後編
さて、百花魁に見つからなかったのはいいけれど、廊下を歩く間、私は生きた心地がしなかった。
いくら〈グラシャラボラス〉を信じていると言っても、万が一ということはある。もしも、ここに居ることがバレてしまったとしたら、私はどうなるのだろう。
わざわざ考えてはいけない悪い予想が頭を過り、身が竦んでしまう。
けれど、怖いからこそ、早く帰らなければ。私がするべきことは、誰も見ていないような場所の扉を探し、〈マルティム〉を使う事だった。
以前のように一回使った程度で倒れてしまうような事はなくなったけれど、あまり時間をかければ、力尽きてしまう恐れもある。だから、速やかに探さなければならなかった。
しかし、そんな私の焦りも、ある曲がり角を曲がったところで、ふっと消え去ってしまった。
焦っていたにも関わらず、視界の端に映り込んだものに、足止めされてしまったのだ。それは、人影だった。
視界の端だから、はっきりと見えたわけではない。だから、見間違いだってこともあり得ただろう。それでも、私は立ち止まって凝視してしまった。
なぜなら、その姿がある人物によく似ていたからだ。
──桔梗?
そう、その姿は私の親友でもある桔梗によく似ていた。
あり得ない。だってここは一族の屋敷であるのに。偶然に偶然が重なり、たまたま何かの用事があって、奇跡的にここに居合わせたのだとしても時間帯的にもおかしい。
見間違いだろう。体格のよく似たお手伝いさんじゃないのか。そうは思ったのだが、確認せずにはいられなかった。すぐに視線で追うが、その人物は小走りに廊下を去っていく。後ろ姿は、やはり桔梗に似ている気がした。
私は追いかけた。迷う暇すらなかった。違うという事をきちんと確認しなければ、帰る気にすらなれなかった。危ない事だという警戒心も、今の私にはあまりにも無力だった。ただただ、その人物の顔を見たい一心で、私は追いかけたのだ。
だが、奇妙な事はさらに起こった。その人物が廊下の突き当りを曲がったところで、忽然と姿を消してしまったのだ。曲がったはずの先はこれまた長い廊下が続いている。
おかしい。
私は息を飲みながら、さらにその先へと進んでいった。
慎重に歩んでいき、ふと、さらに前方の襖が少しだけ開いていることに気づいた。あの先に入ったのだろうか。音を立てずに忍び寄り、私はそっと少しだけ開いている襖の間を猫のようにすり抜けて中へと入っていった。と、その途端、中にいた人物が驚くように振り返った。追いかけていた人物ではない。だが、覚えのある人物だった。
無花果の身辺警護を任されている口犬の一員。釧だ。
「え……いや、そんなまさかな……」
彼は困惑した様子でそう言うと、今一度、私の居る場所をじっと見つめてきた。そして、恐る恐ると言った様子で口を開いた。
「いや、やっぱり勘違いじゃない。幽、だよな?」
間違いなく名指しされ、思わず息を飲んでしまった。それが返答となってしまったのだろう。今度は目と目が合ってしまった。
「どうしてここに?」
「姿が見えるの?」
問いに問いで返すと、釧は頭を掻きながら答えた。
「今見えた。いったいどんな技を使ったのか知らんけど、こりゃまた随分と危ない橋を渡らされているんだな。それとも、勝手に渡っているのか。いずれにせよ、旦那に知られたらどうなることか」
「お願い、釧。黙っていて」
懇願する私に、釧は頭を掻きながら言った。
「参ったな。さすがに友人を売るわけにはいかんからね。だが、幽、俺はそうでも他の連中は違う。一体どうしてこんな場所まで入り込んできた。探し物でもしているのか?」
探し物。そう言われ、私はとっさに彼に尋ねたのだった。
「ねえ、釧。桔梗って人、知っている?」
「桔梗?」
「私の友達なの。本当は魔女だけれど、多分、本人はその事をまだ知らないはずで……。でも今ね、彼女によく似た人を見かけたの。でも、そんな話聞いたことないし、きっと勘違いだと思って、でも、確認しておきたくて」
気が急いているのか、言葉がうまくまとまらなかった。
そんな私を前に、釧は困ったように頭を掻き、はっと我に返ると立ち上がって襖から廊下の様子を窺い、ぴしゃりと閉めてから私に言った。
「お友達が気になるのは分かったが、今はそれどころじゃない。いいかい、幽。お前になにかあったら、俺はきっとどこかの美人吸血鬼の怒りを買い、世にも珍しい山犬の毛皮として闇市に並ぶことになるだろう。ってことだから、誰か来る前にさっさと帰ってくれ」
「で、でも……」
「いいから。帰るんだ。ここに来た方法があるんだろう。その方法で帰ってくれ」
釧はきっと知っていたのだろう。
私の手元にある〈マルティム〉をちらりと見ると、視線で一方を示した。そこには鍵付きの小さな扉がある。
恐らくこの部屋全体が倉庫か何かだったのだろう。言わんとしている事を理解すると、私はモヤモヤした気持ちを抱えつつも、観念して肯いた。
確かに、釧の言う通りだ。ここに居たのがもしも釧じゃなかったらと思うとぞっとする。それだけ危ない橋を渡ってしまった。
「分かった。そうする」
頷くと、釧は心底ほっとしたように息を吐いた。
彼に力強く背中を押され、私は〈マルティム〉を握りしめた。〈グラシャラボラス〉をぎゅっと握りしめ、私は小さな扉の鍵を〈マルティム〉で開けた。
ぎいと音を立てて扉が開くと、釧が小声で話しかけてきた。
「悪いな、幽。だが、お友達の件はきっと、はっきりする日が来るはずだ」
振り返ると、彼は憂いを帯びた表情を浮かべていた。
その表情から目を逸らし、私は扉を潜った。向かう先は勿論、私の家である。釧路の居た部屋の扉の先に、確かにそこは繋がっていた。店だ。人はおらず、無人のままである。カーテンも閉め切られたままで、実に静かだ。振り返らずに扉を閉め、鍵をかけると、後はいつも通りだった。
時計の針はまだ早朝をさしている。霊はまだ寝ているのだろうか。
ならば、今のうちにと〈マルティム〉をいつもの場所にしまい、〈グラシャラボラス〉を被ったまま長い廊下の向こうへと歩いた。
地下室へと直行し、ずらりと並ぶ拷問器具に見つめられながら、元あった拘束ベッドの上に〈グラシャラボラス〉を置いた。異様な緊張感の中でそっと来た道を戻り、そのままの足で居間まで行ったところで、私はびくりと震えてしまった。食卓の椅子に、霊が座っていたのだ。
「お、起きていたんですね」
声をかけると、彼女は寝ぼけていたのかとろんとした表情で私を見つめてきた。そして、再び俯くと、彼女は何かを考え込んだ。そして、頭を抱えながら、口を開いた。
「寝惚けていたのかしら。今、とても奇妙な感覚に陥ったの」
何処か弱々しく呟く彼女の様子に、私はそっと近づいて行った。
正面の椅子に座ると、霊は少しだけ顔をあげ、そして冷蔵庫へと視線を向けた。
「あなたがここで暮らし始める前は、あの冷蔵庫の中にも食材がある時があった。すぐに狩りに行けない、水やお酒ですら凌げない、そんな時のために、肉や魚、卵なんかを置いておくの。それで、私、今朝起きてすぐに冷蔵庫の扉を開けて、水やお酒しか入っていない事に気づいて、笠に連絡しなきゃって考えていたの。次の狩りのための見張りをお願いするためよ。おかしいでしょう。あなたがいるから、必要ないのにね。少しの間のことだったけれど、まるで……あなたが透明になってしまったようだった」
淡々と語り、霊は私をじっと見つめてきた。その表情には怒りや悲しみなどは含まれていない。ただただ不安げだった。
「魔女を解説する本なんかには、主従の魔術で主人になれれば魔物は主導権を握れるなんて書いてあったけれど、やっぱりあれは嘘のようね。だって、私、あなたの全てを支配できるわけじゃないもの。てっきり出来るのだと思っていた頃もあったけれど、どうも違う。結局私は、あなたの望む主人にしかなれないみたい」
「霊さん……私……」
なんと言えばいいか分からず狼狽える私に、霊は言った。
「何も言わないで。でも、これだけは確認していて欲しいの。私は、あなたの事を忘れたくない。だから、私の前から勝手に消えないで」
それは、命令というよりも、懇願という方が相応しい口調だった。すがるようなその眼差しに耐え切れず、私は俯きがちに言った。
「ごめんなさい」
「何故謝るの?」
「それは……その……寂しい気持ちにさせてしまったのかなって思って」
さすがにここで、自ら〈グラシャラボラス〉の事を口に出す勇気がなかった。雛芥子のもとへ行き、成す術なく逃げ帰ってきたことのどれだけを霊が気づいているかは分からなかったが、簡単に言葉には出せなかった。
そんな私を見つめ、霊は無言で立ち上がった。ゆっくりと私に近づいてきて、そっと頬に触れてくる。そして無駄のない動きで唇を軽く重ねてから、耳元で囁いてきた。
「いいわ、許してあげる。ただし、朝ご飯には、とことん付き合って貰わないとね。その体からあのキツネの残り香が消えるくらいまでは」
「残り香……?」
鋭すぎる一言にびくりとなってしまったが、霊は軽く笑っただけでその話は流してしまった。代わりに私の手を引いて立ち上がらせると、そのまま抱き着いてきた。
その後は、大した会話もなかった。よっぽどお腹が空いていたのだろう。しかし、それは私も同じだった。〈マルティム〉を使っても倒れたりしなかったとはいえ、精神的疲労と魔力の消費による空腹が、私を貪欲にしてしまった。
愛する人へ血を捧げる悦びにどっぷりと浸っていると、不意に今しがたの霊の言葉が脳裏を巡った。
──勝手に消えないで。
今回、私は目的を果たすことは出来なかった。それでも、得られたものはある。彼女はやはり雛芥子で間違いないということ。助けようとすれば白妙が敵に回るかもしれないということ。やはり彼女は外を恋しがっているということだ。そしてもう一つ、あの屋敷に桔梗らしき人物がいること。
知ってしまった以上、放っておくことは出来ない。とはいえ、これからどうすればいいのか。どうすることが正解なのか、今はまだ分からないままだ。
けれど、これだけは、はっきりとしている。〈グラシャラボラス〉はすごい。そのおかげでこんな事が出来たのだから。そしてもう一つ、はっきりとしていることがある。
軽い吸血のあと、そのまま食卓の上に寝かされ、ゆっくりと服を脱がされながら、私は静かに目を閉じ、心に誓った。
──もう二度としない。無断で〈グラシャラボラス〉を使うなんて事は。




