後編
曼珠沙華から連絡が入り、急に駆り出されたのは、それからさらに数日後のことだった。
〈バルベリト〉がこの店にあると〈鬼消〉たちが正確に把握しているかどうかさえも分からないが、少なくとも竜がここに立ち入って以来、怪しい人物が来るような事はなかった。
危険は私たちの方にあったのではない。霊が按じたように、危険に晒されていたのは、〈バルベリト〉を持ち込んだ凪の方だった。
凪が危ない。
その情報を真っ先に仕入れたのは、曼珠沙華の協力者である翅人だった。
監視役に特化した力しか持たない彼らには、凪を助ける事は出来ない。笠のような化け狸たちも同じだ。鬼神である曼珠沙華の者たちも、当然ながら出動するが、数合わせに駆り出されるのが霊であり、魔女として修行を積んできた私でもある。
だが、問題もあった。凪が命からがら移動している事だ。追手から逃げているのだろう。助けるためにも、まずは彼らを見つけ出さねばならない。だが、それが大変だった。何しろ、凪は陽炎。いるのかいないのかはっきりしないと言われる通り、その逃亡も普通の生き物とは違う。追跡は一筋縄ではいかなかった。
初めて目にするような翅人たちと合言葉を頼りに連絡を取り合い、町を駆け巡ってしばらく。朝から出発し、日も沈みかけたところで、ようやく私たちはその現場に居合わせることが出来た。
町の片隅。不自然なほど人気の遮断された港の片隅で、凪は身を隠していた。私たちが近づくと、彼は怯えた表情で顔をあげた。だが、追って出ない事に気づくと、涙目になりながら口を塞ぎ、声を抑えたのだった。
「凪さん……」
霊がそっと近づき、視線を合わせる。
「迎えに来ました。もうすぐ曼殊沙華の者たちが駆けつけてきます」
だが、その時、私は背後に殺気を感じた。
振り返れば、先ほどまで誰もいなかったはずの場所に、見覚えのある人物がいた。
竜だ。
「やっぱり、曼殊沙華と繋がっていたか」
冷たいその眼差しに、私もまた緊張を高めた。
鴉のような風貌の彼。その周囲には黒い羽根が散らばっている。〈アスタロト〉に書いてあったのを覚えている。あれこそ、〈黒鳥姫〉の魔術だろう。
「竜。やめなさい」
霊が強い口調で咎めるも、彼は平然としている。説得なんて聞く気はないのだろう。それでも諦めきれないのか、霊は訴えた。
「あなたを傷つけたくはない。親しかった家族に申し訳ないもの。けれど、あなたが凪さんを襲うのならば、やむを得ないわね」
「戦いを避ける方法はありますよ。その陽炎男が白状するだけでいい。あの呪物はどこにある。お前が言うだけでいい。言えば、みんなが戦わずに済む」
責めるような竜の言葉に対し、凪はぎゅっと目をつぶった。今にも消えそうな自身の身体をぎゅっと抱きしめ、震えつつも口を堅く閉ざす。そんな彼に対し、霊は言った。
「それでいいわ。あとは私たちに任せて」
そして、霊の表情は変わった。
彼女にとっては、かつての仲間の遺した家族。君付けだったことからして、可愛がってもいたのだろう。そんな相手に牙を剥くのはどれだけ葛藤があるのだろう。私だったらきっと辛すぎる。霊だって、人間だ。吸血鬼に生まれていようと、心の仕組みはそう変わらない。それでも、やると決めたからか、彼女の表情には迷いが消えていた。
主人がそのつもりならば、私だって迷いはない。
無言で隣に立つと、不思議と勇気がわいた。
「念のため、確認させてください」
魔術を向ける前に、私は霊に問いかけた。
「生け捕りですか。それとも──」
すると、霊は竜から目を逸らさないまま即座に答えた。
「今回の目的は凪さんの保護。そのために必要ならば、相手の血が流れる事も考慮しないといけないわね」
「……分かりました。そのつもりで戦います」
「そうしてちょうだい」
霊は短くそう言うと、真っ先に動き出した。
竜よりも先に指を向け、放つのは蝙蝠のような姿をした影だった。鎌鼬のようなそれは鋭利な翼を持っており、向けられた相手をズタズタに切り裂こうとする。手に嵌る赤い指輪〈ハウレス〉のおかげだろう。霊は何の反動もなくその魔術を使ってみせた。
竜は素早く応対した。〈黒鳥姫〉の魔術なのだろう。鴉のような黒い翼が何処からともなく現れ、幻影の蝙蝠たちを全て防いでしまった。それでも、霊は手を休めなかった。
「メタモルフォセス」
その名を唱えると、別の指に嵌る青い指輪〈ロノウェ〉が光り輝き、霊の影からウサギ型の怪物が飛び出してきた。いつものメタ君とは似ても似つかないその怪物は、恐れも見せずにまっすぐ竜へと飛び掛かっていった。
その間、私は息を殺し、隙を窺い続けていた。何もしてこない私よりも、積極的に襲い掛かってくる霊や、新手であるメタモルフォセスの方に竜の意識は向いていく。そして、いつの間にか、彼は私の存在を忘れ始める。その時こそが、私の出番だった。
背後へと回り込んでから、私もまた魔術を放った。
──蜘蛛の糸の魔術〈緊縛〉!
修行を初めてこの方、ここ最近の魔術の調子はいい。この度も、すんなりと糸は召喚され、素早く竜を捕らえてしまった。
「くっ……」
腕を、足を、蜘蛛の糸が封じ始める。藻掻けば藻掻くほど糸は絡まっていく。こうなれば、逃れられる者などいない。
「観念してください、竜さん!」
その名を呼ぶと、彼は恨みのこもった眼差しをこちらに向けてきた。
「くそ……舐めた真似を」
吠えるだけ無駄だ。これまでだって、同じように人を捕らえた事はあるのだから。けれど、過信なんてしてはいけなかった。最後にせめてもう一回説得しようと近づいたその時、彼の周囲に黒い羽根が現れだしたのだ。
「離れて」
霊の短い命令にとっさに従ったその瞬間、黒い羽根が私の糸を引きちぎってしまった。拘束が緩み、竜は解き放たれた弾みのままに私へと襲い掛かってきた。
やられる。そう思うだけで、精一杯だった。頭の中は真っ白なまま、もたらされるだろう痛みへの覚悟すら間に合わない。そんな状況下で、燃え上がるように熱を帯びる私の心臓〈赤い花〉は、果たして怯えていたのか、はたまた身の危険に伴う緊張感に喜んでいたのか。それすらも分からぬまま、決着はついた。
魔術によって黒い羽根をまとった竜の手は、私の心臓の手前でぴたりと止まる。そのまま勢いを止めなかったならば、私の胴には穴が開いていたのだろう。冷や汗がぽたりと零れ、血の気がすっと引いていく。視線すら逸らせぬままただ竜の顔を見つめる私に、彼は落ち着いた声で呟いた。
「勝負あったようだな」
そこへ、猛り声と共にメタモルフォセスが割り込んできた。
気づいていたのか竜はその攻撃をかわし、ついでに影に身を隠し奇襲を試みた霊の攻撃までかわす。有利に立ち回る彼だったが、目的は果たせていない。凪は守られたままだ。それでも、私は動揺から立ち直れずにいた。何故、彼は傷つけて来なかったのだろう。そんな疑問と敗北感に取り憑かれ、怯んでしまっていた。
「幽。しっかりして」
霊が囁いてきた。
「……すみません」
「大丈夫。今は時間を稼ぐだけでいい。そのうちに援軍が来るわ。今、翅人の一人が呼びに行っているそうだから」
「分かり……ました」
落ち着かないと。私はまだ負けていない。この戦いの目的はどこか。味方が駆けつけてくるまで、凪を守り通すことだ。出来る。私たちなら、絶対に。
そう意気込んで、私は再び魔術を放とうとした。だが、戦いの女神はどうやら私たちには微笑んでくれないらしい。竜は手強く、おまけにしぶとかった。長期戦を強いられているうちに、もともと戦いには不向きであったメタモルフォセスが竜の魔術に晒され、崩れるように消えていくと、戦況は一気に悪化した。
「夜蝶を呼びたいところだけれど」
霊はそう言いつつ奥歯を噛みしめる。そう簡単には来てくれないのだろう。こんなことなら、前みたいに会いに行っておけばよかった。そんな後悔すらちらつきながら戦い続けてしばらく。ついに霊が竜の魔術に倒れてしまった。
「霊さん!」
慌てて駆け寄り、様子を窺うと、黒い羽根が霊の右足にまとわりついていた。立つ事すらままならないらしい。そんな状況で、霊は弱々しい声で私に言った。
「私の事はいいから……凪さんを……」
痛むのだろう。その元凶たる黒い羽根を手で払い除けてみれば、その下には酷い痣が出来ていた。すぐに治療をしたいがどうすればいいか分からない。そんな状況にさらに焦っていると、竜は手を止めて声をかけてきた。
「僕だってこんな事はしたくないんだ。でも、分かってもらうにはこうするしかない。霊さん、それに幽さん。僕はあなた達を殺したいわけじゃない。ただ、理解してもらいたいだけだ。今はまだいい。だが、僕がもたもたしていれば、他の〈鬼消〉のメンバーがここへ来るでしょう。そうなれば、あなた達も敵としてみなされる。そんなことは、僕の望みではない。正しい事のため、この町のため、どうか協力をしてください」
拒否することは、すなわち、私たちの死を意味するのだろう。
私一人ならばともかく、霊が苦しむ所は見ていられなかった。どうすればいい。援軍はいつ来るのだろう。早く来て欲しい。そんな思考がぐるぐると回り、ただおろおろするしかないまま時を過ごしていると、ふとそこへ離れた場所から声がかかった。
「違う……正しくなんかない……」
凪だった。
「あなたたちは間違っている。あの王冠は、壊してはいけないんだ。悪用を防ぐならば尚更、誰の手にも触れられない場所で保管しておかねばならない。でなければ、悪霊が別の王冠に乗り移ると言われているんだ」
震えながらも必死の訴えだった。だが、そんな凪の言葉を、竜は一蹴した。
「それは迷信だ。鬼芥子様は知っているのだ。悪用しようと目論む者が、そのような作り話をしてあの呪物を壊させないようにしたのだと。真実は違う。壊せばもうそれっきり。危険なものはこの世からまるっきりなくなるのだと」
「違う! それこそ虚言なんだ!」
凪は叫ぶが、竜には通用しなかった。
「これを嘘と言い、その迷信を真実というのなら、信じるに値する根拠はあるのか」
「そ……それは……製作者が……」
「その製作者の言葉のみを信じ、今に至るというわけだ。だが、製作者が嘘をついていたならば?」
「たとえそうであっても、むやみに壊してはなりません」
話し合いは平行線だ。端から見ていてもそう感じた。恐らく竜もそう思ったのだろう。彼が動き出すことは、私もすぐに察知した。魔術を放ったのは、とっさの行為だった。凪を守ってという霊の願いを聞いていたからかもしれない。出来たことは些細なことだった。蝶の魔術で竜と凪の間の空間を歪ませることだけ。それでも、気を逸らすことは出来た。苛立ちのこもった眼差しを竜はこちらに向け、私を睨みつける。
「勝負あったといったのに」
そんな彼の言葉に、私は再び立ち上がり、答えた。
「まだついていませんよ。私は戦えます」
しばらく無言で見つめ合い、あらゆる覚悟を静かに決める。だが、そこへ、変化が訪れた。今まで息を潜めていた翅人が凪の傍に現れたのだ。曼殊沙華の者たちが来る。その気配を察し、竜の表情も変わった。
「少し遊びすぎたようだ」
そう言って私たちに背中を向けた。逃げるつもりだ。その背を睨むと、彼はちらりと振り返り、私に向かって言った。
「いけ好かない魔女だが……仲間が大事に思っている人を傷つけるわけにもいかない、か」
──仲間?
ぽかんとする私を残して、彼の全身は黒い羽根に包まれていった。ややあって羽根がばさりと散らばると、そこにはもう誰もいなかった。
黒い羽根が散乱する様子を眺めながら、私は再び彼の言葉を反芻した。
──仲間が大事に思っている人?
去り際のその言葉に囚われていると、辺りが急に騒がしくなった。気づけば、曼殊沙華の者たちが、駆けつけていた。
それからは、曼珠沙華の者たちに言われるまま時を過ごすこととなった。凪を保護してもらい、霊の手当てをしてもらったあとも、彼らが来るまでの状況について曼珠沙華の鬼神たちに警察さながら事細かに聞かれ、しばらく拘束されたのだった。
ようやく解放されて霊を支えながら我が家に戻ってみれば、どっと疲れがこみ上げてきた。玄関先でしばらく座り込んで休んでいると、霊が静かに言った。
「明日は休みにした方がいいわね」
「はい……。それより、足は大丈夫ですか? 痛みませんか?」
「曼珠沙華のお薬が効いているのでしょうね。あまり痛くない。でも、あなたの血があればもっと治りも早いでしょうね」
「私の血でいいのなら、いくらでもあげますよ」
苦笑しながらそう言った後も、私の脳裏にちらつくのは竜の去り際の言葉だった。
「……あの、霊さん。〈鬼消〉の事で、気になる事があるんです」
「気になる事?」
「彼が──竜さんが、去る時に私に向かって言ったんです。『いけ好かない魔女だが、仲間が大事に思っている人を傷つけるわけにもいかない』って。それってどういう意味でしょう。仲間って、いったい誰の事なんでしょう」
もっとも疑わしい人物。それは一人しかいない。勿論、そうでない可能性を必死に探しているのだが。そんな私の目を見つめ、霊は静かに命じてきた。
「あなたの考えを聞かせて」
「考え?」
「疑っているのでしょう。はっきり言いなさい」
強い命令に、私は抗えずに肯いた。
「私は……桔梗じゃないかって疑っているんです。ただの悪い予感です。でも、無花果さんのお屋敷にいたのも、何か関係があるんじゃないかって」
「必ずしもそうであるとは限らない。でも……そうでないとも言い切れないわね」
霊は落ち着いた声でそう呟いてから、私に訊ねてきた。
「あなたはどうしたいの? 真実を知りたい? そうでないと信じたい?」
その問いに、私は躊躇いを覚えた。
返事をするのには少しばかりの覚悟がいった。だが、答えはすでに決まっていた。初めから一つしかなかった。
「真実を知りたいです」
すると、霊は納得したように頷いてから言った。
「分かったわ。曼珠沙華にお願いして、そちらの線も調べて貰いましょう。でも、覚悟なさい。何も知らない方がいい事だってあるの。分からないままにして、白黒はっきりつけたりしないで、グレーのまま、あのお友達と付き合い続ける道だってあるのよ」
霊の言う通り、絶対的な正解などではないだろう。けれど、私の決意は揺るがなかった。
「それでも、私は知りたいんです。ここにいる古物たちを守るためにも、そうした方がいい気がするんです」
それはきっと杞憂などではないはずだ。
桔梗は旧友であり、親友である。この店の事も、私の事も、よく知っている。それだけに、はっきりさせておきたかった。彼女は私の──私たちの敵となり得るのか否か。
そんな私の意思表示を前に、霊は無表情のまま頷いた。
「そう。それなら、遠慮はいらないわね。情報が掴めたら、必ずあなたにも聞かせると約束する」
何処か優しい口調で彼女はそう言うと、私に向かって手を伸ばしてきた。
「手を貸してくれる?」
甘えるようなその囁きに応じて共に立ち上がると、急に空腹を感じてしまった。思えば、長い拘束で食事の暇もなかった。同じように空腹が限界なのだろう。霊はいつの間にか目を真っ赤にしながら、私の胸元に縋りついてきた。
「足が痛むの。あなたの血の味で誤魔化させて」
「いいですよ」
短く同意すると、そのまま食事は始まった。
玄関から決して遠くない食卓に向かうまで持たなかった。どうやら廊下の途中に置かれた棚が今宵の食卓になるらしい。体重をかけられて身動きがとれなくなる私の首筋に、霊はがぶりと噛みついてきた。その痛みと快楽に揺さぶられながら、私はこの度の事を思い出していた。
威厳を授ける王冠。〈バルベリト〉の力を目の当たりにすることは、この先、恐らくないだろう。けれど、その力を巡る対立は、これからも必ず繰り広げられる。
他の古物同様、この店に眠っている事も広く知られる日が来るだろうし、手を出そうとする輩は現れるだろう。あるだけで混沌を招くという意味では、確かにこれは非常に危険なのかもしれない。だが、霊が守ると決めている限り、私も諦めたくはなかった。
血も、体も、そして心も、全てを愛する人に捧げながら、私は密かに誓っていた。
この先もしも、残酷な真実が待ち受けていたとしても、今日の選択を私は後悔したりしない、と。




