こした。

時間がないのでありがたい。

「アイリーン。寝起きで悪いけどこれから大事な話をするからちゃんと聞いてね?」

「貴女の事をなんと呼べば良いの?」

「言った側から……まあいいや」

「私の名前はユメ。私は貴女の味方よ。それでね、提案なんだけどこれからは私と一緒に過ごさない?ここは貴女の家で大丈夫よ。好きにしなさい」

アイリーンはキョロキョロと室内を見渡した後、とりあえず受け入れてくれたようだった。

「私はお日様が登っている間はこの姿を保てないの。だからお昼の間は影になってしまうけどこれからは貴女の影を住処にするわね」

「なんだか面白そうですね」

アイリーンは屈託ない笑顔を浮かべた。

本当に話を分かってくれているか心配だが今は進めるしかない。

幼い少女に説明したとて1から10まではどうせ覚えていてはくれまい。

「でね、私とこれから生活するにあたってお願いがあるの」

「お願い、ですか?」

「そう。とっても大事なお願いよ。私はこれからも貴女を助けるから貴女も私を助けてちょうだい?」

「良いよ」

「でもね、私は死なない身なの。肉体を持たないただの概念よ。私と生きていくという事は貴女も同じ境遇にならないといけない。即ち私の力で不老不死になっちゃうけど良いかな?」

「う、うん……」

理解出来たかどうか、ぎこちなく頷くアイリーン。

だがユメは言質を取るが如くそれを【契約】の確定とした。

「了解。それじゃあちょっと動かないでね」

ユメは両手を伸ばしてアイリーンの両手を握ると念を込める。

青白い光が一瞬部屋を包んだかと思うとすぐに消えた。


「まぶし……かった……」

顔を隠して童女のように呟くアイリーンをよそにユメは【契約】を完了させた。

アイリーンはユメの付き人として不老不死となりユメはアイリーンの保証人になる相互関係がここに出来上がったのだ。

それと同時にユメは伝えこそしなかったがもう一つ仕掛けを施した。

それはユメが夢喰いで手に入れた知識や記憶を自在にアイリーンに移植できる回路を繋いだのだ。

こうすれば窮地の際に即座の対応が可能となる。

全知全能を今与える事も出来るがそれではアイリーン本体が持たなくなってしまうだろう。恐らく処理し切れずにパンクしてしまう。

時と場に応じ臨機応変に与えていく事が重要だ。

「もうそろそろ夜明けね。私は消えるわ」

ユメの姿が半透明になっていく。

アイリーンは科学実験を見つめる子供のように興味津々にそれを見つめていたが突然猫のようにユメの胴体に手を突き出した。

しかし拳は小さな胴体を貫通し、アイリーンの腕には何かに触れた感触が欠片も得られてない。

「当たらないってば」

娘を愛おしむ母親のようにニッコリと微笑んで、ユメの姿は見えなくなった。

アイリーンだけが残された部屋。カーテンからは登ったお日様の木漏れ日が小窓から差し込んでいた。

「聞こえる?」

「え?」

ユメの声がする。だが姿はない。

「言ったでしょ。お日様が登ると私は消えちゃうの。でも喋る事は出来るわ。いつでも呼んでね」

「不思議……でもそれより……お腹が空きました」

誰もいなくなった部屋でアイリーンが呟く。

とりあえずここは自分の家らしい。

なので視界に映っている物は全て私の物という事だ。

その時、ふいに脳裏に知らぬ光景が浮かび上がった。

「うまくいってるかな?」

ユメはさっそく昨夜見つけて一箇所に固めておいた食料の場所をアイリーンの脳裏に叩き込んだ。記憶に直接介入する作業は繊細性を要する。

これはアイリーン本来の記憶とは別にアイリーンそのものが得ている記憶を改竄する事も出来るからだ。

だが下手すると彼女の人格を破壊しかねない行為である。

少しずつ様子を見ていくしかない。嘘を知らぬ彼女は純粋の塊であった。

下手に疑問を持たずに動いてはくれるがそれではダメだ。

この辺りもいつか慣れさせないといけないだろう。


以前と変わらぬ暮らし。

家が変わり話し相手もいなくなってしまったが不自由ではない。

むしろユメという子は私を自由といった。

それは何でも出来るという事。

そう考えているとなんとなく外へ出たくなり探索を始めた。


家の周囲は小鳥さえずる森の中、空気が美味しい。

私はこれからどうすれば良いのだろうか。

自分というものがまるで分からない。

どうしてこうなったのか気が付けば隣にはユメだけとなってしまったのだ。

でもあの子は強そう。

結局何なのかは分からないのだが、燃え盛る家から助けてくれた恩人だ。

少なくとも私に害なす存在ではない事は確かである。

今は信じるしかない。

それにご飯を作ってくれる。

今まではラトゥが作ってくれていたので自分では料理が出来ないのだ。

あれこれと思考に耽りながら目的もなく歩いているとふいに視界が開けた。

「おぉ」

思わず感嘆の声が漏れる。

誰が手入れしているのか綺麗に整った広々とした花壇が広がっている。

傍には椅子がありゆっくりくつろげそうだ。

このような見事な花畑を今まで見た事なかったアイリーンは花を踏まぬよう無邪気に駆けまわった。

「この世は美しいわ!!」

夢心地でくるくる回り時折ジャンプしてみせる

今の私はバレリーナ。

技能はアマチュア代表。

審査員は森の木々たちだ。

高得点をくれるだろうか?審査員は厳しそう…。

アイリーンは何も考えずひたすら思うがままに体を動かした。

その姿を霊体の状態で見守るユメはふいに不安になった。

かように無防備では何か合った時に対処できない。

夜なら良いが今、森からふいに何かが現れては助けようがないのだ。まあ、手段が無いわけではないが、魔力を大量に消費するのが厄介になる。

そうなると用心棒がいる。

花飾りを作って微笑むアイリーンを見ながらユメは次にやるべき事を思い描いた。

その日の夜。

ランプに明かりをつけて本棚を漁っていたアイリーンの前にユメが現れた。

「貴女はどこから現れるの?」

「これでも私は常に貴女の側にいるよ?姿が見えないだけだよ」

「おしゃべりは出来るの?誰もいなくてつまらないわ」

「話しかけてくれれば答えるよ」

「誰もいない所に声をかけるなんて変だわ」

「そのうち慣れるさ。さて今夜はちょっと外に出かけてみない?」

「どこ行くの?」

「楽しい所……になるのかな? まあ退屈はしないとは思うよ」

ユメはアイリーンを連れ出して町を目指した。ここからは多少の距離があるが実はこれに備えてとっておきの物を用意した。

「え!なんで!?」

案の定アイリーンは仰天した。玄関前には以前にアイリーンの愛馬だった馬、カティサークとそっくりな馬が優雅に佇んでいる。

「実は運良く見つける事が出来てね」

アイリーンは慣れた動作で馬にまたがる。

本来は初対面な一匹と1人だが特にトラブルはなかった。

馬上ではしゃぐ彼女は本当に童女だ。

「ねぇアイリーン、1つ良いかな。君は自分を何歳だと思ってる?」

アイリーンの表情が曇る。

恐らく囚われていた時の生活を考えれば彼女自身に年齢の概念は薄かっただろう。

「分からない……10歳、かな?」

「あはは、君はもう少し大人だと思うなぁ」

成長期なアイリーンの体を見てユメは頭をひねる。

見た目は成人女性の方が近いと言っていい。

未成年ではあろうが既に体つきは少女ではなかった。

「18歳でどうかな?」

「ねぇユメ。私は大人なの?」

「私がそのうち大人の女性にしてあげるよ」

「まぁ素敵ね!」

よほど嬉しかったのか馬に鞭打つと疾走を始めてしまった。

「やれやれ。これじゃ本当に10歳だ。精神と肉体の乖離が著しすぎる」

まだ行き先も告げてないのにどこへ行くつもりか。

アイリーンを追いかけるユメは悪態を尽きつつ浮遊した。

しばらく走って森を抜けた。

自分たちは今小高い丘の上にいる。

眼下には見た事ない街明かりが広がっていた。

「綺麗……これが社会なのね」

馬を降りたアイリーンはしばらく呆けていた。

そこにはどんな景色があるのか。

どんな人があるのか。

思考、妄想が頭の中を駆け巡り爆発しそうだ。

気がつけば隣にユメがいた。

「お腹が空いたろう?ついておいで」

町に着くと近場のパブに入った。

一瞬、2人の見た目で何か言われるかと思ったが案外そうでもない。

すんなりと食事にありつけた。

「見ない顔だけどこの辺りに住んでんのかい?」

料理を運んできた金髪の女性が問うた。

見るからに未成年な二人だけなのだ無理もない。

「まぁ町はずれの森ですね」

ユメが適当に話を流す。

アイリーンの事は聞かれれば聞かれるだけボロが出てしまいそうであんまり答えたくはないのだ。


「素敵ね!」

足をジダバタさせてアイリーンがはしゃぐ。

料理名を言えば何でも出て来た。

楽しくて仕方ない。

「まぁ落ち着きなさいよ」

たしなめるユメの声は海賊のようにがっついて食べる彼女には届いてないだろう。

ユメはそれを見守るしかない。


「良く食べるお嬢さんだねぇ」

気がつくと先程の女中がユメの横に来てアイリーンの見事な食欲を呆れ気味に鑑賞していた。

「育ち盛りなんですよ。アハハ……」

「貴女、名前は?」

「私?私はユメです。あの子はアイリーン。私はまぁあの子の保護者です。信じてもらえないかも知れませんが……」

「人の事情には立ち入らない主義さ。深くは聞かないよ。ただ払えるだけのお金があるのかな、と」

「それは大丈夫です」

金貨の入った小袋をチラ見せしながら答えた。

女中は納得したように頷くと店の奥に戻っていった。

事なかれ主義な性格なのだろうか。

その方がありがたくはあるが。

「私もお腹空いたなぁ……」

未だに皿を次々と空にしていくアイリーンを見ながら1人ごちた。

この所アイリーンの相手をして落ち着いた時間を取れてなかった事を痛感する。

人間と違って定期的に食事を取らなくても一度の食事でしばらくやっていける。

しかしそのエネルギーが切れ掛かっていた。

そろそろ摂取しなければいけない。

そんな事を考えているとふいに軽やかな音楽が流れ始めた。

ふりむくと様々な楽器を持った集団がそこにいる。

中央に立つバイオリニストがソロ演奏していたがやがて他の演奏者たちも音色を出し始めた。

余興か何かだろうか。

アコーディオンが奏でる民族系の音楽で聞いていて心地良い。

ユメもたまに楽器をいじるのでこの手の催しは好きだ。

やがて酒盛りをしていた屈強な男たちや若々しいカップルがはしゃぎだし、思いのままに踊りだした。

この店はいつもこんな感じなのだろう。

ふいにガタッ、と音がした方を向くとアイリーンが起立していた。キラキラした目で皆の踊りを見つめている。

あぁ、この子にとっては今視界に映る全てが新鮮なのだ。

行っておいで、と表情で促すとアイリーンは踊り狂う群衆の中に飛び込んだ。

どこで覚えたのか器用な手さばきで回転を繰り返し、群衆は次第にアイリーンを取り囲んだ。

愛嬌ある演奏者たちは空気を読み、曲調をアイリーンの踊りに合わせた。

それを受けてアイリーンはスカートの左右を摘んで軽やかなタップダンスを始める。群衆の熱気はさらに上がっていった。

いつの間にかアイリーンは余興の中心人物となっている。

踊りがクライマックスを迎えた後、アイリーンがビシ!と決めて演奏が終わる。

群衆たちは大きな拍手でアイリーンを褒め称えた。

その拍手喝采を背中に受けながら満足気にアイリーンが戻ってきた。

「見事なダンスだったよ」

「こんなに楽しいのは初めてよ!」

店を出る時、会計はあの女中だった。

「良いお客さんでした。またおいでよ」

「ごちそうさまでしたー」

「私はナ−ティー。ここにくればいつでもいるさね」

「美味しかった−!」

「それはどうも。あんなに食べるやつは初めて見たよお嬢さん。アイリーン、だったかな?」

「どうして私の名を?」

「私がさっき教えたのよ。食べるのに夢中で何も見ていなかったと思うけど」

]「ははは、どこまでも面白い子だね。ますます気に入った。次来た時はサービスさせてもらうよ」

「ありがとうございます」

店を出ると肌寒い風が頬を撫でた。

思わず身震いする。

「私、この下まともに来てないから寒いわ…」

「そうか、例の幻想館は季節の概念がなかったか。人生初の冬は身に染みるだろうから早く帰ろっか」

暴食してはしゃいで満足したのか大きなあくびをするアイリーンを促しながら家路に着く。

今度はユメが満たされる時だ。

寝間着に着替えるとアイリーンはスイッチが切れたように倒れ込んで寝てしまった。体力を使い果たしたようだ。

毛布を掛けてやりながらユメはアイリーンの夢に忍び込む手筈を整えた。

夢喰いと言っても記憶を消したりするのではない。

人が見ている夢空間にいるだけでユメは自分の糧を吸収する事が出来た。


念を飛ばすと見えてきたのは見覚えのある大きな家。

アイリーンが閉じ込められていた館だ。

館の一室、アイリーンとメイドがトランプに興じていた。

片手にはサンドイッチを持っている。

何とも歴史を感じる光景だ。サンドイッチはトランプを片手に食事を取るために考案された食事方法である。料理名はその考案者の名前から取られたと伝わる。

あのメイド、ラトゥと言ったか。

木偶人形に魂を植えた存在で、あの空間同様現実に存在する人物ではなかった。

しかしアイリーンにとっては唯一無二の存在であっただろう。

そこでふとユメはある事を思いついた。

このメイド、なんとか使えないものか。

今朝方、花畑で遊ぶアイリーンを見て思った事、私が霊体でいる間に形としてアイリーンの隣に付添人が必要だと。

実の所、アイリーンの愛馬も彼女の記憶を元に再現した物で本物の馬ではない。

移動手段が必要だったので急遽こしらえたのだ。

あの時は無意識だったが馬が出来たのなら人一人、概念を取り出せば顕現させれそうな気がした。

思い立ったらすぐ行動。

天からアイリーンの夢を観測している状態のユメは腕を伸ばすとラトゥを掴み上げた。

「よいっしょ、っと!」

思っていたより重たい。

恐らく夢を乱されたアイリーンが抵抗しているのだろう。

今のアイリーンは悪夢に魘された状態だ。

「ラトゥ!どこ行くのよ!?」

遊び相手を失ったアイリーンが狂い出す。

自分のせいで悪夢を見ていると思うと少々気が重いが少しの辛抱をしてもらわねばならぬ。

「そりゃ!」

やった事のない作業に自信はなかったが、アイリーンとの回線を切ったユメの前には寸分違わぬラトゥの姿があった。

アイリーンは苦痛の表情を浮かべて寝返りを繰り返している。

だが起きた時にはそれも解消される事だろう。

「自分の名前は分かるかい?」

「ラトゥです。以後お見知りおきを」

「この子の名前は?」

「アイリーン・ブラン様です。私の主であります」

「自分の務めは分かってる?」

「アイリーン様のお世話です」

「うん、異常はないようだね。ついでに私の名前は分かるかな?」

「存じ上げません」

「まぁそれもそうか。私はユメ。アイリーンの保護者だ。君は引き続きアイリーンの世話とこの家の面倒を見る。その事に異論は?」

「ございません」

「まるで機械人形だなぁ。感情という物を感じない。流石元々が作り物だっただけはある。まぁ私が今こうして受肉させたんだけど。それにしても我ながら上手くやったもんだ。ラトゥ、引き続きアイちゃんを頼むよ」

「かしこまりました」

「それと、これを渡して置くね」

この家の中をくまなく漁っている内に見つけたリボルバーの拳銃だ。グリップに鮫の紋章が彫られた独特な柄であった。

正直、とある人物たちを思い出すので、こういうのはあまり好く物ではなかったが今は護身の任務を果たすために使うべきだろう。

ラトゥのため、なによりアイリーンのためである。

これでアイリーンの面倒はユメとラトゥで分担された。

少しは自分の時間が出来ると言う物。

ユメには思い描いた1つの構想があった。

自分の食生活のため、アイリーンのため、とある商売を思い至ったのだ。

幸い、この家に都合の良い空き部屋があったのでそこで魔力強化の商いを行う事にした。

今の時代、魔力や魔法と行った物はだいぶ時代遅れになっていた。

科学は進化し人々の生活は変わっていった。

しかしそれでも魔術師たちは密かに自らの生活を保ち続けていたのだ。

その状況でユメが魔力強化の商売をやれば自然と一定の顧客はつくはず、と考えた。

それにそうして吸収した知識をアイリーンに与える事で彼女の教育にも好都合である。


アイリーンをラトゥに任せるとユメは特殊な空間の構成を行い始めた。まずは自らの商売を世の中に、それも細々と生きる魔術師たちにのみ伝わるよう宣伝せねばならない。

「ありがたいことに、この世界には魔法というものがあって、それを使役している人間たちがいるって事だよね。

どこぞの世界だと、全員殺してしまった子がいたからねぇ……ふふ、元気かなぁあの子」

仕掛けは出来たので、あとはその網に獲物が掛かるのを待つだけだ。

日が昇りきる直前、ユメはアイリーンを揺さぶって起こした。

「まだ眠いわよ…」

「君の大好きな物を用意した。朝になる前に見てくれないかな」

「うーん……」

アイリーンはあまりぐずる子ではない。

どちらかといえば素直な性格である。

文句を言いつつも目を開けてくれた。


なんとか開けた寝ぼけ眼。

そこには何故かこんな時間に起こした憎きユメがいる。

まとまらない思考を形にしながら半身を起こす。

一発どついてやろうか。

昨夜はあまり気持ちの良い夢ではなかった。

ラトゥが出てきてかつての生活のように遊んでくれた。

ラトゥは私の育て親。

心許す唯一の存在であった。

それ以前にラトゥ以外との関わりがなかった。

お父様はほとんど家にはいなかったし、私に構う事はなかった。

夢の後半は黒い霧に覆われて思い出せないが、目の前でラトゥが消えた気がした。

その流れでかつて目の前でラトゥがバラバラになった惨事の光景がフラッシュバックする。

「うぅ……」

思い出さないようにしていた記憶。

早く目を覚まさないと苦悩の闇に飲まれてしまいそうだ。

顔をひと振りして迫り来た闇を振り払った。改めてユメを見つめる。

何かがおかしい。

ユメの隣に人の姿がある。

誰か連れてきたのだろうか。

その姿を認識しアイリーンの脳内で血が沸騰する。

――ラトゥ――

声にならない呻きを上げ、そこにいるはずのない存在を認めざるを得なかった。

唇が震えて喉元まで出かかっている声が出ない。

名前を呼びたいのに、抱きつきたいのに、その胸に飛び込んで泣きじゃくりたいのに

自分の体さえ動けば叶う願望が後一歩で実現できない。

「驚いた?」

半身を震わすアイリーンを見てユメが呟く。

「アイリーン様。お久しゅうございます」

ラトゥは形に沿った堅苦しい挨拶を、しかし優雅に一通りやってみせる。

そしてラトゥが顔を上げた時だった。

「ラトゥ!!!」

ついにアイリーンは全身に力を込めてバネのように飛び跳ねるとラトゥに飛びついた。

「ラトゥ!会いたかった!ラトゥ!!」

嬉しさのあまり語彙力を失っている。

精神年齢相応の反応が今は逆にユメの心を落ち着かせた。

「私と出会って色々あったけど一つだけ確かな事がある。忠実なメイドはこうしてまた君の元に戻ってきた。それ以上の事は考えちゃダメだよ?」

しかしユメの声はアイリーンに届いてはいないだろう。

ラトゥに夢中になるアイリーンを尻目にユメは霊体化した。


ラトゥが戻ってきた!!今のアイリーンにはそれしか考えられなかった。

精神年齢相応の甘えんぼうな少女になってしまっている。

何が起こっているのかは分からない。

ラトゥはかつて目の前でバラバラになって消えてしまった。

そしてお家が燃えた。

お父様が死んだ。

お父様……今となっては顔も思い出せない。

ノイズに汚染された思考は脳内にあった情報を、時間を掛けて破壊していく。

全て唐突過ぎて頭が追いついていないのだ。

だがそれまでの事もはっきりとは覚えていない。

ただ日々を過ごしていただけのようでもあり、同じ事を繰り返していたようでもある。

それ故に何をしていたかと考え出すと良く分からない。

だって何も考えていなかったから。

変わらぬ生活に疑問を抱かず目の前にある事だけを追っていた。

それがユメと出会って世界が壊れてしまったようにそれまでとは別世界に今の私ははいる。

自分がここにいて良いのかも分からない。

そもそもこの家はどこなのだろう。

自分の知っている家とは随分大きさが違う。

でも生活しているだけなら問題はないようだ。

世の中、大きければ良いという物ではないのだろうか。

上手く表現出来ないが1つ成長した気分になる。

前はこのような感情はよっぽどでない限り沸いてこなかった。

しかしそんな事は逐一考えなくなった。

なぜなら今はラトゥがいる。

ラトゥは私の世話係、いやお母さんに等しい者なのだ。

ラトゥがいるなら私はここにいても問題はないはずだ。

しばらく会えずに寂しかったけど今はちゃんと目の前にいる。

でもまた触れたらいなくなってしまうのだろうか?

それを思うとまた言い知れぬ闇がどこからともなく心を蝕んでいく。

ラトゥがまたバラバラになったら。

そう思っただけで倒れてしまいそうだ。


そんなアイリーンの心情を読み取ったのか。

ラトゥがすっとアイリーンの頬に右手を添えた。左手は柔らかくアイリーンの手に重ねている。

「私はもう消える事はありません。ユメ様がそうしてくださいました。他の事はお考えにならないで」

惚けるアイリーンの唇にラトゥは自らの唇を重ねた。

ラトゥに話したい事は山ほどあったはずだ。

ユメとの事、初めて町に行った事。でも思考がまとまる前に全部頭から吹っ飛んでしまった。

何かと落ち着いた後、ラトゥを外へ連れ出したアイリーンは昨日見つけた花畑へ急行した。

あの景色を見せてやりたかったのだ。

「どう?素晴らしいと思わない?」

「見事な庭園でございます」

「でもね、誰のお庭なのか分からないの」

「良いではありませんか。アイリーン様の物にしてしまえば」

「良いのかなぁ」

「私が認めましょう」

「じゃあここはたった今から私のお庭!」

良く分からぬがアイリーンは庭を手に入れた。

しかし今度は花の世話をしなければならない。

が、何をして良いのか分からなかった。

アイリーンはラトゥの手ほどきを受けながら初めて自分で見つけた目的のために勉学に勤しんだ。

静まりかえった深夜の森の中、聞こえてくるのは動物の鳴き声に自然の音。

端から見れば人気のないこんな場所にある入り口にほの暗いランプをぶら下げたこの家の存在はかなり異質である。

そしてこんな場所に訪れる存在は更に変質者であろう。

思わず見上げてしまうようなお月様。

ユメは窓の前に立ちぼっーと満月を眺めていた。

月明かりで今宵は外が明るい。

訪ねて来るには良い晩であろう。

ふと、満月の前を何かが横切った。

はっきりと浮かび上がった箒に跨った魔女の姿。

おいでなすったかな?待っていたのは確かだがこんなに早く訪ねてくる者がいるとは思わなかった。

コンコン

足音もなく扉の前に立った女性が不気味な明かりに照らし出されたドアをノックした。

「どうぞ?」

扉を開けたのはまだ若そうな魔女だった。

しかし魔女なら自分の見てくれぐらいどうとでも弄れる物だ。

見た目は信用ならない。

「魔力強化をしてくれるって聞いたんだけどここであってるのかしら?」

随分と小生意気な口調である。見た目通りの若者のようだ。

「はい。本日開店いたしました。お客様がめでたい第一号様です」

接客などした事ないユメは自分でもぎこちないとはっきり分かる作り笑顔で答えた。

年齢はアイリーンと変わらなさそうだが人格は比べ物にならない。

「さて、どういう風に仕上げ――」

「私はアクヴィラ。ちょっと急用で力が必要でさ。貴女、魔力強化してくれるんでしょ?わざわざこんなくんだりまで来たっていうのに対した所じゃなさそう」

「えっと……アクヴィラ様、まずは当店のルールを説明させて頂きますね」

ひとまずアクヴィラを椅子に座らせるユメ。

「私は人の夢に入る夢魔です。夢に入る事で私は生きる糧を得ます。その夢に入らせていただいた対価として貴女様の魔力強化を図るものです」

「夢魔なんて今時珍しいわね。初めて見たわ。で、夢に入るって事は私寝なきゃいけないの?」

「ええ、私の出来る魔力強化はその方法なので」

「もっとこう手っ取り早い方法はないのかしら?」

「そう言われましても……」

顔が引きつる。

「ひとまずそこのベットに横たわっていただければ嬉しいのですが」

不満そうながらも指示に従うアクヴィラ。

溢れ出る高飛車な性格は生来の物なのだろうか。

「急いでるからあんまり時間かけないでよね」

「善処はしますね」

逐一余計な一言が多いお客さんだなぁ。

自分がこの世で一番偉いとでも思っているのか。

「ちなみに魔力強化をして何かなされたい事でもあるのですか?いえ、参考までにです。私も実際に行うのは初めてなので」

「頼りない店主だこと。大丈夫かしら?これでも私は高貴な方の血筋なの。それをこの前とある少女が私に逆らったから頭に来てね。その場でも痛い目に合わせたのだけどもう一度やってやらないと気が済まないの」

底意地の悪い笑顔を浮かべて語るアクヴィラ。

実は既に本人にも気が付かない範囲でユメはアクヴィラの魔力回路にパスを繋げていた。

僅かに記憶を辿ってみたがこいつはイジメっ子だ。

私に逆らったというシーンを見つけたが通りすがりにぶつかった相手に過剰な因縁をつけていた。

「――――――まっず」

「なにか言いまして?」

「あぁ、なんでもないです」

つまらないなぁ、つまらないなあ。こんなことに魔力強化だなんてつまらない人間だなあ。

すべての魔女を殺すために私に見せてくれた物語を食べた時の方がよっぽど美味しい食事だった。

「アクヴィラ様、お急ぎのようでしたら1つ荒療治ではありますが方法がございますよ?」

「え?本当?そう、そういうので良いのよ!早くして頂戴」

さっきとは態度がまるで違う。

さてさて、ではではご注文通り荒療治方法でやりましょうか。

「ではお手を拝借」

ユメは優しくアクヴィラの指を絡めとる。

「は?な、何してるの?」

起き上がろうとするアクヴィラ。

「言ったじゃないですか、少し荒療治ですけど……痛いかもしれないので、ちょっと道具を使わせていただきますね?」

予めベッドに仕込んでいた特殊な仕掛けを発動させふいに現れた手枷と足枷がアクヴィラをベッドに固定した。

「ちょっと何するのっっ――――っっっ!?」

「しーー、ごめんね? 一応お隣に寝ている子がいるのであまり大きな声を出さないでね?」

「――!?」

 仕掛けによってベッドに固定されたため、これから何が起こるのか分からないアクヴィラは口をふさぐ少女の手の力が万力のように、それこそ顎の骨を握りつぶしてしまうのではないのかという恐怖に染め上がる。

「それじゃあ、ジュクジュクジュク」

神経の中に異物が入り込んでくる感覚。

血流を巡っていくユメの細胞がアクヴィラの体内を蝕みながら、確かに魔力回路の向上はしているようだ。

「―――――――――――――――――っっ!!!?」

全身に刃物を突き刺していくような痛み。

アクヴィラは軽率に早くしてと言った自分に後悔した。

無限にも続くような痛みを前に、壁に立てかけてあった時計の針に視線を向けるとまだ一分にも達していないことに絶望を感じ始めていた。

視線でユメに待ってほしいと懇願してみるとそれに気が付いたユメは少しだけ力を緩める。

「大丈夫ですか? 確かにこの方法は早いのですが強烈すぎる痛みを伴うのであまりお勧めはしていないのですよ」

にっこりと、少女の顔をした悪魔は笑う。

「どうします? 痛みが無くて蕩けるようなものもありますが?」

「そ……の前に、もう……魔力回路の強化は……出来たのでしょう?」

「ええ、まあ。狭い回路の拡張と増設ですからね。今提案したものは、知識を与えるものですね。

今まで私が蓄えてきた魔法の術式などを教えるものです。これは痛みを伴いませんがどうしますか?」

「……やるわ、痛みがないならやって頂戴」

「分かりました、なら服を失礼しますね」

「へ……?」

そう言ってユメは慣れた手つきでアクヴィラの服を脱がし、生まれたての赤ん坊の状態にひん剝いた。

アクヴィラの肌に指を添わせて満足そうな表情をユメは浮かべ、自分も同じように裸になり、体を重ね合わせた。

「ちょっ、何を――んむっ」

「さすが高貴な出で立ちなだけがあるなぁ……この年齢になってもまだおぼこのままなんだからねえ。

まっずい夢だったけど、精は美味しそうな香りで満たされてるや……」

「う……あぁ……なに……これ……」

アクヴィラの脳内にユメが今まで蓄えてきたであろう知識の欠片が流れ込んでくる。

それはチョコレートのように甘美なもので、チーズのように蕩けていき、背筋を通っていく電流はアクヴィラの身体を静かに、絶頂を迎えさせて――。

「あ、しまった。パンクしちゃった」

余りの意志の弱さに最後まで事に及んでしまったが、膨大な知識という名の液体はアクヴィラという器の中に納まりきらず、あふれ出したかと思えば、その器が壊れてしまったのだ。

「所詮は人をいじめる程度に訪ねてくるくらいの器だったししょうがないか……。

身を犠牲にしてでもやり遂げてやるっていう意思の強さは、やっぱり必要だよねえ?」

遠い空を眺めるように見ていたが、部屋の中に転がっている植物人間だが……まあ、食うか。

幸いなことに魔女と精も喰らえたし、しかも魂と肉体まで食えるとはいやはや一石二鳥とはこのことか。

アクヴィラの身体を枷から解放し床に転がす。

ベッドの影がゆらりと蠢くと、アクヴィラの身体を影の中へと引きずり込み、食事を終えたのだった。

店の買い出しに行った帰り、夕暮れの町を暗い顔でトボトボと歩く女性の姿が1人――


どうも最近世の中の空気がよろしくない方に進んでいる気がする。

自分の住む国が周辺各国との間に亀裂を生んでいるのだ。

政府や要人たちはこれまでとは違って怒気を含んだ発言をするようになってきている。

首都トルリンに住む親戚からもそのように伝え聞いているし、何しろこのような田舎の酒場を貸し切って先日も冴えない口髭の政府役人が演説集会を開き、しきりに過激な言葉を繰り返していたのだ。

気がつけば町の中にもそうしたポスターが増え始めていた。

ナーティーはそのような事には興味がなかったので貸し切りのための費用を突飛な値段に設定して抵抗したつもりであったが、あっさりと支払われてしまい結局半日店を占領された。

店の評判にも繋がるため極力協力者になる事は避けたかったのだが、店に来た客の顔ぶれを見て驚いた。

常連客が多かったのである。

それもおおよそは過激な演説内容に同意しているようだった。

ナーティーは聞くに絶えず、すぐにその場を離れた。しかし後で聞いた話ではその中にいた常連客で新聞社を営む者がいたが近く、帝国を支持する政党の機関紙として買収されるのだそうだ。

皆どうしてしまったのだろう。

仕事終わりに実に楽しそうに酒宴を楽しんでいた町人とこの前の演説に共感していた人々は私の知っている同じ人物なのだろうか。

しかしそうなった経緯を知らないでもなかった。

この国、アレキ王国は「アレキ朝ベレモンス帝国」を構成する王国の1つである。

ベレモンス帝国はベレモンス地方に存在する、エディンリア、トロステマ、メルコ、ヒディリア、アレキの5ヶ国をまとめた帝国である。

民族や文化的に近い存在であったこれらの国々は数世紀前までは小国同士で争っていたが、同時に新興勢力のルリア王国やこれを後ろで支援するヒッシリア王国の存在を垣間見た時、ベレモンス地方の王国たちは協調路線を築くに至った。

特に軍事大国として知られるヒッシリアは避けられない脅威であり仮想敵国である。

そのためベレモンスの国々は王侯会議によってそれぞれの王たちを選帝侯とし、ベレモンス帝国を統治する1人の大王を選出する皇帝選挙の制度を確立させたのである。

半世紀前に作られたこの制度は当初こそわだかまりがあったものの、次第に1つの共同体としてその名を馳せていく事になる。

現在の大王は去年帝位を継いだアレキ代表であるアレキメッシュサンダー1世だった。

ナーティーの住む町、シュテーフィンはアレキの外れで数キロも行けば国境となってルリア王国に入る。

ルリアは比較的新しい国ではあるが経済豊かな国として知られていた。

しかしその繁栄の裏には当然虐げてきた存在もあり、特にアレキの民とは漁業の利権や海洋進出に置いて近年対立が激化していた。

ルリアは複数の港湾都市を築いて海産物や特産品の貿易を経済の柱として成り立っている。

これらを守るために急拵えな所はあるものの海軍を増強して制海権の拡大を図っていた。

その裏には伝統的な強さを誇っている海軍を保有するヒッシリア王国の存在がある。ヒッシリア王国は歴史的にはベレモンスの諸国家よりも古い国であるが、ベレモンス帝国に対抗するためルリアとヒッシリアは急接近していたのである。

これはベレモンスにとっては看過できない状況であった。

さらに今の大王であるアレキメッシュサンダーは自領がルリアと接していてなおかつ被害を被っているとあれば、なおさら強硬姿勢を進むのは自然の成り行きであったのだ。

この前の政府役人の演説に多くの人々が聞き入っていたのもルリアに対する憎しみがあるからであろう。

が、しかしとナーティーは思う。

国家間の対立を武力で解決しようとするのはなんと愚かしい事かと思うのだ。

ベレモンス帝国の存在によって保たれていたこの地方の平和が崩れようとしていた。所詮、平和と言うのは戦争と戦争の間でしかないと思ってしまう。

これ以上の事に発展してほしくないと思いながら1人の国民でしかないナーティーにはそう願う事以外に出来る事がなかった。


アイリーンたちの住む森よりも更に奥、バンレノンと呼ばれる滅多に人が入る事がないような秘境の土地にポツンと石造りの大きな館がある。

このような所で誰が生活しているのか。

世を捨てた変人か。

あるいはやましい事をするために人の目を避けて過ごしているか。

バキリ、ガチャガチャ、ボキッ


一歩踏み出す事に乾いた音が異臭に満たされた地下室に響き渡る。

皺がれた男が持つランタンで浮かび上がる無数の白い何か―男が誘拐、監禁し思うがままに殺めつくして打ち捨てられた無残な子供たちの骨の山―で部屋は埋め尽くされていた。

中には僅かではあるが肉片らしきものが残っている物もある。

壁や床一面にはこの場でいかにおぞましき残虐な事が行われていたかを示すが如く、べったりと乾いた血の海が広がっていた。

「さて…今宵もまた、始めなくてはな……クフフ」

1人事をぼやいて窪んだまなこを爛々と輝かせ、表現のしようがない不敵な顔に不気味な笑い声を漏らす男は手にした小さな骨に舌を這わせた。

ここで虐殺された子供たちは戦争や流行病、飢饉などで親を失った孤児たちばかりだ。

その為いくらこの男が好き勝手にさらって殺そうにもそれを訴える者はなく、荒れ果てた町にそれが出来る気力がある人間はいなかった。

ましてや大抵の周辺市町村のトップたちは既に金で首根っこを掴んでいる。

何をしようともこの男は公権力で裁かれるような事はなかった。

己の歪んだ欲求を満たすためだけに平然と人をさらい、いたぶり、犯し、殺す。

それが人里離れたこの館の主、大富豪フランデル・メシュトゥーンの正体であった。

いつものように自らのサド癖を堪能し尽くして地下室から出て来た後、自室に戻ったフランデルを経理担当である三日月花円が待っていた。

「お前がここまで来るとは珍しいではないか。何事かあったか」

「はい。ご報告があります」

「何か」

「旦那様の一味でありますビーモス・アルパチオ様についてです」

「アルパチオ……。そういえばしばらく見ておらぬな。あやつがどうかしたか」

名前を聞くまですっかり記憶から忘れていた存在であった。

いつぞや傘下に加えた名も無き魔術師であったように思う。

だがその手の人物は数多いるためいまいち頭の中で特定が出来ない。

「先日、アルパチオ様への月払いの送金をいつも通り致しました所反応が御座いませんでした」

「それで?」

「そのためアルパチオ様の所在を調べました所、どうやら死亡したようです。魔力で維持していた空間に飲まれ空間事消滅したるやよし」

「ふむぅ?最近あっておらぬ故,何をしていた者か、ちと思い出せぬが……それは事故か?」

「ご命令とあれば調べる事は造作もございません」

「では頼もうか」

「かしこまりました」

フランデルは顔が広い。

それに自分自信最近老いを感じてきていくつか記憶が飛んでいる。だが名前を聞いて少しずつ思い出してきた事がある。

普段から自らの欲求にのみ忠実に生きてる彼には他人の事は全て小さい事に思えてしまうものだった。

「アルパチオが死んだ、か」

空間事の消滅と花円は言っていた。

アルパチオには何かを託していた気がする。

空間、空間、その二文字が何故か引っかかった。

「そういえば……預けた赤子はもう何歳になったであろうか」

燃え上がる暖炉の火がフランデルの顔に不気味な影を落としていた。

日の暮れた夜の森を花円は木々を飛びながら進んでいった。

フランデルがくれた無駄に達筆なアルパチオの住居メモを片手に

「引き受けたは良いけど面倒ね……」

髪を掻き上げながら1人呟く。

何事も飽き性な性格で点々と居場所を変えて流浪の生活を続けてきた彼女は魔術師の血を継いではいるものの、能力としては最低ランクのはぐれ者である。

今でこそフランデルの家で経理担当をしているがそれも報酬が無駄に良いからで仕事以外の事には興味がなかった。

フランデルが何をしているかも詳しくは知らない。

ただ目の回るような大金が毎日動いているのを管理しているだけだ。

最初は来る日も来る日も処理が追いつかない札束の山に目眩がしたが、1に続く0の数が12より下回る事がない事に気がついてから何も考えなくなってしまった。

慣れというのは恐ろしいものだ。

何もない森の中。

ふいに人工物が姿を表す。

「小さなお家ね」

アルパチオが死んだのはそれとなく探りを入れて分かった事だが、確か独身だったはずである。

だが無人になっているはずの家には人の気配がある。

どうやって家の中の物とコンタクトをとるか。

あれこれ考えたあげく普通にドアをノックした。

ラトゥはチェスが強い。

私が何度挑んでも勝てないのだ。

ラトゥが戻ってきてふいにその事を思い出し、今日だけで勝負を挑む事はや20回ほど。

良い線まで行くのだが最後の最後にジリ貧になったアイリーンの駒が総崩れを起こす。

今もまた、数手でチェックをかけられてしまうだろう。

だが、ラトゥといられればそれで良いのだ。

今はただそれだけ。

ラトゥがアイリーンを見ていてくれるおかげでユメの行動範囲は広がった。

最近分かった事がある。

書斎を漁っていて見つけた資料だ。

この家に住み、アイリーンを管理していたアルパチオという男。

定期的にとある場所から大金が振り込まれていた。

これだけあれば日々の生活に困る事はなかっただろう。

アルパチオにはそんな額が平然と手元にあったようだ。

でも送り主は誰だろうか。

振込通知が入った封筒は蝋を溶かして封がなされた古めかしい物だ。

人間、生きていれば当然誰かしらとの繋がりがあるであろう。

ともすれば遅かれ早かれアルパチオの死に気がつく存在がいる可能性が――。

ここに長居するのは危険だろうか。

アイリーンに引っ越しを提案せねばと考えてはいたが、引越し先を見つけねばならない。

そんなこんなで言い出せずにいた矢先であった。

家のドアがノックされたのだ。

外界とは隔絶されたような所にあるこの家のドアが。

ユメの心臓がドクン、と鈍い響きを打つ。

こんな早く嫌な予感があたってしまうのか。

ユメが始めた商売は商売をしている時だけ存在する空間で行っている。

普段は存在していないし魔術師でなければ見つけられない施しをしてある。

今は普通に家のドア向こうに誰かがいる。

冷や汗をかくユメを煽るかのように2度目のノックがなされた。

とにかく様子を見なければならない。

道に迷った子羊であって欲しいと思いながら――

「ラトゥ、アイリーンを頼むよ」


ラトゥは人の心が読めるが如く先をとった行動をするメイドである。

隠し持っているリボルバーはいつでも手が届く所にある。

「ユメ、お客さんなの?」

「だと良いんだけどね? でも私が戻るまで動いちゃだめだよ?」

「うん」

窓明りがついているから誰かがいるのは明白であった。

ドアを開けたのは小柄な少女。

今まで見た事ない緑を基調としたカラフルな服装である。

花円はさほど強い魔術師ではない。

むしろ武闘派な筋であるが一目で1つ分かった事がある。

―この少女は人間ではないー

自然と身構えるが顔は崩さず問うた。

発破をかけてやろうと思ったのだ。

わざとらしく深々と挨拶をした。


「私はフランデル様の使いでアルパチオ様に御用があり参りました。アルパチオ様はいらっしゃるでしょうか?最近連絡が取れませんの」

「アルパチオという方ですか。さぁ私は存じません。なにせ私は通りすがりの旅人なので……ご厚意で今夜だけ泊めて頂く事になったのですが私の知っている名前とは違いますね」

「ここはアルパチオ様のお宅と聞いて参ったのですが。私間違えたかしら?」

この家の場所が書かれたメモをひらひらと見せつけながら、もったいぶった口調で責め立てる。

間違いない。

こいつは何かを知っている。

「アルパチオ様がいないにしてもお客に尋ね人の相手をさせるなんて随分と傲慢ちきな宿主ね」

嫌な奴が来た。

非常に嫌な奴。

恐れていた事態だ。

私が築こうとしていた平和な日々が崩れていく音がする。

季節外れな薄紫色の薄手なワンピースに赤いリボンで結ばれた長い青髪。

誰かは知らないがユメもその道の片隅で生きている。

―こいつは魔術師だ-

それもアルパチオを知っている。

実に厄介。

逃げれそうにないと焦る思考を落ち着かせる。

口調からするとアルパチオが死んだ事を知っている前提で話しているのではないか。もしかしたらアイリーンの存在も……。

作り笑いの表情を辞め真顔で訪問者に向き直る。

「えっと、お名前はなんでしたっけ?」

「花円よ。三日月花円」

名前を聞いてなんとなく納得がいく。

種族的にはここから遠く離れたサムライと呼ばれる者たちが割拠する地域の出身だろうか。

「お話は外で聞きますね」

「よろしくてよ」

後ろ手でドアを閉め家から数歩歩く。

「ご用件はなんでしたっけ」

「ここは間違いなくアルパチオ様のお宅のはず。貴女は使用人かしら?」

「さっきも言ったけれど、私たちは旅人で今夜だけ泊めていただいている身なので、ここの家主のアルパチオ? という人は知らないですね」

「私たち……か。貴女以外にも誰かいるのね。まぁ気配で分かるけど。隠そうとしても無駄よ。もしくは、宿主を出してもらえないかしら」

フフフと声を漏らし髪を弄りながら花円は強気な口調で責め立てる。

人の家を占領しておいて本来の主を知らないはずはないのだ。

そろそろ手を出すべきか。

だが殺してしまっては意味がない。

アルパチオの死について聞きたいのだ。

こやつらが誰であれ情報を持っているなら問わねばならない。


どこまで話すべきか。

向こうはこっちの真意を掴みかねてはいるがそれはこちらも同じ事。

ならば出来るだけ誘導してこっちも情報を掴まねばならない。

「確かにアルパチオと言う方はこの家に住んでいたのでしょう。先日、これは本当ですが私が偶然付近を通り掛かった時にここにあった魔力で編まれた空間が消滅しました。

その時にその方は巻き込まれて死なれたようです。ですがそれ以外の事を私は知りません」

「だからと言ってこの家に貴女たちが住んで良いというのは筋が通らないわ。それに貴女も魔術師か何かのようだけど、今の言葉を鵜呑みにするほど私も馬鹿じゃなくてよ?」

「ちなみに先ほどフランデル様の使いと言いましたか。フランデルというのは――」

「話を逸らさないで頂戴?」


「…………」

ダメだ。

私達が逃げれないのを知った上で問うて来ている。

どうした物か。

選択肢は限られていた。

次の返答を考えていると花円が頭上に手をかざす。

「手荒な真似はしたくないのだけれど」

背丈の倍はあろうかと見える独特な形をした大剣が出現した。

それを片手で軽々と持ち上げている。

脅しに掛かっていた。

「で、貴女たちは何者?」

かくなる上は仕方ないか

世の中には先手必勝という言葉がある。

既に相手は身構えているのだ。

ならばこちらが手を出しても文句は言われまい。

「アルパチオがここにいない事は紛れもない事実。そして私達は貴女に用はない。お引き取りを」

幸い今は夜である。

アイリーンに見られたくはないがあらゆる魔を行使出来る状態だ。

ユメが右手を広げると地面に漆黒の闇が生じた。

それも1つではない。

3つの穴からそれぞれ1本ずつ禍々しい気を放った大きな黒い手が出現した。

「どうやら正体を現したようね。いいわ!花円が相手してあげる!」

花円は地面を蹴って一飛びすると大剣を大振りして一文字にユメへ切りかかった。

すかさず黒い手が伸びてくるが、それをひと振りで切り払い遮二無二突撃する。

寸での所で避けられ地面に大剣が突き刺ささった。

地面には2mほどの亀裂が生じていた。

とてつもない威力である。

次に右から左から大きな手が花円を捕まえようと襲ってくるが器用に大剣を振り回してその手を切っていく。

手そのものはさして強くなさそうで魔力を編んだわけでもない大剣でスパスパと切れるのだがすぐに再生してしまう。

これではきりがない。

「ちっ、面倒くさいわね!」

空気と戦っているようで先が見えなかった。

「帰ってくれるのなら追うような事はしないよ?」

恐らく相手は全然力を出していないのだろう。

毅然とした態度で話してくるのが腹立たしかった。

が、花円は力押しするタイプだ。

機転や策を考えれるような頭ではない。

あくまで唯一の武器である大剣で戦いぬくが常だ。

「しゃぁぁぁぁ!」

両手で大剣の柄を握り、人ならざるスピードで正面からカラフル少女に突っ込んでいく。

頭の弱い花円は完全に血が登り、自分がここへ何をしに来たかも忘れていた。

案の定、黒い手が張り手のように三方向から花円へ迫りカラフル少女を守ろうとする。

「邪魔なのよぉ!!」

黒い手よりも遥かに高い所まで跳躍するとその後ろにいる少女めがけて大剣の切っ先を向け降下していく。


「猪武者め!」

子供のように力押ししてくるタイプはユメのような存在にはいささかやりにくい。

どこまでも執拗に突進してくるからだ。

が、相手の攻撃を避ける事は容易い。

しかし正面に気を使いすぎた。

自分のすぐ後ろに家の外壁があったのである。

「あっっ!?」

先程の地面に突き刺さった威力を見るにこのままではー

降下してきた花円が数秒前までユメがいた所に大剣を突き刺す。

そしてー

ドゴーーーーーン!!!

巨大な土煙が上がり、周囲の視界が奪われる。

ユメも目を閉じる以外に出来なかった。

視界を取り戻した頃、見えたのは一部が崩壊して部屋の中が見えてしまっている無残な家と腰を抜かしてしゃがみ込むアイリーン、それに覆い被さるラトゥだった。

「アイちゃん!」

さっと浮遊してアイリーンの元へ駆け寄る。この武者女、ただでは済まさぬ。

「ごめんね。怪我はない?」

「うぅ……何が、起こったの?」

「ちょっと変なお客さんだよ」

しかしアイリーンはすぐに別の事に気を奪われた。

「ラトゥ!背中、背中が!」

見るとラトゥの背中にはいくつかの木片や瓦礫が刺さっていた。

アイリーンを庇うため身代わりになったのだろう。

しかし不思議と血が出ていない。

そしてラトゥは何事もなかったかのようにすくっと立ち上がっている。

それもそうだ。

この子は私が無理やり夢の中から顕現させた存在。

生身の人間ではないのだ。

とりあえず今最大の問題は――

「う……痛ぅぅ……」

ちょっと力を込めすぎた。

地面に大剣を突き刺した反動で自分がダメージを食らいながらなんとか立ち上がる。

いつの間にか目の前にある家を破壊していた。

さっきまではカラフル少女だけだったが、今はメイドと気弱そうな少女が増えている。

「ここからどうしよ……」

自分でした事に悩んだまま名も知らぬ三人を見つめた。

その時、どこからともなく馬の嘶きと荒々しい車輪の音が近づいてきた。

「あれは……フランデル様!?」

やってきたのはフランデル専用に作られた趣味の悪い馬車である。

二頭の黒馬にフードを被った御者たちが引っ張ってきたのは艶めかしい人の文様や髑髏マークが散りばめられたまるで冥界からやってきたのかと思わせる車だ。紋様

花円の前で馬車が止まるとひらりとフランデルが降りてきた。

「何をしている花円」

「も、申し訳ありません。私も気がついたらこのような事に……」

嘘は言ってないはずだ。

花円を派遣してからしばらく自分なりに記憶を辿った。

フランデルは暇さえあれば手下たちに町を襲わせ子供を攫う。

フランデルの正体を知らない世間は1つの現象として「人攫い」という超常現象の類であると迷信を抱いていた。

それに手下たちもほとんどはフランデルが把握していない者たちだ。

気前の良いドンがいる、という話が一人歩きして四方の悪党どもはフランデルがばら撒いている資金にたかっている状態である。

中にはフランデルの名前や金だけ借りて私欲に走る輩も多かったがフランデルは全く把握するつもりはなかった。

「そう。思い出したのだ。全てを!アルパチオには昔さらってきた赤子を預けてあってなぁ。世話のために月払いで養育費を送ってやっていたんだ。その赤子は今となっては珍しい魔術師の血が流れていた。それ故殺すには惜しいと思ってな。そのうち私の眷属にでもしようと――」

ユメの顔には最早表情がなかった。

突如現れたフランデル。

頭の中で全てが繋がった。

アイリーンはこいつが監禁していたのだ。

アルパチオはフランデルの一味だったのだろう。

この地域で「人攫い」の怪奇現象を聞いた事はある。

あまりにも大規模なため人ならざる力による超常現象として伝説化していた。

しかし多くの人々を悲しみ、嘆かせた「人攫い」の正体は頭のイカれた男の手によるものだった。

アイリーンはその数え切れない被害者の1人に過ぎない。

さらにこいつはただの人間ではない。


-黒魔術師-


己の力をろくな事に使わない魔術師だ。

アイリーンの存在に気がついたフランデルが耳障りな声で問うてくる。

「私には分かる。幾年もの歳月が過ぎようと一度見た顔は決して忘れぬ。長い間放置してすまなかった。面倒を見ていたアルパチオが死んでしまったのだ。これから我が屋敷で過ごされるとよかろう。さぁ参ろう!」

朗々とあまりにも勝手な台詞を述べるフランデル。

迎えに来た? 

アイリーンの人生を壊しておいて、奇妙な空間に閉じ込めておいて。

しかも今まで忘れていたくせに何様のつもりだろう?

「……ふざけないでもらえるかなぁ?」

ユメは冷たい声でフランデルの言葉を遮り睨みつける。

「何だお前は。私はお前のような小娘には興味がない。自分の娘を迎えに来ただけだ。邪魔しないで頂きたい。が、其の方、どうやら人間ではなさそうだな」

「唐突に出てきたと思えば今更保護者呼び? 悪いけど、その子は私の手伝いをしてくれる契約を交わしているからさ、親元は二人もいらないよ?」

「ハッ!笑わせるな何を抜かすかと思えば。元よりお前の意見など求めておらんよ子供が子供を育てると申すか」

「会話の余地無し……か」

対話をしようとは思わなかった。こいつは今ここで私が殺す。

花円を相手していた時と同じように巨大な黒い手を召喚しフランデルの行く手を阻んだ。

「アイちゃん、逃げて!」

アイリーンは何が起こっているのか分からないまま空気を読んだラトゥに起き上がらして貰いヨロヨロと立ち上がる。

それでもこれだけは言わないといけないと思った。

本能的にそう思ったのだ。

「あのぉ……」

「やはり父娘。第三者には分からぬ物で繋がっているのだな。私はそなたの父ぞ!」

「アイちゃん、聞いちゃダメ」

「私、私は貴方の所には行きたくないです」

「…………はっ?」

「ん~~~~~~~~聞こえなかったなぁ。何を言っているのだ我が娘よ?」

「私は貴方を知らない。貴方は私のお父さんじゃないでしょ?そのぐらい分かるわ」

「確かにアルパチオが死んだのは痛むべく事。しかしアルパチオは私の知り合いでね。これからは私が面倒を見てあげようと言っているのだ。何、不自由はさせないよ。さぁおいで!!」

「はーい、ちょっと黙ってよっか」

ユメは会話を遮り召喚している三本の手を全てフランデルに向けた。

しかしこのような手が効かないのは知っている。

フランデルは手慣れた魔術師だろう。

今はアイリーンが逃げる時間を稼ぐのが先決。

案の定、フランデルの持っていた本が光ると襲ってきた手と自分の間にバリアのような空間を作り出し、ぶつかってきた手たちの攻撃を受け止めて雲散霧消させてしまった。

「ラトゥ!お願い!」

ラトゥにアイリーンをこの場から連れて行くよう指示する。

「お前たち!!」

フランデルが甲高い声で叫ぶとどこに隠れていたのか付近の茂みから半月刀を持った柄の悪い郎党たちがわらわらと現れた。

「我が娘を捕らえよ。他の者は殺せ。目的はそれだけだ」

郎党たちはジリジリと間合いを詰めてくる。

こうなったらフランデルを倒すしかない。

ダーン!

ふいに銃声が響いた。

振り返れば郎党が1人撃ち抜かれて倒れている。

ラトゥが撃ったのだ。

相手が怯んだ間にラトゥはアイリーンの手を握って駆け出した。

正面に躍り出た郎党を1人、また1人と撃ち殺しながら。

「どいつもこいつも歯向かいおって……」

フランデルの顔がだんだんと無表情になっていく。

「我が手を煩わせた事、死を持って償うが良い!!」

フランデルは手の平の上に分厚い黒表紙の本を出現させると自分にしか解読出来ない呪文を唱えた。

その瞬間、地面に魔法陣が浮かび上がり中から「名状し難きモノ」が現れた。

人の背丈の倍はあろうかと思う謎の肉塊から幾重もの触手状の物が伸びてウネウネしている。

「む……」

遂に魔物を召喚しやがった。

面倒だと思いながらユメは次なる手を考える。

「花円!」

「ひゃ、ひゃい!」

「お前は私の娘を連れてくるまで帰ってくるな。わかったな」

「さ、イエッサー!」

花円ならたかが知れている。

ユメにはフランデルがその選択をした事に感謝した。

「そこなる小娘、まだ私に歯向かうのか」

「引く気はないしね?」

「どうやらお前も魔の類のようだが何者だ?」

「なんだと思う?」

「愚か者め」

フランデルの意を組んだのか魔物はユメをターゲットに選び、触手を伸ばして攻撃してきた。

女の足ではそう長くは逃げれない。

ラトゥはアイリーンを引っ張りながら家の裏にまわって馬小屋に駆け込み、馬を調達しようとした。

「アイリーン様、はやく!」

アイリーンがあたふたしながら馬を解き放ちラトゥが後ろにあがろうとした時、小屋の入口に人影。

「どうも♪」

襲撃してきた青髪の女が行く手を阻んでいた。

後ろには数人の郎党たちもいる。

ラトゥはすぐに銃口を向けるがどうしていいかは分からない。

ここまでなのか……

「あんたたち、私はフランデル様から直々にこいつらを捕まえるまで帰ってくるなって言われちゃったの。ここは1つ私に手柄を譲ってくださらない?」

甘美な声で郎党たちに告げる女。

後ろに控えていた郎党たちはそれを聞いて数歩下がった。

女が頭上に片手をあげると不思議な形をした長刀が具現化する。

しかし見間違いか、女が刀を構えて振りかざした瞬間にこちらにウィンクした気がした。

そして――

「それじゃあ、おやすみなさい!!」

くるりと振り返って事もあろうか自分の味方であるはずの郎党たちに向けて刀を横に振り切ると風圧で皆吹き飛ばされてしまった。

アイリーンもラトゥもこれには呆けて固まるしかなかった。

「私はあんた達を捕まえる気はこれっぽっちもないわ。逃げるなら今のうちよ?」

女が何を考えているかは分からない。

しかし逃げるなら今しかない事は明白だ。

ラトゥはひらりとアイリーンの後ろにまたがり、それを受けたアイリーンは備え付けの鞭を打って馬を駆けさせた。

もう辞めにしよう。

フランデルとユメが会話しているのを聞いて全てを悟った花円はフランデルから離れる事にした。

確かに前からロクな事をしていないだろうとは思っていたが外道が過ぎる。

冗談じゃない。

これ以上は関わっていられなかった。

幸いな事に捕まえるまで戻ってくるなと言われている。

ならば捕まえなければいつまでも戻らなくても良いはずだ。

郎党は残り3人ぐらいか。

花円が裏切ったと認識した郎党たちは次々と襲い掛かってくるが所詮は人の身、流石に数の差があるとちょっと手間にはなったが、まがいなりにも魔力で馬鹿力を得ている花円には敵わずに何度か切りあった後に全滅した。

見届けた花円はアイリーンたちを追って暗闇の森へ入っていく。

さてと、アイちゃんとラトゥをこの場から離れさせることが出来たのは良かったけれど、私の時間が残りわずかとなっているのが心苦しい所だ。

夜明けまで残り一時間、その間にこの男を足止め、もしくは殺す所までは処理をしないといけないのだが……

「ふふ、私もやきが回ったかなぁ?」

自分で首を突っ込んでしまったけれど、個人の為にここまでしてあげたことなんて、ましてや一人の命を長らえさせることなんて、少し前の私だったら考え付かない事例だ。

ずっと傍観者だったのに、なんで今回は主観となって物語に関与しているのだろうかと笑ってしまう。

「その身1つで我に挑むその心意気やよし。しかし恐怖心を隠し切る事は出来まいて。貴様はここで野の露と消えよう…」

「誰が? 私が? ふふ、面白いこと言うねおじさん」

恐怖なんて感じたことがない。むしろどうやって恐怖を抱けばいいのだろう。

ユメが右手を振りかざすといにしえの御伽噺にでも出てきそうなライオンを軸とした漆黒のキメラ2体がユメの影から召喚された。

「餌の時間だよ、さあ、お食べ?」

言い終わるより早く、キメラは猛突進で「名状し難きモノ」に突っ込んで食らいついた。

「名状し難きモノ」は耳障りな叫び声を上げながら鬱陶しそうに触手で払いのけようとする。

1頭のキメラは咥えていた部分を無理やり噛みちぎって触手を避けた。

もう1頭のキメラは一度触手に地面へ叩きつけられたが、すぐに起き上がって自分をしばいた触手を食いちぎる。

だが触手も数本ではない。

次から次へと本体から伸びてきてキメラたちが応戦しきれなくなってきた。

「むむ、それならもう少し出すか」

ユメがパチン、と指を鳴らすとドラゴン1頭と鮫1頭が出現し、これまた遮二無二突撃を開始した。

が、触手は無尽蔵に生えてくる。

何度かの攻めぎ合いを繰り返した後、キメラもドラゴンも鮫も何本もの触手に絞められて消滅してしまった。

「名状し難きモノ」は勝ち誇ったと言わんばかりの雄叫びをあげ、伸びている触手の全てをぴん、とユメに突き詰めて狙いを定めた。

その後ろではフランデルがつまらなさそうにこちらを睨んでいる。

「悪あがきはこれまでかね?」

「別に悪あがきをしているつもりは無いよ」

「先ほどの攻防で分かったのでは無いのか? お前の攻撃は私には効果がないと。お前も魔の類なら私の召喚したこいつが何を意味するのか分かっているのでは?」

「は? 効果がない? そんなお粗末な防御壁と海産物で?」

ただの触手の塊、ましては肉の塊になんの意味があると言われてもそんなものは私の理解の内だ。

さっきので魔獣たちが霧散してしまったけれど、それがお粗末極まりない攻撃だったのは分かっている。

そもそも最初からこいつを『倒す気がなかった』のだ。

アイリーンたちがこの場を離れる時間を稼げればそれで良かった。

こんなのはユメにとって見ればお遊びに過ぎない。

「もう少し遊んであげても良かったんだけどもう終りにするね」

そう言うとユメは両手を大きく広げた。

瞳は光を失っている。

まるで底のない闇のように。

刹那、大地が揺れフランデルの視界が歪む。

大地とユメが一体化し、脈打つように地面が震動する。

「なっ!?」

そうこうしている内に「名状し難きモノ」の前面にそれよりも遥かに大きな「黒い影」が出現し

まるで意志を持っているかのように「名状し難きモノ」の四方を囲んで隙間なく包み込んでしまった。

醜き塊が「黒い影」に飲み込まれたのだ。

「名状し難きモノ」は内部で必死に抵抗しているのだろう。

無鉄砲に触手で刺突し続け「黒い影」を内部から攻撃していたがだんだんとそれも弱まわっていった。

残こされた影による大きな咀嚼音だけが森の中を満たしていく。

「お醤油が欲しいなぁやっぱり」

「馬鹿な……こんなことが……」

フランデルは眼を大きく見開いて愕然としている。

わなわなと唇を震わせ何かを言いたそうにしているが頭が追いついてないようだ。

「ほら、出しなよ?その本があれば黒魔術は何でもできる筈だよ? まあ、出したところで出てくる食べ物なんておやつ程度にしかならないんだけど……」

「くっ!!」

 フランデルの持っていた本が怪しく光り輝く。

 地面に広がった魔法陣は先ほど召喚した怪物よりも大きなものだ。

 なら、次に何が起こるのかは粗方予想が付く。

「あぁ……そういえば、貴方、街の子供たちを攫っては慰み者にしていたんだっけ?」

「だからどうした?」

「い~え~? ただ、これから面白い夢物語を見せてくれる純粋無垢な将来のある子供たちを殺したと聞いたら少しだけ頭に来ちゃったなぁって」

魔獣が魔法陣から出現するのと同時に森の影が生物となって魔獣を地面に縫い付ける。

「ギッ……ギギギ!!?」

「君は後でいただくからそこで待っててね」

フランデルは血走った目で本を睨み付けながらユメを近づけさせないように魔術を乱唱する。

浮かび上がっては発射される光の弾は当たってはいる。

確かに目の前の娘に自分の攻撃は当たっている筈なのに、意に返していないのが不自然極まりない。

「馬鹿な……本当に貴様は何者か!!」

「自分で言っていたじゃない。私の事を魔の類だって。正解だよ黒魔術師さん。私は夢魔。様々な世界を行き来する存在よ」

「夢魔? 馬鹿を言うな……貴様のような夢魔がいてたまるか!!」

 フランデルは新しく小さな魔獣を召喚しユメの元へと向かわせるが――。

「だからぁ、こんなものはお腹の足しにもならないって言ってるじゃない?」

「ひっ!?」

形勢が逆転したことを悟ったフランデルは目の前の少女に恐怖した。

 今までこの本で何もかもを凌辱してきた。土地も、権力も、人間も。ただ、この娘だけは手を出してはいけない存在だったのだと理解したことで、フランデルはこの場から逃げることを選択するしか無くなった。

「夢魔と言っても、私は今君の前にも存在しているし、その後ろにも存在しているし、頭の中にだって存在しているし、何処にでもいるし何処にでもいない存在、それが私。

まあ、夢魔って言った方が、分類しやすいでしょ?」

「ば……馬鹿な、こんなのが夢魔とは言わないだろう! それこそ、童話のチェシャ猫と在り方が――」

「とりあえず、貴方はもう私たちの前に姿を出さないようにしておくわね」

少女の胴体が歪みだすと、黒い渦が出現する。それはまるですべてを飲み込むブラックホールのようだ。

「次元の狭間って見てみたくない? すごい興味ない?」

 ユメの提案にフランデルは少しだけ興味が惹かれたが、これは絶対に乗ってはいけない提案だと理解している。

 有無を言わせない事象にフランデルは後退しようとしたが、体はユメへと引き寄せられていく。

「ぬおぉぉぉ!?」

「お一人様ごあんなーい♪」

ユメの身体に引きずり込まれようとした瞬間、フランデルの身体はユメをすり抜けて地面へと転げまわる。

一体何が起こったのかフランデルは分からなかったが、自分は生き残ったと理解した時にはおぞましき謎の少女は半透明になっていた。

「……ちぇ、時間かぁ」

気がつけば太陽が顔を出している。

フランデルを殺しきれなかったのは残念だが今宵はここまでのようだった。

ユメの体が透けていく。

長話が過ぎてしまったかと少しだけ後悔しながら縫い留めていた魔獣を影の中へと引きずり込んで捕食する。

「まぁ、足止めにはなっただろうし、貴方も馬鹿では……無いと思いたいけれど、次が来たら問答無用で消えてもらうからね」

あの二人もだいぶ遠くに逃げただろうし、さっさと追いかけよう。

ユメは呆けて転がっているフランデルに刺すように言い残して霊体と化した。

1人残されたフランデルは拗ねた子供のように突っ立っている。

夢魔と言ったか。

あのような類は長年裏世界を生きてきた自分ですら見聞きした事がない。

恐らく夢魔を名乗る別の存在と思われる。

が、今はその正体が全く思い当たらなかった。

とにかくなす術がないのは分かった。

追撃に放った手下たちも戻ってくる様子がない。

謎の少女を相手に生き延びた、という事以外に今だに何が起こったがほとんど理解出来ないままフランデルは1人帰路につくしかなかった。

ユメとフランデルが決闘を繰り広げている頃、逃げたアイリーンたちは行く宛もないままひたすら森を駆け抜けていた。

迷路のような森の中をひたすら前へ、前へ。

ふと気がつくと追ってきていると思っていた郎党たちの気配がない。

気は緩めてはいけないがラトゥはアイリーンに停止を求めた。

馬の息も相当荒れている。

このまま乗りつぶしてしまってはいけないという思いもあった。

「疲れたわ……」

ずっと手綱を握っていたアイリーンがどさりと馬の横腹にもたれかかる。

か細くて白い手には血豆がいくつも出来ていた。

「逃げてきたのは良いのですが……現在地が把握出来ませんね」

家を飛び出してきたのはとっさの事だった。

状況を確認すると絶望的だ。

ピストルの弾は残り2発しかない。

予備を用意している暇など無かった今、幸いなのは今日の月は眺めていたくなるような見事な満月だという事。

おかげで視界と足元はなんとか確保出来ている。

「目指す場所は分かりませんが、今は進むしかないですね」

ラトゥは肉体を持つ人間ではなくユメが概念から無理やり具現化させた存在のため疲れを知らない。

しかしアイリーンはそうもいかないのである。

自分で出来る事が数少ないか弱いお嬢なのだ。

今アイリーンを守れるのは自分しかない。

改めて気を引き締めたラトゥは何が何でも生き延びねばと決意する。

「アイリーン様、私が轡をとって先導します。どうか今一度お背中へ」

「う、うーん」

眠いのだろう。

いつもならこんな時間まで起きていない。

馬の背に登ろうとするアイリーンを支えてなんとか跨がらせるとラトゥは轡を片手に歩き出した。

「ユメは。ユメは大丈夫かしら。大きな化物が…」

馬に揺られながら半分寝てしまっている。

それでもなおユメを案じていた。

「大丈夫ですよ。ユメ様なら。そうだ。寝てしまえばユメ様に会えるのでは?」

「そう、かも……知れないわね」

「歌って差し上げましょう。いつものように」

馬の首に体を預けながらアイリーンは手綱を離した。

その手綱の中に無理やり胴体を突っ込み落ちないように仮初の固定をする。

ラトゥがどこで覚えたかも記憶がないが1つアイリーンの好きな子守唄がある。

ゆったりとした音色にどこか懐かしいような哀愁を漂わせる曲だ。

案外この辺りの伝統的な物なのかもしれなかった。

伸び伸びとした綺麗な歌声と馬の蹄の音だけが空気を支配していた。

そうこうしている内に小丘の下に休めそうな小さな洞窟を見つけた。

無闇矢鱈に歩いているよりもここで夜を明かすか。

馬の背からなんとかアイリーンを下ろして革の鞍を外し、地面に寝かせたアイリーンの枕変わりに敷いた。

そうこうして一段落しているうちにふと背後に人の気配を感じる。

素早くピストルを向けて振り返ると立っていたのはあの青髪の女だ。

一気に緊張が高まる。

寝ているアイリーンをどう守れば良いのか――

「やっと見つけたわ。苦労したってのもう」

髪を掻き上げやれやれと言った感じである。

そういえばこの女は共に追いかけてくるはずの味方を攻撃していたのを思い出す。

しかし私達の味方か敵か真意が測れない。

そもそも最初に家に来てユメと戦い家を半壊させたのはこいつではなかったか。

「あー、私疑われてる感じ?まぁ無理もないか。お家壊しちゃったもんね。ごめんね。修理費は出すわよ。あ、後他の追手立ちは私が全員始末したわ。だから安心して?」

ラトゥは青髪の女に向けたピストルを下げずに問う

「私達になんのようだ」

「あー、それね。まずそこからよね。うん。コミュニケーションが足りなかったのよ」

ふぅ、とため息をついて仕切り直しといった感じに女が語る。

「私は花円。三日月花円よ。最初はー、あのフランデルって所のやつで働いてて今日は使いで来たはずだったのよね。本当は」

落ち着かなさそうにくるくると髪を指に巻きつかせながら語る花円は思っていたやつほど危険な人物ではなさそうだ。どちらかと言うと口調からして馬鹿っぽい、というのが様子を見ていたラトゥが花円に抱いた印象だった。

「それでー、来たのは良いんだけどあの小さい子と喧嘩になっちゃってさぁー。

もーあの子なんなのよ。怪物かなにかかしら?

でもその後にフランデル本人が登場するのは想像してなかったわ。そしたらなんなのよ。前からヤバそうな奴だとは思っていたけど高時給欲しさに目を瞑っていたのがいけなかったのね。もうアイツの所に戻る気はないわ」

自分がピストルを向けられている事などお構いなしに花円がペラペラと喋り続ける。一度話し出すと止まらないタイプなのだろうか。

警戒心を解いてラトゥがピストルを下げると花円も落ち着いたようだった。

「で、貴方達はこれからどうするつもり?」

「ひとまずはこの森を出たいのですが…」

「町に向かってる?」

「一度落ち着いた所で休みたいですね。アイリーン様もいますし」

「アイリーンって言うんだその子」

「はい」

「私も疲れたわー。そっち言っていい?」

「どうぞ」

背伸びしながら洞窟へ入ってくると花円がアイリーンの側で横になる。

そして大きなあくびをしたかと思うとそのまま寝息を立ててしまった。

なんなのだこいつは。

こいつを見ていると調子が狂う。

面倒を見る赤子が増えたと思いながら疲れをしらないラトゥは寝ずの番人を続けた。

やがて日が登る。

最初に起きたのはアイリーンだった。

「おはようございます」

こんな時でもいつも通りの形式張った挨拶をする。

「ユメが来てるわ」

「え、どこに?」

「私の夢の中に入ってきたの」

「あぁなるほど」

「この子の夢も覗いたみたい」

「花円様ですか」

自分の横で品も無く仰向けで寝る花円を見ながらアイリーンが微笑む。

「この子面白い子ね。夢の中でケーキばかり食べてたわ。それでね私とユメでお邪魔してお茶会したの」

「それはよう御座いました」

「この子はもう私の友達よ。悪い子じゃないわ」

「以後そのように致します」

「子守お疲れ様!」

ふいにユメの声がした。差し込む日の光から出来るアイリーンの影に僅かながらユメの気配を感じた。

「お疲れ様ですユメ様」

スカートの両裾をあげて軽く頭を下げる。

ユメさえいればもう心配する事はないだろう。

「しっかし良く寝るねぇこの子」

「あれだけ食べてたんですもの。誰でも食べたら眠たくなるわ」

「夢の中でも寝てるって何とも幸せなやつ……まあ、おかげでデザートにはありつけたからよしとしましょう」

ラトゥの知らない間に三人はすっかり打ち解けたようだ。

やがて花円が起床し、話をまとめる。

「とりあえず町に行くのかしら?ここからはそう遠くないわよ」

花円の話を聞いているとどうやら町に向かう方向に進んでいたが、かなり遠周りな道を来たようだ。

「あの町に行くならまたあのお店に行きたいわ!」

アイリーンのテンションが上がっていく。

もう暴食する事しか頭にないようだった。

アイリーンの影を借りながら町に向かう途上、ユメは密かに思い描いていた事を言葉にした。

「あの家にはこのままもう戻らない方が良いと思うんだ」

「今のお家?」

「そう。あのフランデルとか言う男、またアイちゃんを追ってくると思う。私が撃退する事は容易いけど居場所が知られているというのは一番厄介。当分、挑んでくる事はないと思いたいけど……」

「確かにあの男はしつこいわよ。自分が気に入った物は全部手元にないと気がすまない性格だわ」

「それならそれで良いんだけどね? 次は魂まで食べるから」

「ひえ……ね、ねぇ次の住処の宛てはあるのかしら?」

「ご覧の通り身1つの状態だからね、ずっと今のままだと野宿になっちゃうよ」

「なら町外れの場所に空き家を1つ知ってるの。元々は私の親族の家だったのだけれどそこでよければ。あのお家壊しちゃったのも私だし弁償しようとも思ったんだけど……」

「お引っ越しですか?」

「アイちゃんがその家で良いって思ったなら誰も文句は言わないよ」

「見に行ってみたいわその新しいお家!」

「じゃ決まり♪」

そうこうしながら一行は意気会々としながら目指す飲食店まで来たが予想外の出来事に出くわす事となった。

「あれれ、閉まってる?」

「人気もありませんし、店そのものが閉店したと言った方が正しいような気がします」

「えー…お腹空いたよう」

明らかに気を落とすアイリーン。

気がついてみれば町の様子も一変している。

あちこちで大規模な工事が行われていて以前の町並みは消え失せていた。

店の付近も更地となっている。

仕方なく他の飲食店を探そうとした時だった。

店の裏手から見知った金髪の女性がふらりと姿を現した。

「あら、お久しぶり」

「貴方はこのお店の」

以前ここを切り盛りしていたナーティーだ。

服装は以前と変わらなかった。

ユメは半透明ではあるが具現化して姿を現した。

不思議とナーティーはそれに突っ込む事がなかったがその方が都合良くて助かる。

「今日はお店の休業日なの?それとも開店前?」

「あー。店はね閉めてしまったんだ。最近治安が悪くてやる気失くしてね。それにここも時期に取り壊しになる」

「それは残念ですね」

「飲食希望だった?良ければ何か作ろうか?」

「うん!!」

「アイちゃん、こういう時は一旦謙遜した態度をするもんだよ」

とは言ったがユメはナーティーの言う治安悪化が気になった。

新たな転居先の事も考えるとこの一帯の情勢は把握しておかねばならないだろう。

ナーティーの振る舞う料理をラトゥが配膳しアイリーンと花円が夢中で食いついている間、ユメはナーティーを呼びつけた。

「実は以前の場所からこの町の近くに引っ越す事にしたんですけど、治安が悪いって何かあったの?」

「……」

ナーティーの表情が曇る。

「あ、いや個人的な事だったりしたら言わなくても良いんだけど」

「いいや、そうじゃない。町の雰囲気も以前とは別世界になってしまった。この半年ほどこのベレモンス帝国と隣国のルリア王国の関係が急速に悪化しているのは知ってる?

ルリア王国を非難する派閥の連中がこんな田舎にまで集まってはトンチキな集会を開いていて私のお店でも一度集会をやったんだ。私はそういうのは好きじゃない。巻き込まれる前にここを離れようと思ってね」

「うーむ。ちょっと話の規模が大きいな。アイちゃん達がどうこう出来る問題じゃないね」

「ここは国境に近い地域よ。もしルリア王国と戦争になったらまっ先に戦場になってしまうわ。かと言って帝都の方に行く気にもなれなくてね」

「それは参ったなぁ」

「町外れと言っていたけど新しいお家はどこなんだい?」

「これから向かう所なんだ、先にアイちゃんがご飯と言ってムキになっちゃったからね」

「今思いついたんだけど私がそこで働くのはダメかね」

「え、貴方が?」

「他に行く宛もなくてね。もちろん嫌と言われれば無理強いはしないけど」

「一応、実権を持っているのはあそこにいるアイちゃんだからね、頼み事は彼女に聞いてあげて?」

「ならご挨拶しないとね」

一通り食べ終えて休憩しているアイリーンの元へ向かったナーティーはそれまでとは違ってスカートの両裾を掴んでお辞儀をする礼儀通りの挨拶をした。

「アイリーン様。この度新たな住処での生活を始めると伺いました。不肖を承知で願わくば私をそこに置いては貰えないでしょうか?」

急な事で戸惑うアイリーンにユメが解説を付け加える。

「アイちゃんと一緒にいたいって事だよ」

「まぁ!それは素敵!じゃあ料理長に任命しようかしら」

「ありがたき幸せです」

両手を重ねてナーティーがぺこりとお辞儀をする。

「毎日こんな素敵な料理が食べ放題だなんて私は幸せ者よ!」

「アイリーン様、それはあまり良い事ではないと思いますが…」

焦った顔で横槍を入れるラトゥの言葉がアイリーンに届いていない事は明らかだった。

「ここよ」

町からしばらく歩いたこれまた森の中。

細かな装飾がなされたお洒落な洋館の前に4人の女性と1人の影が立っていた。

「良いじゃない。素敵ね!」

「ちょっと前まで住居人がいたから内部もそんなに荒れてないわよ。中にある物は好きにしてくれていいわ」

「落ち着きがあって良さげだね」

「掃除のし甲斐があります」

「ひとまずここで生活が出来そうだね」

ちぐはぐな五人の生活がここに始まろうとしていた。


新居に腰を落ち着けて数日。

この所アイリーンが落ち着かない。

慣れない場所のせいだろうかとユメは様子を伺っていたがそうでもないようだ。

私が直接問いただしても良いがこういう繊細な事はラトゥの方が向いている気がした。

あくる日の夜、アイリーンが寝静まったタイミングを見計らってラトゥを呼び出した。

「ねえねえラトゥラトゥ」

「なんでしょうか」

「この所、アイリーンに何か変わった事はなかったかい?」

しばし沈黙して記憶を探っていたラトゥだったが何か思い当たる節があったようだ。

「先日、銃を教えて欲しいと」

「じゅ、銃?」

「はい。どうやって使うのかと。それでお見せして実弾を抜いた状態で教えて差し上げました」

「何か不安でも抱えてるのかなぁ?」

「はっきりとは申されませんでした。しかし最近1人で考え込んでいるようで私も問うて良いものかどうかと思っていた次第です」

「ふーむ」

ラトゥを部屋に戻した後、1人窓辺に立って雲間の半月を眺めていた。

流れ行く雲に見え隠れする月がどことなく今のアイリーンと被ってしまう。

やはり本人に直接聞くべきか。

しかしあの子にもプライベートがあろう、と紛いなりにも保護者の視点で考えてしまう。

それにもう1つの懸念は戦争が近いかもしれないという事だ。

これはどうにもならない。

戦闘に巻き込まれないようにするために身を守る以外に出来る事がないのが歯痒かった。

私自身がこの戦争を終わらせるのは容易いけれど、それは絶対にしてはいけない事だ。

ただでさえ、アイリーン、ラトゥ、花円、ナーティ達と繋がりを深めてしまったことは、誤算すぎる範囲なのだ。

私のさじ加減1つでこの帝国を一つ滅亡させるだなんて、この先に現れるかもしれない夢物語たちを摘み取るのと同じなのだ。

「は~あ、やっぱり、人と関わるとろくな目に遭わないなぁ……」

答えが出ないまま夜明けを迎えて霊体化した。


今のままではいけない。

自分でも分かっているが何が出来るだろうか。

ユメはとてつもなく強い。

ラトゥも銃を仕える。

花円が持っている大きな刃物はとてもじゃないが自分には持てそうにない。

自分には何もない。

そう思えてしまって無意識に自分を追い詰めていた。

人に頼る以外の事をしてみたい。

ゆっくりと時間を掛けて自我が成長している途上のアイリーンの中でこれまでにはなかった感情が芽生えていた。


新しく引っ越した家にも大きな本棚がある。

が、これまでとは違い絵本などはなかった。

難しそうな辞書や文字が読めても内容の分からない物ばかりである。

それでも自分が何をすべき何かを求めて蔵書を漁り続けた。

そして一冊のタイトルを見て手が止まった。

パラパラとめくり自分が探していたであろう物を見つけた気がした。

「これだわ!」

古ぼけた冊子を手に夕餉の始まる食堂に向かった。

冊子のタイトルは「武術」とある。

ラトゥとナーティーがテーブルを片付けたタイミングを見計らってアイリーンは普段はしないような発言を意を決して口にした。

「ユメ」

「どうしたの?」

「私強くなりたいの」

「わお!? 急に何を言い出すの?」

「私、ずっと考えてた。この前恐ろしい人が来た時もそう。私は何も出来なかった。ただ逃げるだけ。いつもユメやラトゥに助けられてばかりだわ」

「アイちゃんはまだ子供だからね大人が守るのは当然だよ?」

「そうじゃなくて、なんというかその……自分で自分を守れるようにしたいなって」

ユメは久しく忘れていた感情を胸の内に抱いた。

アイリーンは見えない所で確実に成長していっている。

決して私達が一方的に守っているだけのか弱い少女ではないのだ。

「アイちゃん。君がそんな事を考えていたなんて思っていなかった。立派になったね」

アイリーンはまともに褒められた事がなかったせいかユメの慈愛ある発言に赤面してしまう。

「私はただ、その……守られてるだけなのが嫌になっただけよ」

「そう思えただけで充分だよアイちゃん」

浮遊して嬉しさのあまり普段は決してやらないような空中で軽やかに一回転を決めてからアイリーンの横に行きポンポンと頭を撫でた。

「からかわないでよ!私は真剣よ」

「分かってるよ。目を見れば分かるさ」

「むぅ……本当かしら」

「強くなりたい、か」

ナーティーが動かしていた手を止めてこちらに視線を移す。

「確かに一家の主であるならばそれ相応の護身術を身につけていても良いとは思うけどね」

「まあここはひとまずあれですよ。新居にも落ち着いた事だし一度情報整理と行こうか」

場を読んだユメが一つ咳払いをして仕切る。

流れでここまで来てしまったがそもそも未来のビジョンなど何一つ持たずここまでやってきたので先々の話をするべきだろうかと思ってもいた所だ。

「まず我らが当主、アイリーン・ブラン。私はまぁ保護者という事で。ラトゥはアイちゃんの付き人だね。ナーティーは料理長兼世話人という所か。そして貴女は」

まんざらでもない様子で椅子に座り既にこの家に溶け込んでいる花円。

元々ここは花円から譲られた家なので花円を居候と表現するのはおかしいのだが普段から出たり入ったりで外で何をしているかはいまいち掴めない。

質問しても私の事は気にするなの一点張りである。

「花円は私の友達よ」

アイリーンの純粋な瞳に花円をそこまで信用できないユメは深追いしづらい。

そんなユメを見計らったのか花円がふぅとため息をついて語り出した。

「今まで何も言わなくてごめんなさい。私、この前の男の所に何年かいたからお金はあるのよ。経理担当で書類ばかり見てたからフランデルが何をしていたかは本当に知らなかったんだけど……

でも私あまりじっとしていられないタイプで。今も働く場所を探してるわ」

「以前戦った時に見たけど多分君も魔術師だよね?」

「まぁそんな所ね。といっても純粋な魔術師の血筋は3代前までで混血の私には中途半端にしか力が備わってないの。魔術師としても人としてもはぐれ者よ」

「アイちゃん達に敵対心がないという事だけ分かれば後は聞かないよ。で、状況もまとまった所でアイちゃんはなんだったかな」

「これを見て」

アイリーンが持っていた一冊の本を差し出してきた。

「武術?この本はこの家で見つけたの?」

「そうよ。私これを覚えたいの」

「そう来たか。でも私もそれを主体でやった事ないしなぁ。ああでも、昔とてつもない剛力な人に出会ったけど……ダメだね、あれはとてもじゃないけど教えられる質ではないや」

「それでしたら、私がなんとか」

「へ?ラトゥ武術なんて出来たっけ?」

「私も経験はありません。しかし共に学んでいけば出来ない事はないでしょう。それに私自身アイリーン様をお守りする立場。私自身も強くあらねばなりません」

「その心意気やよし。まぁ少しずつ覚えていかないとね。まずは軽い護身術からかな」

「私はこれでも腕には自信がある方だよ。何せ店一つ守らないといけなかったからね」

ナーティーが腕まくりをして力拳を作った。

女性とは思えぬ筋肉量がある。

いっぱしの女将は肝も腕っ節もやはり強くあらねばならないようだ。

「あのお店って貴方一人で経営してたの?」

「そうさ。手雇いがいたにはいたけどね」

「力自慢なら私も多少の手ほどきはあるわ。何かの役に立てるかも」

「君の場合は馬鹿力に一辺倒な感じがするからちょっと不安なんだけどなぁ」

「なんですって!?」

声を荒げてユメに食ってかかった花円が意地悪そうにニタつくユメと口頭合戦を始めたのを見てアイリーンはくすくすと微笑んだ。

今は実に平和だ。

こんな日々がいつまでも続いてほしい。

一つとして大切な物を失いたくはない。

それがアイリーンの唯一の願いだった。

アイリーンを取り逃がして以降、フランデルは落ち着かない日々を送っていた。

追跡させたはずの花円も帰ってこない。

おかげでいままでやらせていた膨大な経理処理が止まってしまった。

花円はすぐ頭に血が上る激情型なためあまり表にはださず事務作業を任せていた。

その性格とは裏腹にめっぽう数字に強い人物だったのだ。

使い勝手が非常に良かったのは間違いない。

ユメという夢魔を名乗る何かを相手に無残な敗北を被ってから早くも1週間。

再びアイリーンを捉えに行こうにもユメに対応する方法が見つけられなかった。

フランデル自身、物心ついた時から裏社会で生きてきたが、ある意味豊富な経験の数々の中でもあのユメに該当する存在は見た事も聞いた事もなかった。

長年の黒魔術研究から編み出した「名状し難きモノ」が簡単に打ち破られてしまったのだ。

これには茫然自失とならざるを得なかった。

しかしアイリーンが自分の所から逃げたという現実を受け止めたくない以上、再び追わねばならないのだが簡単に行動に移す事が出来ない。

フランデルは歪んだ渇望を抱えて胸の内で悶々としていた。

腹いせと新たな「名状し難きモノ」の運用試験を兼ねて30年も前に揉めた事のある一味の本拠地を襲撃して全滅させてみたがやはり何一つ解決しなかった。

近頃はさらなる「名状し難きモノ」を生み出すため地下に籠もって研究を続けていた。

館には何人もの使用人がいる。

いずれも花円のようにフランデルが普段何をしているかは知らない者たちばかりだ。

ただひとえに簡単に雇ってくれるのと給料が良いという理由でメイドや下働きの者たちが入れ替わり立ち替わりしている。


研究に集中するため誰も近づくなと言い聞かせておいたはずだったため、たまたま自室に戻った時に小姓のアリエレが部屋の前に立っていた事が非常に腹正しかった。

アリエレも多分に漏れずどこかの地域から流れ着いたまだ10歳の少女だが、素直に言う事を聞くし、何より忠誠心が高かったので最近側に置くようになった。

「貴様、私の事伝を聞いていないのか」

「い、いえ。存じております。ただどうしてもお伝えしなければいけない事がありまして…」

「聞かぬぞ。今はそれ所ではない。それとも何か。退職届なら――」

そこまで言ってふとアリエレが大事そうに両手で抱えるトレイにようやく目が行く。

トレイの上には一通の手紙。

それもただの手紙でない事は世情に疎いフランデルにもすぐに理解できた。

文様が彫られた蝋で封がなされた気品漂う高級そうな封筒。

ドラゴンと剣があしらわれたこの文様、いや国章を使っているのは他でもない。

この地を支配するベレモンス帝国の物だった。

わざわざ大事そうに国章で封がなされているのは公的機関から直々に発送された事を意味している。

しかしフランデルには心当たりがない。

裏世界を生きる彼に世の中が追討の兵を差し向けるならまだしも誰が、なぜ便りをよこしたのか想像がつかなかった。

「これはいつ届いた」

「今朝方です。それからずっとここでフランデル様をお待ちしておりました」

「そうか。ご苦労であったな」

フランデルは内ポケットにあった紙幣数枚をねぎらいとしてアリエレに渡した後、部屋に入ってすぐに中身を確認しさらに驚かされる事となる。

これは何かの罠ではないだろうか。

国からの手紙を受け取って以降、フランデルはすぐにまとまった数の傭兵を雇って館の周囲を固めた。

今日は手紙の差出人が直々にここを訪ねて来ると返答してきた日だ。

それも公式的な物ではなくお忍びである。

そして約束の時刻。

いつもとは違い、正装で身を固めた使用人がこれまたタキシードに身を包んだフランデルの部屋のドアをノックする。

「行こう」

本来ならば直々に外で出迎えても良い相手が訪ねて来るのだが、どこまでも傲慢知己な彼はそれをしなかった。

それに彼はこれまでこの客人を敬った事もなければ興味を抱いた事もなかった。

ただ一つ言える事はフランデルは貴族の血筋ではない。

今でこそ膨大な財産を所有しているが、その大半は世間から巻き上げてきた汚れた金である。

表社会に出れない身でもあるが、今の地位に成り上がったこの状況でもその事が心のどこかでひっかかってはいた。

いくら金銀財宝を積み上げようとも本物の貴族にはなれはしないのだ、と。

その一方的なコンプレックスはいつしか社会を動かす貴族たちに対し、ささやかながらも歪んで無意味な憎悪を生み出していた事も事実である。

そして応接室に待たしている客人はそんな貴族たちの頂点にいる存在だ。

そんな人物が私に一体……

応接室の前には客人が連れてきた煌びやかな服装の男がドアを挟むようにして立っている。


フランデルが厳重に警備されたドアの前に立つと男の一人がドアをノックした。

「フランデル様がお見えになりました」

「うむ、分かった」

中から重圧感のある声が返ってきた。

それを受けてもう片方の男がドアを開けフランデルに入室を促す。

フランデルは中で待つ客人、アレキメッシュサンダー大王の顔を肖像画でしか見た事がなかったが絵師も相当な腕前なのであろうと目の前にいる大王と記憶の中の肖像画の顔を脳内で比較しながら思った。

「お待たせしまい申し訳ありません。この度はようこそ我が館へ。お申しつけ通り簡略化した対応をさせて頂いているとはいえ何のおもてなしもなく平にご容赦のほどを」

右手を腹の前に据えて深々と頭を下げた。

「フランデル殿。急なお呼び立てで申し訳ない。どうぞ座って頂きたく。堅苦しいのは無用である」

「はっ」

「この辺りの森は静かで過ごしやすいでしょうな」

「俗世を離れている身でございますればこれぐらいの場所がちょうどようございます」

「さもあろう」

「して恐れながら本日は私めにどのような? 拝読しました手紙には要件は直接伝えるとだけありましたが」

「そうだ。これは極めて重要な案件である。貴殿にしかお頼み申せない事なのだ。そしてその内容故に人払いをして今この部屋には朕と貴殿しかおらぬ」

「それはいささか身構えますな」

「単刀直入にお頼み申し上げる。我が国発展のため貴殿には是非ともご協力を賜りたい。貴殿には湯水の如く使用してなお有り余る財産をお持ちである事は調べがついている。我が国は近々隣国のルリア王国に宣戦布告せねばならぬ。長年に渡るルリアの我が国に対する屈辱的態度は耐え難き物だ。外交では解決の糸口はついに見つける事が出来なかった」

「それはすなわち……資金援助でございますかな?」

「さよう。ご協力頂けるのであればその資金源について問う事は一切ない事をお誓いいたす」

「これはまた大きな話でございますなぁ。大きな大きな夢物語のような」

自分でも把握しきれない巨万の富を築き上げたものの人生の楽しみを破壊行為にしか見いだせなかったフランデルにとってこの話はあまりにも滑稽だった。

今もニヒルな笑いを堪えるので精一杯である。

「また、資金提供の暁には貴殿に公爵の爵位とこの辺り一帯の領地を全て差し上げる所存。何卒」

一国の大王であろう者が名もなき裏社会の人間に対して座ったままではあるが軽く頭を下げた。

こんな戯言誰が信じ得ようか。

一笑に蹴って追い出す事は容易かった。

しかし何か彼に引かれる物があったのだ。

純粋に面白い、と。

フランデルに家族はいなかった。

この男と組んで失敗しても失うものはない。

あるとすれば多額の財産だけだ。

それでもなお有り余る資産が彼にはあった。

それに何より【身分上最高位にいるであろう存在が自分に頭を下げているという事実】そのものに酔いしれ、身震いがした。

それだけでフランデルは満足してしまったのだ。

「どうかお顔をお上げください陛下。私は元より下賤の身です。そのようになされる事はありません」

フランデルはその場で大王の手を握り、快く資金援助を承諾した。

「筆舌に尽くしがたい感激を得ております。此度の戦、必勝は揺るぎない事。先勝の際には望みの恩賞をご用意させて頂きます」

大王は満足げな顔でフランデルの手を強く握り返すのだった。

この協力関係はまさに悪魔の契約と呼んでよかっただろう。

この時、新たな楽しみを見つけたフランデルの中では既にアイリーンに関する事は綺麗に忘れ去られていた。

今フランデルの脳内にあるのはこの戦争で自分が利益を得られる事への楽しみだけだ。


そしてー。

人知れず行われた密会からさほど経過していないあくる日。

アレキ帝国軍の大部隊が一晩の内にルリアとの国境に集結した。

既に一触即発の両国であったが実際に敵の大軍が目の前に現れたのを受けてルリア側も緊急警報を発令し突貫ながら兵を集結させた。

アレキの外務大臣がルリア国王のアウゼール5世に対し、ルリアの外務省を通じて宣戦布告の通知が届けられたのが確認されるとアレキ軍は国境のゲートを突破し、敵地に雪崩れ込んだ。

ルリア側はヒッシリア王国の支援を受けていたとはいえ騎兵中心の旧態依然とした装備だった。

これに対しアレキ軍は開発途上でまだまだ試作の域を出ていないものの最新鋭の戦車部隊を保有している。

その概要は歩兵が随伴する装甲車の域を出ていなかったかもしれないが、十分な数が実戦配備されている事は大きかった。

ルリアは国土の半分が砂漠である。

中心的な都市もそれぞれ離れていて連携が難しかった。

それでも敵軍来襲の報に接し続々と各都市から師団が出撃していった。

アウゼール5世はアレキとの戦争に際し国境で食い止める以外に有効な手立てはないと以前より考えていた。

そのため国境に要塞を築く事をかねてより議論していたのだが、それは返ってアレキを刺激する事に繋がりかねないという反論もあり実現化しなかった。

海軍国のヒッシリアの影響もあってルリアも自然と海軍の増強が中心となっていた。

しかし対するアレキは元来陸軍国であった事もあり、アレキ海軍はルリア海軍と比べて貧弱でルリア海軍との正面衝突は極力避けるべきであるとの方針であった。

そのためアレキ海軍は商船を襲って経済的打撃を与える通商破壊作戦を選択した。

地上のアレキ軍の計画としては国境を突破した後は機動力を重視し、速やかに砂漠を通過して休む事なく一気に首都へ攻め込む目論見であった。

さらに少しでも敵の戦力を拡散するため少ない海軍によって沿岸部を奇襲、上陸するとの情報を大々的に宣伝した。

これを真に受けたルリア海軍は不利である事が分かっていた地上での戦いを補うべく、総力をあげて大艦隊を編成した。

海上で戦果をあげればアレキ軍の士気を落とす事にも繋がると考えたのだ。

しかしこれはアレキ海軍の罠だった。

貨物船が撃沈されたとの連絡を受けて報復すべく勇んで出撃したルリア海軍だったが、ルリアの領海に差し掛かったアレキ海軍の数隻の戦艦は周囲をうろついただけでそれ以上、ルリア側に攻め入ろうとはしなかった。

アレキ海軍の行動を不審に思いながらも、万全の体制で出撃してきたルリア海軍は総力を挙げて発見したアレキ海軍を虱潰しにしようと一気呵成にアレキの領海まで踏み込んだ。

アレキ海軍の戦艦はまともに戦う事なく無駄に高性能な速さで自国を目指して遁走し、ルリア海軍は必死にこれを追いかけた。

ルリア海軍が望遠鏡で遠くにアレキの陸地を視認出来る距離まで近づいた頃、それまで逃げる一方だったアレキ海軍の戦艦が一隻、また一隻と向きを変えてルリア海軍に向き合った。

ルリア海軍を率いていた将校たちはアレキの戦艦は逃走を諦めて決戦を挑んできた物と判断し総員戦闘開始を命ずる。

しかしそれと同時にルリア艦隊の艦艇に突如轟音と火柱が次々と襲いかかった。

アレキ海軍は事前に一定の場所に大量の機雷を仕掛けておいたのだ。

水中で複雑に絡み合わせて設置されていた機雷にとって密集陣形を取っていたアレキ海軍は格好の的だった。

1つが爆発すると連鎖反応で隣、そのまた隣と誘爆していき巨大な水柱が襲いかかる。

アレキ海軍を追う事に夢中になっていたルリア海軍は大混乱に陥り、さらに不運な事に旗鑑が轟沈した。

そこへ反転したアレキ海軍の戦艦が一斉砲火を浴びせたためアレキ側は想定以上の大損害を与える事に成功したのである。

一瞬で主力艦を失ったルリア海軍はまともに反撃する事も出来ずに残存鑑を集めて撤退を余儀なくされてしまった。

期待していた海軍の思わぬ大敗北を受けてアウゼール5世は戦う意思を失ってしまった。

一方、国境においてルリア軍を破ったアレキ軍はルリアの首都・ヒックサスを目指して砂漠を突き進んでいた。

アレキ軍は右翼から攻め込み、海岸沿いを進んで港湾都市への攻撃を行うB軍集団、中央を進む主力で首都を目指す最大兵力のA軍集団、補助的な立場で左翼から攻め込むC軍集団の主に三つの師団で構成されていた。

砂漠という立地をいかしたルリア軍の抵抗を想定し激戦になると覚悟していたが、各所で抵抗を受けはしたものの、アレキ軍の戦力が倍以上であった事もあり予想よりも遙かに上回る進撃速度でヒックサスに迫りつつあった。

そこへルリア海軍壊滅の報が伝わるとルリア軍では現実以上の悪いデマや恐怖の伝播で指揮系統に混乱が生じ、投降する兵が続出した。

圧倒的戦力で首都に迫るアレキ軍に恐怖したアウゼール5世は降伏を決意し、A軍集団を率いていたオーバット・ホームズ陸軍元帥にその旨を通達した。

開戦から僅か1ヶ月という短期決戦であった。

アレキ軍は想定よりも遙かに軽微な損害で終戦に至った事に慢心し、ほどなくして主力の半分を引き上げさせた。

だがこれには別の意図もある。

アレキにとって最大の懸念はルリアと同盟関係にあったヒッシリアが参戦してくる事である。

ルリアとヒッシリアの戦力が一つとして立ちはだかった場合、アレキ軍を大きく上回る物となる。

下手にルリア国内へ兵を駐屯させておく事はヒッシリアを刺激する事に繋がると考えたのであった。


その頃西の大国であるヒッシリア王国では参戦を巡って意見が2つに分かれていた。

というのもルリア支援を名目に参戦したとしてもそれはヒッシリアとアレキの全面戦争を意味する。

それだけの大規模な戦争を望む者は極僅かだった。

さらにヒッシリアにとって不幸だったのはこの時、国王が病に伏せっていた事だ。

国王には一人娘がいるだけであったが既に国王はまだ8歳の幼き王女に国を譲る事を正式に宣言していた。

もう一人、この王女の弟にあたる存在として男子がいたものの庶子であったため継承権がなかった。

よって王権神授説を元に代々150年以上に渡ってこの地を支配してきたヒッシリア王国の歴史に初の女性君主が誕生する事になったのである。

それに元々ヒッシリア王国の外交方針は保守的として知られており、巨大な軍事力を保持こそすれど対外進出を積極的に行う物ではなかった。

ルリア王国を支援していたのも新興勢力であるアレキに対する防波堤の意図が強かったのだ。

アレキが開戦を急いだのはこうしたヒッシリアの内部情勢を見据えての事でもある。

そしてルリアとアレキの戦争が短期的に終わった事もヒッシリアとしては誤算であった。

戦争が長引いた時に参戦して厭戦気分の漂ったアレキ軍を叩くつもりであったからだ。

こうした様々な負の連鎖が重なってヒッシリアは参戦の期を失い、ルリアは無条件降伏に追い込まれた。

しかしこの状況に一番納得がいかなかったのは他ならぬルリア国民たちであった。

電撃的な攻撃に遅れを取りこそしたものの、ルリア軍の主力はまだその戦力を保持しており、軍内部では海軍敗北の汚名をそそごうと本格的な反攻作戦を行う直前であったのだ。

怒りの矛先は弱腰と見られたアウゼール5世に向けられた。

アレキ軍による武装解除を拒否し世論の後押しを受けて支持を得れると判断した軍上層部はアレキ軍の主力が撤退した隙をついてクーデターを起こし、ルリア王宮を占領してアウゼール5世と息子で首相のイルダット8世を監禁した。

特にイルダット8世は降伏文書に調印した本人であったため理不尽にも怒りの対象として捉えられてしまっていた。

もっともアルゼール5世としては長期戦で国力を疲弊させるよりも一定の戦力を保持した状態で降服する事で次なる打開策を考えようとしていたのだが、混乱の中で頭に血が上った将校たちにはそれを理解しようとする物がいなかった。

軍上層部は駐留していたアレキ軍に対して報復を開始しこれを駆逐する事に成功。

不意を突かれたアレキ軍はまとまった抵抗が出来ず、ルリア反乱軍は形ながらもルリア全土を取り戻す事に成功したのである。

将校たちは国民の前で国王と首相を公開処刑し、アレキへの徹底抗戦を呼びかけた。

しかし当然ながらアレキ軍がこの状況を許すはずもなくすぐさま主力軍を差し向けて戦争を再開した。

各地で武装蜂起した国民も加えた反乱軍は一度目の戦いでは戦力を集結させる事が出来ずに占領されてしまった砂漠要塞を奪還して籠城しアレキ軍を正面から迎え撃った。

国王なき今となっては中心的存在がおらず、ルリア全土でゲリラ戦が展開される悲惨な結果となったのである。

反乱軍としてはヒッシリアの参戦を願っていたが8歳の王女に複雑な世界情勢を理解してもらう事は不可能であった。

さらに不運だったのは反乱軍が国王たちを処刑してしまったためヒッシリアが一転して態度を硬化させてしまった事である。

ヒッシリアとしては無法地帯となったルリアに首を突っ込むのは自殺行為でしかないと判断したのだ。

ヒッシリアはルリアを見捨てたのであった。

体制を立て直したアレキ軍はまとまった戦力を送り込んで砂漠要塞を一重にも二重にも包囲した。


さらに各地で抵抗する反乱軍に対しても容赦ない鎮圧を加えた。

勢いづいたアレキ軍は歯止めを失い、経済の中心地だったとある港湾都市にて無差別の大量虐殺を行ってしまう。

これは後々までアレキの歴史に汚点を残す事となった。

この見せしめとも言える行為にさらに憎しみを募らせた者もいたが恐怖して投降した者もおり、組織的な抵抗は少なくなっていった。

また、泥沼化を恐れて早期の終戦を目論んだアレキ軍は本国から増援部隊を必要以上に呼び寄せ、先の苦い経験から地方に至るまで徹底した残党狩りを行った。

旧ルリア軍によるクーデターから1年ほど。

最後まで抵抗を続けた砂漠要塞が遂に陥落し旧ルリア軍は壊滅した。

ルリアは二度目の降伏という屈辱を味わう事となり、かつては砂漠の都として親しまれていた町並みも往事の面影はなく無残な焦土と化した故郷だけが残されたのであった。

砂漠要塞の陥落が時間の問題となった頃、沈黙を貫いてきたヒッシリアが水面下で動き出した。

戦後のルリアにおける治安維持を巡ってアレキに接近したのである。

ルリア王族が処刑されてしまったため統治としてすぐに王制を行う事は不可能だった。

しかしアウゼール5世のまだ幼い次男がかろうじて生き延びてヒッシリアに脱出しており、将来的には彼が再びルリア王として即位する事で両国は合意する。

そうした状況もあり、また両国の思惑も絡んでルリアはちょうど国土の真ん中に敷かれた無慈悲な直線の線引きで分裂させられてしまった。

ヒッシリア保護領となった西ルリアに関しては将来的にルリア王へ返還する予定であるとされたのに対し、東ルリアを本国に併合するとしたアレキは将来のルリア王の即位と東ルリアの領有権は別問題であると主張し譲らなかった。

戦争で損害を受けた以上、何かを得なければ意味がないからである。

しかしヒッシリアも負けておらず、東ルリア領内における自治政府の承認とアレキ軍の駐留禁止を突きつけてきた。

ヒッシリアとしては自らの軍事力をちらつかせつつ、見捨てる形となったルリアへのせめての報いになれば、という意味合いを持ってもいた。

アレキは渋々この内容を受け入れ両国の間にヒックサス条約が締結される事となる。

これまでと違い、ヒッシリアとアレキは直接国境を接する身となり新たに冷戦時代が幕を開けたのであった。

戦争は次なる戦争を生む結果でしかなかったのである。


だが表面上の戦争は終わったものの分断されたルリア国民たちの間には独自にアレキへの報復を呼びかける物が多数現れ、社会は混乱していく。

東西のルリア統一を掲げた組織が乱立し特に東ルリア領内では無差別なテロが繰り返される事になった。

アレキ朝としてはこの事態に対応すべくヒッシリア許可の元、アレキ軍とは別に東ルリア自治政府配下の治安維持部隊として重武装の警官隊を組織しテロの取り締まりに当たる事になる。

アイリーンたちの住む場所は幸いにも先の大戦の影響を受ける事はなかった。

今回は国の外で起こった事だったからだ。

それでも開戦した直後から住む場所を失い戦火を逃れてきた難民や移民の悲惨な姿を身近に見る事となった。

そうした者たちが郊外でバラックを作り、粗末な生活を送っている。

敵国から流れて来た身、当然アレキが保護する訳もなく虐げられて隠れて過ごすしかなかった。

戦争が終わり、ここにいる意味がなくなったとしても元の場所で元の生活が出来る事は永遠に出来なくなってしまったのである。

「悲しいねぇ」

ラトゥを伴って森の中を歩いていたアイリーンの影に巣くうユメはそうした難民たちを尻目に呟いた。

本当はここに来る事事態ユメは反対した。

難民たちの数は数え切れない。

それに関わる事で何か厄介事に巻き込まれるのではないかという懸念もあった。

しかしこの惨状を知ったアイリーンは何でも良いから助けてあげたいと良い、頑として譲らず結局難民キャンプまで来たのである。

「アイちゃん。気持ちは分かる。君はとても良い子だ。けれどこれだけの人たちを全員救ってあげる事は出来ないんだよ」

終戦から半年、聞いた話ではヒッシリアの強い要請を受けてアレキがようやく難民の帰還事業を行い始めたそうだ。

時が経てばここにいる彼らもいずれいなくなる事だろう。

「それでも、私は……」

アイリーンは悲しげな表情を浮かべ、バラックを見やる。

「助けたいと言っても何も持ってないじゃない」

ユメの声はいつになく荒々しい。

難民たちも憎き敵国の助けを受けたくないというプライドからアレキ人に対して排他的であったのだ。

その時、アイリーンの視線の先に崩れそうな柱の元に座り込み呆けたように空を見る小さな女の子を見つけた。

着ている服はボロボロで顔も汚れており、痛々しいまでに痩せこけている。

アイリーンは女の子に近寄ったが女の子は心あらずと言った感じで振り向きもしなかった。

それでもアイリーンは少女に語りかける。

「私はアイリーン。言葉は分かるかしら」

少女はようやくアイリーンに顔を向けたがどんよりとした瞳はアイリーンを捉えているか分からなかった。

「あっ」

後ろにいたラトゥが何かに気がつく。

ラトゥの視線の先を見るとバラックの中に無理矢理作られた寝床に人が横たわっていた。

アイリーンは頬を引きつらせつつも寝床に向かおうとした。

「アイちゃん見ると辛くなる。止めておいた方が良いよ」

ユメがアイリーンを止める。

ユメは寝床にいる人物が既に亡骸であると理解していた。

変わりにラトゥが近づき様子を見る。

「亡くなってからまだそれほど時間は立っていません」

「……お母さん、かしら」

「老婆でした。この子との関係は分かりかねますが…」

「……」

重たい空気が二人と影の間に流れる。

やがてずっと少女を見つめていたアイリーンが口を開いた。

「ユメ」

「なに?」

言葉を聞かなくてもユメにはアイリーンが言いたい事は代々察しがついていた。

「私は親の顔を知らない。ユメと出会うまでずっと夢の中にいた。そうよね」

「囚われの身だったし捉えていたやつは死んじゃったね」

やはり……アイリーンは自分の境遇をこの少女と重ねているのだろう。

「私……この子を……見捨てれない」

「アイちゃん」

日中であるためユメは霊体化しており声だけが聞こえる。

それでも今のユメが激怒している事は明白であった。

「良い?先の戦争で数え切れない人たちが死んだ。男も女も子供も隔てなく殺し殺されたの。人間なんて愚かだよ。私は1000年過ごしてきたけど今までこんな光景は飽きるほど見てきた。

人間はずっーと同じ事を太古の昔から繰り返して来た。馬鹿だからね。ちっとも変わりはしない。

アイちゃんが今この子を助けても、把握していないどこかでは同じ境遇の子供がどれだけいるか。助からない命の方が圧倒的に多いのは分かってる?」

ユメは吐き捨てるように淡々と述べた。

ユメがここまで怒るのも珍しい。

人間の歴史の中ではいつもの事だから捨て置くしかないと言いたいのだろう。

それでもアイリーンは既に堅い決意を秘めていた。


アイリーンは魔女だ。

ユメが見るにこの子は普通の人間、共に生きていく事は難しい。

だが、この1年成長を見届けてきた中で分かった事がある。

アイリーンは頑固だ。

元々失っていた自我を徐々に形成していった事もあってかこの所は以前のような子供らしさが消えていた。

そこに今回の戦争である。

心的影響は良いも悪いも大きかった事だろう。

「この子は私が育てます」

「……もう何を言っても聞かないのでしょう。でもね子供を育てるってどういう事か分かってる?」

「それは……」

「考えが薄いよアイちゃん。パイ生地のように浅い」

「でも! ……パイ生地だって重ねれば大きいわ。私の口が埋まってしまうくらいに」

「……む」

これには流石のユメも驚いた。

今まで言い返して来た事などあっただろうか。

確実に内面が成長していってる。

肉体に追いついただろうか

アイリーンの新たな側面を見つけた事を喜びつつ今は現状への対処を考えねばならなかった。

「……ラトゥ。念のためこの子の親族がいないか周囲を見てきてもらってもいい?」

「かしこまりました」

「ユメ……」

「育てると言ったからには自分の言葉に責任を持つんだよ。私がしてあげるのは君にアドバイスする程度だから。あとは全部自分でやるんだよ?」

「分かってる」

「やれやれ。そもそもその子がアイちゃんといたいかどうか……ん?」

そこまで言ってふと気がついた。

いつのまにか少女がアイリーンのスカートの裾を握っている。

か弱い腕で離すまいと必死に。

人の生死を司っているユメには感じられた。

この子は生きる事を願っていると。

「……大局は決したなぁ」

これ以上ユメも何も言えなかった。

人生なんてどうにかなるもんだが、どうなるか1秒先の事でさえ誰にも分からない。

だが、どうするかは自分で決められる。

アイリーンは子育てを選択し、少女は生きる事を願った。

それが全てだ。

それ以上でもそれ以下でもない。

そこへ一通りバラック街をまわったラトゥが戻ってきた。

「誰もこの子と関わりのある方はいませんでした。どうやらここへ一緒に来て亡くなったのは祖母だったようですが。それ以外の事は」

「ありがとうラトゥ」

「埋めてあげよっかお婆ちゃん」

「……そうね」

近くにいた他の難民にも手伝ってもらい墓穴を掘って老婆を埋葬した。

地面に廃材を突き刺しただけの墓標はなんとも弱々しい。

アイリーンが近くで見つけてきた野花を手向ける。

「来世に幸あらん事を」


家路を行く途中、少女は安堵したのか歩きながら寝そうになってしまった。

仕方なくアイリーンがおんぶする。

「ちょっと、重たい」

「アイリーン様、私が変わって差し上げましょうか」

「ダメよ。お母さんは私よ」

「失礼いたしました」

「そういえば。名前あるのかなこの子」

「聞いてなかったわね。でも何も喋ってくれないわ」

「心的外傷後ストレスを受けているかもしれないね。戦争に巻き込まれてショックで言葉が話せなくなってるのかも」

「可哀想……」

ほどなくして家に辿り着く。

外には箒で庭を掃除をするナーティーがいた。

「あら、その子は?」

「私の娘です」

「ほえ?なんで母親になってるんです」

「養子と言った所かなぁ」

「作用で……ございましたか」

「おっ帰りー!待ってたよー!」

家の中から花円が飛び出してくる。

「あら、来てたのね。嬉しいわ」

「ふえ!?誰よその子」

LuIIラル。私の娘よ」

「ええええ!? ちょっと状況が掴めないんですけど!?」

「LuIIか。癒やしの意かね。良いんじゃないか?」

「花円、ちょうど良いわ。この子のお洋服を作って頂戴」

「ま、まぁそれは構わないんだけど」

花円はデザイナーの道を歩んでいた。

今はこの家の片隅に工房まで作ってしまっている。

「今日から忙しくなるわね。皆もラルをよろしく頼むわよ」

ラルをおんぶから抱っこに変えて、腕の中で眠りにつく様子をアイリーンはじっと見つめていた。

「素敵ね♪」







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