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U-Rei -72の古物-  作者: ねこじゃ・じぇねこ
29.何でも知っている古書〈アスタロト〉

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前編

 気づけば日が傾いていた。貴重な休日であったとはいえ、もっとだらだらと過ごしたかったという願望は不思議と湧いては来なかった。それでもその終わりを惜しんでしまうのには明確な理由があったのだ。

 今日一日……正確には昨晩から、私は〈アスタロト〉に向き合い続けていた。この店に置いてもらう事になった頃からずっと、霊に持たされてきた名前を持つ古書。知りたいことを頭に浮かべて捲ると、様々な文献が表示されるというものだ。

 決して危険なものではなく、寧ろうまく使えば世から忘れ去られてしまった文献の知識を得ることが出来る。特に魔女の心臓や魔術に関する知識を得るには欠かせない代物であり、この存在のお陰で様々な魔術を習得出来たと言ってもいい。

 そんな〈アスタロト〉で何をしていたかと言えば、魔術の検索だった。

 今の私が覚えている魔術は、かつてに比べればだいぶ増えたものだと思う。けれど、私の焦りは相当のものだった。


 まだ足りない。


 焦燥の原因は、ここ最近の治安のせいでもあった。

 我らが乙女椿という国は、世界的に見て治安が良い方とされている。だとしたら、世界はどれだけ治安が悪いというのだろう。それとも、魔の血を一滴でも引いてしまえばその限りではないという事だろうか。そう思わずにはいられないほど、この数か月間、心から安心して生活することが難しい日々が続いている。

 それもこれも、知ってしまったからこそ。生まれ育ったこの町を取り巻く情勢、私の左胸で今も絶えず動き続ける〈赤い花〉を巡る現状を知らないままであれば、私はきっと乙女椿もこの町も、なんて平和なのだろうと思っていたのだろう。


 いや、私の事はいい。

 自分の身を守るというのは確かに不安だけれど、魔術を一つ知り、一つ我がものにするごとに恐怖は薄れていく。

 しかし、危険なのは私だけじゃない。


 ──霊さん。


 私よりも長く生き、危険を掻い潜ってきたという主人。

 曼殊沙華の鬼神たちは、そんな彼女を信用してか無理難題を押し付けようとしてくる。ここに世話になって一年と少し。その間にどれだけ彼女がその身を危険に晒してきただろうと思うと眩暈がしてくる。だからと言って、曼殊沙華の依頼を断るわけにもいかないのが現実だった。

 せめて、そんな彼女の力になれたなら。

 そのために私が出来るのは、魔女として頼りになることだった。


 もともと〈赤い花〉の持ち主が得意とするらしい虫の魔術はだいぶ慣れてきた。それに、多くの魔女たちが得意とする基礎魔術もほぼ自由自在に扱える。

 だが、これだけでは頼れる魔女とは言えない。よく吠える番犬くらいの安心感はあるかもしれないけれど、現状を思えばそれだけでは足りないのだ。

 私の脳裏に浮かぶのは、〈鬼消〉とそのメンバーの竜の存在。そして、彼によって傷つけられた、あの日の霊の表情だった。

 きっと〈鬼消〉は、今後、何度もぶつかって来るだろう。

 だけど、もう二度と霊をあんな目に遭わせたくない。

 そんな思いから、私は情報をかき集めていた。

 

 まず知るべきは〈黒鳥姫〉の魔術の知識。心臓の種類の違う私には真似できずとも、どういう原理であり、どういう基礎から生じているのかを知るだけで、対処は出来るはず。

 そして、次に知りたかったのは、〈赤い花〉が苦手とする魔術と、それに対抗する手段となり得る別の魔術だった。

 どれか一つでも、自分の武器にはならないだろうか。

 そんな願いと共に検索を続けたのだが、成果は得られずじまいだった。


 もうじき日が暮れる。

 出かけている霊が戻ってきたら、夕飯に付き合わないと。

 そう思いながら私は〈アスタロト〉を畳間の机の上にポンと置いた。

 そして、それが途切れる前の記憶の最後となった。


 瞼を開けて、私は自分が眠っていたことに気づいた。眩い電灯に照らされて、ぼんやりとしながら見つめるのは、怪訝そうにこちらを覗き込んでくる霊の顔だった。


「霊さん……? あれ、私、眠って──」


 起き上がろうとしたその時、霊は私の身体を押し返した。


「まだ眠っていなさいな」


 そう言って私の上にのしかかってきた。


「呆れたものね。自分のお役目も忘れて疲れてしまうなんて」

「えっと……私は一体……」

「覚えていないのね。なら、教えてあげる。〈アスタロト〉を使い過ぎたの。出かける前に取り上げておくんだった」

「使い過ぎ……あっ!」


 そうだ、と思い出してまたもや起き上がりそうになり、再び霊に体を抑え込まれた。


「駄目って言ったでしょう。無理に起き上がって体力を消耗するくらいなら、その分、夕飯に付き合って貰いたいのだけれど」


 そこでようやく私は霊の目の色に気づいた。真っ赤だ。お腹が空いていたらしい。


「……分かりました」


 私がそう言うと、霊は何も言わないまま覆い被さってきた。

 首筋に牙を突き立てられると、飢えていた心臓がすぐに高鳴った。次々に体を好きにさせる事、それに伴ってあちこちに鋭い痛みが生じている事に、この上ない悦びを覚えてしまう。

 その悦楽が静かに盛り上がっていき、やがて霊が満腹になる頃には、身体がだいぶ軽くなっていた。


「──良かった」


 血の付いた口元を手で拭い、霊は言った。


「お預けなんて考えられなかったもの。熟睡するあなたから頂いたことなんて数えきれないほどあったけれど、やっぱり起きている方が美味しいもの」

「違うものなんですか?」

「全然違うわ。それに、あなたの方もね。さっきよりずっと顔色が良くなっている。〈赤い花〉もご満悦だったようね」


 笑いかけられ、どことなく恥じらいながら私もまた起き上がった。開けた胸元をしまい、生傷の痛みを静かに味わっていると、ふと視界の端に置き去りにされたままの〈アスタロト〉が映り込んだ。


「〈アスタロト〉で色々調べていると、つい時間を忘れてしまったんです。自分が疲れていることすら気づきませんでした」


 俯きがちにそう言うと、霊は溜息を吐いた。


「夢中になるとそういう事もあるわね。でも、気を付けて。〈アスタロト〉は危険なものではないけれど、使用者が余りにおバカさんだと死を招きかねない。お願いだから、私がこの子を貸してあげた事を後悔させないで」

「ごめんなさい。気を付けます」


 しゅんとしながら謝ると、霊はまたしても溜息を吐いた。


「いいわ。それに、覚えがあるもの。私もかつては同じようなことがあったもの」

「霊さんが?」


 驚いて食いつくように訊ねると、霊は少しだけ不服そうな表情を浮かべた。


「言っておくけれど、子供の頃の話よ。マテリアルとして成熟し、身体が年を取るのをやめてしまって以降は一切ないんだからね」

「も、勿論。そこは疑ったりしませんよ。でも、気になるな。そんなに昔から、〈アスタロト〉と一緒だったんですね?」

「そんなに昔からぁ?」


 いけない。また機嫌を損ねてしまいそうだ。

 流し目で見つめられ、私は反射的に平伏した。


「すみません、何でもないです」


 そんな私を冷たく見降ろしつつ、霊は呟くように言った。


「まあ、いいわ。間違ってはいないもの。少なくとも数えるのが馬鹿らしくなるくらい前の事ね。名前も今とは違ったわね。ああ、言っておくけれど、哀という名前でもなかった。生まれた時につけられた名前。つまり、最初の名前ね」

「どんな名前だったんですか?」

「それは秘密。教えてあげない。まあ、幼名みたいなものよ。その幼名を名乗っていた頃の話ね。〈アスタロト〉はね、母方の祖母から譲られた本だったの。そんなに面白い話じゃないと思うけれど、この話、聞きたい?」


 何処か呆れるような表情で言われつつも、私はしっかりと頷いた。

 愛する人の過去。知りたくないはずがない。面白くない話だなんて、霊によるジャッジに過ぎない。私からすれば、たとえ何のとりとめもない中身のない雑談だって、霊が少しでも関わる話であれば知りたくてしょうがない事なのだから。

 霊はそんな私の反応を前に少しだけ考え込み、やがて、納得したように頷いた。


「分かったわ。じゃあ、良い機会だから聞いて貰いましょうか」


 そして彼女は語りだした。

 それは、私がここへ来て以来、何となく深く踏み込む勇気が持てなかった、霊自身の生い立ちの話でもあった。

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