前編
もしも、死者と話をすることが出来たなら。
そう願ってしまう事は誰しもあるだろう。
私もそんな願いを抱いたことはあった。
母が亡くなった時だ。絶望しかなかった。
たった一人で、どうやって暮らせばいいのか、分からなかった。
それでも何とか生きる事が出来てきたあとでも、ふとした瞬間に私は、亡き母の夢を見てしまうことはよくあった。
この店で働き、霊と共に暮らすようになって以降は、そんな事を考える機会もめっきり減っていった。母の事よりも我が主人の霊のことを考える時間の方がずっと多いし、これから先もますます減っていくのだろう。
けれど、ここ最近の私は、死者の夢をよく見ていた。
母ではない。飛蝗の事だ。彼の最期の瞬間を、私は見ていない。覚えているのはおぞましい物音と気配。そして、その様子を見せまいという意思を感じた霊の強い力だけ。それでも、それだけでも、彼がどうなってしまったのかは、すぐに想像できた。
もしも幽霊というものが本当にいるならば、飛蝗はどう思っているだろう。
今のこの状況。雛芥子らしき人物がいれども助け出せないこの歯痒い状況を、どう感じているだろう。
そんな事を気づけばふと考えるような今日この頃において、この度の出来事は、私としてはタイムリーなものだった。
「死者と……交流できる?」
思わず問い返した相手は、笠である。相変わらずの狸姿で寛ぎながら、笠は蘭花のテーブルの上で腕を組む。
目の前に置かれているのは高貴なケース。その中に入っているのは、細長い銀色のホイッスルだった。形状は犬笛に似ている。
「名前は〈ブネ〉よ。もともとはうちの店にあったの」
霊の説明を聞いて、私はふと気づいて近くに置かれていた帳簿を手に取った。
中には古物のリストが記されている。その中には確かに〈ブネ〉という名前もあった。ホイッスルで、効果は死者との交流と書かれている。そして、ランクは──。
「ランクB? 貸出出来ないはずでは?」
「ええ、そうね。そうだけど、今回は例外だったの。何しろ、曼殊沙華のお家のご命令でしたからね」
「〈ブネ〉はな、ついこの間まで海を渡った先にいたんだ」
笠が続けて言った。
「何でも、リリウム市国からの要請だったとか。あそこの教皇様とやらのお膝元にいる聖戦士とかいう身分のお方がね、この古物の存在をどこかで知ったらしくてお便りを送って来たんだってさ。わざわざ乙女椿語まで使ってね」
「そもそもの話、〈ブネ〉はリリウム市国のものだったという説もあるの。それが何故だか人の手を渡りに渡ってこの国へ。そして、私の元に来たってわけ」
「と言っても、確かな記録があるわけじゃないんだけどな。だからこそ、あちらさんも返してくれなんて言えず、売れないならせめて貸してくれと言うのが精一杯だったらしい」
それほどまでに求められたという事だ。
「あの、具体的にどういう効果があるんですか?」
私が訊ねると、霊は〈ブネ〉を手に取ってから微笑みつつ答えた。
「これはね、死霊と深い関わりがあるの」
「し、死霊?」
思わぬ言葉にびくりと震えてしまった。脳裏に蘇るのは、今から一年ほど前に目にした光景である。
この店で今も保管されている金印の〈サミジナ〉を欲しがっていた少年。その顔は今も思い出せる。生きているとばかり思っていた彼は、すでに亡くなった人物で、しかも魂を乗っ取られていたのだ。
死者を冒涜するその存在こそ死霊。亡くなった人物の魂を利用し、この世を彷徨い始める恐ろしい存在である。
女性はソロル。男性はフラーテル。いつもは冥界と呼ぶべき場所にいるという彼らが、そこまでして生者の世界に現れたがる理由は諸説あるが、その有力な説とされているのが、古くからの〈赤い花〉との因縁だという。
「リリウム市国にはな、いつだって聖女がいるんだ。幽ちゃんと同じ〈赤い花〉を宿したお方でね、向こうの治安を守っているらしい。だが、その聖女様を狙って死霊がたびたび現れるそうでね」
「一人、二人なら戦ってすぐに倒せるらしいのだけれど、今回はちょっと状況が違ったのですって」
霊がため息交じりに言った。
「この世に現れる死霊にはね、必ず縁者の候補というものがいるの。死んでほしくなかった。蘇ってほしい。そう願っている遺族がいれば、死霊たちは死者の皮を被って目の前に現れる。そして手を伸ばして取引を持ち掛けるのよ。これからまた一緒に歩みましょうって」
ぞっとする話だ。そう思うのは、死霊というものが何なのかを分かっているからだろうか。偽物だと分かっているから、私はそう思う事が出来ている。
しかし、そうでなかったら。或いは、そうだと理解することすら難しいくらいに悲しみが深かったとしたら。
「手を取ってしまうと、どうなるんですか?」
「その縁者っていうのになるらしい」
笠が答えた。
「縁者を手に入れた死霊は恐ろしく厄介な存在になるそうでね。死霊たちの統領として君臨し、次々に仲間を増やして生者の世界を乗っ取ろうとし始めるんだってさ」
「……じゃあ、今回もそんな事情があったんですね?」
〈ブネ〉を見つめながら呟くと、霊は静かに頷いた。
「そういうこと。でね、この〈ブネ〉は、うまく使えば死霊たちを根本から崩してしまうことが出来る強力な武器となるの」
「根本から?」
「ええ。そもそも死霊がこの世に存在できるのは、亡くなった人の魂を得るからとされている。その人の悔い、この世に遺してきた人への想いなどを利用して、彼らの記憶と感情を魂ごと乗っ取ってしまうの。そして、女性ならソロルに、男性ならフラーテルになる。けれど、もしも素となった魂が彼らを拒絶したら? そこを突くのがこのホイッスルなの。これを吹いてから唱えれば、死霊の中に眠る本来の魂に呼びかけることが出来る。その人物が拒絶してくれれば、死霊はそこにはいられない」
「量産できるようなもんじゃねえ。恐らく〈神の手〉とかいう心臓を持つ魔人の発明家が、およそ五十年ほど前に作ったらしいのだが、二つ目なんて存在しない貴重な代物だ」
「それに、確実に死霊を崩せるというわけでもない。成功するかどうかは素となった故人がどういう人物だったかに左右されるから」
つまり、故人が全ての破滅を願うくらいこの世に恨みを遺していたりすれば、或いは、死霊になることを拒んでいなければ、〈ブネ〉は効果を発揮できないという事なのだろう。
「それと、厄介な点もあってね」
笠が言う。
「ホイッスルを吹けば、死霊を崩せずとも思いのままに操ることが出来るんだが、それを悪用することもできてしまうんだ。縁者という身分でなくとも、いや、何なら縁者以上に死霊たちを従えられる代物っていうわけで、悪意のある者の手に渡らせることは避けなければならない。だから、ランクBというわけさ」
「今回はさすがにそんな事にはならないだろうという事で特別に貸し出したわけだけれどね。無事に戻って来てくれてよかった」
霊はそう言うと、〈ブネ〉の様子を軽く確認してケースにしまった。その所作からは〈ブネ〉に対する愛情が見て取れた。心からその無事に喜んでいるらしい。いつもながらモノには優しい人だ。だが、そんな彼女も美しくて好きだったりする。
「さて、これが返ってきたということは、解決した、もしくは役に立たなかったかの、いずれかという事になるけれど」
探るように言う霊に対し、笠は狸の顔に笑みを浮かべて答えた。
「安心しな、〈ブネ〉はよくやってくれたってさ。縁者を手に入れた死霊の女王を根本から消し去ったって話だ。縁者は意気消沈し、そのまま拘束。仲間だった死霊たちも消え去ったのだとか」
「そう、それは良かった」
何処か冷めた声で霊は言った。
そのやり取りを見つめながら、私はふと顔も名前も知らない遠い国の縁者という人物について思いを寄せた。
死者は蘇らない。魔物の世界に疎く、或いは信じない並みの人間だったとしても、その残酷な事実は揺るがない。縁者というほどなのだから、亡くなった者が本人ではないという事くらい、分かっていたことだろう。
でも、その人物は手を取ってしまった。それほどまでに、悲しみは深かったのだろうか。
「おかげで、これからは気がねなく〈ブネ〉の力にも頼ることが出来そうね」
「ああ、死霊はいつだって潜んでいるからね」
霊たちの会話を横で聞きながら、私は静かに〈ブネ〉へと視線を向けた。
このホイッスルが鳴った時、遠いリリウム市国ではどのように死霊たちは消えていったのか。しばらくその想像が止まらなかった。
笠が帰り、閉店時間となった後、〈ブネ〉のケースを戸棚にしまう際に、私はふと霊に話しかけた。
「死霊ってどうしているんでしょうか」
「前にも言ったかもしれないけれど、それは、人間や魔女、吸血鬼がこの世に存在する理由とそんなに変わらないわ」
軽く笑って戸棚に鍵をかけると、霊は私の前へと歩み寄ってくる。
戸締りはすでにしてある。カーテンで仕切られ、照明の落とされた店内は暗い。その中で、彼女の目は赤く光っている。
その手で力強く私の肩を掴むと、霊は囁くような声で言った。
「存在している以上、備えはどうしたって必要。〈ブネ〉が戻って来てくれて本当に良かった。これがあれば、奴らがあなたに目を付けても少しは安心できるわね」
その言葉に少しだけ震えが生じる。
「聖女とは程遠い私でも、やっぱり死霊たちは目を付けるものなんですか?」
「そうよ。それが彼らの本能でもあるそうだから。最後の〈赤い花〉を摘み取り、冥界の花瓶に入れてしまうまで、狩りつくすつもりなのでしょう。実際、彼らの暗躍で〈赤い花〉は絶滅寸前にまで追いやられた時代もある。〈赤い花〉は〈赤い花〉からしか生まれない。一度滅んでしまえば、もう取り返しがつかない。危ないところだったそうよ」
だから、〈赤い花〉は魔女でありながら魔女を拒む時代においても過剰に保護された時代もあるらしい。〈アスタロト〉が前に教えてくれたことがある。リリウム市国こそ、その一つだ。古い時代には聖女としてもてはやし、一時は魔女として討伐し、そして近年はその血を絶やすまいと保護を続けている。現在いる聖女もまた、その血筋のものなのだろう。
「どうして、そこまで憎まれているのでしょうね……」
呟いたその直後、霊の手が私の腰に回ってきた。その力強さに切実としたものを感じ、欲望がこみ上げてくる。魔女の性がじわじわと私の理性を蝕み始めていた。霊が血に飢えている。美しい顔の下で私の血を欲しがっている。その気配が、私の心臓を喜ばせていた。
「憎むというよりも、本能ってそういうものなのでしょうね。何故、吸血鬼が血を吸うのか、何故、あなたが今宵も痛めつけられたがっているのか、そこには複雑な理由なんてないでしょう?」
軽く牙を当てられて、私は息を飲んでしまった。
すでに、思考は止まりかかっていた。体は、心は、そして心臓は、すっかり準備が整っていた。そんな私を愛撫しながら、霊はようやく噛みついてきた。
声を押し殺し、その体にしがみ付く頃には、もうそれ以上の事は考えられなくなっていた。




