前編
方位磁石。それは、道に迷った人を手助けするもの。
そう言った意味では、この方位磁石〈フォラス〉の役割は、他の方位磁石とさほど変わらないのだろう。それがただ、物理的なものなのか、精神的なものなのかの違いだけで。
見た目は何の変哲もない、ただの古ぼけた方位磁石。
けれど、そこには不思議な力が宿されている。いつから、何がきっかけで、そのような力を宿してしまったのかは、今はもう誰にも分からないのだという。
ただ、その秘められし効果については、人知れず語り継がれ、そしてこの店へとやってきた。
「それでは、お掛けください」
来客用の蘭花のテーブルに向かい合って座るのは、我が主人である霊と、この度の来訪者であった。
きっと学校でもモテているだろうと想像に難くない学生服の美青年。その名は玉貴。曼殊沙華の一族の者であり、この店に度々やってくる玉美や玉緒の兄である。
行儀よく座り、彼は真っすぐ霊を見つめた。
「突然、すみません。無理を言ってしまって」
大人びた様子で詫びる彼に対し、霊は静かに答える。
「いいえ、ちょうど予定も空いていましたので」
丁寧に応対しつつ、霊はテーブルの中央に置かれた古物の蓋を開けた。見た目は何の変哲もない、ただの方位磁石。しかし、〈フォラス〉という名前がある通り、そこには不思議な力があった。
電話があったのは、昨夜のことだった。悩みに悩んだ挙句、どうやら自宅ではなく、外の公衆電話からかけてきていたらしい。〈フォラス〉を用いた相談がしたい。その内容に霊はただならぬものを感じたのか、二つ返事で承諾した。
玉貴が〈フォラス〉の存在を知っていたのは、彼が曼殊沙華の一族であるからに他ならない。ランクはCで、店主が認めれば貸し出しも出来るレベル。そのため、玉美や玉緒など、他の曼殊沙華の子供たちの悩み相談に使われたことだって、これまで何度かあった。
だが、玉貴が家族に隠れてこっそりと連絡してきたのは何故か。そこには青春らしい、大人にとっては微笑ましく、本人にとってはこそばゆい理由が含まれているのかもしれないし、もっと深刻な何かがあるのかもしれない。
いずれにせよ、霊は〈フォラス〉に頼る事を躊躇ったりしなかった。人助けのためだけではない。そうすることで〈フォラス〉も喜ぶからだという。
迷える者を導く方位磁石。その謂れの通り、〈フォラス〉には悩む人を導く力が秘められている。ただし、一人で使用することは出来ない。必ず質問者が立ち会い、対話式に悩みを引き出さねば〈フォラス〉の力は借りられないのだという。
ともあれ、実際に使ったところを見た事のない私には、今から起こるのがどんなことなのか、その具体的光景を想像できなかった。
「では、さっそくだけど、質問をさせてもらいます」
霊がそう言うと、玉貴は緊張気味に姿勢を正した。
心の準備が出来たのか彼が黙って頷くと、霊もまた静かに頷き、口を開いた。
「〈フォラス〉の力を借りたい理由をお聞かせください」
玉貴は静かに答えた。
「学校の友達のことで悩みがあります」
「それは、どんなお友達ですか?」
「小学生の頃からの幼馴染で、親しい友人なんです。学校では隠していますが、彼は……生粋の人間ではありません。男だけど、〈風見鶏〉という種類の魔女の心臓を持っているみたいなんです」
聞いたことがある。たしか、風を操る術に長けた魔女の一族だ。
「彼との間に、何がありましたか?」
「それは……」
玉貴は一瞬だけ躊躇ったが、小さく息を吐いてから答えた。
「彼が、いつの間にか、〈鬼消〉に感化されていたんです」
悲しげなその表情を見て、私はすぐさま状況を察した。
〈鬼消〉は、魔人たちで構成される組織のこと。かつて私たちは、王冠の〈バルベリト〉と、それを管理してきた陽炎男性の凪を守るために戦った。
あわや敗北しそうかと何度も思わされつつ、味方が来るまでどうにか粘り続けて守り切った日の事は、今でも思い出すと緊張感を覚えてしまう。
あの時、襲撃者となった竜は、去り際に気になる事を吐き捨てていった。私を知る人が、〈鬼消〉にはいる。それこそが桔梗なのではないかと不安になりつつも、今日に至るまで答えは見つかっていない。
色々と訊ねたくなる気持ちを抑え、私はただ唇を結んだ。
「どのように、感化されていたのですか?」
「彼は……トップである鬼芥子を妄信しているようでした。その言葉は全て正しいと強く信じているようでした。いつしか僕の前でも堂々と曼殊沙華の批判をするようになりました。たぶん、鬼芥子がそう言っているのでしょう。けれど、その鬼気迫る言葉に怖くなってしまいました。どうやら彼、いつの間にか、鬼芥子の考えが自分の考えになってしまっているみたいなんです」
「それで、その結果、どうなりました?」
「その結果……彼との関係に罅が入ってしまったように感じます。僕は何も言えないまま。おまけに、曼殊沙華の本家からは彼との付き合いをやめるよう言われたのです」
鬼芥子。その顔を見たことはないが、怖くなる。いったいどのような人物なのだろう。何があったら、そのような傀儡に成り果ててしまうのだろうか。
「それで、玉貴君は友達との付き合いをやめるつもりですか?」
「いえ。でも、悩んでいます」
「どう悩んでいるのか、お聞かせください」
霊の質問に、玉貴はしばし考え込んでから、答えた。
「実は、本家の方から連絡があって数日後、僕の前に白妙の使いが現れたんです。本家からの通達に従えない僕の事を見ていたのでしょう。友人の目を覚まさせてやりたいならば、白妙に力を貸さないかと誘われました」
──白妙に。
思わず声を出してしまいそうになり、私は息を飲んだ。
玉貴は続ける。
「それからずっと悩んでいるのです。僕はどうしたらいいのか。本家の言う通りにするべきなのか、それとも……」
と、玉貴は口籠ってしまった。
白妙は決して悪事を働くために動くわけではない。彼らには彼らの道理があり、彼ら視点でこの町を護るために動いていると聞く。だが、その判断は時に乱暴で、曼殊沙華の方針と対立することも度々ある。
きな臭さを感じずにはいられない。
だが、霊は澄ました表情を崩さないまま言った。
「分かりました。それでは、さっそく〈フォラス〉に訊ねてみましょう」
そして、霊が〈フォラス〉に軽く触れたその瞬間、先ほどまでは北を示していた針がぐるぐると回転し始めた。
しばらく回り続け、しばらくすると針の方向は再び北を指し示した。一見すれば、ちょっとだけ不思議なことが起こっただけのように思えるこの現象。しかし、すでに〈フォラス〉の力は発揮されている。
霊はじっと玉貴を見つめ、再び口を開いた。
「〈フォラス〉の回答が出ました。玉貴君の中に答えはあるはずですので、今から引き出していきましょう」
その言葉を聞いて、玉貴が無言で顔を上げる。その目には、先ほどまでは感じなかった怪しげな光が宿っている。
「──はい」
玉貴が小さく答えると、霊は言った。
「まずは情報を整理しましょう。玉貴君はお友達との関係に悩んでいる。友人は〈鬼消〉に感化され、そのために曼殊沙華からは付き合いをやめるように言われているが、それを出来ずにいる。そこへ白妙が接触し、彼を変えたいならば力を貸すように誘ってきた。あなたはどうすればいいのか分からない」
ややあって、玉貴は小さく肯いた。
霊もまた頷き返し、そして、質問を始めた。
「まずは、お友達のことについて。玉貴君はお友達の事をどう思っていますか?」
すると、玉貴はしばし無言になり、ゆっくりと顔を上げた。
表情はなくなり、何かに取り憑かれたように呆然としている。その状態で、玉貴はゆっくりと口を開いたのだった。
「僕は……友達にがっかりしています」
「それは何故ですか?」
「彼がそんな人じゃないと思っていたからです。小さい頃から仲が良くて、競い合ったり、励まし合ったりしてきて、楽しい思い出がたくさんあります。それだけに、僕は困惑しているんです。どうして〈鬼消〉なんかに感化されてしまったんだろうって」
「彼の事が嫌いになりましたか?」
「いいえ、そんな事はありません。彼とは今でも仲良くしたいと思っています。けれど、それはきっと──」
と、そこで、玉貴は言い淀んだ。恍惚とした表情のまま口籠っている。
「きっと……何ですか?」
霊が答えを促すと、彼は操られたように口を動かした。
「今の彼じゃない。ああ、そうだ。僕は、昔の彼と友達でいたいんだ」
それは、答えるというよりも、気づいたというような口調だった。
「次の質問に移ります」
霊は静かに言った。
「曼殊沙華のことをどう思っていますか?」
すると、力が抜けたようにぐらりと玉貴は俯いた。そのままの状態で、彼は答える。
「僕は……曼殊沙華の事が嫌いです」
非常に震えた声だった。
「それは何故ですか?」
「あれこれ指示をしてくるからです。僕の気持ちも、これまでの事も、何もかも知らないくせに、正しい事を押しつけて、歩むべき道を指定してくる。そんな両親や本家のことが大嫌いなんです。──でも」
と、玉貴は小さく唸る。
「それでも、大切な家族なんです。本家にも不満はあるけれど、共に育った親戚たちも、僕にとっては大切なんです。だから、僕は苦しかった。友達が、鬼芥子の言葉を真に受けて、曼殊沙華の批判を繰り返すことが。ああ、そうだ……だから、僕は悩んでいるんだ。彼らが嫌いだけど、同じくらい好きだから」
玉貴は震えながら言葉を吐き出す。
その様子を見守りながら、霊はさらに問いかけた。
「次の質問に移ります。鬼芥子の事をどう思っていますか?」
その途端、玉貴は速やかに顔をあげた。その表情には明確な敵意がこもっている。強い感情を抑えながら彼は答えた。
「とても憎んでいます」
「それは何故ですか?」
「僕から友達を奪ったからです。仲の良かった彼を変えてしまった。そんな鬼芥子の事が憎くて仕方ないんです。……殺してやりたいくらい」
激しい怒りを堪えるように、彼は制服の膝元を握りしめる。その力強さに、感情の強さを感じてしまった。
しかし、玉貴はそのままぎゅっと目を瞑った。
震える玉貴を見つめ、霊は次の質問へと移った。
「次の質問に移ります。白妙の事をどう思っていますか?」
「白妙の事は……あまり信用できません」
「それは何故ですか?」
「小さい頃から言われてきたからです。白妙の一族はこの辺りの土地神のようなもの。けれど、いや、だからこそ、彼らの選択は時に人の世のルールから外れてしまうことがあるのだと。僕たち曼殊沙華はそんな事をしてはなりません。あくまでも乙女椿国のルールにのっとり、人間たちの道理に従い、動かねばいけないのだと。だから、信用してはいけないんです」
「それは玉貴君の本心ですか?」
霊が鋭く訊ねると、玉貴は少し黙り込んだ。そして、ぽつりと漏らしたのだった。
「……いいえ」
そして息を飲み、彼は続けた。
「僕は……僕は多分、心の何処かで彼らを信用したいんだと思います。曼殊沙華が友達と付き合うなと言ったのは、彼が〈鬼消〉を辞めてくれれば、前の彼に戻ってくれれば、また前のように付き合える。その方法を彼らが知っているのならば、話を聞いてみたいという気持ちが確かにあるんです」
しばらく沈黙が続く。霊は静かに玉貴の目を見つめていた。何かを見定めたのか、やがて、彼女は口を開いた。
「では、最後の質問に移ります」
そして、彼女は問いかけた。
「お友達とは、これからどうなりたいと思っていますか?」
その問いを受け、玉貴の目の光がやや強まった。




