★第四十五話 仕置人と鬼嫁(その9)
2026/2/26 加筆修正
■その45
これほどわかりやすい転落劇があるだろうか。
動き出した機械に巻き込まれて地獄の酸が貯留された水槽へ放り込まれ、火達磨になりながら何とか外へ逃げ出せたと思いきや、今度は萌え人面土器に追いかけまわされ噛みつかれる。噛みつきと言っても、小さな犬が飼い主にじゃれるレベルでない。番犬として飼われた獰猛な大型犬が、屋敷に侵入した不審者に襲いかかる意味だ。
人目につかない場所に隠れても、怒り狂った萌え人面土器達にすぐ発見される。そんな獰猛な土器達の追跡を振り切った代償は大きく、凪橋の身体はそこら中が焼け焦げ着衣もズタボロ全身血まみれという有様だった。どうして生きていられたのか、凪橋もわからない。
行くあてもなく、身体を引きずるように歩く凪橋の前に、見覚えのある人影が姿を現した。
「若月さん!」
助かったとばかり凪橋は若月に駆け寄るが、今まで見た事もない彼の冷たい視線にたじろぐ。
「凪橋さん……アナタは一体何をしてるんですか?」
いつ死んでもおかしくない、いや既に何回も絶命するくらいの負傷をしながら奇跡的に生存している凪橋に。再会できて、これで救われると思った凪橋に、若月は厳しい口調で返答に困る問いかけをしてきた。
「どうしてこうなったのか答えられませんか。ならば私がお教えしましょう。アナタが萌え人面土器を裏切り他の女へ走ったから、萌え人面土器に宿る魂がお怒りとなったのですよ」
いやいやそんな、浮気された妻じゃあるまいし……と言いかけた凪橋は、無数の禍々しい光に気づき青ざめる。それはまるで眼光のようだった。
「萌え人面土器の研究と啓蒙に注いだ貴方の人生は、萌え人面土器の怒りに触れる軽率な行動で台無しになりました。私も貴方に失望しています。想力発電を滅ぼす戦士だと思ったからやり直すチャンスを差し上げたのに」
一歩若月に近づかれ、思わず凪橋が後ずさる。周囲から投げつけられる、萌え人面土器達の狂気を孕んだ眼光に恐怖しながらも凪橋は言い返す。
「それは誤解です! 裏切ったなんて人聞きが悪い!」
「では何故萌え人面土器達が怒ってるのですか? 貴方、牢獄で萌え人面土器達を一回でも顧みましたか? 土器達は心配して様子を見に来て下さったのに、貴方は他の女にうつつを抜かしていた。これには言い訳ができませんね」
追い詰められすぎて心臓が止まりそうだった。聞き苦しい自己弁護がその口から飛び出す。
「人面土器とあの娘への愛は違うものです! それに、あの娘がオレの所に来てくれたんだから! こうなるのも仕方ないでしょ! 誰だって普通はこうなるでしょ! 人面土器達は結局人間じゃないんだかrひぃぃぃっ!」
萌え人面土器達は周りから網を閉じるように迫ってくる。呼吸音を聞かれそうな距離まで接近していた。凪橋を許すつもりは毛頭ないのだ。
「そうですか。つまり貴方は欲望に負けたんですね。萌え人面土器の加護よりも一時の欲望を優先し、神の怒りを買った挙句に下らない言い訳まで。それでは夢と現実の区別もつかない萌えオタク達と何ら変わりませんね」
「な、なぁー!? 萌え萌え言ってる奴らと一緒にするとか、訂正してくだひぁぁぁっ」
若月の言い草に激昂した凪橋は、全身を襲うおぞましい感触にたちまち震え上がる。その正体は萌え人面土器達から飛び出した触手だ。まるで土器から中身が溢れだすように繰り出された触手が凪橋の全身を這い回っている!
アレだけ入れ込んでいた人面土器達が、今では直視できないほど醜悪な造形に見える。過去の自分は、どうしてこんな怪物みたいな造形に萌えて見せろなんて馬鹿な主張ができたのか?
それだけでない。人面土器の研究には輝く未来や希望があると凪橋は信じて疑わなかった。だが、その中身は希望なんかではない。絶望そのものだった。土器から解放された、永遠の苦しみと悲しみ、無限の恨みと嘆き。性根が腐った背信者如きが耐えられるはずがない。凪橋の精神はなす術もなく押し潰される。
……と、思われた。
「ま……まさか。全部アンタの思惑だったのか?」
凪橋の前にマイ天使そっくりな萌え人面土器が現れ、その怒りに触れて襲われた事も。
それどころか、凪橋が逮捕されてRATTが壊滅した一件も、凪橋がマイ天使をストーカーしたと言いがかりをつけられた事件まで、全て……?
「思惑って何がです? 貴方が人面土器を裏切った事を棚に上げて、今度は私に責任転嫁ですか?」
予想通りの返事だ。
一体どこまでが本当で、どこからが嘘なのか?
獄中の凪橋が怒りに触れてしまった萌え人面土器達さえも、それどころか、凪橋が生まれて初めて出会った萌え人面土器さえも、若月が用意した偽物では?
ここまで問いかけに含まれていた事、若月は気づいている筈だ。
質問を質問で返す若月の常套手段が肯定であると受け取った瞬間、凪橋は全身を蝕む激痛が気にならなくなった。触れられただけで激痛が走った触手達が、萌え人面土器ごとまばゆい光に呑まれて消えていく。
光の正体は凪橋の心に芽生えた、人面土器を冒涜した若月への怒りだったのか。光が静かに消えた後、見覚えのない景色が凪橋を取り囲む。長い廊下のようだ。窓から差し込む太陽の光が、異常な存在が影も形もなく視界から消え失せた事を教えてくれる。
あの逃れられない恐怖は一体何だったのか? 夢か、幻か。催眠術にかけられていたのか? そもそも、ここはどこだ? 危機を脱した実感もないまま立ち尽くす。得体の知れない何かが自分を呑み込もうとしたなんて、本当にあったのか?
『ボエボエボエボエボエボエ』
二度と聞きたくなかった、その声を聞いた瞬間。とうとう凪橋が完全に狂ってしまった。萌え人面土器達の怒りを買った彼は、その身を完全に乗っ取られた。肩や腕に現れたいびつな突起の表面に、萌え人面土器そっくりな表情が浮き出て凪橋に語り掛ける。人間の女に誘惑された異端者は絶対許さないと言わんばかりに。
人間をやめてしまった哀れな肉塊が、意味のない絶叫を上げて階段を転げ落ち、ただひたすら走って逃げる。だが、どこへ逃げても無駄だった。
『ボエボエボエボエ』
『ボエボエボエボエ』
狂乱状態で肉塊部分を壁に叩きつけたり、刃物で切り落とそうとするが、人面土器そっくりな突起物は再生増殖を繰り返し、宿主を嘲笑うように膨張を続ける。そして、全身を襲う痛みだけはホンモノだ。萌え人面土器に全身を蝕まれ、ついに自由に動く事もままならなくなった凪橋は……
――全く、野獣になってでもあの女をモノにしたいとは、呆れたレベルでお盛んですねえ――
ずっと会いたかった少女の姿を、視界に捉えた……
■■■
「良かった……うん、わかった。あとはお姉ちゃんに任せなさい」
事務室の零比都は、いつもの調子で玲南からの電話を終える。
随分と切羽詰まった声だったなー、と思いつつ。
玲南とは幼馴染だ。いつもニコニコ笑顔で、零比都をお姉ちゃんと慕ってくれた。本気で怒った時はニコニコ笑顔のまま相手に凄んでくる……うん、あの笑顔は歳上から見ても本気で怖いと思う。
そんな玲南を散々に罵倒した、思い出しただけでも腹が立つ奴が! 今、事務室の外で待ち伏せしている。
隔離結界の外、現実でもわかる異形の気配。どんな姿なのか、想像する事に脳のリソースを割くのも御遠慮願いたい。怪物はもうすぐ結界を突破して現実に侵入してくる……
「……よしッ」
資料整理を終え、零比都が立ち上がる。
覚悟は決まった。あの男は、この手で倒す。
扉へ向かう零比都の足がガクガク震えている。あの男とは、もう二度と会いたくなかった。
怖い。
怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!
最愛の夫に、零比都が心の中で祈る。
お願い。私がちゃんと戦えるように、勇気を頂戴……
足の震えが止まった。両手の指をパキパキ鳴らして、事務室の扉を勢いよく開け放つ。
『零比都ォォォーーッ!!』
醜悪な怪物が雄叫びを上げて零比都を結界へ引き摺り込む。全く同時に、零比都は正拳突きで凪橋を吹き飛ばした!




