中編
若くしてこの世を去った女性写真家の千景。
彼女の訃報が世間から忘れられかけた頃、遺品整理がすっかり終わった元の自宅の周辺の空き地にて、怪しい人影が目撃されるようになった。
どうやら、不法投棄された品々を複雑に合わせて築かれたつぎはぎの城に、うら若き女性が住んでいるという。
ただし、その話を聞いて誰かが確かめに行ったとしても、そこにいるのは警戒心の強い黒猫のみ。保護してやろうと近づく者にもなびかずに、猫はずっとそこにいた。
目撃される女性の飼い猫なのだろうという話もあったが、その噂に目を光らせた人物がいた。その人物は猫に近づき、猫の隠し持っている宝物の存在に気づいてしまった。
不届き者に目を付けられたと気づいた猫は宝物と共に逃げだし、巡り巡ってこの店へとやってきた。それが、ヤヤ子の過去である。
目撃されていた女性も、猫も、ヤヤ子だったのだ。
この店で本格的に働きだして、そう経たない頃の話だ。あの時のヤヤ子の姿が、昼頃に目にしたヤヤ子の姿を被ってしまう。
「霊さん」
軽めの夕食を終えた直後、横たわったまま血の足りない気怠さを覚えつつも、私はそっと声をかけた。
「〈アスモデウス〉はどうなるのでしょうか」
先に身を起こしていた霊は、私の顔をじっと見つめてから答えた。
「これから曼殊沙華に連絡を入れるわ。百花姐さんのタレコミをそのまま伝えて、今後の事を相談することになるわね」
「それで、もしも曼殊沙華の判断が……その──」
悪い予想を言いかける私に対し、霊は深くため息を吐いた。
「そうならない事を祈りましょう」
霊の言葉に頷くしかなかった。
その後、程なくして霊は曼殊沙華の本家に連絡を入れた。電話は少し長くかかり、込み入っているようだった。
不安に思いながら居間で相談が終わるのを待つこと小一時間。カチャン、と、受話器が戻される音がして、霊は戻ってきた。
「終わったわ」
「どうでした?」
「全力で追い払って欲しいとのこと。何かあった時は、笠がいつでも駆けつけられるように待機しておくように伝えると言っていたわ」
「それなら少しは心強いですね」
「少しは、ね。ひとまず、ヤヤちゃんの気持ちを蔑ろにせずに済んだのはいいとして、いつでも太刀打ちできるような準備が必要ね」
そう言ったかと思うと、霊の目の色が瞬時に変わった。赤い色に身震いが生じる。愛している一方で、いつか本当に殺されてしまうのではないかという恐怖を伴うその輝き。その妖しい光を目に宿し、霊は私に近づいてきた。
蛇に睨まれた蛙のように硬直したまま、私はふと今宵の夕食が軽かった理由を考えた。きっと、曼殊沙華への連絡のために霊もまた気が立っていたのだろう。ふわりと私の前にしゃがむと、霊はそのまま口を開いた。牙が伸びている。
「明日、偽狐が現れてもいいように、あなたも私も万全の準備を整えておかないと」
「……はい」
声を震わせる私の反応が望ましかったのか、霊はそのまま抱き着いてきた。
途端に痛みが生じ、快楽が生じる。霊がまだ空腹であったように、私の中の〈赤い花〉も満たされていなかったのだろう。身も心も霊に蹂躙されていると恐怖する度に、少し遅れて息が止まりかけるほどの喜びが生じた。
そうやってしばらく楽しんだ後、すっかり疲れ切って横たわる私を、霊は先程までとは打って変わって非常に優しく愛撫してくれた。まるで飼い猫にでもなったかのよう。その感触を静かに味わっていると、ふと私の脳裏にヤヤ子の姿が浮かんだ。
この店を去る前に私たちに見せたあの表情。前にもあの表情を目にした事がある。それは、ヤヤ子と初めて出会った頃のことだ。
人間の姿で二つの古物を抱え、この店にやって来たはいいが、何も話すことが出来ずに困惑していた。事情を察した霊が彼女に声をかけたのを覚えている。
──誰も見ていないし、私たちもあなたの許可なく他言はしない。だから、楽にして。
すると彼女は肩の力を抜き、お馴染みのあの黒猫の姿へと変わったのだ。それでも、ヤヤ子はしばらく話せなかった。そういう種族だからだ。彼女は人の姿になれても、本来、人の言葉を話すことはできない。どうにかして人の発音に近づけようと奮闘していたものの、そのままでは何を伝えたいのかが分からなかった。
見かねた霊が、ツグミ柄の首輪〈カイム〉を渡さなければ、どうしようもなかっただろう。
その力を借りてようやく話せるようになったヤヤ子だったが、その表情は暗いままだった。理由はあの二つの古物を巡ってのトラブルだった。
千景の遺品の存在を知るとあるコレクターが、ヤヤ子からそれらを盗もうと接近していたのだ。彼から逃亡を続けていたヤヤ子は、常に不安そうな顔をしていた。
あの後、ヤヤ子の同意のもと、曼殊沙華のごく限られた一部の者のみと相談したことで、千景の遺品はこの店で管理される事となった。
悪質な行為でヤヤ子を追い詰めたコレクターについても、今はもう恐れる心配はない。
ただ、あの時には分からなかったことがある。それが、誰があのコレクターに千景の遺品の事を吹き込んだかという事だ。そして今は、その真実も判明している。
曼殊沙華と白妙は、敵でも味方でもない。
この町で起こる事柄ごとに、協力し合ったり、対立したりする。
古物の管理についてもそうだ。物によってはこの店で管理することが望ましいと協力の立場を取る一方で、〈エリゴール〉や〈アスモデウス〉のように互いに一歩も引かない事もある。
忘れてはならない事は、曼殊沙華は必ずしもヤヤ子の味方であるとは限らない事だ。たまたま、彼らの判断とヤヤ子の願いが一致しただけ。
勿論、多少は考慮してくれただろうけれども、もしも〈エリゴール〉と〈アスモデウス〉の扱いに関して判断が変わるような出来事があれば、曼殊沙華もまた白妙のように、ヤヤ子の心を傷つけるような判断を下すこともあるだろうという事だ。
幸いにも、今はそうでない。そうでない事に、私は心底ほっとしていた。
出会った頃のことを思い出せば出すほど、ヤヤ子を傷つけたくないと願ってしまうからだ。
「白妙の判断が、今後変わる事ってあるのでしょうか」
ふと呟くと、霊は私を撫でていた手をぴたりと止めた。
「分からないわ。判断を下すお方は、なかなか頑固なオキツネ様だと聞いているけれど」
「……でも、絶対にないとは限りませんよね」
「そうね。曼殊沙華の立場が絶対不動のものではない事と同じくらいには」
霊もまた不安なのだろう。
だが、すぐに彼女は気丈に振舞った。
「いずれにせよ、いま起こってない事ばかりに注目するのは良くない事よ。私たちに出来るのは、百花姐さんの忠告に従う事。そのためにも、今日はもう寝なさい」
背後からふわりと霊の手が伸び、私の視界を覆った。その途端、抗えない眠気が急に生じ、そのまま眠りの世界へと落ちてしまった。
霊の魔術のお陰だろう。その日は結局、朝まで目を覚ますことなく、ぐっすり眠る事が出来た。きっと〈赤い花〉も十分に満足したのだろう。体力も、魔力も、万全に整っている。とはいえ、不安はいつまでも消えなかった。
私も詳しく知っているわけではないが、百花魁の話によれば、偽狐というものは魔の血を持たない人間の、魔への無頓着な性質を利用して生まれるという。
この店を守護する魔術や結界というものは、それをきちんと理解し、畏怖している相手だからこそ通用するものだという。
魔を知らない人間には、魔の恐ろしさなんて分からない。たとえ、その結果、呪殺されるような未来があるとしても、予見できないならば防衛には役立たないのだ。
だからこそ、偽狐は恐ろしい。
そして、この店には、そんな偽狐を拒む手段がいまだないのだ。
それは、ヤヤ子の事があって三日後のことだった。
奇妙なほどに客のいない夕暮れ時、カランとベルが鳴り、店の扉が開いたかと思えば、そこにはフードを深くかぶった青年が立っていた。
オーラの色は青。リヴァイアサンの色。魔の血を持たぬ、人間の色だ。
ぱたりと扉が閉まると、何も口にせずに霊がそっと立ち上がった。この時点で、異様な空気は私もまた感じ始めていた。
彼が顔を上げる。じっと私たちを見つめてくる。
その素顔は、白狐の面で隠されていた。




