中編
方位磁石の〈フォラス〉は、心の中で迷う人を導く力がある。その導きは、何もかもが解決するような完璧な道なわけではない。〈フォラス〉の加護を受けた者が歩めるのは、悩むその本人が後悔せずに済む道なのだという。
ここに眠る他の古物たちに比べれば、それはやや弱い効果に思えてしまう。しかし、この力は決して無力なわけでもない。時に人は、〈フォラス〉の導きを心から求めてしまう場面に直面するのだろう。
今の玉貴のように。
「僕は……」
最後の質問を受け、玉貴はやや震えながら口を開いた。
「僕は、彼と前のように接したいんです。前のようにくだらない話で笑い合って、楽しい思い出を作っていきたい。だから、彼との付き合いを断つように、諦めるように言う本家や両親には従えません」
きっぱりと玉貴は言った。
まずは一つ。彼を迷わせていた心の小道が閉ざされる。
「彼にはもう曼殊沙華の悪口を言って欲しくない。鬼芥子の言う事を信じないで欲しい。〈鬼消〉から離れて欲しい。でも、僕が何を言っても、彼は耳を貸してくれません。自分が……いえ、鬼芥子が正しいと信じ込んでいるのです。鬼芥子が憎い。消えて欲しいほどに。でも、今のまま鬼芥子に歯向かったって、僕の望みは叶わない。その言葉に感化されたのは、彼自身なんです。強制的に洗脳されたわけではない。その事に、僕はちゃんと向き合わないといけない。だから、鬼芥子に何かするわけにはいきません」
迷うわけではなく、今度もしっかりと、彼はそう言った。
私には分かる。ここでもう一つ、彼の心を惑わせていた細い道が閉ざされた。
「彼に変わって欲しい。昔のような、仲の良かった頃の彼に戻って欲しい。でも、それは僕のエゴでもあるんです。彼を変える事なんて、僕には出来ない。いや、仮に出来たとしても、それで僕は満足するのだろうか。そう考えてみたら、やっぱり違う。僕の本心は彼を変えてしまいたい。でも、その欲望のままに彼を変えられたとしても、それはきっと虚しいだけだろうと、そう思ったんです。だから僕は、白妙の誘い受けることは出来ません」
また一つ、彼を惑わせる道が閉ざされた。
残る道はどんな道なのか。それを知るのは、彼自身である。
再び沈黙する玉貴に対し、霊は促した。
「あなたの目の前に最後に残された道。それがどんな道か教えてください」
「僕の目の前に残された道……それは」
少し間をおいて、彼は深呼吸をする。
「それは、このまま彼を見守って、対話を続けることです」
つまりそれは、現状維持。
曼殊沙華に従うわけでもなく、〈鬼消〉を潰すわけでもなく、白妙の誘いを受ける事でもない。今の状態のまま、友人と向き合い続けるという道。それが、玉貴にとって後悔のない道であると〈フォラス〉は告げている。
その力は揺るぎない。恐らくこれが玉貴でなければ、同じ状況でも違う道を歩ませるのだろう。玉貴にとってこれは、きっとはっきりしない道でもあるだろう。ただただ、変わってしまった友と向き合い、対話を続けるというのは不安もあるかもしれない。
しかし、〈フォラス〉は絶対だ。この道であれば彼にとって最も納得するものとなるわけなのだから。その結果がたとえ望まざるものだとしても、だ。
玉貴が再び沈黙すると、霊は言った。
「分かりました。それでは、質問を終えます。〈フォラス〉の導きをお忘れなく」
そして、霊が方位磁石の蓋をぱたんと閉じると、玉貴の表情が元に戻った。きょろきょろと周囲を見渡し、そして両頬に触れる。やがて緊張が解けたのか、だらりと肩を落として、深く息を吐いた。
「ありがとうございます、霊さん」
いつもの玉貴の様子に戻っていた。
「僕の中で、答えがはっきりしました。今となっては、どうして悩んでいたんだろうってくらいです」
「それはよかった。でも、玉貴君。これだけは把握しておいて。〈フォラス〉の導きは、あくまでも、あなたの納得する道。後悔しない道。そこを進むことで、玉貴君の求めていた未来が必ず来るとは限らないの」
「はい、大丈夫です。僕は、僕の後悔しない道を歩みたい。だから、〈フォラス〉のこと、そして友達のことをもう少し信じてみます」
憑き物が落ちたように、彼の表情はさっぱりしていた。
玉貴が帰っていくのを見送った後も、私はしばらく、この度の〈フォラス〉の活躍について、一人で黙々と考え続けていた。
彼の悩みを聞いていて、ずっと頭に浮かんでいた人物がいる。
桔梗だ。
あれから会えない日が続いている。連絡が来ないのだ。一度、こちらから連絡を取ってみようと電話をしてみたことがあったが、留守だった。留守なら留守で、もう一度、掛けなおせばよかったのだが、それ以降は勇気が出ていない。
向こうからは一度もかかってきていない。どうしているのかも分からない。曼殊沙華は恐らく調査をしていると思うのだけれど、情報は入ってきていない。
だから、まだ桔梗がどうしているのかは、分からないのだ。
それでも、いや、だからこそ、私は思ったのだ。
今回の玉貴の悩んでいた姿が、桔梗と私の関係に被って見えて仕方がない。
桔梗は、どうしているのだろう。
また電話をしてみるべきか。
曼殊沙華の調査を待つべきか。
いっそのこと、彼女の家を訪ねてみるべきか。
色々な考えが頭を過り、そして、気づいたら私は〈フォラス〉をじっと見つめていた。
「どうしたの、幽」
背後から霊に問われ、私は我に返った。冷えたその手が私の体に絡みついてくる。その冷たい抱擁に、私は震えてしまった。振り返るのが何故だか怖い。
何故だろう。霊の機嫌があまり良くないような気がしたのだ。
「い、いえ、特に何も」
狼狽えながらそう言ったものの、誤魔化すことは出来なかった。
「当ててみましょうか」
静かに囁かれ、金縛りにでもあったかのように動けなくなる。巻きついてくる蛇のように腕をくねらせて、霊は私の左胸をぎゅっと掴んだ。そのやや強めの刺激を受けて、〈赤い花〉がとくりと反応する。声を漏らす私を笑い、霊は言った。
「〈鬼消〉の事を考えていたのでしょう。そして、あのお友達の事」
図星だったが、それどころでもなかった。彼女の力の前には、私はあまりにも無力だ。
このまま抱かれてしまいたいという気持ちが強まり、苦しくなる。
まだ営業時間だっていうのに。
「答えなさい、幽」
冷たい声色で命令を受け、それ以上は逆らえなかった。
「……はい、考えていました」
「そう。それで、〈フォラス〉に頼りたいほど悩んでいるの?」
「それは……その……」
心のざわつきを静かに抑え、私は霊に問い返した。
「曼殊沙華の……曼殊沙華からの報告は、あれから何もないんでしょうか」
何の、と問うまでもなかった。霊はしばし黙り込むと、ため息交じりに私の体に寄り掛かってきた。そして、渋々といった様子で答えた。
「何も掴めていないのでしょうね。何かあれば、笠あたりが持ってくるはず。でも、それがないということは──」
「……そうですか」
何も分からない。これが一番辛い事でもある。
だからこそ、私の視線は〈フォラス〉へと向く。蘭花のテーブルの上で、〈フォラス〉はまるで私を誘うようにきらりと輝いた。
「霊さん……玉貴君の事ですけれど」
「なあに?」
「〈フォラス〉の導きで、彼の悩みは解決するんでしょうか」
「解決はするはずよ。ただし、〈フォラス〉は飽く迄も、迷える人の後悔なき道を指し示すだけ。その未来が希望するものになるとは限らない」
後悔なき道。それはひょっとすると、必ず物事を叶えてしまう力よりもずっと、求められている事なのかもしれない。
「頼ってみたい?」
霊に問いかけられ、私は俯いた。ぎゅっと目を瞑り、小さく呟く。
「……悩ましいところですね」
すると、霊は私からすっと離れていった。
体を解放された後も、まるで魔術にかかったように動けなかった。そのまま棒立ちになっていると、背後でカーテンが閉められた。店の鍵も閉められ、店内が真っ暗になる。そして、再び私のもとへと戻ってくると、霊はそっと背中を押した。
「いずれにせよ、今すぐには無理ね。〈フォラス〉を使うとね、質問者は体力を奪われるの。連続で使う事は出来ないわ」
「そ、それなら──」
いいです、と言おうとしたのだが、ぎゅっと抱き着かれて身動きが取れなくなった。
「とにかく、お腹がペコペコなの。おやつを頂くわ。しばらくじっとしていて」
直後、激しい痛みと快楽が、私の首筋にもたらされた。




