マスター
僕に全てを教えてくれたマスター
還暦前の、若々しい、変人。
マスターが慌てふためくような姿を僕は見たことがない。この店で働いていた時も、マスターは常にマイペースで、飄々としていて、そしてなぜか貫禄がある。僕にとってはある意味目標であり、どこかでこんな大人にはなりたくないという気持ちもある、そんな不思議な存在で、だからマスターと話をするのはとても楽しかった。
久しぶりに会ったマスターは、還暦前とは思えないほどに黒々とした髪を後ろになでつけ、見慣れた金縁メガネではなく、ふちなしのメガネをかけていた。だからなのか、僕がマスターに初めて会った時よりも若々しく見えた。
「メガネ変えたんですね、なんか僕がいた頃より若く見えますよ。」
「あぁ、今働いてくれている娘がね、プレゼントしてくれたんだよ。」
「へぇ、いいスタッフが入ったんですね。」
「まあね、俺はいつもいいスタッフに恵まれる。あっお前さんもいいスタッフだったと俺は思ってるよ。」
マスターは僕の事をお前さんと呼ぶ。なぜかそれは徹底していて、その理由は今だにわからない。一度聞いたことがあるけど、
「何かおかしいか?」
「わかりませんけど、僕はお前さんなんて呼ばれ方されたのは初めてです。
「へぇ、お前さん、変わってんな。」
そんな感じだったので、僕はそれ以上追求するのはやめて、それを受け入れた。呼ばれ方なんて実は何でもよかったのだ。
「マスター、僕、お店閉めちゃいました。」
「そうか、残念だな。まあでもお前さんにも色々あるんだろうな。」
「理由聞かないんですか?」
「聞いてほしいのか?」
「どうなんでしょうね。正直、マスターだったらそう言うだろうなと思ってました。予想通りです。」
コーヒーを一口飲む。相変わらず美味しい。それ以上の豆がどうしても見つからなかったので、同じ豆を使っていた。でも、マスターの淹れるコーヒーには今だに及ばない。何度となくアドバイスを求めたが、そのたびに言われたのは「愛だよ愛。コーヒーに対する、お客さんに対する愛。お前さんにそれがないとは言わねえが、まだまだ俺には及ばねえな。」なんていう、わからなくはないんだけど、納得することのできない答えだった。
「マスター、僕ってどんなスタッフでしたか?」
「そりゃ、優秀なスタッフだったよ。今まで何人も雇ってきたけど、お前さんほど若くして巣立っていった奴はいないね。」
「ありがとうございます。マスターにはほんと、いろいろ教わりました。」
「お前さん、気づいちゃいないかもしれないが、俺は正直お前さんに何かを教えたとは思ってないよ。」
「どういうことですか?僕はマスターに全てを教わったと思っていますよ。」
「お前さんはいつも、俺が教えようと思ったことを、その前に身に付けていた。不思議に思ったもんだよ、こいつは初めから全てを知っていたんじゃないかと思ったほどだ。
「僕は何も知りませんでしたよ、ただ必死だっただけです。」
「ところでお前さん、よく一人でキャンプに行ってたよな、あれ、何してたんだ?」
「ただ、焚き火の炎を見つめて、考えていました。瞑想みたいなものでしょうか。」
「じゃあ、うちで働いているとき、途中から児童養護施設の援助を始めたろう、あれはなんでだ?」
「僕が昔お世話になったところだからです。恩返しですね。僕、言いませんでしたっけ?」
「本当にそうか?お前さんがあの施設出身なのは知ってたが、当時のお前さんを見ていて、恩返しをしているようには見えなかったけどな。正直どこでもよかったんじゃねえのか?たまたま近くにあの施設があったからじゃねえのか?」
「ちょっと待ってください、なんでこんな話になってるんですか?僕はマスターに、自分がどんな人間だったか聞きたかっただけなんです。
「俺はお前さんと5年間一緒に働いたが、お前さんがどんな人間かは最後までわからなかったよ。極めて優秀だったのは間違いない。でもお前さんが本当に求めていたものはおいしいコーヒーのいれ方でもパンケーキの作り方でもなく、店の経営の仕方でもなかった。」
「全部マスターに教えてもらったことです。」
「20歳そこそこの小僧が俺の仕事を、見ただけで完璧に覚えてしまった。そんな簡単な、誰にでもすぐに出来ることをしてるつもりはねえよ。お前さんもそれほど器用な人間ではなかった。ただ、常軌を逸した集中力を持っていたんだ。あの集中力はどこからきてたんだ?お前さんは何を求めていたんだ?」
「さっきも言いましたが、ただただ必死だっただけです。」
「みんな必死にやってるよ。それにしたってあの集中力は尋常ではなかった。お前さんは、なにか生き急いでいるように見えた。」
やっぱり僕は、死神が言ったように生き急いでいたようだ。生き急ぎすぎて僕は予定されていたより早くに使命を果たしてしまった。・・・だから早く死ぬ?テレビゲームなら早くクリア出来て満足ってことになるのかもしれないけど、人の人生ではそうはいかないだろう。今のところ僕の使命もわからないままだ。でもマスターとの会話で一つ思い出したことがある。僕が児童養護施設の援助を始めた時のことだ。確かにマスターが言うように恩返しだけが動機で始めたわけではなかった。あの時、僕にはお金がとてもつまらないものに見えていた。理由は簡単で、死んでしまったらお金は持っていけないということに気づいたからだ。そこに至ったのは確かキャンプ中だったと思う。ちょっと考えてみたら誰でもわかる当たり前といえば当たり前のことだ。でもあの時の僕にとって、貧しい幼少期を過ごした僕にとって、それは新鮮な発見だったのだ。だったら、何か人の役に立つことに使ってしまえ。かなり衝動的な行動だったと思う。でもその衝動的な行動はその後何年も続いた。これからもきっとA君が続けていくだろう。僕はそのことに何か満足感のようなものを感じていた。それは僕の使命と何か関係しているのだろうか・・
「マスター」
「僕は」
「もうすぐ死にます。」
「マスターが言うように、僕は生き急ぎすぎたみたいですね。」
「僕はどう生きたのか、人の目に僕の人生はどう映っていたのか知りたいんです。」
「お前さんはあまりにも純粋で誇り高い生き方をしたと思うよ。」
「信じるんですか?」
「嘘をついていているようには見えないな。今日お前さんを見たとき、何か今までとは違うことが分かった。なぜか初めてお前さんと会った時の事を思い出したよ。」
「そうですか、なんか、嬉しいですね。」
「自分の事を知りたいか・・だったら、お前さんの事を俺よりも、いや、多分この世で一番知っている人を知ってるよ」
「ええ、僕も知ってます。たぶん、会えないですけどね。」
僕の事を誰よりも知っている、いや、理解してくれた人がいた。その顔を、声を、仕草を、今でも鮮明に思い出すことができる。今思えば、彼女は僕の事をあまりにも深く理解していたから、だから去って行ったんだとわかる。
誰よりも僕を理解してくれた彼女は、今、どこで何をしているんだろう。
もうすぐ死ぬことを伝えたら・・・