中編
早朝、目が覚めて起き上がろうとした私は、志半ばでベッドの中に再び引きずり込まれていった。恐怖映画の怪物に食べられてしまう脇役のように悲鳴も空しく毛布の中でもがいていると、強制的に着替えを手伝われてしまった。乱暴に寝巻のボタンをはずすこの暴君は、半ば寝ぼけているようにしか見えない。
お腹が空いているのは確かなのだろう。だが、首元はもともとさらされている。霊が噛みつきやすいように一番上のボタンはいつも外してある。だから、全てのボタンを外す必要なんて何処にもないし、ましてや下まで剥ぎ取る必要なんてないはずなのだが、そう訴えたところで、今の霊には通用しないのは分かり切っていた。
――いや、今じゃなくても霊という人には通用しない。自信をもってそう言える。
「生肌ってすごく温かい。ねえ、幽、夏に食べる熱々のうどんって美味しいと思わない?」
「何言っているんですか。寝ぼけているんですか? 暑苦しいじゃないですか。夏は素麺がいいです」
「そこはざる蕎麦とかではないの?」
なんてことだ。この私が霊に突っ込まれてしまった。
いやでも、夏は素麺がいい。何度聞かれてもそう答える。それにしても、誰々に突っ込まれるって言葉は何だか嫌らしいと思うのは私だけだろうか。
そんなことを思っている間に、私の着ていたものすべてが美しい女の姿をしたケダモノによって剥ぎ取られ、ベッドの外へと放り出されていた。掛布の中はすごく狭苦しいのに、ずいぶんと器用なものだ。いや、それはともかく、私は恐怖を覚えていた。身動きが取れない中、霊は牙をちらつかせて心臓の鼓動がよく感じ取れるあたりに耳を当てている。まさかそこを噛んだりしないだろうなと不安になる。
実を言えば、噛まれたことはある。私が眠っている間に、全身が傷だらけだったことは何度もある。〈赤い花〉を食べたいと彼女も思ったりするのだろうか。ともかく、生きているのが奇跡と思ってしまうほど噛み傷だらけだったことが何度かあるのだ。それも一度や二度じゃない。
もしも霊が噛むことで仲間を増やすタイプの吸血鬼だったら、私は半吸血鬼なんかではなく本物の吸血鬼になっていただろう。〈赤い花〉を持つ吸血鬼とか設定だけでも主人公っぽくていい。何か特別な力がすごくありそう。何だか知らないけれど世界を救えそうである。
なんて考え事が出来たのはそこまでだった。
「いただきます」
そう、「いただきます」されてしまったのだ。突然のいただきますは身体に毒だ。いや、毒であり薬でもある。蜜でもある。でも、刺激が強すぎるので蜜といっても拒否反応が出てきてしまう恐れがある。けれど、拒否反応すら起こる前に、私は心底屈服してしまっていた。
結局今日も昨日までと同じだった。一方的な食事に付き合わされつつも肌がつやつやになりそうなほど満足感と幸福感に包まれていた。
「ぷはあ、寝起き一番にはこれね」
とりあえず頼んだ生ビールを飲んだおじさんのような事を言いながら霊はごろりと寝ころんだ。起きる気があるようにはとても見えない。
「ねえ、幽、今日は定休日にしようか」
「駄目ですよ。定休日は来週って決めたじゃないですか」
「今日一日、あなたを虐め尽くしたいの」
悪魔の囁きだ。甘えたい気持ちでいっぱいだった。しかし、そうはいかない。
「な、何言っているんですか。やる気を出してください。もう私一階に行くので、霊さんも早く来てくださいね!」
欲望を振り払うようにそう言い残すと、カレンダーを確認した。バツ印はきちんとついているだろうか。友人との旅行の日までの日付は迫ってきているだろうか。どうやら問題ないようだ。
私は一階へと向かった。そして、いつものようにテレビとラジオのスイッチを入れて歯磨きをしはじめた。聞こえてくる番組は二つ。全国ニュースのテレビ番組と、地元ラジオ局の番組。どっちかにしなさいと霊に怒られたこともあるけれど、昔から欲張ってしまうのが私の性だ。ちなみに魔女の性とは関係がない。
歯をしゃかしゃか磨きながらテレビをぼんやり眺めてしばらく。私はふとカレンダーへと目をやった。番組は昨日見ていたものと少し違う。念のため、いつものチャンネルに合わせてみた私は、思わず歯磨きの手を止めてしまった。
「は、はれ?」
念のため、タンスの上のラジオにも集中する。そして、間違いなくそれを確認するや否や、電気ショックでも受けたかのような気分になった。
「待って、どういうこと!」
同じだった。昨日と同じ番組、同じ展開だ。
急いで口をゆすぎ、郵便受けの新聞を確認してみても同じ。そう、昨日しっかりとねじを巻いたはずなのに、また時間が繰り返されているのだ。さっきちゃんと確認したはずなのに、どういうことだろう。
「ちょ、ちょちょちょちょっと霊さぁぁぁん!」
慌てて二階へと駆け上がろうとしたところ、霊はちょうど降りてこようとしていた。
その姿を真正面から見て、思わず立ち止まってしまった。
なるほど、今日はその服を着るのか。
霊には赤も青も似合うものだが、緑もよく似合う。というか何を着ても似合う。すごく似合うのでどんどん着せ替え人形にしたいところだけれど、それを狙ってみたところ何故か上手いこと丸め込まれて私の方が着せ替え人形にされていたことがある。自分でも何が起こったのか分からなかったが、その時の写真はアルバムに収められていたので夢ではなかったらしい。
それはともかく、今は我が主人の話だ。
あれは数年前に貰ったのと言っていたドレスだっただろうか。
彼女の為に作られたのではと思うほど似合っているその服は、男に貰ったのだと言っていた。大きな仕事の報酬は笠を通じて金銭や物品でもらうのだが、その男は直接店に来たので直接払っていったらしい。
ちなみに、服は報酬とは別に「お世話になったお礼」ということらしいのだが、やけに露出が多く、ついでにサイズがぴったりなのが私としては気になって仕方がない。その相手が魔物で、おまけに霊と同じタイプの、不老かつ生殖能力のある吸血鬼だと聞くとさらに気になって仕方がない。奇跡的なほどに気にするところしかない。
そして何よりも気になるのが、霊がその男に対してどんな感情を抱いているかである。
やっぱり、霊も生物としてより優秀な相手の子孫を残したいと思うのだろうか。
子孫といえば、霊はいつか〈赤い花〉の希少性について話していたような気がする。
――いつかあなたも〈赤い花〉を増やすために貢献しないとね。
それってどういう意味なの?
血統のいい犬や猫みたいにされちゃうの?
さまざまな思いが巡り、動揺で取り乱す私の姿を確認しても自分のペースを破らずに欠伸をこらえながらゆっくりと降りてくるその振る舞いはとても優雅である。
やたらとサイズが合っている高貴な緑のベルベットのドレスは今の季節だとちょっと暑いのではないだろうかと思ってしまうが、そんな心配をするあなたにと言わんばかりの露出度である。
これをプレゼントした顔も知らぬ男への印象にかかわってくるところだが、しかしそんな呆れとは別に、私は深く頷いた。
確かに似合うし、霊の身体は芸術的だ。朝からいいものを見た。そして改めて思い、今だけはその見ず知らずの男に感謝した。
今宵の夕飯くらいは私ももっといい思いをさせてもらおうかな。
――などと、言っている場合ではなかった。
「れ、霊さん、妖気です! この建物に妖気が充満しています!」
慌ててそういう私に、霊は落ち着いた様子で微笑む。
「はいはい、アニメの見過ぎよ。妖気なんてこの世には存在しないわ。あるのは科学と、科学ではまだ証明されていない魔術だけ」
「私の推理によりますと、たぶんその魔術ってやつが世間様の言う妖気のことなんだと思います!」
「はあ、妖気なんて充満していて当然じゃない。私がこんなに普通の人間の女性らしく振る舞っているというのに、あなたがいつも自室でどんぱち魔法の練習なんかするのだもの。発火の魔術をマスターするのは節約になるからすごく助かるけど、私の〈アスタロト〉ちゃん燃やさないでね」
「室内で発火の練習なんてやりませんよ!」
ついでに、普通の人間の女性らしさって一体全体何なのかお尋ねしたい。
ところで、今のって、遠回しに発火くらいできるようになって火種くらいになれよこの居候女がって言われたのではないだろうか。
そうだとしたら、なんだか興奮してしまう。
「で、妖気って? 私たちのことじゃないのでしょう?」
いやに優しく問われ、慌てて答えた。
「あ、はい。大変です。また〈ウァサゴ〉ちゃんがやりやがりました。見てくださいこれ!」
と、握りしめた新聞を見せる。霊は実に呑気にそれを受け取り、内容を確認した。
「あー、昨日ラジオなんかで言っていたあの殺人事件の記事ね。犯人よく捕まったわよね。ただの人間だったのは私も意外だった。それにしても、人の狂気って怖いわねえ。そういえば、”きのう”も”おととい”もなんだか疲れていたから、新聞をちゃんと読んでいなかったのに今気づいたわ。テレビ欄しか見ていなかったのかも」
「霊さん!」
「あー、はいはい。〈ウァサゴ〉ちゃんふあぁ……」
思いっきり欠伸された。牙がとても可愛い。普通の人間からすれば、八重歯の一種ってことになるそうだけど、こうしてみると無理があるような気がする。
とはいえ、私も初めて会った頃は八重歯だと思っていたのだけれど、どうしてこれを八重歯の範疇に留められたのか、当時の感覚が思い出せない。
「〈ウァサゴ〉、面倒くさい子……」
気持ちのこもったセリフだった。
「ねじ巻くだけじゃやっぱり駄目なんじゃないですか? やっぱり合わせ鏡で会いに行った方が……」
「会いに行くのって大変じゃない。精神世界とかいう訳の分からないところ、あなた行きたいの?」
「行きたい行きたくないじゃなくて、このままじゃ困りませんか?」
普通に考えて、今の状況はとてもまずい気がするのだけれど。
しかし、霊は平然としていた。
「別にいいじゃない。一生明日が来なくたって。どうせ私とあなた以外には分からないのだし。それに、ちょっとずつだけど昨日とは時間の進みも違うみたいね。たとえば、今朝の小鳥のさえずり。あなたの愛らしい声に交じって聞こえた小鳥のさえずりがちょっと違ったわ。ちゃんと確かめる前にあなたが大きな声であんなことやこんなことをおねだ――」
「ちょ、やめてください! とにかく、それなら私もちゃんと確認しました。部屋を出る前にちゃんとカレンダー見ましたから。確かに昨日の日付に丸を付けたし、友達との約束の日までの日数も確認しました。あの時は確かにちゃんとした日付だったんです」
「そう、なら確かね。はあ、仕方ないわね。安心なさいな、幽。そんなに遊園地行きたいのなら、〈ウァサゴ〉ちゃんのねじを今日もちゃんと巻いてあげるわ。それでだめなら明日、ぶっ叩きにいきましょう。午後にでも木刀〈ベール〉を磨いてくれるかしら」
「み、磨くのはいいですけれど……」
物騒だが、まだチャンスはあるらしい。
〈ウァサゴ〉ちゃん、ぜひとも今日のところで機嫌を直しておいた方がいいと助言しておこう。もっとも、物に宿った心には身体なんてないはずなので叩かれても酷い怪我なんてしないのだろうけれど、磨く方ははらはらしちゃう。
テレビやラジオを消して、さっそく二人で店へと向かった。
懐中時計〈ウァサゴ〉は今日もいつもと同じく戸棚の中に眠っている。それを昨日のようにやや乱暴にカウンターに置いたあとで、霊はにやりと笑った。その表情に私の心臓が歓喜する。いい顔だ。嗜虐的なその表情がたまらない。
「〈ウァサゴ〉ちゃん。私の声が聞こえるかしら」
蓋を指で怪しく撫でながら、霊は語り掛けた。相手は時計なのだけれど、いやらしい戯れにも見えてしまう。時計のあんな所やこんなところを愛撫して、霊はうっとりとした目で囁きかける。
「今から優しくねじを巻いてあげる。悪戯はこれっきりにして頂戴。じゃないと、お前は私のモノになった運命を呪う想いをするわ。精神世界では何でもできるの。あんなことやこんなこと、お前だってされたくないでしょう?」
私としてはむしろされたいと言いたいくらいなのだけれど、口をしっかりと閉じてやり取りを見守った。さっき食事を済ませたばかりだというのに、身体がそわそわしている。
「ねじを巻くわ。力を抜いて」
甘い吐息と共に、霊は〈ウァサゴ〉ちゃんを弄り始めた。
時計だから力を抜くも何もなんて野暮なことはいわない。巻かれる音がまるで時計の嬌声のようだった。全くこの霊という人には恐れ入る。とんだ淑女がいたものだ。
「幽」
と、ねじを巻き終えると、霊が怪しげな眼差しをこちらに向けてきた。
「開店までまだまだ時間はあるわ」
時計が取り払われると、カウンターの上には何もない空間が生まれる。何を指示されているのかは、よく分かっていた。
時計の針はたしかに開店時間までまだまだ時間があることを教えてくれている。ああ、時間は確かに戻っている。カレンダーの月日は、いつの間にか本来の今日の日付になっていた。
ほっとしながら霊の指示に従ってカウンターへと向かうと、霊は時計を傍に置いて迫って来た。開店までまだ時間があるのだから大丈夫。そんな言い訳をしながら、私は彼女の誘惑に甘えた。