5. 真夜中ってモラトリアム
「あの、九条さん。スーパーの売り場に飾るポップを……」
「雪下野菜バージョンのやつだろ? ちゃんと作ったから心配しなくていいよ」
「さすが!」
お仕事が早くていらっしゃる。俺はすっかり安心して、自分の仕事に戻ろうとした。
「そうはいっても、野菜だからね。どれだけ美味しくても高い値段はつけにくいよ」
「あ、確かにそうですね。大根が一本五百円とか、ありえないですし……傷一つない綺麗なA品なら、二百円くらいで買ってくれる人もいそうですけど」
「二百円でもきついな。山形は生産県だから、もっと安くしないと見向きもされないよ」
一握りの上流階級ならともかく、市井で生活している庶民は食品の価格に敏感だ。スーパーで買い物する人は、ひょっとすると百円前後の物しか買わないかもしれない。
赤根農園は機械や農薬を利用して大量生産するような農家ではないため、薄利多売の商法では経営が成り立たない。九条さんも値段のつけ方に頭を悩ませているようだ。
「僕、今年の夏に山形の直売所で八百円の小玉メロンを買ってみたんだけどね。それが、以前東京で食べた五千円のメロンとまったく同じ味だったんだよ。もう驚いちゃってさ……農家の人って、自分の作った農産物の価値ってものが正しく理解できていないんだ」
「ごっ、ご、五千円のメロン!? 東京の人っておやつにそんなもの食べてるんですか!」
お中元でも中々もらえないレベルの代物をひょいひょい食べるなんて。一瞬驚いてしまったが、そういえば近頃は五千円台を上回る恐るべき高級フルーツが出回っているとテレビで見たことがある。一個一万円の梨とか、一粒五万円のいちごとか。
貧乏人代表の俺は、自然な流れで話に登場した高級品に恐れおののいた。九条さんは冷めた表情で呆れ返っている。
「そんなのどうだっていいだろ。ようは、買ってほしいからって適当に安い値段つけてたら駄目ってことだよ。商品の適正価格を知り、販売努力を怠らない」
「なるほど……高すぎず安すぎない、ちょうどいいラインで買ってもらうと」
当たり前の話だが、改めて聞くと中々ためになる。俺だって仙台のイベントで出張販売するときは、話術や試食を駆使してめちゃくちゃ頑張って売りこんでいる。
全力を尽くしていれば、「高い」と文句を言う人も少なくなって、「寒い中大変ね」とか「この前の大根美味しかったよ」と褒めてくれる人が出てくる。そんな瞬間が来ると、俺も報われた気がしてポロポロと涙が零れてくるのだ。
俺は野菜の売れ行きをかなり気にしていたのだが、大晦日が近づくにつれ徐々に雪下野菜の評判が俺たちの耳にも届くようになった。
あるときはスーパーの配達から帰ってきた那須くんから嬉しい報告があった。
「今日、スーパーにちょっとした行列が出来てましたよ。オレが棚に並べるそばから赤根農園のキャベツがどんどん売れていきました」
「おっ、すごいじゃん。とうとうファンまでついたか」
くっくっく、と赤根さんは肩を揺らして満足げな笑みを漏らしている。
話によれば近隣の農家はすでに仕事納めをしているので、現在スーパーの産直コーナーはほぼ赤根農園の独占状態らしいのだ。ラッキーラッキー、追い風が吹いてきたじゃないか。
「これ、お土産です。他の農家の売れ残りをもらってきました」
那須くんが作業台の上に置いた袋入りのキャベツには、『かまくら育ち』とプリントされた大きなラベルが貼られている。背景に描かれた雪景色のイラストがかわいらしい。
「へー、鎌倉! すげーな芹沢、とうとう山形にお前の故郷の野菜が並んだぞ」
「オレの出身は湘南だ。これは山形産と書いてあるし、雪で作るかまくらの方じゃないのか?」
どうやら鎌倉市で栽培されたというわけではなく、赤根農園の商品と同じように雪の中で寝かせた野菜らしい。バリバリの競合商品じゃないですか!
赤根さんはよその農家が育てたキャベツを手で触って品定めしていた。
「ふかふかしてるな、葉の巻きがあまい。しかも葉が固いし。今年の秋は寒かったから生育不良かな」
真剣な眼差しであれこれと分析している。確かによく見れば、うちのキャベツよりも緑色が濃くて葉脈が固そうだ。品種自体が違うのかな? キャベツ道は奥が深いなあ。
「それにしても……こっちが売れ残って、俺たちのキャベツは売れてるんですから、お客さんはちゃんと味の違いを分かってくれたんですね」
俺はてっきり、消費者はキャベツなんて適当に買っていくものだと思っていた。どこの農家が作ろうが、見た目はほとんど一緒だし。
しかし実際には、赤根農園の味を気に入ってリピート購入してくれた人がいたということだ。素直に嬉しいような、照れくさいような。
俺が収穫した雪下キャベツが美しい人妻に買われ、調理されてサラダやポトフになっていく様子を妄想するとなぜか興奮する。お、奥さんっ。恥ずかしいです奥さーん!
「飲食店や観光地も、根強いリピーターを獲得できたら安泰って言うしな。うちの農園も、じゃんじゃん売ってファンを増やしていこうじゃないか」
赤根さんの言葉を聞いて士気が上がりかけたが、ふとあることに気付いて正気に戻った。
赤根農園がスーパーで売っている雪下キャベツは、高くても一個二百円。百個売っても二万円。そこからスーパーに手数料を取られ、栽培にかかった費用まで引くと最終的な利益は雀の涙ほどしか残らないだろう。
種の状態から数か月かけて育て、真冬の畑でひいひい言いながら収穫してきたのに、それっぽっちの売り上げにしかならないのか。やはり農家は儲からない、と結論が出て目の前が真っ暗になった。
「うっ、うう。うええ」
「んだよ、気持ち悪い声出すんじゃねえ」
「だって、お金が……ぜ、全然お金もらえない。俺がんばったのに、がんばってるのに」
残酷な現実を前に、ぼそぼそと泣き言を漏らして震える。すると那須くんが俺の肩をつかんで乱暴に揺さぶってきた。
「うるせえな! いいか天見、金が無くても人間生きていけるんだよ。芹沢さんを見てみろ、あの人は長袖二枚と半袖一枚だけで一年生活してんだぞ。赤根さんだって、山から野草摘んできておやつ代わりに食ってる。ここに来た以上お前も運命共同体なんだよ!」
「や、やだ。もうやだ帰る、新潟帰って時給千円のバイトする」
「逃がさねえぞ……お前の死に場所はここだ」
あまりの貧乏さに那須くんは頭がおかしくなっているのか、魔物に憑りつかれたような狂気の眼差しを俺に向けている。ふざけんなよ、俺だって浪費癖があるわけじゃないが、たまに自分へのご褒美として本やお菓子を買って楽しみたい。人として最低限の文化的な生活くらい送らせてくれ!
その日の晩。自室のベッドで横になった俺は、どうやったら楽に死ねるのか考えていた。
農薬を飲むか。ガソリンを飲むか。それとも、重たくしたリュックを背負って深めの川に飛び込むか。人気のない雪山で絶食死する、というのも候補に入れておこう。
俺と同じような精神の弱い若者なら、一度は「死ぬ」という選択肢を頭に思い浮かべたことがあるんじゃないか。肉体を酷使して働けど働けど、吹けば飛ぶような小銭しか手に入らない。これ以上生き続けたって、どうせ心身ともに疲れ果てて嫌な目にしか遭わないのだ。
実際に、学生から社会人、芸能人だって古今東西全国各地で自殺しまくっている。俺みたいな根性なしの卑しいガキはいなくなった方が世の中のためだ。日本の生産性を上げるためにも死ぬべきなんだ、今すぐに。
「やばい……」
ちょっと歯止めがきかないほど、マイナス思考が加速しすぎている。俺は発作を抑えるための薬を求め、スマホに手を伸ばした。イヤホンを耳につっこんでロックを解除する。こういうときは、自分を励ますために『自己啓発ソング』を聴くのが一番だ。
大好きな曲のイントロを聴いただけで、条件反射的に涙があふれ出てきた。
『今の君には やりたいことがあるんだろ やらない、できないは過去の話さ』
「う、うぎぎ」
『くたばっちまったところで 世界はなにも変わりゃしない 生きてこそ 生きてこそ花は咲くんだぜ』
「ひっ、ひっ、ううう、ひぃーっ」
俺は無限に曲をリピートして、無限に泣き続けた。全ての歌詞が良すぎる。どのフレーズも俺を元気づけるために作られたんじゃないか、と錯覚するほどだった。
俺個人にとっては、学生時代に心療内科で処方された抗うつ剤より、好きな音楽の方が心に効くような気がしていた。
「ふぎっ、ぐーっ、ういぃっ」
俺はベトベトになった顔面をティッシュでぬぐい、歯を食いしばった。
生きて行かねばならんのだ。
野菜と同じように、雨風や吹雪にさらされ獣に食われても、生きてさえいれば誰かの役に立てるかもしれないのだ。欠陥のある『ワケあり』でも、好きになってくれる人はどこかに必ずいるのだ。俺のような底辺ゴミ人間は死んでもゴミになるだけだし、生きているだけまだマシだ。俺は自分で自分に言い聞かせた。
「やるんだよ、やるんだよ、ロックンロールをやるんだよ! 俺たちには出来るんだよ!」
俺はベッドから抜け出し、音楽に合わせて拳をふり回して踊り狂った。小心者なので騒音は立てずに、ひっそりと、だが本能のままに暴れて不安や憂鬱を追い払った。
十代、二十代にありがちな深夜のモラトリアムである。ノーミュージック、ノーライフ!
情緒不安定な俺はすっかり高揚してしまって、アドレナリン全開で暗い部屋の中をうろついていた。生きる気力がギンギンに湧いてじっとしていられない。
ところが何かの拍子に、手元のスマホを誤タップしてしまったらしい。気付いたときには、俺のポンコツスマホは誰かに電話をかけ始めていた。
「あっ! こら、ちがうちがう! 電話じゃないから今は!」
慌てて通話終了のボタンを押したが、数秒後に相手が折り返しの電話をかけてきた。
「わーっ、ごめんなさい! 間違っただけですから、おやすみなさい!」
『おやすみなさい、じゃねーだろボケが。夜中に迷惑電話とかいい度胸してんな。通報すんぞ』
相手は寝起きで機嫌が悪いのか、トーンは低いが凶暴性をはらんだおっかない声だった。
「すみませんすみません、違うんです! お、俺ちょっとパニックになってて、夜中に泣いちゃって、頭が変になっただけなんです。全部スマホの誤操作です、おやすみなさい!」
『今からテメーの部屋行くからな。逃げようとか考えるんじゃねえぞ』
「ひゃああ、来ないでええっ、来ないで下さい! 何でもするので来ないで下さいお願いします!」
涙声で必死に懇願したが、相手は一方的に電話を切ってしまった。まるでサスペンス映画の導入のようではないか。きっと俺はこの後、部屋に押し入ってきた怒り狂った大男にナイフでめった刺しにされるのだ。怖いよう、怖いよう!
数十分後、宣言通り先ほどの電話相手が部屋にやってきた。敵の本拠地を強襲するゲリラ部隊のごとく、扉を開けるなり俺に飛びかかってくる。
架空の歌詞を書いたので、JASRACさんお許しください!