1話:捨てられた竜騎士
水源豊かなあの国にも呪いはあるんだな。
俺は自分の右腕を見ながらそう思った。半透明の黒い小さな蛟の群れがまとわりついている。
敵国の大将首を取った竜騎士の俺は、とっとと自国に帰ろうと、崩壊し始めている城から出ようとした矢先だった。心臓に槍が刺さった瀕死の魔法使いが、俺の乗る竜に向けて、呪術を放った。
巨体を翻して飛び立とうとする相棒は見えていない。見えていたとしても、躱すことはできなかっただろう。咄嗟に腕が伸びて、庇ってしまった。
我が国でも竜は希少種。人間が操れるようになるには時間もかかる。呪いを受けるなら、取り換え可能な俺が受けるのが道理だ。そこに異論はない。
ただ、帰る途中の大森林地帯を飛んでいる最中に、なぜか俺の乗る竜は理由も語らず、俺を振り落とした。戦力にならないと思われたのだろうか。背中に乗る人間が邪魔だっただけか。呪いが移ることを恐れたのか。それは竜に聞かなければわからない。
幸い、大森林の湖に落ちて生き残ったが、徐々に自分の力が呪いの蛟に奪われていった。鍛え上げて身についたレベルもスキルも俺の身体からどんどん抜け落ちていく。
敵国の大将首を取った英雄が、数秒の間に生まれたての子供と変わらない能力値になってしまった。
あの血のにじむような鍛錬は何だったのか。幼い頃からの仲間まで蹴落として手に入れた竜騎士という地位はなんだったのか。
卵の頃から傍らにいて、寝食を共にした竜との絆は……。数々の戦いは……。地下室に貯め込んでいた金貨の宝箱は……。選びたい放題だった縁談は……。煌びやかな名声は……。騎士としての誇りは……。
すべて奪われた。
竜は成長しない者を嫌う。どうやら俺はこれ以上、見込みがないと見切られたようだ。
「ぐぅあああああっ!」
右腕に無数の針を刺されたような痛みが走る。
俺のすべてを食らって右腕で蠢いている蛟を見ながら、竜へ復讐を誓った。
周りを見れば、家ほどもある魔物がそこかしこからこちらを狙っているのが見えた。
逃げようにもどこを向いても湖の岸辺には、口角から泡を吹きだして涎を垂らす魔物だらけ。俺は湖という皿に載せられた肉に過ぎないのだろう。
俺が動けないでいるうちに、岸辺で魔物たちの争いが起こり始めた。争いは横で待機していた魔物を巻き込み、どんどん伝播していく。
ガブルッ! ゲギャギャギャギャ!
ワッキャオッ! ドゥクシュッ!
ブッシャー!! ガカンッ!
噛みつき肉を削ぐ音や爪を立てられ血管が破ける音、頭蓋骨同士がぶつかり合う音、雄叫び、およそ人間同士では立てられない音が湖に響き渡る。
西の地平線にある山脈に太陽がかかり、薄暗くなってきた。
いつの間にか湖の底から、クラゲが湧いてきて岸辺の魔物を痺れさせたかと思うと、ワニが魔物に噛みついている姿がうっすら見えた。
水に落ちたとはいえ、全身打撲。呪われた右腕は熱を持っている状態。それでも湖の中にずっといれば、クラゲにやられてワニに食べられてしまうだろう。
身を捩り黒い鎧を脱ぎ捨て、魔物が争っている岸辺へとゆっくり気づかれないように泳いでいく。
ふと森の向こうに火の明かりが揺れている。松明だ。人間が近くにいるらしい。
助けを求めようと声を上げかけたが、周りの魔物を見てやめた。リスクがありすぎる。
「向こうに行ったぞ!」
「逃がすな!」
魔物の喚き声に紛れて、人の声がした。どうやら誰かが追われているらしい。
こちらに来たら、魔物たちの餌食だ。むしろ、すでに人の声に気づき始めた魔物たちが様子を窺っている。
その隙を見て、俺は近くの藪の中に身を潜めた。
呪いのかかった右腕の太さが通常の二倍に膨れ上がり、激痛が走っている。
ドクン、ドクン。
血管が皮膚の下に赤く浮き出てきて、脈打っているのが見える。拳を握るだけで、破裂しそうなくらい膨らんでいた。
逆に右腕以外は、思うように力が入らず、呼吸をするのも辛い。思わず膝をついてしまう。すべての能力を右腕に集中している。
立ち上がろうと、木の幹に右手をかけた瞬間、幹がメキメキと音を立てて折れた。右手だけでいえば、人類最強になってしまったようだ。
「ひっ!?」
倒れた先に、ローブを纏った女が怯えた様子でこちらを見ていた。身体は大人の平均身長よりも低く、顔にも幼さが残っているが、頬から鼻、額などに入れ墨が彫られている。
「魔女だな?」
俺の質問に魔女は答えず、震えているだけ。
「こっちじゃないぞ!」
誰かわからない男の声が遠くで聞こえた。
おそらくこの魔女を狩るために探しているのだろう。
本来、魔法使いも魔女も忌み嫌われる存在。力のない者は戦争にも使えないクズ。処刑されて当然だ。
ただ、今場所を報せてもこちらの分が悪くなる。呪われた右腕を持つ俺を見て、仲間だと思われるかもしれない。
それにこれだけ周囲に魔物がいて、いつ襲われるかもしれないのに、声を上げている方がバカだ。
「ギャー!! 逃げろ! 魔犬だ!」
「ブラックドッグだ!」
またバカが叫んでいる。ブラックドッグじゃなくても襲いに行くだろう。
ゴロッ。
目の前に口を大きく開けたひげ面の男の頭だけが転がってきた。
魔女は口を押えて叫び声を上げないようにしていたが、小便を漏らしている。そんな臭いを魔犬が見逃すはずがない。
バカとクズのせいで隠れているのがバレてしまう。
場所を変えるために、移動を開始。足を無理やり引きちぎるつもりで前に出す。身体を支えるのもやっとだが、動かないわけではない。
藪の中を転がり小川を越えて、魔物が集う湖から少しでも離れる。
泥まみれだが、臭いは付かないはずだ。右腕が酷く重いが、逃げられる可能性はある。
そう思って後ろを振り返ると、魔女が普通についてきてやがった。
「おい! ふざけんなっ!」
思わず口に出てしまった。
藪をかき分けていく風音が鳴る。
目の前に体高が2メートルはあろうかというほど大きな黒い魔犬が飛び出してきた。
フシュル……フシュル……。
赤い涎を垂らした黒い魔犬が俺の顔に鼻先を近づけてくる。口から人の血の臭いがする。人間の味を知った魔物が、噛みつきもせずに舌を出して立ち止まっているなんて……。
なぶり殺しにする気だ。シャチがオタリアを狩る時のように、象が鳩の肉団子を作るように、俺の身体を引き裂いて丸めて転がすつもりだ。
レベルとスキルを失っていなければ、槍一本で倒せるような魔物だというのに。
俺は舐め切った魔犬の舌を右手で思いきり掴んだ。
ブチブチブチッ!
雑魚扱いしていたブラックドックは舌を引きちぎられて、声にならない声を上げながら、飛び掛かってきた。
舌を握ったままの右手を、噛みついてきたブラックドッグの口に突っ込んで、そのまま地面に埋まる岩に叩きつける。
ズガンッ!
頭蓋骨が割れる音がして、脳みそが周囲に飛び散った。
ビクビクと跳ねるように、動き続けるブラックドッグの身体になおも拳を叩きつける。肋骨が折れて皮から骨が突き出してきた。
破れた皮を引っ張り、中で未だに動いている心臓を掴み取って、引きずり出した。
バクンバクン。
俺は迷わず魔犬の心臓を握りつぶした。
全身血だらけ。血の臭いが周囲に充満している。
急いで小川に下りて、血を洗い流す。ごしごしこすっても魔犬の血はなかなか落ちなかった。
なにより右腕にブラックドッグの牙が突き刺さっていて、どくどくと血が流れている。
「んあっ。くそっ」
痛みで、声が出てしまう。右腕の熱が上がり、小川の水で冷やさないと皮膚がボロボロにただれそうだ。
ガサッ。
見上げると、逃げそびれた魔女がこちらを見ていた。
「早くどっかに行け。小便臭いお前は魔物を呼ぶ。まだ、魔犬以外にもそこら中に魔物がいるんだぞ」
「それ呪い……?」
「だとしたらなんだ? お前と同じ魔法使いにやられた。殺さないだけありがたいと思って視界から消えろ!」
「その右腕はもう助からない。力の使い過ぎ……です」
魔女は短く端的に言った。
俺の呪いを知っているらしい。
「お前に何がわかる?」
「呪いのことだけはわかるんです。それで母は処刑されたから」
魔女の言うことはよくわからないが、確かに右腕の血を洗い流そうとすると、筋肉が、レンガ造りの家が崩壊する時のように少しずつ零れ落ち始めた。ただ、痛みが消えていく。
肉が削がれているのに、痛くない。
「俺の右腕!? ぐぅあああああっ!」
肉が全て崩れ落ち、腱がむき出しになると、再び激痛が走る。
「……アガガガガガガ!!」
ぽろっ。
右腕が肩から取れてしまった。
「え!?」
むき出しの肩から血は一切出ず、代わりに無数の黒い蛟がうねうねと蠢いている。
痛みがないのに、右腕を食われ続けているような感覚だけはある。気持ちが悪い。
「どうしてこうなった……!?」