中編
竜という青年が店を訪ねてきたのは、凪から〈バルベリト〉を預かり、私の身体が傷だらけになった夜から数日後の事だった。
霊の昔からの知り合いのようなのだが、黒髪に黒い上着──龍というよりもどことなく鴉を思わせるその風貌は、地味ながらも妙に気になった。
何故だか分からないが、友人の桔梗に雰囲気が似ている。顔立ちや声、口調などには共通点など見当たらないのに、だ。その理由については、後に知る事となる。
「それで、竜君。今はどうしているの?」
とりとめもないような日常会話の後で霊がさり気なく問いかけると、彼は何の躊躇いもなく答えたのだ。
「今、僕は、〈鬼消〉の一員なんです」
それは、口を挟まぬように端でじっとしていた私ですら、びくりと震えてしまうような答えだった。思わず二人の様子を窺うと、霊も竜も全く表情を変えていなかった。何なら二人ともにこにことした笑顔で、事情を知らなければ穏やかな空気が流れているようにすら思えてしまう。
だが、違う。竜。この人は分かっていてその名前を出している。
落ち着き払った様子で霊は言った。
「どういう経緯でそんな事に。お父様とお母様、それにお姉様が知ったら──」
「知ることはありません。皆、死んだのですから」
「……死後の世界があるかどうかについての議論はやめておきましょう。でも、解せないわ。あなたも知っての通り、皆、曼珠沙華のもとで頑張ってきたのよ。〈鬼消〉がこれまでどのような活動をしてきたかなんて、あなたも知っているでしょうに」
落ち着いているが、私には分かる。霊はショックを受けている。竜という人物との関係は少ししか見えてこないが、霊が傷ついていると思うと私まで心が痛んだ。唇を結んだまま耳を傾けていると、竜もまた落ち着いた様子で反論した。
「ええ、それは勿論。〈鬼消〉は確かに間違ったことを何度かしてきましたね。ですが、曼珠沙華が間違ったことをしてこなかったと言えるでしょうか。銀箔が、舞鶴が、そして白妙が。彼らには視点が抜けている。彼らは人の血を持たないのです。人の血を持たない者としてしか、この町を守れないのです。魔法を使えるというだけで、殆どただの人間に近い僕たち魔人にとって、同じ視点から治安を守ろうという集団は、それだけホッとする存在なのです」
それに、と、竜は小声で呟いた。
「曼珠沙華は……鬼神たちは僕の家族を守れなかった。〈白鳥姫〉の正義感なんてものを利用されて、善き魔女、善き魔法使いのモデルを押し付けられて、両親も姉も使い捨てられてしまった」
「それは──」
言い返そうとする霊に対し、竜は言葉をぶつけた。
「あなただって同じですよ。鬼は鬼でも鬼神ではないのです。曼珠沙華を信用してはなりません。いいように利用されて、僕の家族のように使い捨てられるだけだ」
そう言い切る彼に、霊は圧倒されていた。かけるべき言葉を探している霊の様子から察するに、この竜という青年はそれだけ配慮のいる背景があるのだろう。そんな事を秘かに考えているうちに、竜は軽く息を吐いてから切り出した。
「そんな事はいい。今日は用があって来たのです」
「用?」
嫌な予感がするのは私も霊も一緒だろう。そして、それは的中した。
「この男が店に来たでしょう」
そう言って竜は写真を突きつけてきた。私のいる場所からはよく見えない。だが、誰が写っているのかは、だいたい予想がついた。
「ちゃんと答えなければいけないのかしら」
霊が呟くと、竜は軽く笑って写真を懐にしまった。
「それはあなた次第ですよ、霊さん。どうせ僕はこの店内では何も出来ない。入るだけで精一杯でしたからね。僕の仲間なんかは入る事すら出来ない。でも、お忘れなく。一歩外に出たならば状況は変わります。ここにあるモノには触れられずとも、そのモノを守るあなたは違うのです。勿論、あなたの大切な人だって同じですよ」
「それは脅し?」
静かな霊の問いかけに、竜はさらに笑った。
「やだなぁ、ただの忠告ですよ。いくら曼珠沙華を信用していないと言っても、古い知り合いなんです。そんな相手を傷つけられるほど、僕は冷血ではない。ただ、僕の仲間はそうではないのです。大義のためなら手段を選ばない。そんな仲間が多いからこそ、僕がここに来たのです。あなた達に傷ついて欲しくないからこそ、協力して貰いたいんです」
竜は軽く息を吐いてから、霊に告げた。
「いいですか、よく聞いてください。この写真の男は危険なものを隠し持っている。混沌を招きかねない呪物です。この町の治安は今、決していいとは言えない。吸血鬼の王が身を潜めてからしばらく経ち、状況は良くなるどころか悪くなっている。そんな状況で、彼の持つ危険物が誰かに悪用されたらどうなるか……。僕はこの町を守りたいのです」
恐らく嘘は吐いていないのだろう。だが、違和感を拭えない言動だった。それはきっと彼が〈鬼消〉の者であると情報がちらつくからだろう。それにもう一つ。霊の返答が決まり切っていると分かっていたからだ。
「悪いけれど、力にはなれないわ。あなた達にどんな事情があろうとね」
あっさりとした断りの言葉に、竜もまたあっさりと頷いた。
「分かっていました。どうせあなたはそう返答すると。それでも、諦めきれなくて来てみたのですが、無駄足だったようですね」
「竜君……」
「君付けなんてやめてください。僕はもう子供じゃないのだから」
冷たく言い放つ竜を見つめる霊は、とても悲しそうだった。口を挟むことも出来ず、ただただ静かに見守っているうちに、竜は溜息と共に霊に告げた。
「とにかく忠告はしました。僕はこれで」
そう言って店を去ろうとし、彼はふと隅で大人しくしていた私へと視線を向けてきた。
「あなたの噂も聞いていますよ、幽さん」
名前を呼ばれ、思わず震えてしまった。隠しきれなかったその反応に軽く目を細め、竜はどこか冷たい声で言った。
「魔女であるならば尚更、どこに落ち着くのかはよく考えた方がいい。その点、〈鬼消〉はいつだって魔女の心臓を持つ者の味方です」
「竜」
そこへ霊のやや強めの声がかかった。
咎めるようなその声色に、竜は軽く目を閉じた。
「どうやら、今のあなたに自由というものはないらしい。けれど、お忘れなく。魔女の事をよく知るのは同じ魔女の心臓を持つ者たち。特に〈赤い花〉の心臓を持つ、あなたを心配する者は僕の仲間にもいるということを」
「そこまでにして」
冷たい霊の言葉に、竜は大人しく口を閉じ、再び歩みだした。そして、店を去る間際、振り返ると穏やかな表情のまま私たちに告げた。
「お邪魔しました。どうかご無事で」
そのまま彼が店を出て行った後も、しばらく沈黙は続いた。
ようやく霊の重たい口が開いたのは、それから数時間後の事だった。
「竜のこと、気になる?」
客足もなく、店内に流れるのは時計の針の音とラジオの音声ばかり。そんな中での突然の彼女の切り出しに、私は驚きつつも慎重に頷いた。
「お話してもらえるのなら……知りたいです」
「そうね。あなたにも知ってもらった方がいいかもね」
そして霊は教えてくれた。
今よりどのくらい前の事なのか、霊も正確には覚えていないらしい。ただ、竜の年齢は恐らく私と同じくらいであり、幼い頃に家族を失った。
「彼の家族は曼珠沙華の協力者だった。ご両親はね、あなたのお母様とも交流があったのよ。一緒に吸血鬼狩りをしていたこともある。お父様と対立していた一派なの」
母の知り合い。仲間。その存在は、私にとって何処か心がちくりと痛むものでもあった。彼らは私の父を憎んでいる。父の子である私の事もあまりよく思っていない。
それでも、幸いと言っていいものか悩ましいが、少なくとも竜の両親および姉は、母の葬式で私に直接冷たい言葉を投げかけてきた者のうちには含まれていなかった。それ以前に、亡くなっていたからだ。
「任務中の事故だった。最初から危険を伴う難しい任務だったの。それでも、善き魔女としてよく知られる〈白鳥姫〉の性だったのでしょう。恐れを抱かず、立ち向かって、それで、死んでしまった。幼い彼を一人遺して」
善き魔女。〈白鳥姫〉の性。それについて、私はまだ詳しくは知らない。〈アスタロト〉が教えてくれたこともあったかもしれないが、きちんと覚えていない。
ただ、竜も言っていたのを覚えている。〈白鳥姫〉の正義感を利用されたと。彼は曼珠沙華を恨んでいる。恨んでいてもおかしくはない。
「彼……竜さんも〈白鳥姫〉なんですか?」
それとなく問うと、霊は静かに首を振った。
「いいえ。彼は違う。彼一人だけ、違ったの。母方のお祖父様から受け継いだという〈黒鳥姫〉の心臓を持っているようよ」
「〈黒鳥姫〉……それって確か……」
桔梗だ。私の友人──桔梗と同じ、心臓だ。
私の表情に、思う事があったのだろう。霊は少しだけ眉を顰め、ため息交じりに続けた。
「〈黒鳥姫〉はね、〈白鳥姫〉の双子の妹と言われている。けれど、兄弟姉妹が血の分かれ目というように、この二つの心臓は時に対立をする。常に正しくあろうとする姉〈白鳥姫〉の影で、常に真実を見据えようとするのが〈黒鳥姫〉なの。竜の家族は皆、正しくありたいと願い、それが叶いそうな曼珠沙華に力を貸してくれたわ。でも、竜は違うようね。大義のためなら手段を選ばない。まさしく〈黒鳥姫〉の心臓がそうさせているのでしょう」
霊が語るのは竜のことだ。
けれど、何故か私は桔梗の姿を思い出していた。
無花果の屋敷で確かに目撃した桔梗の姿。どことなく彼女に似ている。竜のことを思い出せば出すほど、友人の事が気になってしまった。
魔女の心臓を受け継いで生まれたとしても、その性の内容によっては何も知らず無自覚のまま、普通の人間のように年を取って老いていく者もいる。
技術の発展に伴って、魔というものの存在感が段々と失われていく今のこの世の中ではその方がずっと幸せに暮らせるはずだから、私は桔梗に何も話していない。彼女が〈黒鳥姫〉であると教えてくれたのは霊であり、魔女として目覚めた私の能力でもあった。仮に桔梗が魔女であることを自覚していたとしても、私は彼女から何も話されていない。
──桔梗。いま、どうしているのかな。
思えば、しばらく会っていない。それとなく連絡を入れてみたりもしたけれど、今はどうも忙しいらしい。仕事で忙しいのか、家庭の事情によるのか、考えてみればそこは知らなかった。
「幽」
と、その時、霊が囁くように声をかけてきた。
「何を考えていたの?」
その眼差しに抗えず、私は観念するように答えた。
「……桔梗の事です」
「〈黒鳥姫〉と聞いて思い出したの?」
「それもそうですが……無花果さんのところにいた事も、やっぱり気になって」
「お友達の事については、曼珠沙華の関係者が調べてくれているわ。あなたの耳に入れた方がいい情報が掴めたならば、そのうち笠あたりが持ってくるでしょう」
「分かっています。今は待つ時だって。分かっているのですが」
落ち着くことが出来ない。そんな私のもとへ、霊は歩み寄ってきた。不意に唇を重ねられ、牙が当たって思考が止まる。
数日前、〈バルベリト〉がこの店に来た時に、地下で繰り広げられた荒々しい夜のことが想起され、体が震えた。だが、この度の霊は私を痛めつけるような事はせず、すぐに唇を離すと小声で言った。
「これ以上、私を嫉妬させないで」
その言葉、その視線の含む感情にようやく気づき、私は黙ったまま頷いた。




