後編
さて、霊は二度のチャンスを〈ウァサゴ〉ちゃんに与えたわけだが、〈ウァサゴ〉ちゃんはどうやらそのことを深刻に受け止めていなかったようだ。
次の日の朝、たしかに時間は進んでいたが、階段を下りたあたりで結局、私たちは同じテレビ、同じラジオ、同じ記事を目にする羽目になった。
正午、私は霊と共にある準備をしていた。壁際の姿見と、蘭花のテーブルの上に置かれたコンパクト。姿見は〈バラム〉といい、コンパクトは〈アロケル〉という。どちらも霊が名付けた古物だ。この場所にずっと身を置くべくして存在する。
合わせ鏡となるように角度を調整しながら、私は霊に訊ねた。
「木刀は持っていくんですか?」
懐中時計〈ウァサゴ〉を手で弄びながら、霊はにやりと笑う。
ねじはすでに巻いてある。だから時間も戻ったわけだが、もう見逃してくれる優しさはない。それでも、霊はモノに対して愛情がある吸血鬼だ。
「〈ベール〉はいいわ。せっかく磨いてくれたけれど、さすがに〈ウァサゴ〉ちゃんが可哀想だもの。木刀を使わずに思い知ってもらうの。幸い、あの子は精神世界では非力なのよ」
悪役のように笑っていた。どうやら愛情とは歪んだものであるらしい。
しかしこれも〈ウァサゴ〉自身が蒔いた種である。二度のチャンスに甘え、同じことを三回も繰り返した罪は重い。
合わせ鏡をつくるべく、私はコンパクトを開いた。光が現れ、鏡と鏡が繋がる。霊が私を振り返り、手を伸ばしてきた。
「さ、行きましょうか」
「出来れば優しくしてあげてくださいね」
「あら、世の中に私ほど優しい人がいると思う?」
「腐るほどいると思います」
そんなわけで、私たちは鏡の中の世界へと入ったのだった。
鏡が誘うのは、霊の魔力と直接つながる精神世界である。
誘ってくれたのは姿見の〈バラム〉とコンパクトの〈アロケル〉。この二つの能力自体が大事なわけではなく、ここで重要なのは合わせ鏡であることらしい。だから、本当ならば普通の鏡を使ってもいいそうなのだが、霊の精神世界なのだから、霊とかかわりの深いものでなくてはならない。そこで、この二つは役立ってくれる。
鏡の中の世界は、霊の手をしっかりと握っていないと落っこちてしまいそうだ。地面なんてなく、空なんてない。それでも下には底がきちんとあるし、上にも天井がきちんとあるらしい。しかしきっとどちらも果てしないのだろう。ふわりとした透明な空気を踏みながら進む霊に引っ張られているからこそ、私も歩くことが出来る。
一流の魔女ならば人の精神世界など自由に侵せるらしいけれど、そんな古代の魔女なんてこの世にいるのだろうか。いたとしても、基本魔術すら不安定な私にそういったことが出来るはずもなく、いつまで経っても鏡の中の世界にはなれそうになかった。
しかし、耐えている時間が永久に続くはずもない。それに、霊の精神世界には可愛い案内人がいるから不安はだいぶ軽減される。
「あれえ、霊様。お久しぶりです」
ふわふわとした世界で漂いながら現れたのは、金髪碧眼の美少年の姿をした魔物だった。一見すると少女と見違えるが、れっきとした男の子である。ただし、人間ではなく、〈金の卵〉と呼ばれるか弱き魔物であり、霊に保護され、隷属化されて以来、この世界に閉じ込められたまま過ごしているらしい。
名前はメタモルフォセス。略して、メタ――と紹介されたはずだったのだが。
「佐清、元気そうね。〈ウァサゴ〉は何処に逃げた?」
実際に何と呼ばれるかは霊の気分次第らしい。
メタは、その呼び名センスに全く動じずに一方を指さした。
「あっちです。僕について来てください」
にっこりと笑い、ふわりと飛んでいく。
ウサギの耳と尻尾のついた服は霊が昔与えたのだと聞いているが、メルヘンチックでありながらなんともちぐはぐなその様子は、この世界の雰囲気にぴったりとマッチする。
まるで古典的な童話の住人のようだった。
「さ、行くわよ、幽。佐助についていくの」
「あ、はい」
さすがの霊も佐清は違うと思ったらしい。とはいえ、佐助もあっていないと思うのだけれど。
ところでメタはその昔、殺されそうになっているところを霊が保護した魔物だと聞いている。
霊は魔物たちを配下に置く〈ロノウェ〉という名の指輪を持っているから、その力によって彼もまた配下になっているそうだ。同じように配下に置かれて霊の影に潜んでいる魔物たちがいると聞く。
メタの種族〈金の卵〉の発祥は古い。一般的には大昔に品種改良されたただの経済動物ということになっていて、今でも当たり前に屠畜されている。体毛、肉、体液、油のどれもがあらゆる加工をされて世に出ているらしい。特に油は魔物を瞬殺する毒となる。昔から魔女の心臓の大敵として知られ、体内に入り込めば即死してしまうらしい。魔女狩りが流行ったころは剣などの武器にに漬け込んだり塗ることによって聖なる力を得ていたそうだ。
私にとってはとても怖い存在だが、幸いにも生きた〈金の卵〉に触れたり噛まれたりしたところで即死することはない。あくまでも彼らの体内にある脂分が直接血液中に入ると毒となるということらしい。
魔がすっかり信じられなくなった今でも、彼らは消費される。高級な油として、羽毛として、肉として、あらゆる部位を活用されている。
また、世の中が魔を信じずとも、〈金の卵〉で死亡する人は必ずいるので、一部の人物にはアレルギーによる中毒症状が起きるということになっている。
安全性が考慮されたパッチテストなんかもあるので、長いこと事故は起こっていないと聞く。私もそうだった。魔女であると知る前は、アレルギーで〈金の卵〉から抽出される油分に触れてはならないのだとしか知らなかった。
さて、そんな〈金の卵〉だが、経済動物だなんて言われて納得できないほど人間らしい、それも美しい見た目をしている。
常識として〈金の卵〉と称される動物が屠畜されている現実は私も知っていた。しかし、私が知っている〈金の卵〉は皆、鵞鳥のような姿をしていたので、霊に彼を紹介されるまで彼らが人間の姿になれる魔物だなんて知らなかった。
世の中には知らないことがいっぱい潜んでいる。知らないまま過ごす方が気が重くないことも多いのかもしれない。
と、不条理なこの世について考えている間に、メタはふわふわした空間の片隅へと案内してくれた。そこにはねじがいっぱい落ちている。これ全部、霊の頭のねじなのかなとか思いながら眺めていると、歯車と針とねじに囲まれながら、この世の全てに辟易したかのように不貞腐れている綺麗な男の子みたいな容姿の女の子が一人寝転がっているのを見つけた。
霊と共に着地しても、彼女はこちらを見つめもしない。
「こんにちは、お姫様。ご希望通り会いに来たわよ」
霊が声をかけると、ちらりと視線をこちらに向けた。すっかり機嫌を損ねている。
とても美しく、ワンピースを着ているにも関わらず、やはり男の子なのか女の子なのか迷ってしまう容姿の子ども。彼女こそが懐中時計に宿る心。そう主張している〈ウァサゴ〉と名付けられた何者かである。
「霊様、この通りなんです。何を話しかけてもてんで駄目で。わがままで力を使ったっていいことはないよって教えてあげているのですが……」
メタが首をかしげている。
「あなたの説得は甘いものね、権兵衛。あとは私に任せて」
するとメタは安心したように笑顔を浮かべた。
それにしても我が主人よ、何故、あなたは頑なに彼を乙女椿風の名前で呼ぼうとするのだろう。せめてどれかに統一してほしいと勝手ながら思った。というか、メタでいいじゃないか。
そんなことを思っている私を余所に、霊は〈ウァサゴ〉ちゃんの隣にしゃがんで訊ねた。
「さ、単刀直入に聞くわ。何が目的なの?」
すると〈ウァサゴ〉は俯いて、足元のねじを一個だけ転がした。
ため息を吐くと、膝を抱え、耳を澄まさねば聞き逃しそうな声で呟いた。
「理由はあなたがよく分かっているはず」
抑揚のない静かな声でそう言った。
「わたしはあなたに名前を付けられた。あなたの意思に従う時計。時間を戻さないでほしいのなら、あなた自身が望まないと駄目」
「相変わらず、生意気な子ね。ここは私の世界。乱暴されたくなかったら、早く機嫌を直しなさいな」
〈ウァサゴ〉の言葉に気が立っている我が主人の様子を見て、私は慌てて割り込んだ。
無表情なままの〈ウァサゴ〉と目を合わせ、語り掛けてみる。
「ねえ、〈ウァサゴ〉ちゃん。時間が何度も戻るととても困るの。どうしたら、戻らずに済むのかな?」
訊ねてみれば、〈ウァサゴ〉は私の顔をじっと見つめ、淡々と答えた。
「これは、あなた次第でもある。〈赤い花〉の魔女、あなたの“主人”ともっとちゃんと向き合って、原因を探してみるといい。明日の来ない原因を見つけ、それを解決させる。此処でわたしをいくら攻めたって、意味がない」
そういうと、〈ウァサゴ〉は無表情のままうんと伸びをした。
霊の脅しを受けたところで彼女に恐怖という感情は宿らないらしい。
「わたしから言えるのはそれだけ」
直接会えた〈ウァサゴ〉の助言はそれだけだった。
――いや、それだけでも十分な答えだったのかもしれない。解決の糸口が別にあることを、私はやっと理解した。
結局、今日は定休日になった。
〈ウァサゴ〉やメタに別れを告げ、鏡の中の世界から帰還すると、さっそく私は霊と向き合った。
机を共にして、霊のお気に入りの杯にトマトジュースを注ぐ。ノンアルコールだ。霊は面白くなさそうにため息をついていた。アルコールが飲めないせいではない。〈ウァサゴ〉に言われたことを彼女なりに気にしているからだろう。
「さて、霊さん。お望み通りの定休日です。それでは、早く機嫌を直すべきなのは誰なのか、というお話をしましょうか」
「認めたくないけれど、どうやら私のせいってことのようね。私と〈ウァサゴ〉は繋がっているもの。不思議ではないわ。でも正直言えば、明日が来なければいいのにって思う理由なんていっぱいあり過ぎて今更分からないわ」
「もしかして、ストレスが溜まってんじゃないですか? 吸血だけじゃ解消できないこととか」
「……そうねえ」
目を逸らしながら不真面目な態度をとる霊。
ここ最近、いつも以上に不真面目にお店をやっているのは何故か。五月病にしたってそんな季節でもないし、疲れを溜めすぎるほど激しい仕事なんてしていない。
ならば何故か。そう、理由があるとすれば一つ。
「あの……もしかして、私、何かしました?」
そう、私との関係だ。それ以外に何があるというのだ。
「何かってなあに?」
霊は白を切るような態度で目を逸らしている。何でもないような顔をしているのが逆に気になった。
やっぱり何かある。というか、私は何かしてしまっている。何だろう。私は必死に考えた。
記念日、約束事、隠し事、発言、コミュニケーション、その一つ一つを思い出してみると……ああ、色々思い当たってしまった。
「ねえ、霊さん。ちゃんと教えてください。私、何かしてしまいました? もしそうなら、正直に言ってください。違ったら違ったとしても、私に何か不満があったらこの際教えてください」
「不満かあ」
「ねえ、霊さん。〈ウァサゴ〉ちゃんが言っていたのって、霊さんの心のことでしょう?」
問いかけると、霊は顎を掻いて、目を逸らしたままため息を吐いた。
「じゃあ言わせてもらうわ」
何かあるらしい。
覚悟を決めて、私は向き合った。
「幽の学友ちゃん。自覚していない魔女の女の子。眼鏡の。前々から思っていたけれど、あの子苦手なのよね」
思ってもみなかった方向からの急なストレートパンチに怯んでしまった。友達は財産だというし、私の方は霊の友人関係には口を出さないというのにそりゃあないよ。
ちなみにその友人とは、中高と一緒だった桔梗という名前の子だ。
霊が言った通り、自分のことも私のことも人間なのだと信じている。だから、私も魔に関することは何も言っていない相手である。
カレンダーに印をつけていた夢の国に一緒に行く友人とは彼女のことでもある。私にとっては青春の記憶を共にした大事な友人。悪口はあまり聞きたくないのだが、霊は前々からあの子をあまり好いていないのは知っていた。
しかし、ぐっとこらえながら、とりあえずは全部聞くことにした。
「あのタイプの魔女は覚醒したらまずいことになるわ。だいたい魔女っていうのはね、同性愛の傾向が強いものなの。そうね、自分は人間だと信じている間は大丈夫でも、もし何かの拍子に魔族であることを自覚しちゃったら、きっとあの眼鏡暴走するわね。あなたにやたらと触れるのだって魔女の性かもしれないわ。それに、あなたは知らないかもしれないけれど、魔女同士でも相性っていうのがあるの。あの子が持っているのは〈黒鳥姫〉っていう心臓でね、〈赤い花〉と違ってそう珍しくはないけれど、〈赤い花〉との相性は最悪最低なのよ。そう、つまり、二人きりで日帰り旅行なんてしたって問題しか起こらない。あなたにその気がなくたって、あっちにその気があったら大変なことになるでしょうね」
なんだか霊が多弁だ。根拠が感じられないことまで言い出している。目を逸らしながら語る彼女を見つめながら、私は慎重かつ大胆に霊に訊ねてみた。
「もしかして霊さん、嫉妬しています?」
すると霊は顔を真っ赤にして机を引っ叩いた。ごめんね、机さん。
「誰が! 誰に! 嫉妬しているって?」
「だ、だって、おかしいですよ。桔梗はただの友達だし、恋愛感情なんて何処にもないです。霊さんだってそういう相手いるでしょう? たとえば笠さんとか。親しいけれど、色目を使うことは絶対ないなあって相手」
「うるさいわね、私は必要とあれば誰とでも寝れる女なのよ! たとえ相手が狸の姿をしていたってね!」
「大声で自慢することじゃないです!」
「とにかく、〈赤い花〉と〈黒鳥姫〉は駄目なのよ。今回は見逃してあげるけれど、これから先、絶対にふたりきりでお泊りとかしちゃ駄目よ。それと、あの子が万が一目覚めたとしても、キスなんてしたら絶対に許さないから!」
やれやれ、困ったお嬢さんだ。
実際にはどのくらいの時を生きているのだか分からない美人吸血鬼を前に、私は内心呆れつつ、可愛く思っていた。
なるほど。〈ウァサゴ〉ちゃんが言っていたのはこれだ。いつもは強がっているけれど、霊だって生き物だから動揺もするし、嫉妬もするし、傷つきもする。それに、彼女は私に魂ごと縛られている。魔術によって“主人”となることを強制されている以上、自覚していないところで私への固執が生まれているはずなのだ。
じゃあつまり、彼女の嫉妬は私の責任でもあるのではないだろうか。
「霊さん」
私はそっと手を伸ばした。届かなかったし、無視されたがまあいいや。
「心配しないでください。私は霊さん一筋ですよ」
目を逸らしている彼女を真っすぐ見つめ、しっかりとそう言った。
「いつだって霊さんが一番です。桔梗はそりゃあ大事な友達ですけれど、彼女に従おうとは思いません。魔女の性を満たしてくれるのはあなたなんですよ。深い仲になれるのだって、あなただからなんです」
本心からそう言った。うそなんてない。
桔梗とそういう関係になろうなんて考えられないし、そもそも霊以外の人に対して銭湯以外の目的で裸をさらすなんてあり得ない。霊がそういう命令をしたのならばまだしも。
しかし、訴えは弱いのか、霊はつんとした態度のままだった。
「霊さん、信じてくださいよ」
「……だって、私には誘ってくれないじゃない」
「誘うって?」
「……お出かけ」
そう言って、霊はしょんぼりとした。なんというか、すごく可愛い。
いや、可愛いだけじゃない。そんな主人の姿を見て、私ははっとした。たしかに、彼女に言われるまで何故か気づかなかった。
そうだ、私はこれまで何度か桔梗と遊びに行くことがあったが、私から誘うことも多かった。今回の夢の国もそうなのだが、チケットが二枚当たったので行かないかと私の方から桔梗を誘ったのだ。
ああそうだ。何故か、私はこれまでの習慣として、何か遊びに行きたいことなどがあると、霊には訊ねずにまずは桔梗に電話をしていた。
――だって、霊さん、誘われるのが好きってイメージがなかったものだから。
もちろん、こんなものは言い訳に過ぎない。
「御免なさい、霊さん」
私は呆然としながら霊に言った。
「あの、もしかして、今まで……寂しかったんですか?」
「寂しい? この私が?」
「……寂しかったんですね?」
一度は笑った霊だったが、再度問うと、観念したように俯いた。それを見て、息が漏れた。
霊にだって感情がある。私のお人形なんかじゃない。それなのに“主人”であることを強制しすぎて、型にはめてしまっていたかもしれない。このくらい気にしないほど強いのだと勝手に思っていたのかもしれない。彼女だって傷つくのに。それを分かっていたはずなのに。
一緒に暮らすようになってしばらく。お互いが特別になった生活の中で、私は何度か桔梗と二人でイベントやテーマパーク、映画などに行った。もしかしたら、その一つ一つに不満を覚えつつも何も言わなかったのかもしれない。そして、今回、友人と二人で遊園地にいく日を楽しみにしている私を見て、不満を大きく溜めたのかもしれない。
〈ウァサゴ〉が共鳴してしまうまでに。
「……寂しかった」
霊はついに観念した。
「ええ、ええ、寂しかったわよ! だいたいあなた何なの! この身を捧げますとか言っておきながら私を差し置いてよその女と遊びに行くなんてどういうつもり!」
「……すみません、従属は従属らしく同じレベルのお友達と遊びに行くのがちょうどいいかなってそう思って」
「それらしいこと言って誤魔化しているんじゃないわよ!」
またしても机が叩かれた。ほんとごめんね、机さん。
「だいたいそれ、同じレベルって何それ? さすがに学友眼鏡ちゃんが可哀想じゃない! 何一緒に道連れにして言い訳キメてんのよぉ!」
霊にとって私ってそんなにもレベルが低いの?
素朴な疑問を浮かべつつも、今は黙って受け止めることにした。
「ばーか、ばーか、幽のばーか! 私だってあなたと一緒なら行きたいに決まっているじゃない、夢の国! アトラクション乗りたいに決まってるじゃない! 映画だって一緒に見たいし、イベントだって行きたいの! なんで私を誘ってくれないのよ、ばーか!」
ついには泣き出してしまった。こんな霊の姿を見るのは……実は二回目くらいかもしれない。
いつもは余裕あるミステリアスな女王様を気取っていても、こうなる時はこうなる。赤ワインを飲んだ夜はよくこうなっている。こうなる時は、言葉にならぬストレスをため込んでしまった後だ。生理現象でもある。
しかし、私には呆れる権利がなかった。こうなったのも私が至らなかったせいでしかない。私は姿勢を正してから、霊に向かって素直に頭を下げた。
「すみません、霊さん。私に想像力が足らなかったせいで寂しい思いをさせてしまって。今回はもう桔梗と約束をしてしまいました。でも、次は霊さんと一緒にお出かけします」
「……ほんとに?」
泣きながらこちらを窺う霊の姿がやけに幼く見える。
「本当です。デートしましょうよ。せっかくだし映画とか観ますか。いつもレンタルビデオですし、たまには映画館に行きましょう」
「……うん。一緒に映画観たい。ホラー映画がいい」
「分かりました。ホラー映画ですね。来週末でいいですか? 映画も私のおごりです」
頷いてから霊は涙をぬぐう。いつもの霊に戻るにはまだまだ時間がかかるだろう。それでも、取り乱した時よりもだいぶ落ち着いて、ゆっくりと呼吸を整え始めた。
「来週ね」
霊は言った。
「約束破ったら、血のお風呂ね」
ぐすんと言いながら脅してくる愛らしい主人の姿に、私は微笑みを浮かべた。何だか今日は魔女の性もあまり満たされない夜になりそうだ。それでも可愛いからよしとしよう。
「分かりました。その時は霊さんに命を捧げます」
そんな宣言のもと、私の命がかかったデートの予定は決まった。
思い返せば、これまでデートをするときだって、いつも霊が言い出して決まっていた。私はただ従うだけだった。でも、これからはそうじゃなくなるだろう。私はそんな未来を想像しながら、少しずつ機嫌を直していく吸血鬼の姿を眺めていた。
次の日、〈ウァサゴ〉はもう時間を巻き戻したりはしなかった。