8. イワダラじゃん
大晦日を明日に控えた、十二月三十日の朝。年末年始で多忙な九条さんは仙台に帰ってしまったので、従業員が4人しかいない。食事当番の俺を除くと、実働可能な人員は3.5人しかいないことになる。
とてもじゃないが仕事にならん。誰でもいいから、暇な人はうちに来てくれないものだろうか。
今日は夜中まで働くことになりそうだなあ……などと憂鬱な気分で作業場に出て行くと、そこには今まで一度も見たことがない「レアキャラ」がいた。
俺は心の中で「しっ、知らない人がいる!」と叫び、驚き慌てふためいた。この人は誰だ、お客様か従業員か赤根さんの親戚かそれとも幽霊か。
フレッシュな見た目からして、おそらく大学生か社会人になりたてだろう。清潔感のある好青年といった雰囲気で、俺に気付くと深々と腰を折って挨拶してきた。
「あ、どうも初めまして。山吹といいます」
「へっ、あ、ど、ども。天見です……新しく入った研修生です。初めまして」
人見知りモードが発動して激しく挙動不審気味な俺は、取り繕うように「アルバイトの方ですか?」と尋ねた。はい、と快活な声で返事をする山吹氏。なんだか物腰や受け答えが爽やかすぎて、ここだけ澄んだ涼風が吹いているようだ。
「ぼく仙台に住んでるんですけど、時間が出来たときだけここでアルバイトさせてもらってるんです」
「へ、へええ。普段は別のお仕事をされてるんですか?」
「いえ、まだ大学二年生なので。今年の夏休みに農業経営のフィールドワークで赤根農園さんにお邪魔して、そこからお付き合いが続いてるんです」
大学生。だいがくせい。ダイガクセイ。
その一言が俺の古傷に深々と突き刺さり、化膿した傷口をぐりぐりと抉ってきた。いだだだだ、ごめんなさいお父さんお母さん! 入学祝いをくれたばあちゃん、ごめんなさい!
『とうまは大学を辞めて、今は働きもしないで家で寝ているらしい』――ばあちゃんの日記に書かれていた一文を思い出し、俺は白目を剥いてその場で気絶しそうになった。
もう言わなくても分かると思うが、かつての俺は大学を速攻で中退して怠惰な引きこもりニートと化していたのだ。
そんな俺の前に現れた、いかにもモテそうなイケてる現役大学生。あらゆるコンプレックスが刺激されまくって、とても平常心ではいられない。これがゲームなら、すぐさま電源をぶっち切って布団被って不貞寝しているところだ。
フリーズしている俺の後ろから、つかつかと誰かが近づいてきた。
「おーっ、山吹くん! 来てくれたんだ。嬉しいねー」
これで働き手が増えたぞ、と弾んだ声で言う赤根さん。そりゃ、車で片道二時間かかるような遠方からわざわざ来てくれるアルバイトなんてそうそういない。赤根さんは山吹くんのことを大層気に入っているようで、全身からあたたかな歓迎ムードを放っていた。
「あ、赤根さん。この前もらった白菜、すっごく評判良かったですよ。塩ちゃんこ鍋に入れたら美味しすぎで、サークルの皆と取り合いになりました」
「おっ、そうかそうか! うん、やっぱり若い人にも野菜をどっさり食ってもらいたいからなあ。そうやって喜んでくれたらあげた甲斐があったってもんだ。山吹くんって何の……サークル? に入ってたんだっけ?」
赤根さんは大学へ行かずに働いてきたため、華のキャンパスライフに憧れを抱いているようだった。人差し指をくるくると回し、興味津々な様子で尋ねていた。
「軽音楽サークルです」
け、けいおん……それ絶対モテるやつじゃーん! 俺は再び白目を剥いて、爆発しそうになった。せめてアマチュア無線とか落語に打ちこんでいてくれたら、こちらとしても対応しやすかったのに。もうだめだ、彼とは仲良くなれない。住む世界が違いすぎる。
反対に赤根さんは、きらきらと目を輝かせながら腕を組んだ。
「そっか、山吹くんはライブとかコンサートとかバンバンやってるんだなあ。おれも次に生まれ変わったら絶対大学生になって、教授のゼミミとか入りまくるんだ――」
「ミが一個多いですよ」
「そいでもって、卒論? とか書きまくるし、サークルの仲間とシンカンコンパして、単位とか落としたりして、留年したりして一生大学生したいなあ」
「学費が大変なことになりますって。……でも、赤根さんが大学行くなら俺も行きたいです……学食で、ご飯とか一緒に食べましょう……」
知り合いがいれば、大学生活も怖くない。食堂で他の学生がワイワイやってる中、一人だけ食器をのせたトレイを持ってウロウロしなくて済む。気を使った先生に「一緒に食べるか?」とか言われなくてすむ。
でも赤根さんはどこへ行っても人が集まって来そうだから、俺の相手なんてしてくれなくなるだろう。またトイレの個室で音もなくパンを頬張る日々が始まってしまうのか? 膨らみすぎた暗い妄想を吹き飛ばすように、笑顔の赤根さんが力強く俺の肩を叩いてきた。
「そうだな! いっそのことデカい大鍋持ち込んで芋煮会しようぜ。クレーン車で材料どばどば投入してさ、人もいっぱい呼んで整理券配って売りさばこう」
餅つきもするぞ、そばも打つぞ! と赤根さんはなんだか山形県民らしい発想で意気込んでいる。もう大学関係ないなこりゃ。拳を天に突き上げて踊り出す赤根さんに呆れながらも、本気で実行しそうなテンションに笑いが零れた。
結局のところ、同年代と打ち解けられない俺のような重度のコミュ障にあの空間は辛すぎる。娯楽もなければ若者もいないこの田舎で、黙々と野菜の世話を続ける世捨て人的生活が性に合っているのだ。
要は適材適所、みんなで切磋琢磨し合って学業やサークル活動に励みたい若人たちは、ぜひとも大学で頑張っていただきたい。俺は赤根さんや山吹くんとの会話の中で、徐々に心の平静を取り戻しつつあった。
「あのね天見くん。彼のフルネーム、『山吹升麻』っていうんだよ。おれ初めて聞いた時びっくりしちゃった。イワダラじゃんって」
「いわだらじゃん?」
意味が分からなくて聞き返すと、赤根さんは驚いたように身じろきした。
「え、知らないの? マジ? 『ヤマブキショウマ』っていうのがイワダラの正式名称なんだけど」
「ん、ん? 植物……ですか?」
「山菜だよ! うわ、知らないの? おひたしとか天ぷらにして食うじゃん。見たこともないの? 『アイコ』も『シドケ』も『ミズの実』も聞いたことない?」
ないない。知らん知らん。話によると、どれも東北地方でよく食べられているものらしい。
山菜の知識とかゼロに近いですわ。タラの芽とか、フキノトウとか、ポピュラーなものなら五つくらい名前を挙げられるけどさ。たぶん赤根さんレベルになると、山に生えている食用の野草なら全部食ったことがあるんだろう。
「あー、話してたら山菜食いたくなってきた。困ったなあ、もう完全に舌が春の苦みを欲している」
赤根さんは舌をべーっと出して悩ましげに眉をひそめた。春はまだ先ですよ。どっさり積もった硬い雪がゆっくり解けて、白鳥が北に渡り、山々に新たな命が芽吹く頃まで待たなければ。
都会人はイチゴや桜味のスイーツで春を感じるようだが、我々田舎の農民は田畑から雪が消えることでようやく春の訪れを実感し涙するのだ。雪国って切ねぇなあ。
「赤根さん。山菜の話もいいですけど、天気が崩れない内に収穫行きましょうよ。ぼく頑張りますから」
笑顔の山吹くんがさりげなく、それでいて爽やかに話題を変えた。発声の仕方といい仕事への熱心さといい、どこに出しても恥ずかしくない理想的な若者だ。俺が五十代のおっさんだったら、財布からありったけの万札を取り出して
「これで美味い物でも食べて来なさい」
なんて言って快く手渡してあげたいね。
山吹くんを仲間に加えた俺たち五人は、畑で雪下白菜の収穫作業を行った。
屋外はすさまじい猛吹雪が吹き荒れており、霰まじりの雪がビシビシと顔面にぶつかってきた。こんな悪天候の中で働くなんて気がふれているとしか思えないが、なにしろ明日は大晦日なので仕方がない。
年末年始の食材を求めるお客様のためにも、一つでも多くの野菜をスーパーに持って行かなければならないのだ。
「ふぶぶっ、ふっ、ふーっ」
帽子から出ている前髪が凍ってパリパリになる。まつ毛も鼻水も凍てつく氷点下だ。
俺は荒い呼吸を繰り返し、震える手で雪の中から大玉白菜を掘り起こしていた。コンテナに三つずつ詰め、二台の車にどんどん積み込む。
真っ白な視界の中で腰まで雪に埋もれて、やみくもに動く。ビュオオッ、ビュオオッと狂風が暴れる。お、おれ、もうげんかいかもしれない。終わりの見えぬ刑罰のような労働に、俺の精神と肉体は崩壊寸前だった。
いいかいよい子の皆。しっかり勉強して、将来は冷暖房完備のデスクワークに就こうね。さもないと、こんな八寒地獄みたいな職場で働くことになるぞ! 俺は脳内幼稚園に通うちびっこたちに強く教え込んだ。
「うがっ」
長靴が雪の中にずっぽりとはまって、俺はコンテナを運んでいる途中で思いっきり転んでしまった。変な角度で身体を捻ったため、関節が痛む。この上なく惨めだ。
「わっ、大丈夫ですか!?」
とっさに山吹くんが助け起こしてくれた。おまけに脱げた長靴まで拾ってくれる。なんて優しい……よく今日みたいなひどい天気の日に来てくれたもんだ。
「うー、すみません……」
「テメー天見、山吹くんに迷惑かけてんじゃねえぞ!」
遠くで作業していた那須くんが、抜群のコントロールで雪玉を投げてきた。狙い通り俺の頭部にぽすっと命中する。うう、転んだだけで怒られるなんて生きづらい世の中だなあ。
疲れているのは俺だけではなかったようで、赤根さんは雪かきスコップを杖代わりにして車の方へ歩き出した。積もった雪の中から足を引き抜きながら進むので、ずっこ、ずっこと音がなる。
「よーし、もう引き上げよう! これ以上やってられっか、帰っておやつタイムだ!」
「除雪機はまだ直らないのか?」
「まーだまだ。だって工場が年末休みだから部品も届かねーし。近所の家だって全然貸してくれねーからお手上げだよ」
芹沢さんからの問いかけに、がなりたてるような大声で返す赤根さん。雪が音を吸収するので、ちょっとやそっとの声では相手に聞こえないのだ。
ねー、除雪機まだー? 江戸時代じゃねーんだからさー、文明の利器を使わせてくれよお。後部座席が倒されて白菜がぱんぱんに詰まっている車の中に、俺は違法就労者のように潜りこんで乗車した
俺たちが名前を呼ぶのも嫌な「白い魔物」に苦しめられている一方で、都会にいる九条さんはリッチな年越しを楽しんでいるのだろう。山形と比べて、仙台ってびっくりするほど雪がないもんな。
きっとあの人はお金持ちの集うニューイヤーパーティに潜りこんで、シャンパン片手に美女と語らって、あったかいホテルでめくるめく一夜を過ごすに違いないのだ。
俺もマネーが欲しい、セレブになりたい。しかしどれだけ切実に望んでも、現実の俺は全身雪まみれで鼻水を垂らした雨合羽農家なのだ。うううっ、泣けるぜ。