中編
電話が鳴りだしたのは、夜中と言っても過言ではない時刻の事だった。
寝静まった時間になる黒電話の音は少し不気味だ。散々血を抜かれて動けない私を置いて、霊がため息交じりに立ち去っていった後、訪れる孤独感が不安をさらに掻き立てた。
何の連絡だろう。このような時刻に連絡が来るとすれば、曼殊沙華の家に他ならない。その予想は当たったようで、戻ってきた霊は開口一番、私に告げた。
「明日は臨時休業になりそう」
「曼殊沙華からですか?」
「ええ。駆り出されることになったの。あなたも連れて行く。ここで留守番させるよりも、その方が安全そうだから」
「安全?」
問い返すと、霊は少し迷いつつも頷き、寝そべったままの私の横に座り込んだ。
「さっそく〈ブネ〉の力を借りる時が来たの。向こうもそのつもりらしくて」
「という事は、相手は死霊なのですね?」
「そういう事よ。前にも言った通り、死霊たちは本能として〈赤い花〉に惹かれて現れ、襲う事がある。この店にも表れないとは限らない。私のいない隙に現れたらと思うと気が気でないの。だから、来てもらう」
「……分かりました」
元より、私に選択できる答えは一つしかない。
主従の契約がある以上、霊が来いと命じるのならば、行く以外の選択は出来ない。それに、私としては、ただ待たされるよりも霊の傍で共に戦える方が嬉しかった。
しかし、相手が死霊というのは少し不穏だった。かつて、一年ほど前に、この店に少年の姿で現れたフラーテルの事を思い出してしまうからかもしれない。
「決まったからには早く寝ないとね」
「血は足りていますか?」
戯れに問いかけると、霊はじっと私の顔を見つめてきた。
そして、そっと身を屈めると、首筋に触れてくる。散々噛まれた後の傷が疼いている。私の心臓はまだまだ彼女を欲しているらしい。その心の火照りがどのくらい伝わったのかは分からない。ただ霊は静かな声で、私に囁いてきた。
「あと少しだけ足りないかも」
直後、僅かな痛みが走り、そのまま私は吸い込まれるように眠りについた。
幸福感に満たされた夢を見た後で、すっきりとした目覚めを迎えた私は、霊に連れられて店を後にした。
向かう先は、曼殊沙華の家から指定された区域だった。とりとめもない街角の通り。だが、その場所に足を踏み入れた時、私は息を飲んでしまった。自ずと後ずさりをしてしまう。そんな私の様子にいち早く気づき、霊はそっと手を握ってきた。
「大丈夫」
小さくそう言われる。だが、私の躊躇いは薄れなかった。
そこは、覚えのある場所だった。嫌な記憶と共に、忘れたい記憶と共に、脳にこびりついた景色だった。
忘れもしないこの通り。賑やかさとは無縁の寂しいこの通り。
数か月前、私はここで恐ろしい体験をした。運命に抗おうと藻掻くも虚しく、命をもぎ取られていった飛蝗。彼が命を落とした場所こそ、まさしくこの場所だった。
「霊さん……これって……」
体が無意識に逃げようとする。だが、その時、振り返ってくる霊の背後に、ふらりと人影が現れたのだった。
「あ……」
それは、青年だった。気弱な青年のような見た目。人間と変わらぬ姿をしているが、彼が翅人であることを私は知っている。魔族特有の緑のオーラを見抜くまでもなく、私は確かに彼を知っていた。
彼は私を見ていた。ここで命を落としたあの時と同じように。ひょっとして、生きていたのだろうかと思ってしまうような姿。そうだ。私は彼が命を落とす瞬間を見ていない。霊に止められたからだ。だから、もしかしたら──。
その可能性を信じようとしていることに気づき、私はすぐに思い直した。何故、私はここにいる。ここに呼ばれた。何故、霊と共にここに来たのだっただろう。曼殊沙華の家は何を命じてきた。その全てを自分に言い聞かせてしばらく、私はようやく現実を受け入れる事が出来た。
彼は、飛蝗と同じ姿をしたその青年は、本物の飛蝗ではない。
フラーテルだ。
「お久しぶりです、幽さん」
彼は私たちを見つめ、そう言った。
「覚えていらっしゃいますよね。僕が死んでしまった日の事。あれから随分経ったようですが、僕はこの通り。ぴんぴんしています」
にこりと笑いかけてくるその顔は、生きていた時と変わらなかった。
偽物だ。彼は飛蝗ではない。そう言い聞かせようとしても、衝撃の方が勝った。前に死霊と対面した時と同じだ。だが、それよりもずっと動揺していた。知っている者だったからに他ならない。それでも、これほどまでにショックが大きいなんて。
「どうしたんですか? そんな顔をして」
飛蝗は──フラーテルはそう言った。きょとんとした表情も、まるで何事もなかったかのよう。いや、そんなはずはない。
怯える私の顔を見つめてから、霊は前へと目を向ける。
「あっちね」
その呟きで私は気づいた。霊には見えていないのだ。
──じゃあ、やっぱり。
「姿を見せなさい、フラーテル。隠れても無駄よ。あなたが偽物だという事を、この子はもう知っている。騙すことは出来ないわ」
霊の呼びかけを聞いて、フラーテルは澄まし顔で首を振った。
その瞬間、霊の視点が定まった。ようやく姿が見えたのだろう。
「偽物、ねえ」
彼は言った。
「どうして、僕が偽物だなんて言えるのです。何も知らないくせに」
「あなたが死霊であることは知っている。その人の魂を解放しなさい」
静かに怒る霊の言葉に、フラーテルは笑みを返した。
「今の僕がフラーテルであるからと言って、本物ではないなんてどうして言えるのです。僕はあなた達を覚えている。ここであった事も覚えています。あなた達は僕を救えなかった。抗ってくれたことは感謝していますけれどね。でも、駄目だった。僕の肉体は怪物に貪られ、激しい苦痛と共に命は奪われた。思い残したことはいっぱいあります。やり直したいこともいっぱいあります。そのために、僕はここにいる」
「あなたにやり直す事なんて出来ない。あなたはフラーテルなの。飛蝗さんじゃない。飛蝗さんのやり直したことを言ってごらんなさい。その通りに出来るはずがない」
「そうですね。確かにそうかもしれない」
フラーテルは素直に同意し、こちらに笑いかけてきた。
「僕の最後の願いは、償いでした。〈モラクス〉のせいで囚われてしまった雛芥子さんを救ってやりたい。その願いを同じ〈赤い花〉の幽さんに託したのです。ですが、蘇る過程で色々と考えました。そして結論に至ったのです。邪な者たちは、今も〈赤い花〉を狙っている。そんな彼女らを守るには、先に僕が摘み取って、安全な冥界に連れ去るしかないのだと。まずは、あなただ。幽さん」
「ほら、来た」
霊は小さく呟いた。
「幽、しっかりしなさい。あの人はフラーテル。あなたの知っている飛蝗さんじゃない。あなたの命を狙っているのよ」
「分かっています……分かっていますけれど……」
けれど、私はまだ動揺から抜け出せずにいた。
言動はおかしい。本物の飛蝗ならば、私に危害を加えたりなんてしないだろう。けれど、それでも、姿も声も同じなのだ。ひょっとしたら元に戻るのでは、なんて希望を捨てきれない。怖かった。そんな彼に魔術を向けるのが。
「霊さん……私……できません」
体が震え、涙が零れていく。そんな私の様子を霊は予想していたのだろう。大して呆れたりもせずに手を強く握り、静かに言った。
「大丈夫。端からあなたにやらせるつもりなんてなかったから」
そして、霊は素早く動く。手に取るのは首から下げていたホイッスルだ。〈ブネ〉だ。その存在を思い出す。程なくして甲高い音が響き渡った。
〈ブネ〉の音が私たちの時を止める。そして、一頻り音を鳴らした後で、霊は口を離し、飛蝗の姿をしたフラーテルに向かって告げた。
「飛蝗さん、聞こえる? 聞こえているのなら、教えて。本当のあなたはどうしたいの? このままフラーテルとしてあり続けたいのなら、私が相手になりましょう。けれど、そうでないのなら、今こそ意思を示しなさい」
その直後、沈黙が訪れた。
フラーテルが棒立ちになる。無表情でこちらを見つめてくるその姿は、まるで人形のよう。先程までのような生き生きとした姿ではない。一言でいえば不気味だった。そして、同じく不気味な色を湛えた目でこちらを見つめてきた。
その瞬間、私の脳裏には記憶が蘇ってきた。生前の飛蝗さんの声の記憶だ。それらは反響し合い、少しずつ言葉を紡いでいく。聞き取りづらく、受け取りづらい。それでも、耳を澄ませていると、何を言っているのかが段々と分かってきた。
いやだ。
そう言っているように思えた。嫌だ。何が嫌なのか。肝心なのはそこだ。けれど、心配なんていらなかった。飛蝗の声はその後も反響し合い、はっきりと、聞こえてきた。
フラーテルなんていやだ。
その言葉が聞こえてきた直後、辺りは急に静かになった。操り人形の糸が切れたようにフラーテルはぐったりとする。だが、すぐに異変は起こった。
「う……うぐ……ぐぐ」
うめき声が聞こえ始めたかと思うと、彼は苦しそうに藻掻きだした。知っている顔が藻掻く様は見ているだけで恐ろしい。
けれど、相手はフラーテルだ。フラーテルなのだ。そう自分に言い聞かせていると、飛蝗の姿をしたフラーテルは仰け反りだす。悲鳴をあげたかと思うと、体の輪郭がぐにゃぐにゃと歪みだす。そして、彼の姿は砂像のように色を失い、崩れ落ちていった。
死霊を崩す。
その言葉の意味を私は目の当たりにした。
後には死体も残らない。そこに彼がいた事が幻であったかのように、残された塵も風に攫われて消えていく。
「飛蝗さん……」
その名を呼び掛けた時、風向きが変わった。向かい風の冷気が、私の頬を撫でていく。流れ落ちた涙の感触に気づき、慌てて手で拭った。しかし、きりがなかった。涙は止まらなかったし、動揺も止まらなかった。
そんな私を振り返ることなく、霊は言った。
「これで良かったのよ」
落ち着いた声だった。
「彼は解放された。もう二度と、フラーテルに囚われたりしない。蘇りもしない」
「……はい」
頷く他なかった。霊の言う通りなのだろうから。だから、自分に言い聞かせようとしていたのに、涙は止まらない。きっと枯れ果てるまで流れ落ちるつもりだろう。それに、こうなって尚、まだ諦めきれていないのだ。
死者は戻らない。戻ってこない。それを戻ってくるように錯覚させるのが死霊であるのだと何でも知っている古書〈アスタロト〉がかつて教えてくれた。
フラーテルは飽く迄も再現しているに過ぎない。それは、本人ではなく、偽物なのだ。同じ材料で作っただけの、偽物。それを、〈ブネ〉は正してくれただけ。文字通り、死者と交流する事によって。
「飛蝗さんの魂が拒んでくれてよかった。そうでなければ、あなたにもっと辛い思いをさせることになったから」
手を握ったまま、霊はそう言った。
気遣うようなその言葉を聞いて、私はようやく涙の全てを拭うことが出来た。
「私は……大丈夫です」
どうしても震える声で、けれどしっかりと私はそう言った。




