後編
「以上が、私の過去だけど。少しは面白かった?」
揶揄うように訊ねられ、私は息を飲んでしまった。
愛する人の全てを知りたいのは、何も私のみならず誰もが抱く願望であると思う。けれど、人を深く知るという事は覚悟のいる事でもあるのかもしれない。そんな事を感じ、改めて、霊の持つ〈アスタロト〉へと目をやった。
思い出すのは、霊と出会って間もない日々の事だ。
身の安全のためにとこの家で保護してもらえることになったその夜、私は自分の魔女の性が何なのかを初めて知る事が出来た。満たされた性のお陰で魔力が目覚め、その時に貸してもらったのが、〈アスタロト〉だったのだ。
あの頃、霊と私は今のような関係ではなかった。毎晩、首筋に傷がつき、魔女の性が満たされ、魔女として身に着けるべき魔術の練習が出来たわけだが、その性を眠っている間に満たしてくれている者が誰なのか、私はしばらく知らないままだった。
結局、誰が私の性を満たしてくれていたのかは言うまでもない。ただし、この関係の始まりは、あまり健全とは言えないものだった。
吸血鬼ではない私には分からない〈赤い花〉の血の誘惑に、霊が負けてしまった事がきっかけだったのだ。だから、彼女は私に気づかれないように、毎晩そっと血を吸っていた。
互いに求め合うようになった今とは違い、手加減もだいぶしていただろう。けれど、翌朝に姿見に映る私の傷は、抗えない興奮と共に寒気がしてしまうようなものばかりだった。
もしも、私の性が被虐性でなければ、私はきっと霊を恐れていただろうと思うくらいには。
その正体が霊であると、とうとう知ってしまった翌日、霊は罪を認め、私の身の安全のためにここから追い出そうとした。その際に彼女は、〈アスタロト〉は渡しますと言ったのだ。さらりとしたその言葉。もうだいぶ前のような気がするけれど、思い出してみれば今になって、心がだいぶ揺さぶられてしまった。
「そんなに大事な本を……あの時、霊さんは私に渡そうとしてくれたのですか?」
あの時、その言葉で私が何を言わんとしたのか分かったのだろう。
霊はやや目つきを変え、〈アスタロト〉を再び机に置いた。目を逸らしたまま、彼女は言う。
「あの時から今までずっと〈アスタロト〉はあなたの力になりたいと願っている。その上、雷様と〈ピュルサン〉による判定はランクCよ。私が認めさえすれば、誰にでも貸していい事になっている。その期間が無期限になっても何も問題ないことでしょう」
「そういう事じゃなくて、そんなに大事な物だったのに……」
「分かっているわ、冗談よ。確かに〈アスタロト〉はこれまでずっと私の大事なお守りだった。でもね、これをあなたに貸すという判断も、そして店から出るあなたに持たせるという判断も、全く迷いすらしなかったの。だってあなたは、憐の遺した大切な一人娘。そんな娘が、命の危険に晒されている。この上ないお守りじゃない。だから、貸すのは嫌じゃなかった。そして今のあなたは、私にとっても──」
そう言いかけて、霊は唇を重ねてきた。
柔らかく、温かな感触があまりに心地よかった。安心のためか、悦びのためか、涙目になる。その状態でしばらくほのかに自分の血の味がする口づけを楽しんだ後で、霊は口を離して私に言った。
「さてと、この私が、滅多に他人に話さないような事を話したのだから、それなりの料金をいただかないと」
「……いくらですか?」
震えながら尋ねると、霊は私の身体を床に押し倒してから答えた。
「こっちで勝手に数えるから、あなたはじっとしていて」
そして二度目の食事は始まった。
さて、高揚した気持ちが愛する人の牙でさらに掻き立てられ、心臓が踊り狂う中、それでもほんの僅かに残った理性的な部分で、私はふと思ったのだった。
あの日、私と霊は会ったばかりだった。霊は私の事を知っていたのかもしれないけれど、親しかったわけではない。そんな私に大切なお守りを迷わず貸してくれた理由が憐──私の母にあるのならば、それはそれで気になって仕方なかった。
霊は、生前の母とどんな関係だったのだろう。
勿論、知りたいのは表面上の立場についてではない。一体、どんな思い出を、どんな記憶を積み重ねていたのだろう。きっとそこには私の知らない母の姿がある。そして、これまで見た事のない霊の姿もあるはずだ。
これまでも母の思い出を語ってくれたことはあったけれど、何を語り、何を語らないかは、いつだって霊の判断に委ねられる。
知りたい。全てを知りたい。
けれど、今こうして肌を重ね、求められるままに血を捧げていても、その肌の下で彼女が何を考えているのかまでは分かりそうにない。
もっと力の強い魔女であれば、深く探ることも可能だろう。だが、今の私には簡単に知ることなど出来ない。様々な魔術を駆使すれば或いはというところだが、霊が心を閉ざしてしまえば不可能だろう。ましてや過去の霊がどんな出来事に苛まれ、どんな思い出に囚われているのかなんて、今の私にはそう簡単に分かりそうにないのだ。
その事に気づいた際にふと、私は〈アスタロト〉の異名を思い出した。
何でも知っている古書。
過去の英知も、隠された記述も、誰かが記録に残していれば、或いは本として世に出していれば、〈アスタロト〉はそれを見つけ出してくれる。
だが、本になっていない事であったら。日記などにすら残されていない事であったら。
きっと、それでも〈アスタロト〉は、間近で霊を見守ってきたはずだ。霊という名前ではなかったという幼い吸血鬼の成長する姿、そして、大人になり、自身の力を頼る必要がなくなってからさえも、お守り代わりに身近に置いていた彼女の事を。彼はそれらの日々を知っている。知っているけれど、どんなに願っても教えてはくれないだろう。
霊がどんな思いで今まで生きてきたのか、どんな思いで今を生きているのか。何を見て、何を思ってきたのか。それらの事を教えてくれるとすれば、それは霊自身である。こればかりは〈アスタロト〉を頼ることなんて出来ない。私自身が、今日みたいに彼女から聞かせて貰える機会を逃さないようにしなければならないだろう。
「そろそろ止めておきましょうか」
そう言って、霊は唇に伝う私の血を手で拭った。頭がぼんやりする中、そんな彼女を見上げながら、私はぽつりと彼女を呼んだ。
「……霊さん。教えてください」
「なあに?」
「霊さんにとって私の母は、会ったばかりの私に〈アスタロト〉を貸してくれるほど、重要な人だったんですか?」
それもまた、〈アスタロト〉に訊ねても教えてはくれない事の一つ。
今ならもっと口を滑らせてくれるという淡い期待と共に問いかけたが、霊は無表情で私を見下ろし、静かに答えた。
「今日はたくさん話しすぎたわ。それに、その話のお代を貰うには、あなたの血が少し足りないみたい」
労わるように頭を撫でられると、途端に眠気の波が押し寄せてきた。魔術なのか、疲労なのかは分からない。分かっているのは、どうやら今日の所はこれ以上、私の知れる話はないらしいという事だった。
瞼がすっかりと閉じて、暗闇の中で眠りに落ちる直前、霊の声が私の意識を包み込んだ。
「おやすみ、幽。愛しているわ」
その言葉に、私の心は不思議と軽くなった。




