中編
それが、具体的にどのくらい昔の話なのか、霊は深くは教えてくれなかった。けれど、少なくとも曼殊沙華のお家の長である雷様はまだ若く、私の父である天がこの町にて吸血鬼の王と呼ばれ、暴れ始めるより少し前のことのようだ。
その当時、この町のマテリアルたちは今よりも揉めていた。霊が度々語ることであるが、マテリアルは吸血鬼の中でも序列を決めたがる者が多いという。強い者が全てを手にする。そんな本能が根底にあるがため、抜きん出た者がいない地域では人知れずマテリアル同士の抗争が勃発するのだという。
特に時代の流れによって異国より新しいマテリアルの者たちがやって来るたびに、その地における新たな序列を決めようといざこざが発生する。霊がこの世に生まれ落ちた頃は、ちょうどその激動の時代の渦中だったのだ。
「母方の祖母は幼い頃からこの町の片隅にあったという小さなお社に住み着いていたらしいの。昔はこの辺りのマテリアルなんて祖母やその親族くらいしかいないくらい珍しくて、年を取らず、不思議な力があるものだから、神様かその使いとしか思われなかったし、そう思わせながら気に入った人たちに力を貸したり、守ってあげたりしていたそうね。蛇神や白妙、それに鬼神なんて人たちとは適度に距離を取って、小さな居場所をひっそりと守ってきたそうよ。けれど、時代が変わり、乙女椿国をとりまく空気が変わっていくと、他のマテリアルもたくさんこの町にやってきた。そして、祖母はローザ国から流れてきたという祖父と出会ったの」
そうして生まれたのが霊の母親となる純血のマテリアルだ。けれど、霊にとっての祖父となるその男性は、ある時から姿を消してしまったという。
「祖父が何処へ行ったのか。何があったのか。祖母はとうとう何も語らず死んでしまった。私が知っているのは、祖父が消えた後も母はすくすくと育ち、そしてすっかり成熟して年を重ねることをやめてしまった頃になると、この町でのマテリアル同士の緊張は最悪になっていたということよ」
いがみ合っていたのは、主に後から来たマテリアルたちだったという。
元からずっとここにいた霊の祖母は、当時はまだ辛うじて残っていた小さな社に一人娘と隠れ潜み、関わらないように身を隠していた。
そんな時、霊の母は蘭花国より流れてきたマテリアル男性と出会う。
「それが私の父。マグノリア人と父と蘭花人の母から生まれたという純血のマテリアルよ」
幸いなことに、彼はとても温厚だった。敵意を見せない彼に霊の母はすっかり気を許し、そして霊の祖母もまた彼を信頼するようになっていった。
やがて、ふたりは結ばれ、子供が誕生する。マテリアル同士の抗争とは無縁の静かで平和な日々がそこにはあったのだと霊の祖母は言っていたそうだ。しかし、その平和も長くは続かなかった。それは、霊が物心ついた頃に起きた出来事だそうだ。
「突然の事だった。けれど、祖母からしてみれば覚悟はしていたことだったそう。父は新しく来たばかりのマテリアルで、そんな彼がずっとこの町に住み着き、人々から神と信じられた歴史すらある血筋の女と結ばれ、子供まで生まれた。その事を過剰に警戒する同胞がたくさんいたの。不安はいつしか暴走し、父を排除しようという動きも現れた。母は、そんな父を助けたくて、いつも一緒に戦っていた。けれど、ある時、二人揃って……」
遺体はバラバラにされたという。
マテリアルの死体はうまく売れば金になる。その事を良く知るのは、同じマテリアルであるのだという。
霊の祖母は二人の遺体を取り返すことも出来なかったと悔やんでいたそうだ。当時はそれどころではなかった。
娘たちの死に悲しみ暮れる暇もなく、まだ幼い孫娘と自身の命を守るため、果てしなく長い時を過ごしてきた社を逃げ出さねばならなかったという。
なぜなら、狂気に満ちた彼らの目が、幼い霊のことをいつか怨恨の火種になると疑い始めたからだという。
「祖母がその足で向かい、門を叩いた先は、同じマテリアルの親戚のもとではなく曼殊沙華の家だった。マテリアルではないけれど、同じ鬼同士。鬼神ならば、もしかしたらと思ったのでしょう。一族の子供が一時期、祖母のもとに遊びに来ていたことがある事も理由として大きかったようね」
当時はまだ若かった雷様は、彼女らの身元を条件付きで受け入れた。
その条件というのが、霊の祖母のもつマテリアルの力を、曼殊沙華のために使うということだったという。
「致命的な傷さえ負わねば、鬼神たちとは違って永遠に若いまま動ける。そんなマテリアルが味方になるならば、と考えたのでしょう。その日から、祖母は社の神様から曼殊沙華の家の使い魔に成り果ててしまった。代わりに私は曼殊沙華の家の庇護のもと、安全に育つことが出来たわ。でも、祖母が危険な任務に駆り出されている事があるという事実は、小さい頃から気づいていた。だから、私は早く成長して、祖母の負担を楽にしてあげられるようなマテリアルになりたいと願っていたの」
そんな彼女に祖母が渡したものが、この古書〈アスタロト〉だった。
知りたいことを願いながら頁を捲れば、そこには古くからの世界の英知が浮かび上がる。その説明の通り、幼い頃の霊が開いた頁には、マテリアルが習得するのに相応しい魔術がぎっしりと記されていたらしい。
「これを全て習得すれば、きっと祖母の力になれる。その時はそう思って必死で学んでいたの。そうしているうちにも、祖母が無茶な任務に就いている事は何となく察していたわ。曼殊沙華の家が、高貴な吸血鬼として名を馳せる舞鶴や銀箔の家々と対等に渡り歩くには、誰かが陰で体を張らねばならなかったのでしょう」
そんな祖母の力になりたい一心で、幼い頃の霊は学び続けた。
その話を聞いて私は、自分自身の姿を重ねてしまった。
「やがて、私は大人になった。体の成長は止まり、マテリアルとして身に着けておくべき力の使い方は息を吸うように判るようになった。その後はしばらく、祖母と一緒に任務についていたの。でも、その祖母はもう、この世にはいないの」
そこで霊は言葉を途切れさせた。
無理に聞くつもりはない。私は口を閉じたまま静かに待っていた。霊は泣いたりはしなかった。けれど、どこか冷めた表情で、淡々と続けた。
「祖母が亡くなってしばらくして、この町のマテリアルたちを取り巻く状況が嘘みたいに一変した。どうやら遠くの町から新しいマテリアルの男性が流れてきて、好戦的だった者たちから姿を消していったそう。その噂が広まると、次第に残りのマテリアルたちはこの町の王が誰なのかを理解し、息を潜めだした。こうして、マテリアル同士は滅多に争わなくなったの。争う事があるとすれば、そうね。新しい王に見初められ、それを受け入れたくないと願うマテリアル女性が逃げるときくらい。少なくとも、殺し合う事はなくなったの。その王こそが、天。あなたのお父様よ」
天。その名を聞いて、身体が震えた。
私にとって、その血が流れているというだけでも不快だった。
けれど、霊は言った。
「あなたのお父様はね、最初は英雄だったの。マテリアル同士の無駄な争いが殆どなくなったから。けれど、彼はあまりにも本能に忠実だった。マテリアルとして、誇り高く、欲望のままに、手加減なしの人間狩りをすることを宣言したのよ。曼殊沙華、舞鶴、銀箔、それに白妙までも彼に接触し、説得しようとした。けれど、彼は聞き入れず、人間を襲うようになった。もしも、そんな事がなければ、もう少し、人間らしく振舞えたならば、今だってマテリアルの英雄として尊敬されていたでしょうに」
それはまるで、私を説得しているかのように見えた。霊は分かっている。私がどれだけ父に対して嫌悪感を抱いているのか。それでも、彼女もまた同胞として、天──私の父には一目置いているのだろう。
「話が逸れてしまったわね」
霊はため息交じりに言うと、〈アスタロト〉を手に取った。
何も反応はしない。私には分かる。今開いたところで、中は真っ白だろう。〈アスタロト〉は眠っているようだ。
「大人になり、祖母もいなくなってしばらく、気づけば私は〈アスタロト〉がなくても十分やっていけるようになっていた。すると、〈アスタロト〉は私の呼びかけや思いに反応しなくなったの。もう役目は終えたと、本自体が思ったのでしょうね」
けれど、霊はそれからも手元に〈アスタロト〉を置き続けた。
表紙を捲ることがなくなったとしても、その本自体が彼女にとってはお守りのようなものだったからだ。




