後編
数時間後、生活スペースの畳間にて、体の火照りが冷めてくると、血を失った気怠さと共に、しばしの間、忘れさせられていた悩みが再び浮かび上がってきた。
桔梗。
学生時代から何となく気が合って、卒業してからも連絡を取り合ってきた彼女。
ただただ雑談しているだけで時間を忘れたものだったし、また会いたいと思えるような友達だ。今もそれは変わらない。変わらないはずなのに、不安で心が揺らいでしまう。
何故、無花果の屋敷にいたのか。
全ての始まりはここだった。
それまでの間、私にとっての桔梗は、恐らくかつての日常の一部だった。自分が魔女であることを知らず、ただ何処となく他人と違う気がするという孤独感と心細さを抱えていた。
そんな私にとって桔梗は一緒にいて心地よい仲間であり、多感な時期の私にとって、まさに同じ世界の人だった。
その親近感の理由が、心臓のタイプは違えども彼女もまた魔女であったからだという事実にあったのだと知れたのは、それからずっと後の事だ。
桔梗が魔女であることを見抜いたのは霊だった。その後、霊と共に生活をして、魔女の性を満たしているうちに、私もまた魔女としての力が増していき、桔梗のオーラが生粋の人間が持つ青ではなく、私と同じ緑色であることを知ったのだ。
ああ、だから、彼女とこんなにも気が合ったわけだ。納得すると同時に、運命的なものを感じずにはいられなかった。
しかし、その後も私は彼女と変わらず接し続けた。自分が魔女であることに、彼女自身が気づいていないのならば、こちらから話すわけにはいかない。ひょっとしたら、いつか違和感の正体に気づいて、打ち明けてくれる日が来るかもしれない。
そんな事を思いながら過ごしてきただけに、あの日、無花果の屋敷で目にした桔梗らしき人物の姿は、衝撃だった。
そもそも本人だろうかと疑いたくもなる。
他人の空似?
けれど、それにしては、あまりにも似すぎていた。
調査は今、どうなっているのだろう。本当に何も掴めていないのだろうか。悩みだけが増幅していくにつれ、私はまた別の悩みに気づいた。
それを知って、私はどうしたいのだろう。
改めて考えてみれば、私が強く願っている事が見えてくる。
私は、桔梗が、今まで私が思っていた桔梗のままである事を願っているのだ。だから、無花果の屋敷にいたのは偶然か、別人であり、〈鬼消〉なんかとは関係がない。そうであって欲しいから、真実を知りたいと思っているのだろう。
でも、その真実が私の願い通りとは限らない。
もしも、真実が私の願い通りでは無かったら、私はどうしたらいいのだろう。知ってしまった事を、後悔せずにいられるだろうか。
もしも彼女が〈鬼消〉だったとしたら、私は彼女にどうして欲しいのだろう。私自身はどう動きたいのだろう。
考えているうちに、寝そべっている畳間の机の上に、気配を感じた。
存在感を示すようにきらりと光ったのは、片付ける前に放置されたままだった〈フォラス〉である。そこに置いた霊は、空腹を満たしたばかりであるためか、眠ってしまっている。ただ、私にだけ、〈フォラス〉は呼びかけているようだった。
迷える道を導く方位磁石。その行く先がたとえ望みの未来でなかろうと、後悔しないというのなら、縋りつきたくなる気持ちは痛いほど分かった。この古物は、そういう人の為に生まれ、存在し続けてきたのだろう。
「どうしたの、幽」
ふと、声をかけられ、私は我に返った。
いつの間にか霊が目を覚ましていた。背後から抱き着かれ、私は〈フォラス〉から目を逸らした。
「いえ……別に」
「〈フォラス〉に頼ってみる?」
静かに囁かれ、私は、黙してしまった。
思い出すのは玉貴と霊のやり取りである。〈フォラス〉の力を借りるには、必ず質問者が必要となる。〈フォラス〉の力への対価は、その質問者が払うことになり、払ったあとはその後の霊のように体力が消耗されてしまう。
さほど危険な消耗ではないからこそ、子供の相談などにも霊は気軽に応じているが、そこに自分の願望を巻き込んでもいいのか、私は迷ってしまった。
いや、本当に迷っているのは、そこなのだろうか。
霊の愛撫を受けながら、私は考え続けた。
私が本当に怖いのは、そこだけではないかもしれない。
玉貴とのやり取りのように、〈フォラス〉の力を借りるには、自分の思っている事を赤裸々に語る必要がある。厳密にいえば、〈フォラス〉によって語らせられるというべきか。そのこと自体に、私は引っ掛かっているのかもしれない。
本音を語るという事は恐ろしいことでもある。
桔梗と私の関係については、霊はかねがねあまり良く思っていない節があった。それなのに、その気持ちを汲み取りもせずに、ただ自分のためだけに霊を巻き込んでまで〈フォラス〉に頼ってもいいのかどうか、そこに迷ってしまうのだ。
私が桔梗について語る事で、霊は傷ついたりしないだろうか。
それも、霊の体力を消耗してまで。
「……今回は、やめておきます」
小さな声でそう言うと、霊は私の素肌に触れながら、問いかけてきた。
「どうして?」
その問いに、再び口籠ってしまう。何と答えるのが正解か分からないまま考え続け、それでも、どうにか答えを見つけて口にした。
「もう少しだけ、自分で考えながら待ってみたいんです」
そんな私にそっと寄り添い、霊はさらに問いかけてきた。
「一応、聞かせて。今、あなたは何に迷っていたの?」
命令染みたその声が、首筋をくすぐってくる。
それに抗う事は困難で、気づけば私は答えていた。
「桔梗と〈鬼消〉について、真実を、知る事自体に、迷っています」
本心の全てではない。だが、その一部を途切れ途切れに言わされて、震える私を霊は強く抱擁する。
こうしていると、愛されているというだけでなく、自分が彼女の支配下にあることを思い知らされてしまう。
他の誰でもない、私自身がかけた魔術によるもののはずだが、それだけに我ながら怖くなる。
「怖いのなら、無理に知ろうとしなくていいのよ」
まるで暗示をかけるように、霊はそう言った。
「外の事は全て私たちに任せて、あなたはここで私だけのために咲く花で居続けてもいいの。知らないままでいれば、あなたは責任を負わなくてもいい。地下室で一生、私のペットとして暮らしたっていいのよ」
冗談に思えないその囁きに、私は震えてしまった。
ああ、なんて恐ろしく、なんて望ましい誘いなのだろう。
何もかも忘れ、彼女を癒すただの花と成り果てるのはさぞかし幸せだろう。現に、私の中に宿る〈赤い花〉はそれを強く望んでいる。その欲望をさらに掻き立てるように、霊はその鼓動を手で確かめてくる。
けれどその直後、霊はため息交じりに寂しそうに呟いた。
「本当に〈フォラス〉に頼りたいのは、私の方かも知れないわね」
その言葉に一気に冷静になった。
振り返ると、霊は赤く染まった目で私を見つめ、そのまま私の体に覆い被さってきた。捕食される前の生き物のように、その赤い目を見つめ続けると、霊はさらに言った。
「あなたをどうしてしまいたいのか、私にもよく分からない。マテリアルの本能がそうさせるのかしら。それとも、主従の魔術のせい? あなたがお友達の事で悩んでいる事に醜く嫉妬して、私だけのものであることを、何度でも確かめたくなってしまう。けれど、その一方で、あなたへの罪悪感がある」
そっと屈んで、彼女はその頬を私の素肌に圧しつけてきた。
「あなたを自由にしておくのが怖い。お友達に近づけたくない。でも、あなたを地下室に閉じ込めたって、私はきっと虚しいだけでしょうね。頼れる助手からただのペットにしたところで、得られる満足感はごく僅かでしょう。どっちがいいのか、今でも分からないの。分からないまま、私はあなたを自由にしている。首輪だけつけて、放し飼いにしている猫のようにね」
気怠そうなその様子に、私は静かに目を伏せた。
霊は、霊で、常に悩んでいる。その一面を知れただけでも、私は少しだけホッとした。その内容がやや物騒なことは置いといて、彼女もまた私と同じように迷うのだという事に、安心したのだ。
再び目を開け、私は霊に囁いた。
「〈フォラス〉に頼ってみますか?」
すると、彼女は身を起こして私を見つめた。
やや目を細め、彼女は言った。
「〈フォラス〉には悪いけれど、やめておくわ」
そして、再び私たちは、無言のまま絆を確かめ合う事となった。
血を捧げ、絡み合い、そして燃え上がるような感情が再び納まってきた頃、私はふと机の上に置かれたままの〈フォラス〉を目にした。
頼られる機会を失ったその姿は、心なしかちょっとだけ寂しそうだった。




