第十二話 そしてまた一日が始まる。
『何言ってるんだよ、早くそこから逃げて! 早く!』
『イ可言ってゑソだよ、早くそ乙から逃げて! 早く!』
『イ可ヰっ乙るんだよ、早くそこから逃げて! 早ぐぅぅぅぅx……』
■その12
医務室の至るところから、同じ言葉が榛名そっくりな声で何回も繰り返される。歌声を武器にする玲南を騙せるはずもなく、彼女は一切応じようとしない。最初は抑揚が全くない機械音声みたいなトーンだったが、やがて声真似できなくなったのか音割れした絶叫になっていく様子を、千影は布団の中で震えながら聞いていた。
突然、千影の首を強い圧迫感が襲った。まるで何者かが千影の首をへし折ろうと鷲掴みにしてきたような感触。背後からベッドの中に抑えつけようとする力に、千影は必死の抵抗を試みる。
うつ伏せ状態の千影にのしかかってきたのは、おぞましい感触をした巨大な肉の塊だった。いやいや、布団のどこにこんな巨体が入り込む余地があったのか? というか周囲が異空間になっちゃってないか?
上下もない異空間で抑えつけられるはずもない。それに気づいた千影は自分の足の方向へ顔を向ける。あまりのおぞましさに錯乱しそうになった。ぶよぶよとした贅肉の塊から人間の手足を思わせる突起が無造作に伸び、抵抗できないように器用に下半身にまとわりついていた。その表面に貼り付いた何十人、何百人という不気味な顔が、千影を無表情に凝視する。その顔のいくつかに見覚えがある。富嶽第一想発で働いていたエンジニア達だ。
『バーチャルポルノ禁止法違反容疑だ』
『不届さ者は〒ソートすゑぅ……乙の権利は人民に認ぬらねていゐ!』
『だカラ逃げると言ったのにぃ、逃げ乙ど言っだゐにぃ』
顔の一つ一つがそれぞれバラバラな呻き声をずっと繰り返している様子にゾッとする。どこかで覚えた言葉なのか、それとも捕食した相手を真似しているのか、どっちなのか。
「あばぐあべばばばしゃs%とがぼ」
布団の中で奇声を上げる千影を見て、玲南は一瞬彼が発狂したと思った。ベッドがギシギシ揺れる音とはまるで無関係に、布団の中で何かが蠢いている。布団の膨らみが不自然にボコボコ動きながらどんどん大きくなっていくその様子は、無限に増え続ける癌細胞を忠実に再現したような常軌を逸した光景だった。
「……千影くん!」
千影の表情は見えなかった。玲南はすぐにワイヤーで千影を布団ごとベッドに簀巻き状態にする。暴れられて衝立の外に飛び出されたら一巻の終わりだからだ。ワイヤーとワイヤーの隙間で布団を突き上げる動きまでは抑えられないので、玲南は五線譜ワイヤーに載せた歌を、千影がいる布団の中、つまり異空間へ流し込む。
千影は既に彼を取り込もうと押し寄せてきた肉の雪崩に足の自由を封じられていた。次に左腕だ。粘着質な肉の壁はこのまま全身にしゃぶりついて、千影の身体を磨り潰して消化してくるのだろう。その時が千影の最期だ。
そうなる前に千影にできる事は唯一つ。心の底から湧き上がってきた、止まらない衝動を解き放つ!
まだ動かせる状態にある右手でハリセンを掴み。
そして。
「結局、単なる化け物じゃねーか!」
力任せのはりせんちょっぷに一瞬たじろいだ超巨大ウマシカは、予想外の抵抗に怒り狂いお構いなしに千影の身体を消化しようとしたが、ハリセンが命中した部位に生じた亀裂が巨体全体に広がる方が早かった。表面に浮き上がった無数の顔が身の毛もよだつ叫び声を上げる中、超巨大ウマシカは0と1と虚数の塊に変換され、人類の言語では形容不可能な音を立てて爆発四散した。
千影がどうして肉の塊をウマシカだと認識できたのか。彼自身にもわからない。
ただ、千影を簀巻き状態にした玲南がエンドレスで歌い続けた
『肉屋に料理される豚さんの歌』が、異空間にいた彼の耳に届いていたのかもしれない……
それからどうやって帰宅したのか、千影もよく覚えていない。布団に入った後もまたウマシカや筋肉ナース、ヤクザな医者に襲われそうで、眠れない夜を大爆睡して迎えるアルバイト5日目の朝。よく眠ったおかげで身体の動きも軽く、昨日の疲れが全て回復したのを実感する。
朝食を作っていた母親に昨夜帰宅した時の話を聞いてみた。千影が時間ギリギリまで残って仕事を手伝ってくれたので、富嶽第一想発の人事担当者が家まで車で送ってくれたそうだ。虎野の事だろうか。
千影自身には特に変わった様子はなく、普通にお風呂に入り夕食も食べてから布団に入ったという。
昨日、富嶽第一想発で体験した事は全て夢だったのだろうか? ウマシカに身体を齧られかけた事や、大怪我を負って怪しいプロテインをエリクサーにして復活した件も。ただ、ウマシカはもちろんヤクザな医者や筋肉ナースは鮮明に思い出せるのに、千影に大怪我を負わせたパラノーマルについては、名前や外見その他の情報を全く思い出す事ができなかった。
とにかく、千影の身体に外傷はない。
普通なら誰もが夢で済ませるような話だ。
話の途中でトイレに行った千影が、廊下の陰に潜んでいた小さなウマシカをハリセンで引っ叩いたりしなければ。
ウマシカの呻き声を聞いた瞬間に、千影の手にハリセンが握られていたのだ。いつの間にかハリセンを自分の意志で作り出したり格納できるようになったらしい。目が覚めてから見かけたのはこれで4匹目、全てハリセンで軽く小突くだけで倒せるような小さいウマシカだ。
いつかまた、超巨大ウマシカが千影を襲いに来る、そんな予感がする。いくら給料が良くても、頭がおかしくなりかねないアルバイトはもう辞めようと最初は思っていたが、むしろ辞めた方が危険が増大するかもしれない。
今日も富嶽第一想発でのアルバイトが始まる。
見知らぬメモが入っていたバッグを持って。
●注意事項
●衝立の外には絶対に出てはいけません。
●このパラノーマル達は非常に弱いけどしぶとくてしつこいので、医務室に引きつけて根絶します。
●午後8時までに討伐は確実に完了します。この期限はパラノーマル達に知られないようにして下さい。絶対に口にしないで下さい。
●午後8時まで耐えて下さい。
●この時間期限を知られないようにお願いします。
●午後8時までry
●時間の期限だけはナイショで
ちかげくんと れいなちゃんの ものがたりは まだまだ おわらない>
第13話はここまでの話の裏面。
第14話から後半戦です。




