前編
ボタン。それが彼女の名前であるらしい。
花の名前にも思えるが、彼女の持つ魔女の心臓〈神の手〉のことを思えば、服のボタンなども連想してしまう。
そう、この度、家の店にやってきたこのボタンという女性は、霊の古い知り合いだという魔女だった。
店の片隅に置かれているポプリやその他のお守り。あれら学生に人気の手芸品は彼女の作品だという。何度か役に立ったこともあるので、とうとうその作家本人に会えたとなると、まじまじと見てしまうのも無理はない。
しかし、この度のボタンは、そんな私の失礼ともいえる視線に対し、構っている余裕というものが全くないようだった。
「今回の依頼の報酬として持ち込んでいいものか迷ったのだけれど」
そう言って彼女は風呂敷をカウンターに置く。そんな彼女に対し霊は、私にはあまり向けない類の信頼を込めた眼差しを送っていた。
何だろう。ちょっと嫉妬する。いつもの営業スマイルとは違う新鮮な笑み。本当に親しい友人なのだという事が伝わってきて、心がチクチクしてしまう。
いやいや、落ち着こう。勝手なものだ。私だって普段から霊にいい顔をされないと分かっていても桔梗と遊んでいるというのに。
一人で勝手に悶々としている横で、霊は澄ました顔のままボタンに言った。
「中身を確認させてもらうわね」
程なくして風呂敷が解かれ、中から現れたのはケープだった。
赤いフード付きのもので、端々のフリルがかなり愛らしい。手作り品と聞いていたが、さすがの出来栄えだった。
霊はその赤いケープを丁寧に広げると、ボタンの顔を見つめながら言った。
「報酬に相応しいかどうかは、これからじっくりと判断させていただくわ。私としては、あなたの〈神の手〉が生み出したものなのだから、ある程度は信用しているのだけれど、念のためにまずは聞いておきましょう」
その言葉にボタンは肯く。
「このケープはね、私がまだ実年齢と見た目の年齢にさほど差がなかった頃に手掛けたものなの」
そして、彼女は語り始めた。
恐らくそれは私が生まれるより以前の話なのだろう。魔女としてもまだ若かったボタンは、けれどその頃から〈神の手〉の力を発揮して暮らしていた。
知る人ぞ知る手芸作家。彼女の噂は一部の界隈で密かに語られ、それを信じ、まとまった金と様々な願いと共に訪れる者は絶えなかったらしい。
次々にやってくる客人の願いに対し、ボタンは真面目に向かい合っていた。自分の力を誰かの役に立てたい。それが彼女の純粋な思いであり、それこそが魔女の性でもあった。そして、彼女に宿る〈神の手〉は、その思い通り、あらゆる人々の役に立ったのだ。
「そんなある日、私のもとに一人の青年がやってきたの。彼は子どもの頃から極度のあがり症で、大勢の人から注目されることを恐れていた。そのせいで、日常生活がままならなくて困っているのだと。私と一対一で話すことすら、ぎりぎり耐えられるくらい大変だったみたいで。気の持ちようではどうにかなるような状態ではなかった。それで、人の目を気にしないで済むような、透明になれるような代物が欲しいと依頼されたの。そうして誕生したのがこのケープだった」
さすがは〈神の手〉と言うべきか、出来上がったケープはその依頼主の願い通りの力を発揮したという。
「透明……な姿になれるってことですか?」
思わず訊ねてしまった私に、ボタンは軽く首を振った。
「いいえ、少し違うかも。透明な姿ではなく、透明な存在になれるの」
彼女の言っている意味が、私にはどうもピンと来なかった。
けれど、いつの間にか〈ピュルサン〉のルーペを通してケープを見つめていた霊が、補足するように教えてくれた。
「姿が消えるというよりも、他者から存在を認識されなくなる。確かにそこにいるはずなのに、いないものだと思われてしまう。それがこのケープの力のようね」
霊の言葉にボタンは深刻そうに頷くと、さらに話を続けた。
「初めの頃は良かったんです。ケープの力をうまく使って、大勢の人がいるようなところも難なく切り抜けられるようになって。ストレスから解放されたためか、一対一での会話は以前よりも楽々とこなせるようになっていたから。でも、どうしてかしらね。段々と彼はケープに頼る回数が増えていったみたいなの」
その事実をボタンは他人を介して耳にしたらしい。
心配してその様子を直接その目で確認しようと彼を探したものの、彼はなかなか見つからなかった。そして、そのうちに、不思議な現象は起こり始めた。
それは、ボタンが彼を探し始めて五日目の事だった。
「その日の事は強烈に覚えているわ。それまで毎日私は、彼とどうにかして連絡を取ろうとしていたはずだったの。なのに、その日は朝、起きた後からすっかり忘れてしまっていたの。彼を探していることではなくて、彼自身の存在を。思い出せたのは、領収書の整理をしていたからだった。彼の名前を見て、我に返ったの」
その時、彼女は自分の生み出したケープの正体を知ったのだった。
「一度、気づいたからでしょう。それからはもう忘れることはなくなっていた。それで、あの手この手でどうにか彼を見つけ出して、お金は返すからケープを手放すようにお願いしたの。でも、駄目だった」
その後も、彼は乱用を続けたそうだ。その様子をボタンは見守っていたが、止めることは出来なかった。いつしか彼は毎日のようにケープに頼るようになっていって、ついにはそのケープの作者であるボタンや、肉親くらいしか彼の事を思い出さないようになっていったという。
だが、それでも、彼は幸せそうだったらしい。
「結局、売ったものは取り返せない。そして、彼自身は満足している。そうなれば、無理に取り上げるなんて出来ないから、私はそっと身を引いたの。それから数十年後、彼の甥っ子が私のもとにやってきたの。彼が亡くなったという知らせと一緒に」
その依頼主は人間で、順当に年を取っていたはずだが、それでもこの世を去るにはまだ若かったという。
死因は病死とのことだが、原因もはっきりとせず、亡くなる直前はノイローゼを起こしていたという。だが、その状態でも、意識が何とかしっかりとしていたタイミングで、甥っ子に対してケープをボタンに返すよう念を押すように言い残しており、その遺言通りにケープは戻ってきたのだ。
「この子には確かな力がある」
ボタンは言った。
「きっと、色々と役に立つことが出来る。ただし、使い方を誤れば、大変なことになる。だから、誰でも渡せるような代物ではないの」
彼女の言葉を受けて、霊は静かに〈ピュルサン〉をしまった。
「だいたいの事は分かったわ。それに、このケープの真価も。確かに、あなたが言うように、この子に宿る力は生半可なものではない。正確に価値を評価するなら、依頼料としていただくには高価すぎるくらいにね」
「押し付けてしまう迷惑料を込みにすればトントンといったところかもしれないわ」
ボタンの言葉に霊は首を傾げた。
「迷惑料?」
「……ええ、実を言うと私、この子の事が怖いの。自分で生み出したくせに無責任かもしれないけれど、この子のせいで彼がおかしくなってしまったとしか思えなくて。それに、どこから情報が洩れるのか、この子の噂を知って訪れる人もいるの。彼と同じような悩みを持つ人はたくさんいるみたいで、とにかく苦しみから解放されたいんだって、必死に訴えてくる。その度に私、彼らの願いを叶えたくなってしまう。魔女の性が私の心を揺さぶるの。このままだと、また間違ってしまいそう。だから、私、この子を手元に置いておきたくないのよ」
切実さは、しっかりと伝わってきた。その根源にあるのが魔女の性となると、同じ魔女である私は深く共感してしまう。
霊は魔女ではない。それでも、そんな私と常日頃、一緒に生活しているからだろう。どう判断するのか、その表情だけで私にはすぐに分かった。
「分かったわ。そういう事なら、受け取りましょう」
ため息交じりに霊は言う。やはり、想像していた通りの言葉だった。
ボタンはというと、目を潤ませながら「ありがとう」と何度も口にするその様子から、彼女がどれだけ不安を抱えていたのかが分かった。
私もまた、ホッとした。霊が親しい友人を見捨てるはずがないもの。
さて、ボタンを見送った後で、霊はケープをまじまじと見つめながら呟いた。
「名前はそうね。〈グラシャラボラス〉にしましょうか」
「そのケープ、ランクを付けるならどのくらいなんですか?」
「そうね。〈ピュルサン〉の見立てはBよ。恐らく、曼殊沙華の雷様も納得するでしょう。使い方を誤れば怪しいけれど、間違わなければ役に立つ。きっとこれから先、この子の力を借りる事もあるでしょうね」
「でも、霊さん」
と、私は素朴な疑問を口にした。
「霊さんは吸血鬼の力で姿を消したり出来るのでしょう? それで隠密していたこともありましたよね。透明になる力なんて必要ないのでは?」
「さっきも言ったでしょう。透明な姿じゃないわ。透明な存在になるの。吸血鬼であっても、そこまではさすがになれない」
「その……透明な存在っていうのが、具体的にどんなものなのかよく想像できなくて」
正直に白状してみると、霊は小馬鹿にすることもなく静かに答えた。
「つまり、その人の事を忘れがちになってしまうってことよ。さすがに肉親や同居人が完全に忘れてしまうなんてことはないようだけれど、それでも、今その人がどこで何をしているのかという情報が抜けてしまうみたいなの。赤の他人となれば尚更よ。親友であっても、その人に関する優先度が下がってしまう。恋人であってもね」
霊はそう言うと、〈グラシャラボラス〉を綺麗に畳み始めた。
「便利そうじゃない。これを使えば、あなたの耳に入れたくない用事に行きやすくなる。私が留守にしていた事すら意識しなくなるはずだから、あなたにとっても不安が減るわね」
冗談めかして霊は言った。
しかし、私の関心は〈グラシャラボラス〉に向いたままだった。
「逆に私がそれを使うと、霊さんも私の存在を意識しなくなってしまうんですか?」
不用意な問いだっただろう。しかし、考える間もなく口から滑り落ちてしまったのだ。
そんな私を霊はじっと見つめてきた。しばし何かを考えたと思えば、〈グラシャラボラス〉をカウンターに置き、黙ったまま私に歩み寄ってきた。離れる間もなく肩に手を置かれ、いつの間にか真っ赤に染まった目に見降ろされた。
「ええ、そうよ。それがどうかした?」
淡々とした口調で霊は言った。
「くだらないお喋りはここまでにしておきましょうか。そろそろ夕餉の時間よ」
そのまま唇を重ねられ、私は動けなくなってしまった。




