第十話 夏休みの課題(物理)(その10)
■その10
玲南は今、何を見ているのか? 玲南が五線譜ワイヤーを飛ばした先で、千影が計量器を操作してトラックの積み荷を計っている。五線譜ワイヤーを通して玲南の脳裏に見える、バケモノが佇む湖面と同じように手を動かして。
もしもここで玲南が身体を動かしたら、バケモノが覗く映像の中にいる玲南もその通りに動くのか?
その恐ろしい思いつきを試せば、千影と玲南達2人は本当にバケモノと遭遇した廃集落から脱出できたかどうか判明する。思い切って試してみようかと考えた玲南だが、その案はすぐに却下された。
身体が動かない。思考は冷静に機能しているが、身体が運動神経との接続を絶たれたように金縛り状態になっている。これでは玲南に背を向けて計量機のシステムを動かす千影に危機を伝える事も出来ない。千影は計量機を操作できているのに、玲南は時間の流れから取り残されたように動けない。
『 逃 げ ら れ た と で も 思 っ た か ? 』
崩壊後の世界にいたバケモノが大きく裂けた口で、誰かに呼びかけるように言った。
玲南は理解した。今からそっちに行くという、バケモノの言葉に偽りはない。あの得体の知れない場所から帰還できたと思っていたが、異形の掌で弄ばれているにすぎなかった!
これから、あの恐ろしい怪物が玲南の視界に姿を晒すのだろう。どこから? あの怪物はどこから来る? 怪物が襲ってくる方向を察知できれば、千影と玲南の2人がかりで攻撃して切り抜けられるか?
右?
『NO! NO! NO!』
玲南の考えを読んでいるように怪物が返事するのが腹立たしい!
では、左?
『NO! NO! NO!』
問題はもう一つある。身体が硬直してて、五線譜ワイヤーも動かせない状態でどうやって怪物と戦うか。そもそも千影に状況を説明する時間が取れるのか。
ないない尽くしが玲南の焦りを加速させる。そんな中、千影は今も計量器の操作画面をカタカタ動かしている。それこそ手の動きが見えなくなる早業で。
おかしい事に気づいた。計量機の操作って、あそこまで複雑な手順が必要だったのか? 確かにエラーやトラブルが起きた時は復旧操作でてんやわんやになるけれど、千影はさっきから上半身の姿勢を一切崩さず、ずっと手だけを動かしていないか?
湖面に映る千影も、玲南の目前で計量機を動かす千影も偽物なのか? 玲南に背を向けて計量機に向かっている千影も、湖面の千影みたいに怪物みたいな大きく裂けた口を開けてニヤリと笑っているのだろうか? 受付の外にいる運転手みたいに、醜い怪物と同じ顔でほくそ笑んで……
思わず玲南は怪物のいる世界に意識を向けた。
湖面に映る受付に、運転手の姿がない!
『YES! YES! YES!』
玲南は見た。受付の外で計量を待っていた運転手が、あの怪物と同じように大きく裂けた口を開けて受付の景色を呑み込んでいくところを!
まず窓口が轟音と共に細かい粒子に変えられ、続いて計量機席に座る千影も……
いよいよ絶望にとらわれかけた玲南が、千影を助けるため、かくなる上は……と覚悟を決める。
そんな時だった。
全く別の方向から、まるで空気を読めていないような声が聞こえたのは。
「……どうしたんだい、玲南ちゃん?」
■
気の遠くなるような時間が過ぎた気がした。
「おい、玲南! 玲南!!」
自分を呼ぶ声が誰のものか、心配げに見つめる男の子を思い出せなくなるくらい。
虚ろな目で見上げる玲南だが、伸びてきた手に上半身を揺すられ、ようやく千影の顔を思い出して大きな声を上げてその手を振りほどく。
「ちょ、何すんの千影くん!」
「大丈夫? 玲南、大丈夫?」
「……わけもわからず身体を揺すられて気分が悪いんですけど……」
「確かにそれは悪かったとは思うけど、異世界から戻れたと思ったら玲南が電話中に机に突っ伏して動かなくなってビビったんだよ」
済まなそうな様子の千影を見て、冷静さを取り戻した玲南はここまでの事実確認を始める。
「……ねえ千影くん。玲南さん達、ウドンケンジョウレイ結界の誤作動で結界に飛ばされたんだよね?」
「そーだよ。それでその後、誰が作ったのかわからない異空間に飛ばされて、怪物を退治して戻って来ただろ」
どうやら千影と一緒に異世界に飛ばされ、そこでとんでもない怪物と遭遇したところまでは実際にあったようだ。問題はそこから先……いや、最優先で調べないとまずい内容がある。
目の前にいる千影は本物なのか、それとも怪物の作り出したまやかしなのか?
五線譜ワイヤーが装着された左手で千影の右手首に触れる。
あ、本物の千影くんだ★
安堵する玲南と対照的に、彼女に手を握られた千影は泡を吹いてひっくり返った。
「え? どうしたの千影くん」
「だから! その歌やめてって言ってるだろーッ!!」
「あ、ゴメン★ ついうっかり『日本が世界に誇る愛製造機の歌』大合奏しちゃった★」
「ようやく女装三段腹ヘンタイ中年オヤジの忌まわしい情報封印できたのに!」
「つまり、千影くんのバーサクモードをラブマシーンで解除できたところまではリアル……と」
「一体何を調べてるんだよ!」
■
慌ただしい一日だった。顛末を報告する途中で疲れ切った玲南が倒れてしまい、受付業務の千影も萌えるゴミを搬入するトラックが途中で交通事故を起こしたと連絡が入ってからは完全に忙殺され、たまらず虎野に応援で来てもらい何とか乗り切った。
パラノーマル隔離機能の誤作動で結界に閉じ込められた事や、そこから謎の異空間に飛ばされておぞましい怪物と戦った報告を受けて虎野は直ちに結界の点検を手配してくれたが、結界のトラブルやエラーは確認できなかったという。若月が何か仕掛けをした可能性も指摘したが、結界システムの再起動時に全て綺麗に復旧したそうだ。
そして、千影と玲南を襲った怪物についても調査が行われたが、崩壊後の世界を再現した異空間へたどり着けず、正体はわからずじまいになった。大した事のないモンスターだと思っていた千影だが、
『あの怪物は神話級パラノーマルと同じで人間が絶対に触れてはいけない存在で、千影と玲南があの異空間に飛ばされたのも、あの怪物がたまたま2人に興味を抱いたからとか、そんな人間には理解できない理由かもしれない』と玲南に説明され、更に
『あの場所から脱出できたと千影と玲南を油断させて1人ずつ襲うつもりだった』と指摘され、玲南が深刻な虚脱状態に陥った理由を理解して同時に恐ろしさに震え上がった。
そんな恐ろしい怪物から狙われ、どうやって2人は生還できたのか。玲南自身もよく覚えておらず、結界が誤作動した原因も、怪物が潜む異空間での出来事についてもわからずじまいだった。
「こんなに不確かな話を、よく虎野さんは調べてくれたよな」
千影も、あの怪物が神がかり的な存在だと言われても簡単には信じられず、異常に消耗した玲南を見てようやく危険性を理解できたくらいだ。今も玲南は綺麗に片付いた応接間のソファで横になっている。
千影達が遭遇した正体のわからない謎の怪物と不思議な世界。玲南が語った怪物の目的は一見すると尤もらしいが根拠は皆無で全て推測でしかない。
「まあ、結界システムに何かあるなら、調べると思うよ……」
「それにしても、どうしてオレ達無事に帰って来れたのかな?」
「それだけどね……やっぱり千影くんのフォースに秘密があると思うよ」
「何でまた」
だってあの時、玲南に話しかけてきた、あのKYな声は……
彼女はその言葉を心の中だけにとどめ、口にしなかった。
「とにかく千影くんは修行の日々だよ。宿題も含めて★」
玲南から夏休みの過酷な現実を突きつけられ、千影は未だ真っ白なまま残された課題を思い出し頭を抱える。
■■■
怪物が佇んでいた、湖に沈んだ廃集落跡地で。
2人が目指した異世界の出口とされる古いお寺と墓地の中に。
その男はいた。
仏教の施設に不似合いの神父服に身を包んだ、胡散臭い笑顔の仮面を装着した、あの男が。
「あの野郎、まさかと思っていたが。この場所を探しているのか……」




