後編
偽狐は無知を利用して作られる。それは本当の事なのだろう。その証拠に、彼──白狐の面の青年は、あまりにも無謀だった。
勿論、ここが普通の店ならば、そうとは限らない。女性二人だけでやっている古物店。それだけであれば、無防備だと思われてもおかしくはない。
ただし、店主である霊も従業員である私もただの人間ではない。誇り高い吸血鬼マテリアルとして生まれ育った霊は勿論、かつてはただの人間に等しかった私もまた、今や強力な魔術を会得している。そうとも知らず、偽狐は隠し持っていたナイフを取り出し、私たちを脅した。
「大人しくしろ……命が惜しければ、俺の言う通りにしろ」
声はだいぶ震えていた。
強盗というものに関して、その実際に詳しいとは言えない。この店で働くようになって、そう呼ぶべき者、それに近しい者と戦ったことは何度もあったけれど、そうであっても強盗というものへのイメージは、テレビドラマや小説、漫画などで触れるような荒々しいものだった。
そう思えばこの青年は、始終怯えているように感じられた。脅されているのは私たちの方なのに、まるで彼の方が脅されているかのよう。
霊は何もしなかった。ただ、じっと立ち止まり、彼の面を見据える。そして、落ち着いた様子で告げた。
「一応、用件だけでも聞いておきましょう」
その態度が気に食わなかったのだろう。彼は、怒りに満ちた鼻息が漏らした。ヒステリックにナイフを見せつけると、彼は吠えるように言った。
「えんじ色のアルバムだ。ここにあるんだろう。千景のアルバムといえば分かるはずだ。今すぐ持ってこい」
霊は静かに肯くと、私の方を振り返った。
その表情を見て、私は息を飲んだ。言われた通りに行動するかのように立ち上がった直後、偽狐の青年の背後──店の扉を睨みつけた。
──封印の鍵!
前のように叫ばなくても魔術は作動する。カチャリと突然鍵が閉まり、彼は驚いて振り返った。
何が起こったかを理解し、慌てて店の扉へと駆け寄った。内鍵を動かそうと奮闘するものの、それではこの魔術は破れない。混乱する彼を再び見つめ、霊は言った。
「あなたは何も知らない。知らないままここへ来た。唆されたのでしょう。古くからこの町を仕切ってきた、とある名家に。知らないという事は強みもある。だからこそ、あなたはここへ足を踏み入れることが出来た」
「く、来るな……!」
偽狐の青年が振り返る。ナイフを手に脅す彼に対し、霊が隠し持っていたのは木刀だ。遠慮を知らぬ木刀〈ベール〉である。
「今、あなたの目の前で不思議なことが起こったわね」
霊は彼に言った。
「何の変哲もない鍵が、急にかかった。種も仕掛けもないのに。それは何故だと思う? この店はそういう場所だからよ。この木刀も、ね。ただの木刀と思わない方がいい。木刀では何も斬れないなんていう常識だって、ここでは捻じ曲がるかもしれないでしょう」
「……ああぁ」
心底怯えてしまったのだろう。白狐の面の下で表情を引きつらせていることがよく分かった。心は恐怖に満ちている。そう、今こそがチャンスでもあった。
──鍬形虫の鋏の魔術《裁断》!
固まってしまった彼に向けて、私は再び魔術を唱えた。もともと〈赤い花〉の得意とする虫の魔術は容易に操れるようになっていた。呼び出された小さな鍬形虫の鋏も、青年を傷つけることなく、その面の糸だけを斬ってしまった。
はらりと突然面が落ちたことで、彼はますます恐怖した。
「どうして……どうして!」
素顔が一瞬晒され、彼は慌てて顔を両手で覆った。
覚えのある顔ではない。そこに少しだけホッとしつつ、私は再び魔術を唱えた。
──蜘蛛の糸の魔術《緊縛》!
動揺している今こそ隙だらけだ。
魔の血を持たぬ人間の中には、魔術というものが一切通用しない者もいるという。霊の持つ〈ベール〉はそういう相手に対して有効だが、遠慮を知らないという名の通り、相手を傷つけすぎてしまう可能性がある。
なるべく〈ベール〉を使わずに解決するには、この魔術が一番だ。そして、その為に有効なことが、人間であろうと未知なるものへの恐怖を思い出させることだった。
そして、この度は、狙い通りに事が運んだ。
「な、なんなんだこれは……」
藻掻き呻き床に転がる名も知らぬ彼の傍で、霊はしゃがみこんで見下ろした。手を伸ばし、床の落とされていたナイフを拾う霊の姿を見て、青年の顔が途端に青ざめていった。
「ゆ、許してくれ……」
怯えているのは先程と同じ。急に態度を変えたわけではない。ずっと彼は震えていた。恐怖に駆られた状態で、私たちにナイフを向けてきたのだから。
「事情を聞きましょうか。どうして彼らに手を貸したの?」
ナイフを向けて訊ねる霊に、彼は怯えながら答えた。
「どうしても……金が必要だったんだ」
そう言って彼は項垂れた。この先の未来が暗い事、そしてどう足掻いても逃れられない事を理解したのだろう。
その後、笠に連絡を入れてみれば、曼殊沙華の者と共にすぐに飛んできて青年の身柄を引き受けてくれた。
「全く、気が気でなかったよ」
青年を引き受けながら、笠は私たちに言った。
「本家から急にいつでも向かえるように準備してろなんて言われたもんだからね。だが、これでようやく肩の荷が下りるってもんだ」
「よろしく頼むわ」
霊が静かに言うと、笠たちはしっかり頷き、哀れな偽狐の青年を連れて行ってしまった。
そして、その翌日、青年の事は少しだけ私たちにも伝えられた。
証言していた通り、借金に追われ、行き場を失った青年が白妙の接近を受けた末路だったらしい。〈アスモデウス〉の処遇がどうなる予定だったのかについては、彼も知らないのだという。白妙は分かっているはずだが、正面から聞いたところで答えてくれるはずもない。
いずれにせよ、それは曼殊沙華の望まぬ選択であり、ヤヤ子を傷つける未来でもあるのは間違いない。完璧と言うものを実現し、今も世間からの評価を得たいと〈アスモデウス〉自身が思っているのだとしても、叶えてやることは出来ないのだ。
それが正しい事なのかどうかは私になんて分からない。
ただ今は、〈アスモデウス〉を護り切れたことだけを喜びたい。
事件から数日後の事、来客用の蘭花のテーブルにて向き合う三者の姿があった。ヤヤ子と百花魁、そして仲介するのが霊である。あの日と同じように私はカウンターにステイし、様子を窺っていた。
この度の対面は、偶然居合わせたわけではない。
「ヤヤちゃん」
沈黙の中、霊がそっと促すと、ヤヤ子はごくりと息を飲み、顔を上げた。猫の目でじっと百花魁を見つめると、彼女は頭を下げた。
「白妙の……ひゃ……百花魁と言ったか……この度は世話になった」
素直に彼女はそう言った。
「私はこの通り、ただの化け猫だ。人間の姿になれるだけの野良猫に等しい。礼として渡せるような富なんてものは持っておらぬ。だが、助かったのは確かだ。心より感謝する。本当にありがとう」
いつになく下手であるのは、それだけ百花魁の事を警戒していたからこその事なのだろう。
子犬のように伏せてしまったヤヤ子を前に、百花魁はというと、表情の読みづらいキツネの顔のまま、しばらくヤヤ子を見つめていた。だが、軽く息を吐くと静かにヤヤ子へと声をかけたのだった。
「お礼を言うべき相手は、私ではないわ」
キツネの目を細め、そしてそのまま余所を見つめる。
何処か素っ気無い彼女に対し、ヤヤ子は軽く首を振った。
「では、謝らせてほしい」
そして、瞳孔の大きくなったその目で百花魁に告げた。
「私は疑っていたのだ。あなたが白妙であるというだけで。だから、刺々しい態度をぶつけてしまった。それを後悔しているのだ」
「別にいいのよ。あまり気にしていないもの。それに、私は私で善意から手を貸したわけじゃないの」
百花魁の言葉に、霊がそっと訊ねる。
「どういうこと?」
「この度の事は、無花果様のご命令だったからよ」
「無花果氏の……?」
霊はやや警戒を強めた。それもそうだ。ヤヤ子の隠し持つ遺品が外部に知られていることはあまり望ましい事ではない。
無花果はコレクターでもある。興味を持たれては、面倒臭いことになると警戒しているのだろう。霊の反応に対して、私と同じように感じたのか、百花魁は苦笑しつつ述べた。
「そう恐れないで、霊様。旦那様は詳しくは知らないままよ。この度のご命令は無花果様自身の望みではないの。正確に述べるなら、無花果様に可愛く甘えておねだりしたある女の希望ね」
そんな女性がいるのだろうか。いるとしたら、それこそ百花魁なのではないかと思うのだが。と、私はピンと来なかったのだが、どうやらヤヤ子は違ったらしい。
「……月子か」
その言葉に百花魁はくすりと笑ってみせた。
「ええ、そうよ。白妙の動きを知った彼女が、旦那様を介して私に命令したってわけ。いいお友達がいて羨ましいわ。大切になさい。ああでも、どうしても私にもお礼をしたいならば私にも一応考えはあるのよ。人間の女の姿になれるのよね。その姿で私と一夜過ごして貰ってもいいのよ」
「……一夜?」
ぽかんとするヤヤ子を、面白がるように百花魁は笑う。
霊は呆れたようにため息を吐いてから、そっと百花魁を睨みつけた。
「そうやってすぐ見境なくちょっかいをかけるのなら、〈赤い花〉なんて囲う必要もないのではなくて?」
雛芥子の事だ。
妙な緊張感に寒気がした。今も、彼女はあの場所にいるのだろうか。その事すら、今は分からない。任せて欲しいと言われて以降、私はただ待つ事しか出来なくなってしまった。
彼女はまだ、無事だろうか。やつれてはいないだろうか。その全ての答えを知る百花魁は、微笑みを浮かべたまま霊を見つめ、そして言った。
「それとこれとは別よ」
結局それ以上、百花魁から情報を引き出すことは出来なかった。
ふたりの客人が帰り、閉店時間となった後、私は薄暗い店内のカウンターに座らされ、霊の抱擁を受けた。いつになく荒々しく感じたのは気のせいだろうか。
首筋は勿論、肩、唇、手、胸元、そして太腿など、あらゆる場所に噛みつかれ、血を流すこととなった。痛みと共に満足感を得つつも、私は霊の気持ちが少し心配になった。
「……霊さん」
一通り血を吸われてから、私は彼女に問いかけた。
「もしかして、イライラしています?」
すると、霊は少しだけ我に返ったのか、ため息を吐いた。
「気が立っているのは確かね。あのキツネに会った時はいつだってそうだけど、今回はいつも以上に心が落ち着かなかった」
「雛芥子さんの事ですか?」
正面から問いかけると、霊は目を光らせた。脅すように私の頬に手を添えつつ、彼女は短く答える。
「そうね」
「彼女は今、どうなっているんですか。まだ生きていますよね」
「生きているそうよ。元気ではないみたいだけど」
「知っているんですね」
「ええ。でも、あなたを喜ばせるような情報は一つもない。一刻も早く彼女に幸せが訪れる事を願っているのなら、ね」
つまり、何も変わっていないのだ。
今、こうしている間も、あの場所で閉じ込められている。〈赤い花〉の求める魔女の性に飢えてはいないのだろうか。
彼女の事を考えれば考えるほど、ヤヤ子の事もまた心苦しくなる。
「雛芥子さんの事と言い、ヤヤちゃんの事と言い、私、白妙の人たちのことが分からなくなってきました」
「きっと、部外者で分かる事はないでしょうね」
霊は言った。
「だって、そこの血筋である、あの百花姐さんでさえ、分からないみたいなのだもの。だけどね──」
時と場合によっては立場が変わる彼ら。今回のように、敵に回ることだってある。
それでも、曼殊沙華は白妙の事を完全に敵視したりはしないのだろう。そして、それは、霊も同じだった。
霊は私の胸元に触れ、〈赤い花〉の鼓動を確認しながら言った。
「少なくとも白妙は、あなたの命を奪いかねない蛇神を厳しく監視している。彼らがいるから、私はあなたを蛇に盗まれる不安に怯えなくて済む。そうである以上、一つ一つの事柄ごとに、うまく付き合わないと」
霊はそう言って、私の体を強く抱きしめた。
吸血鬼らしく力強く、けれど、そこに僅かに感じる震えに気づきつつ、私もまた彼女の背中に手を回した。




