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粗末なベッドで少し休むと、浅野の顔色にも色が戻り始めた。
「で、さっきはどうしたんだ。あの子に何かあるのか?」
「あの子のローブの下、人間じゃないですよ。絶対。蛇みたいにグネグネしてました」
八坂にとって、それはにわかには信じがたいことだった。だが、さきほどの多々良の発言や、浅野の顔色の変化からいくらかの現実感を覚えている。
「そうか。僕は全く気づかなかったけれど、君が言うならそうなのだろう」
「……これからどうしますか?」
「まだ見てない部屋がある。ろくでもないものが出てきそうだけど、脱出の手がかりを探さないといけないからね」
「そう、ですね」
気が乗らない、というのが浅野の正直な気持ちだった。確かにここから逃げなくてはいけないが、多々良のような存在を作ってしまうような組織の施設を調べるのは、生きた心地がしない。
牢屋を出、階段を登りながら八坂は言う。
「ひとまず右手の部屋に入ろう。厨房の隣なんだから、そんな物騒なものはないだろう」
厨房の正面で多々良を見たと言うのに、この人は何を言っているのだ――と、浅野は思ったが口にはしない。何であれ行動の指針が欲しかった。
「うん? 鍵がかかってるな。鍵とか持ってないか?」
「なんでわたしが持ってるんですか。ん?」
「え? 持ってるの?」
「ポケットに……」
浅野はローブから小さな鍵を取り出す。そして鍵穴に差してみれば、すんなりとその鍵は開いた。
「これは運がいいな」
「そうですね」
その部屋は倉庫として使われているようだ。ダンボールや木箱が積まれており、壁には黄色いローブが掛けられている。
「運が味方をしてくれてるな」
迷わずローブをとり、それに袖を通す。
「あっ、これわたしのカバン」
浅野はベージュのバッグをとり、中をあさっている。
「うん、全部揃ってる」
「なら僕の荷物もあるはずだな」
彼の荷物とは言っても、それはせいぜい電話と財布くらいのものだが。
八坂の荷物も浅野の荷物の近くで見つけることができた。これだけ箱があるのだからと、ふたりはこの倉庫を物色してみたが、他には特に何か役立ちそうなものは見つからなかった。扱いに困ったゴミを押し込んでいるかのようにさえ思えた。
倉庫を漁ったところで、今の状況が好転することはおそらくないだろうと思い、ふたりは部屋を出る。一階で残る部屋はこの部屋の向かいの一室だ。
「この様子だと、この部屋も何か生活するための部屋だろう」
そう言いながら、八坂はドアを開く。
しかし、ドアを開け、中の様子を見た瞬間、その考えがあまりに軽率で安易なものだと思い知った。そもそもそのような考えに至る時点で、彼の感覚は麻痺しているか現実から逃げているか、あるいは頭がお花畑であるかだ。
「なんだ……これは……」
八坂は息を呑み、浅野は言葉を失う。
目に飛び込んできたのは、大量の拷問器具であった。三角木馬、拘束具、鎖、鞭、剣山、万力などが所狭しと並べられている。そしてこの残虐な部屋もまた、部屋一面が黄色く塗りたくられている。他の部屋と異なるのは、部屋の至る所に赤黒い染みが点々と付着していることだ。この赤黒い染みが何なのか――それは考えるまでのないことだった。
「うっ……」
浅野は口元を抑えてその場にうずくまる。
「部屋の外で待っていろと言いたいところだが、中で我慢してくれ」
八坂自身もこの部屋を見てしまえば、どうしても気持ち悪さを覚えるが、それどころではない。
こんなものを見てしまえば――これによって自分たちに何をされるのかを考えれば、一刻も早くここから出る方法を見つけるしかないからだ。
「こんなところにロックを開く鍵があるとは思えないが……」
それでも手がかりを求めてこの部屋の中を見渡す。拷問器具が置かれた棚や、作業台などを検分していく。
そして三角木馬の足元に、一冊の手帳が落ちているを発見した。それは誰かが手記として使用していたもののようだ、
その手記には次のような記述がある。
「×月×日 やはり人間では主の寵愛を受けることはできないのだろうか。主の力は人間には大きすぎるのだろう。だが、我々の動きに警察も気付きつつある。そろそろ決着をつけたい。
□月□日 あるいはこれは主に対する反逆なのかもしれない。だが我々がどうしようもなく人間である以上、致し方ないことだ。研究の甲斐あって、適合率もかなり向上してきている。巫女が生まれる日も、そう遠くはないのかもしれない。
◯月◯日 やっとこの日がやってきた。主の寵愛を受け、なおその命が絶えない者が現れた。これまで幾度失敗してきただろうか……しかしこれで我らは巫女を向かい入れることができたのだ。我らの未来にも光が……。
△月△日 巫女を迎え入れることには成功したが、生贄を集めることをやめるわけにはいかない。主の寵愛を受けた巫女も生贄を求めていることだろう。しかし顔をしかめている時がある。巫女になりながらも、人間の感情にこだわっている様子だ」
「何か見つけたんですか?」
「ん? ああ、どうやら誰かの手記みたいだ」
「読ませてください」
「いいけど、あまり気分の良いものじゃないよ」
「構いません」浅野は大きく深呼吸する。「わたしもできることはやらないと」
「そうかい」
八坂はそれでも少しためらいはしたが、浅野にその手記を渡した。
「そこに書かれている巫女ってのはたぶん、さっきの多々良さんのことだろう。ここはカルト教団の施設らしいから、主ってのはその信仰の対象。でも、主の寵愛ってのは何のことだろう」
信仰の対象――主が神であるとするなら、寵愛も何もないだろう。実在ではないのだから。実在ではないからこそ、巫女を向かい入れ、巫女を偶像として崇拝しているのだろうから。
「巫女を向かい入れたって、もしかして多々良さんがあの状態になったことを指すんでしょうか? だとしたら寵愛っていうのは……注射?」
ふむ、と八坂は思案する。
「何を注射したかわからないが、人体実験を寵愛と呼ぶのはいかにもイカれた奴らの発想だね」
「なおさらここから出なくちゃいけませんね」
「そうだね」
拷問部屋を出て、再び廊下へ繰り出す。地下と一階の探索は終了し、残るは二階の探索だ。しかし二階の構造や、そもそもこの施設内にどれだけの人間がいるのかが不明であり、のこのこと上へ行くのもためらわれた。
ためらっても行くしかないのだが。
「そういえば窓がありませんね」
「こんなやばい施設なんだから、外から見えないようにしてるんじゃないかな」
この建物は窓がほとんど見当たらない。窓と思しき場所には執拗に木が打ち付けられており、完全に光を遮断している。地下牢には採光窓があったが、夜の今ではその存在さえ気づけない。
多々良のいる部屋のドアの前に差し掛かると、浅野はその部屋のほうを見て立ち止まった。ドアに手をかけないところを見ると、中に入るつもりはないようだ。彼女はドアの向こうの多々良を見ているように、じっとそのドアを見つめている。
「どうしたの?」
「八坂さん、彼女のこと、どう思いますか?」
「どう、というと?」
別にここで、彼女に対する好悪だとか性格診断だとか、そういうことを聞いているわけでもないだろう。
「何対何だと思いますか? わたしは六対四くらいだと思うんです」
「それは人と化物の比ってことかな? 六が人?」
「はい。八坂さんはどう思いますか?」
浅野の問いかけに、八坂はふむ、と考える。
「九対一。九対一だよ」
「それは……」
「九が人。僕はそう思う」
あるいはそう信じたい――のかもしれない。
「九対一……」
「うん。彼女はきっと体だけがあんなにおかしなことになってるんじゃないかな? だから生贄を喜ばないし、僕たちに協力してくれる」
「だったら――」と浅野は優しい笑みを少しだけ浮かべる。「――助けてあげないとダメですね」
「そうだね」