後編
「七歩蛇……」
蘭花のテーブルで茶を飲みながら、霊は落ち着いた様子で呟いた。
落ち着いていたものの、表情は暗かった。
異様な帰り道を進むこと数十分。無事に店までたどり着いた時には安心して気が抜けそうになった。霊は何かを察していたのだろうか。店は休みのはずだったのだが、店舗の方に彼女はいて、私たちが近づくなり扉を開けてくれた。
中に入ってからカーテン越しにそっと外を窺うと、蛇の目傘の集団はしばらく近くに居座っているようだった。
しかし、これ以上接近してくる気配はない。マテリアルである霊の事が怖いのか、はたまたこの店を守っているという〈デカラビア〉の力によるものなのか。
ともあれ、この店にいる限り大丈夫そうだ。
落ち着いたところで、私たちは霊に状況を説明した。
その際、真が口にした名前が、七歩蛇だった。恐らくあなたですら知らないでしょうと断りを入れて。そして、その断りは当たっていたらしい。
「確かに初耳です。恐らく曼殊沙華の方々もご存知ではないでしょう」
曼殊沙華すら把握していない。そうなるとますます不穏な話だ。
「どういった者たちなんですか?」
恐る恐る訊ねてみると、真は落ち着いた声で答えた。
「主に僕と同じ種族の者たち──蛇ノ目たちが中心となって活動している秘密結社の名前です。彼らの目的は、先祖代々従ってきた信仰の継承。そして、権威の復活です」
「信仰?」
問い返すと、霊は深刻な表情で呟いた。
「蛇神の事ですね」
その言葉に息を飲んだ。
覚えている。かつて、この町で出会った事がある異様な存在に。あの時、私を助けてくれたのは百花魁だった。助けてもらった後で、彼女から教えられたのが、かつてこの地を支配していた蛇神の存在と、白妙の歴史だった。
真はため息交じりに頷いた。
「かつてこの地は豊穣を約束する代わりに生贄を要求する蛇の地母神の支配下にありました。彼女が欲したのは〈赤い花〉の血肉。生贄のための〈赤い花〉はこの地の人々がその血統を守り、その日まで大事に育てていたのです。そして、蛇ノ目は……僕の先祖は、生贄に相応しい〈赤い花〉を見極める祭司でもありました。白妙の方々が蛇神との戦いに打ち勝つまで、その伝統が続いたのです」
暗い歴史だ。恐らくこの町で生まれ育っていても知らない人の方が多いだろう。それに、他人事とは思えなかった。私もまた時代が違えば、と思うとぞっとしてしまう。偶然出会ってしまった蛇神の成れの果ての事を思い出すと寒気がする。
「その蛇神信仰を捨てられなかった人々……というわけですね」
「──はい。僕も何度か誘われました。血筋は確かにその信仰の中枢を担っていた者だと聞いておりましたから。でも、僕の両親も、僕も、兄弟姉妹も、時代は変わったのだとその誘いを断り続けてきたのです。恐らく今回の事で、きっと彼らは僕の事も敵だと認識したでしょうね」
霊のもとに来て長いからだろうか。どうやら私には悪い癖がついてしまったらしい。何を信じていいのか分からなくなってくると、どうしても魔女の目に頼ってしまう。そうして魔術に縋りついた結果、恐らく真は嘘をついていないと分かった。きっと、本当のことなのだろう。
「あなたの目に、ぜひともお尋ねしたいわ。うちの幽とそちらの日溜さん。七歩蛇はどちらを狙っていたのでしょうか」
霊が何処か控えめに窺うと、真は即答した。
「恐らくですが、両方です。過去の戦いで傷ついた心と体を癒すには、より多くの〈赤い花〉が必要だと聞いたことがありますので。ですが、彼らの狙いはそれだけではありません。彼らの狙いは権威の回復なのですから」
真はそう言って、不安げな表情で霊に訊ねた。
「僕は詳しく知るわけではないのですが、このお店には落ちぶれた者の権威を回復するものがあるそうですね。その噂が本当かどうかは僕には分かりませんが、ともかく彼らの狙いはそれなんです」
間違いない。〈ナベリウス〉の事だ。
霊もすぐに察したらしく、軽く俯いてから呟くように言った。
「なるほど。一つ疑問が解けました。どうして日溜さんが妙な連中に目をつけられたのか。あのオルゴールの効果は戻っているはずなのに……。でも、そうじゃない。彼らが目をつけたのは……その目当ての代物の気配だったのでしょう。うちの幽の事も知っているか、幽から私のニオイをかぎ取ったのか。いずれにせよ、日溜さんは巻き込まれたのでしょう」
何という事でしょう。つまり私のせいってことでしょうか。途端に罪悪感に苛まれた。
無言で落ち込む私をよそに、霊は話を勧めた。
「あのオルゴールさえ近くにあれば、日溜さんは安全です。〈ナベリウス〉の方も、この店にある限りは大丈夫。けれど、オルゴールを常に持ち運ぶわけにはいかないでしょうし、七歩蛇という存在を耳にした以上、放置するわけにはいきません。この事は曼殊沙華の家にも報告させていただきます。場合によっては、彼らが真さんにも協力をお願いすることがあるかもしれませんが、よろしいでしょうか」
妙に淡々とした霊の言葉に真はおずおずと頷いた。
「はい、勿論。僕に出来る事でしたら」
そんな会話をした後、暫く経ってからカーテン越しに外を窺うと、そこにはもう誰もいなかった。周囲に気配も感じない。どうやら諦めたらしい。
真と共に日溜は一度帰る事となり、緊張感の消えない中で霊と並んで見送ろうという時、日溜は別れ際に私の手をそっと握ってこう告げた。
「今日はありがとうございました」
控えめなその声に、私は即座に首を振ってしまった。
「いえ、逆に巻き込んでしまったみたいで申し訳ないです」
けれど、日溜もまた首を振ったのだった。
「どうか気にしないで。結局は無事でしたし、それよりも私、あなたと話が出来たことが嬉しかったんです。私、何も知らないから。自分がどのくらい魔女でいられているのか、それすらも分からないから。だから、うまく言えないけれど、これも何かの縁だったのでしょう。今度あなたと会う時までに魔法を練習しておきます」
そう言って微笑みを浮かべる彼女に、私の心は少しだけ軽くなった。本当に日溜という名前が良く似合う。そんな事をつくづく感じた。
二人が去っていくと、霊はすぐさま曼殊沙華に連絡を入れた。会話はしばらく続いたが、一時間もしないうちに終わった。受話器を下ろして居間に戻ってくると、椅子に座るなり霊はため息交じりに呟いた。
「七歩蛇ね」
その表情は硬い。
「やっぱり、曼殊沙華も把握していないようだった。隠密が得意な翅人の密偵なんかも雇っているはずなのに。蛇ノ目の一部の人しか知らないのかもしれないわね」
「それだけ密かに活動しているってことでしょうか」
けれど、あの蛇の目傘は良く目立つ。
これまで把握されていないのは不自然に思うのだが。
「蛇ノ目は特別な目を持っている。それだけじゃなく、目に関する妖術も色々と知っているという話よ。人間たちは勿論、魔物を欺く力があるのかもしれない。獲物にならない魔物を避ける死霊たちのようにね」
霊は深刻な表情のままそう言った。
空気が重たい。緊張感が伝わってくる。不穏な話を聞いて、霊の気が立っているのだろう。その事が少し心配になって、私は彼女にそっと笑いかけた。
「それにしては、はっきりと見えました。私も少しは魔女らしくなったんでしょうか」
冗談交じりにそう言ってみると、霊の表情が少し緩んだ。
「そうかもね」
珍しい。彼女がただまっすぐ褒めてくれるなんて。
「それだけ努力してきたという事でしょう。勿論、あなたの心臓を毎日喜ばせてあげている誰かさんのお陰でもあるはずだけど」
そう言って笑う霊の口元から牙がちらりと見えて、心臓がとくりと高鳴った。夕飯にはまだちょっと早い。けれど、緊張したからだろうか。早くもお腹が空いてしまった。
急に恥ずかしくなって視線を逸らし、私は言った。
「でも、まだまだですね。〈ナベリウス〉を守らないと。安全って言っても、〈デカラビア〉の守りだって絶対じゃないのでしょう。私も、もっと強くならないと……」
一度自覚してしまったら、無視できないのが性というものなのだろう。心臓が飢えと渇きを主張してくる。その声なき声を無視しきることは結局できず、私は霊から目を逸らしたまま、そっと呟いた。
「だから、〈赤い花〉を、もっと喜ばせてあげないと……」
我ながら賤しい言葉だったが、霊は軽く笑みを漏らし、私の頬に手を添えてきた。
「今日は頑張ったものね。──だから」
そう言って自然な流れで唇を重ねてきた。軽い口づけだったが、魔女の性がその先にある喜びを察知して歓喜している。唇を離しても、興奮は収まらなかった。収まるはずもない。そんな私に、霊は耳元で囁いてきた。
「頑張ったご褒美をあげる」
そのまま居間の食卓に寝かされてしまった。
愛しい人の手で服を脱がされていく間、欲にかられた心臓の鼓動を感じながら、私は幸福と共に緊張を覚えた。満たされる分だけ、頑張らないと。もっともっと術を磨いて、心配されることなく、守れるようになりたい。
霊のことも、この店にある古物のことも。
けれど、そんな真面目な心も、霊と私の早めの夕食が進むにつれ、段々と靄に包まれていった。




