冥王の涙
今でこそ魔眷属としてそれなりの立場にいるが、元を返せば俺は、どこにでも居る空腹に飢える貧困児だった。
生活環境もろくなものではなく、俗に言うスラム街という所に親父と二人で住んでいた。もちろん元から二人という訳ではなく、昔は優しい母親がいた。
スラム街には似合わない綺麗で長い黒髪。顔も整っており、外見に比例して性格も温厚。いつでも笑顔を絶やさず、幼かった俺の心の拠り所だった。
朝起きて、まだ優しかった父と母と一緒に朝食を食べ、それぞれの仕事に行ってお金を稼ぎ、夕方辺りに帰ってきて家族団欒を過ごす。それが俺達の生活のサイクルだった。
いつも笑っていた母と楽しそうに酒を呑む父。そんな二人と一緒にいた俺は、恐らく人生で一番幸せな時期だった。
しかし俺が六つの時、その関係に徐々に綻びが生まれる。
親父が不祥事を起こして仕事を失ってしまった。そのせいで俺達は収入の半分以上を失い、極貧の生活を強いられた。それだけならマシだったのだが、当の父本人は自暴自棄になり更に酒に溺れ、時には俺や母を殴ったりすることも増えた。
それでも、まだ生活は出来ていたが、夜中に母の啜り泣きが聞こえてきた時は胸が締め付けられそうになった。その頃からだろうか。俺達に会話というものは無くなった。
そしてある日、家から母が消えた。朝起きてもいない。仕事から帰ってきてもいない。寝る時も俺と父しかいない。俺は不思議に思い父に聞いた。お母さんはどこに行ったの、と。
父から返ってきた言葉は衝撃的すぎて、俺の胸を抉った。
「あいつは売った。いい金になったぜ」
「う······売った······?母さんを······?」
「ああそうだ。お陰で暫くは酒が飲めるぜ。へへ」
俺には彼の言葉が信じられなかった。
妻を······生涯を共にすると誓った母を捨てたのか······?
目先の金の為とはいえ、そんなことが許されるのか······?
気がつくと俺は父の······いや奴の顔面を殴り飛ばしていた。頭に血がのぼりすぎて自分でも何をしたか分からなかった。すると奴がむっくりと立ち上がりこっちに向かってくる。
「てめぇ······父親に手をあげるとはどういう事だ······」
「······黙れ」
「はぁ?」
「母さんを売るやつなんて、父親じゃない!人間じゃない!」
「ガキが······!調子に乗るな!」
そこから先はよく覚えていない。かろうじて覚えているのは、殴り合いの取っ組み合いをした後、家から追い出されたことだ。
その後はもはや何もする気も起きず、とぼとぼと廃れた街の中を歩いていた。その時、俺は出会ったのだ。
恩人に。そして······生涯の君主ガルシャ様に───。
そこから先は早かった。王城に招かれ、身だしなみを整えられ、一人のしがない兵士として訓練に忙殺された。
そうしているとどうやら俺には戦闘の才能があったのか、一年足らずで下っ端兵から最終的に魔王直属の精鋭部隊にまで抜擢された。そこで今は亡きヴァーレインや、盟友のノアやグノに出会った。最初は気難しかったが、次第に打ち解けすぐに軽口を叩きあえるような関係になれた。
正直、あの三人がいてくれて良かったと思う。肉体的にも精神的にも支えになっていたことは確かだから。まあそれを面と向かって言うことはないだろうが。
そして数年後、今に至るという訳だ。今では魔族No.2なんて言われているが、それが俺だけの力でないことはわかっている。全てはあの時ガルシャ様に出会ってから始まったのだ。
だからこそ俺は、たとえこの命尽きようとも、あの方に最後まで仕えようと決意したのだ。あの方の剣として───。
そうして物思いに耽っていると、いつの間にかいたフィルに声をかけられた。
「ギルヴァン様······泣いておられるのですか?」
「フィル······なんでもない。何か用か?」
「ガルシャ様がお呼びです。謁見の間へお越しください」
「わかった。すぐに向かう」
フィルに見られていたとは不覚だった。まあ······彼女ならいいかと思い、俺は謁見の間に向かった。
「来たか。ギルヴァン」
「はっ。それで、一体どのようなご要件で?」
「大戦の前に、お前に合わせておきたい人がいるのだ」
「私に······?」
「ああ。出てきてくれ」
そうガルシャ様が言うと、玉座の後ろから人影が姿を現した。
その瞬間───。
俺の頬には涙が伝い、喉からか細い声が出た。
「か······母さん······なのか······?」
「······ええ。そうよ······ギルヴァン」
そこに立っていたのは······俺の母。数年前に父に売られ姿を消した最愛の人だった。その事を認識した俺は、今まで溜め込んできたモノを吐き出すように涙を零し、駆け寄ってきた彼女に抱きついた。
瞬間、懐かしい温もりが俺を優しく包み込む。長年胸に刺さっていた棘が、愛の炎に溶けたような気がした。
そうして俺達は、いつまでも感動の再開に打ち震えていた。
数十分後、ようやく落ち着いてきた俺は彼女から体を離し、玉座に座っていたガルシャ様に疑問をぶつけた。
「それでガルシャ様······なぜ今更母を······?」
「あー······その······なんだ。色々あるんだが······やっぱり全てが始まる前に、ギルヴァンに謝ろうと思ってな」
「謝る······?なぜそのようなことを······」
「お前の母さん······アイビナを買ったのは······俺なんだ」
「······ガルシャ様······が」
彼女を見た時点で薄々気づいてはいたが、改めてその事を聞き俺は驚いた。買ったとはどういうことだろうか。
「言い訳にもならないが、一つだけ勘違いしないでおいて欲しい」
「······はい」
「俺は体目的で彼女を買ったわけではないし、行為もしていない。単純に彼女を助けたかった。それだけなんだ」
「············」
「やはり······ガルシャ様は思った通りの方でした」
「え?」
「別に怒ってなんていません。むしろお礼を言わせてください。母を助けてくれて、ありがとうございました」
そう言って俺はお辞儀をした。暫くして顔を上げると、少し顔が赤くなっているガルシャ様が目に入った。
「お礼は······大戦が終わった後に改めてしてくれ」
「······分かりました」
俺達はそう言ってはははと笑い合う。フィルさんやアイビナ母さんもどこか嬉しそうだ。俺はそんな優しい雰囲気の中、心に決意した。
必ず戦いに勝って、もう一度みんなの笑顔を見よう、と。
次元の狭間解放まで、残り二日。
空に入った亀裂が、次第に大きさを増していった───。
次回辺りからクライマックス突入······ですかね?笑
気長に待っていただけると幸いです。




