後編
翅人青年の姿をしたフラーテルを目撃した。
その情報を最初に寄越したのは、無花果だったそうだ。彼の家の者が白妙の家に連絡を入れた。早急に調査して欲しいと。
白妙はしばらく独自に調査していたそうだけれど、死霊というものは魔物の存在を警戒し、姿を見せたがらない事も多い。死霊の犠牲になるのは人の血を継ぐ者であるからだ。
だから、白妙だけではどうしようもなく、曼殊沙華の家に連絡が入ったらしい。それは奇しくも、〈ブネ〉が戻ってくると決まった日の事だった。
「今回のフラーテルだが、無花果氏の屋敷で目撃されて以降、この町を転々としていたそうだよ」
フラーテル退治の翌日、店を訪れた笠はそう言った。
「しかし、彼の姿はいつでも目撃できるわけではない。一人きりになった人間や魔族の前に、捕食のためにしか現れない。そのため、曼殊沙華の家に協力する翅人たちが体を張って囮になりながら情報を集めていたそうだ」
「随分と物騒な事をしていたのね」
霊の言葉に、笠は頷いた。
「協力してくれた翅人の中に、彼の知人がいたらしくてね。フラーテルに囚われた魂を、どうにか救ってやりたかったらしい」
「そう。それなら、〈ブネ〉は本当にいい仕事をしたわね」
そう言って、霊はケース越しに〈ブネ〉を一撫でした。
一晩すぎたことで、私もまた少し気持ちが落ち着いてきた。
確かに、いい仕事をしたのかもしれない。
かつて、この店に死霊が現れた際は、ただただその死霊を潰すしかなかった。死者が何を望んでいるのか、どうして欲しいのか、そんな事を確かめることも出来ないまま、死霊であるだけを理由に潰すしかなかった。
それは仕方のない事であるし、間違った事だとは決して思わない。けれど、だからと言って、葛藤が全く生まれないというわけではない。
本当に、彼らは望んでいるのか。
これで、良かったのか。
その意思を確認できないという事が、どれほど怖い事か。
だからこそ、〈ブネ〉は望まれ、誕生し、今に至るのだろう。これは決して死霊退治に便利なだけの武器ではないのだ。その意味、必要性が今回の事で私はよく理解できた。
「うん、実際、感謝していたよ」
笠は言った。
「それにね、今回の事を引き受けたことで、結果的に曼殊沙華にとっては良い風が吹いてきている。白妙のお狐さん方は相当困っていたのだろうね。雷様がやや大胆に出ても、引き下がったりはしなかった。そのおかげで、銭だけの事じゃなく、彼らがこれまで黙っていた情報……例えば、七歩蛇の事なんかも結構引き出せたそうだよ」
「気になるわね」
霊の問いに、笠は腕を組みながら頷く。
「ああ、そうだろうと思って、俺もいくつか聞いてきたんだ。あんたらに聞かせてもいい話だってさ。むしろ、入れておいてくれって話でもある」
「そう言われると、少し聞くのが怖い気がする」
霊の言葉に笠はにやりと笑う。
「まあ、そう言うなよ。聞いておかねば損をするぞ。なんたって、これは、あんたらの安全にまつわる話でもあるからね」
「安全?」
思わず問い返してしまった私に、笠はやや大袈裟に頷いてみせた。
「今回の件、最初にフラーテルを目撃したのは無花果氏のお屋敷の者だと言ったよな。それにまつわる話だ」
一気に不安になってきた。
姿を消す〈グラシャラボラス〉を勝手に使い、かのお屋敷に侵入した日からはそう遠くない。あの反応から察するに、霊は見抜いていただろう。しかし、あの時の事を私はまだ霊にはっきりと話せずにいるのもまた確かだ。
それが後ろめたいからだろうか。無花果にまつわる話というだけで、私もまた聞くのが怖いような気がしてきた。
そんな私を余所に、笠の話は進んでいく。
「かのフラーテルが現れたのは、無花果氏のお屋敷の敷地内の事だったそうだ。知っての通り、死霊ってのは何処にでも現れるように見えて、実はそうではない。彼らが現れる場所にはだいたい決まりがあるもんだ」
「その魂に縁のある場所。或いは、縁のある人の前」
霊の呟きに、私もまたハッとした。
飛蝗に縁のある場所。それは、彼の魂を死霊から解放したあの通りもそうだ。では、無花果氏のお屋敷もそうだろうか。いや、違うだろう。私には分かった。フラーテルが現れたその場所は、きっと。
「どうして無花果氏のお屋敷にフラーテルが現れたのか。どうしてその事で無花果氏は白妙のお家を頼ったのか。それらを我らが曼殊沙華の鬼神様たちがやや強めにお聞きなすったのさ。その事情次第で手伝えるかどうかが決まるってな。それで、奴らは観念し、全てを話したんだ。それで、認めたんだってさ。奴らはね、花売りの一族と繋がっていた。その一族は……」
「飛蝗さんの実家ですね?」
思わず口を挟んでしまった。そんな私の言葉に、笠はこくりと頷いた。
やはり、雛芥子から聞いた通りだ。
「雛芥子。その名前を知る曼殊沙華のお方もおられるらしい。雷様などがそうだ。自由を愛する魔女でね、〈赤い花〉ではあるが恵まれた魔術の才能を武器に長い事、奔放に生きていたらしい。だが、それを白妙は良しとしなかった。蛇神を讃える七歩蛇の動きが怪しい。おまけに、彼らは自由奔放に生きる雛芥子を狙い始めた。なのに、雛芥子は協力的な態度を取らない。それで、魔女捕獲のプロの花売りに依頼がいったってわけだ」
そして、飛蝗の一家は雛芥子を捕らえることに成功する。
〈モラクス〉のお陰で。
「いくら七歩蛇の事があって、彼女を保護したいからと言って、花売りにそれを依頼することは褒められた手段ではない。少なくとも乙女椿国の法を重んじる曼殊沙華の家では考えられないだろうさ」
笠は言った。
「だが、相手はあの白妙だ。乙女椿の法が出来るよりずっと前から、彼らは神としてこの土地を守ってきた。人間たちが中心となって決めた法を守ることの重要性がどうも分からないらしい」
「彼らにとっては、望みの結果さえ得られればいいわけね。その手段がたとえ、褒められたものでなかったとしても」
霊が言った。
「そのくらい、切羽詰まっているという事でもある。白妙と七歩蛇との対立は長いの?」
「長いそうだよ。だが、下火だった時代もある。ここが開拓され、遠い地を守っていた曼殊沙華の一族の祖が越してきたばかりの頃や、舞鶴や銀箔といった華冑の一族が来た頃は、警戒して動きも鈍ったという。だが、それから百五十年近くは経っている。その上、七歩蛇の頭が変わってから、動きも精力的になったそうだ」
「白妙から見て、悪い状況ってわけね」
頬杖を突き、霊は溜息を吐いた。
「だが、これから良くなる可能性もある」
笠は腕を組みながら言った。
「曼殊沙華の一族は、この先、白妙に情報提供を要請した。目的は同じだ。彼らだって蛇神信仰の復活なんて望んではいない。幽ちゃんやその他、〈赤い花〉の者たちが食われるかもしれないと聞いて、黙っているわけにはいかないからね。だから、心配はいらないよ」
きっと曼殊沙華の一族を、それだけ信用しているのだろう。けれど、笠の励ましがあっても、その後もずっと、気持ちは重たいままだった。
それに、今の私には覚悟を決めねばならない事が一つあった。
「霊さん」
笠が帰った後、店じまいの時間となってから、私は霊に向かって言った。
「話したいことがあるんです」
「何?」
静かに問い返してくる彼女の目はやや赤い。食事時ではないはずだ。興奮気味なのか、苛立ち気味なのか、いずれにせよ威圧的なのは確かだ。
だが、私は勇気を振り絞って、彼女に向かって答えた。
「〈グラシャラボラス〉の事で、お話があるんです。少し前の話です」
「なんだか聞きたくないわね」
そう言って背を向けてしまった。
「お願いです。一度ちゃんと聞いて欲しいんです」
すると、霊は振り返りもせずに言った。
「あなたがあの子や〈マルティム〉を勝手に使った事。私の元から勝手に離れた事。よりによってあのキツネのニオイのする場所に行った事。それについてはもう許してあげる。でも、あまり思い出したくないの。あなたがあんな恐ろしい事をするなんて。あなたの存在を、忘れそうになるなんて。怖かったのよ」
「……ごめんなさい」
ただただ謝ると、霊はちらりと振り返ってきた。目はもう赤くない。
「もうしません」
その目に向かってそう言うと、霊は目を細めた。
「いいわ、信じましょう。いずれにしたって、私とあなたの関係は一時の感情なんかでは解消されない。覚えておいて、幽。あなたが無茶をして命を落とすような事があれば、主人にされてしまった私もまた深く傷つくことになるの。その魔術をかけたのはあなたなのよ。もっと自覚をもってちょうだい」
「──はい」
素直に頷くと、霊は少し満足したのかこちらに体を向けた。
「で? どんな話なの?」
彼女の言葉に、私は少しだけ安堵し、語りだした。
〈グラシャラボラス〉と〈マルティム〉を使い、無花果の屋敷に行った事。そしてそこで目撃した全ての事について。
「とんだ下僕ね」
全てを語り終えると、霊はそう言った。
「主人の目を盗んでそんな危ない橋を渡ってきたなんて。でも、いいわ。もうしないと約束してくれたから。私はそれを信じる。信じた上で、命令する。二度としないで」
「……分かりました」
はっきりとした命令だった。
これでもう二度と、あんな大胆な事は出来ないだろう。
「さて、今の話を整理しましょうか。あなたが会ったのは、確かに雛芥子という魔女だった。彼女を捕らえさせたのは白妙。笠が持ち込んだ話を裏付ける事になるわね」
「雛芥子さんは、曼殊沙華の事を把握していました。霊さん、あなたの事も」
「自由を愛する魔女だったかしら。私の方はよく知らないけれど、自由に生きるためには情報もたくさん必要だったのでしょう」
「曼殊沙華の人たちとはうまく付き合っていたそうです。でも、白妙は違ったって」
「それで今に至るわけね。飛蝗さんが命を落とす結果にも繋がってしまった」
「霊さん、雛芥子さんをあのままにしておいたら良くないです。あの人の魔女の性は自由を望んでいる。でも、あの座敷牢みたいな場所では満たされない」
「そうね。そのまま放っておけば、最悪の場合は死んでしまう。うまく行けば、人間らしい食事をして、人間らしく年を取りながら生きながらえるかもしれないけれど」
だが、それが可能だろうか。
私の記憶の中にいる雛芥子は、やつれていた。
「白妙が何を考えているかは分からない。でも、もしかしたら、悪い考えだけれど、あのまま衰弱死させてもいいとまで思っている可能性もある」
「……どうして?」
「彼らの目的を思い出して。あくまでも、〈赤い花〉の心臓を蛇神に捧げられないための保護。捧げられなければそれでいい。そう考えたとしても、おかしくはないわ」
「そんなの駄目です!」
思わず声を荒げてしまい、私は俯いた。
焦っているみたいだ。どうしようも出来ないから。そんな私に霊はゆっくりと近づいてきた。そして、腰に彼女の手が回り、ため息と共に抱き寄せられた。
「焦る気持ちは分かるけれど、ここは慎重にならないと。今の話が確かなら、あなたが無花果氏のもとで見たのは、雛芥子や百花姐さん、釧だけじゃなかったのでしょう?」
「……はい」
桔梗。その衝撃と姿を今でも覚えている。
「けれど、見間違いかもしれません」
「楽観視するのは危険よ。何故、あなたの友達が、自覚のないはずの魔女が、無花果氏の屋敷にいたのか。そこも含めて情報を集めた方がいい」
「雛芥子さんの事は……?」
「その後で決めるの。曼殊沙華の家に相談しながらね」
歯痒いものを感じてしまうのは、飛蝗との約束があるからだろう。
フラーテルに囚われ、解放された彼の魂はもう戻ってこない。それでも、この世に遺された最後の願いは、私の脳裏にこびりついたままなのだから。
それでも、霊に抱き寄せられていると、少し興奮が落ち着いてきた。分かっている。彼女の言う通りなのだと。無茶をして動くよりも、そうする方が望みの未来への近道になり得るのだと。
冷静にならないと。
決して、悪い状況ではない。
むしろ今回の件で、大きな一歩が踏み出せたはずだ。〈ブネ〉のお陰で、飛蝗の遺した思いが報われる未来が来るかもしれないのだから。
「落ち着いた?」
霊に優しく問われ、私は小さく肯いた。
すると、霊は私の顎を持ち、そっと囁いてきた。
「それなら、そろそろ晩御飯をいただくわ」




