前編
かつてこの世界には魔女がたくさんいた。
我が乙女椿国においては、魔女と呼ばれず、巫女だったり呪術師だったりと様々な呼ばれ方をしたらしい。
今でも魔女の心臓を受け継いだものがそういった仕事で食べていることはあるそうなのだが、そうではなく何も知らずにただの人間として暮らしている者が大半だという話もある。
私もまたそんな一生を終えるはずだった。
魔女の性が何なのかも知らないまま、人間らしい生活を送り、人間らしく年を取って死んでいく未来だってあっただろう。
けれど、私はそうならなかった。父が世を乱す危険な吸血鬼であったという身の上、そして、受け継いだ心臓が〈赤い花〉とかいう特殊な事情を抱えるものだったがために。
魔女がたくさんいた時代、〈赤い花〉もまた、たくさんいたらしい。
〈赤い花〉から生まれる子供は高確率で〈赤い花〉として誕生する。特に父親が〈赤い花〉の場合、娘は絶対に〈赤い花〉として生まれるそうだ。さらに男女どちらに転んでも絶対に〈赤い花〉しか生まない魔女もいる。それほどまでに遺伝率が高いから、何事もなければこの世界は〈赤い花〉だらけになっていた可能性だってある。
けれど、ある時代、〈赤い花〉は乱獲されてしまった。〈赤い花〉だと知られただけで殺される時代もあったという。〈赤い花〉は〈赤い花〉からしか生まれない。その心臓を持つ者がこの世から消えれば、その血筋も完全に途絶えたのだろう。
それでも、私たちは絶滅しなかった。途絶えてなるものかという種としての尊厳によるものか、他者たちによる醜い欲望のためか、それは分からない。ともかく、消えかかった血は細々とつながれていき、私の母、そして私へと繋がっていった。
絶滅危惧種なんて我が主人の霊は言うけれど、知らないだけでひっそりと咲いているものなのかもしれない。飛蝗が遺言として託した雛芥子の事があったばかりだからこそ、そう思ってしまう。ましてや、さらなる〈赤い花〉と出会う機会が訪れたとなると尚更だ。
「真さんの……?」
風呂敷を抱えた若い娘──日溜と名乗った彼女を前に、霊は目を丸くした。
真という名前。忘れてはいない。前に、虫眼鏡の〈ピュルサン〉を譲ってほしいと言ってきた青年だ。人間のように見えたが私の目が認識したオーラの色はジズ──つまり魔物の色である赤。その正体は、蛇ノ目という特別な目を持つ種族の者だった。
そんな彼と縁があるというこの度訪れた日溜のオーラは緑。ベヒモス──つまり魔族の色と呼ばれるものだった。
恐らく彼女の正体は魔女。そして、心臓の種類は私と同じもの。だが、それだけじゃない。彼女には特別な事情があった。
「まだ正式に義妹になったわけではありませんが……いずれは。姉や真兄さんから教えて貰ったんです。このお店なら、どうにかしてくれるかもしれないって」
そう語る彼女の表情は、心底困っているように見えた。
霊は落ち着きを取り戻すと、静かに言った。
「とりあえず、お見せください」
蘭花のテーブルの上で風呂敷は広げられた。中から現れたのは、木製のオルゴールだった。地味ながら気品ある姿に息を飲んでしまった。
「鬼胡桃のオルゴールですね。大きさ的にもお高かったことでしょう」
「それが……いくらしたのかは分からないんです。子供の頃に祖父から貰ったもので、それから毎日のようにずっと聞いていました」
そう言って日溜が蓋を開けると、オルゴールの音色が聞こえてきた。
誰でもよく知っているような古典的な世俗音楽だ。ピアノを愛した作曲家による蝶々の舞い踊る調べ。そのもっとも有名なフレーズが三十秒ほど流れた。
「綺麗……」
思わずため息が漏れてしまう素晴らしい音色だった。
だが、ふと私は気づいた。そうだ。これは修理に持ち込まれたものだ。にしては、何処もおかしな点はなかったように思えるのだが。
そう思った傍から、近くで聞いていた霊の目の色が変わった。
「なるほど、これは深刻ですね」
何が、と私が言う前に、日溜も困った様子で霊を見つめた。
「ええ……直るものなのでしょうか」
「絶対に、とは言えませんが……試してみます。一晩お預かりしてもよろしいでしょうか」
「はい、ぜひお願いします」
やれやれ、すっかり置いてきぼりにされてしまった。悲しい。
けれど、こんなことは日常茶飯事。霊のもとに来てから一年も経てば、すっかり慣れっこでもあった。
というわけで、大人しくお口チャックを決めた私は、日溜が帰るまで自分も魔女である事、同じ心臓を持っているだろう事すら明かさずに、店主と並んで見送ったのだった。
それから数時間後、閉店の時間となってから、私はようやく霊に訊ねた。
「あの、お昼過ぎに来た日溜さんのことなんですが……」
雑談交じりにお掃除と行きたいところだったのだが、振り返ってみれば我が主人はすっかりお食事モードの目をしていた。
真っ赤に輝く目を見ているだけで、体が、心臓が、反応してしまう。けれど、私にもなけなしのプライドはあるので、何も感じていないふりをして会話を続けた。
「お預かりしたオルゴールの事が気になってェ……」
駄目だ。全然隠せていない気がする。
そんな私の姿はさぞお粗末なことだろう。霊はくすりと笑って、答えた。
「どう気になるの?」
食事を始める素振りは全く見せない。絶対にわざとだ。わざとに違いない。そう分かっているからこそ、私もまた簡単に降参せずに会話を続行した。
「直すとのことでしたが、何処が壊れていたんですか? 私には全然分からなくて」
すると、霊は答える前に近づいてきた。そっと肩に触れられ、体がびくりとした。牙は伸びているし、目は真っ赤だ。霊だってお腹が空いているだろうに、それでも牙を当てもせずに彼女は答えた。
「そうね。オルゴールとしては壊れていないわ。けれど、日溜さんが困っていたのはそこじゃないの。お祖父さまから贈られたというあのオルゴールにはね、恐らく魔女による強い呪文がかけられているのよ」
「魔女……?」
「ええ、かけたのが日溜さんのお祖父さまだとしたら、魔女とは呼べないけれどね。ともあれ、あのオルゴールには護りの術がかけられているの。邪な心を祓う神秘の力。持っている人をあらゆる害意から守ってくれるもの。きっと、お祖父さまは孫娘が特別な心臓を持って生まれたことをご存じだったのでしょうね」
「……つまり、その力に問題が?」
「ええ、そういうこと」
「でも……それって直るものなんですか?」
思わず日溜と同じことを訊ねてしまった私を、霊は面白がるように笑う。そして、さり気なく背中に手を回してきた。ぎゅっと抱きしめられると、途端に鼓動が高まった。
認めざるを得ない。全身が彼女の牙を求めている。牙が食い込むその痛みを欲しがっている。
けれど、霊は極悪非道だった。私の首筋に牙を押し当てたかと思うと、そこで噛みつくと思わせておいて寸止めしてきたのだ。
「普通は直せないわね」
牙を離して彼女は会話を続けた。
「せいぜい同じ術を誰かにかけてもらうしかない。でも、全く同じというのは難しい。かけた本人を見つけて同じ術をかけて貰ったとしても、前と同じように作動するとは限らない。普通ならね」
「じゃ、じゃあ、どうするんですか?」
会話を必死に頭に入れながら、私は訊ねた。霊は答える。
「忘れたの? この店は普通じゃないことが出来るのよ」
「古物に頼るんですね?」
「そういう事」
甘い吐息を漏らしながら、霊は私の髪を手で払い除ける。噛みつくつもりらしい首筋をただ見つめている。その視線を敏感に感じ、私は息を飲んでしまった。鼓動が早まり、汗が出てくる。早く楽にして欲しい。
「今回は〈ナベリウス〉の力を借りる予定」
「〈ナベリウス〉……それってランクAの古物でしたよね?」
一年も経てば大体の名前付き古物の事は把握していた。
〈ナベリウス〉は指輪印章だ。その効果は……リストには名誉回復とだけ書かれていた。正直に言って、それが具体的にどのような効果なのか全く分からないのだが、私が頭に入れておくべきなのはどれが〈ナベリウス〉であるかということと、ランクがAであるということだった。
ランクは曼殊沙華の代表である雷様の判断と、霊が虫眼鏡の〈ピュルサン〉を通してみた結果と照らし合わせた上で決まる。
評価が割れた場合は〈ピュルサン〉の結果が尊重されるらしいが、この〈ナベリウス〉はどうやら雷様と〈ピュルサン〉の評価が一致したものだったらしい。
ランクAはだいぶ高い。まず、持ち出し厳禁であるし、基本的に店主である霊以外の使用は認められない。だから、そう簡単に使う者ではないはずなのだが。
「そのくらい一大事ってことよ」
霊は言った。
「誰かに護られるべき〈赤い花〉が増えては困るもの。変な連中に日溜さんが目を付けられてしまう前に、さっさと直してさっさと返さないといけないの。だから、〈ナベリウス〉を使うのも惜しまない」
「ち、ちなみに、〈ナベリウス〉の効果って具体的にどういったものなんですか?」
「帳簿にあったでしょう? 名誉を回復するの」
「名誉……それがちょっと分からなくて」
「つまりは、かつてあった誉れを呼び起こすということ。生き物に使えば、生き物の名誉を回復するし、モノに使えばモノの名誉を回復する。あのオルゴールの場合は、名誉というのはかけられた呪文の効果を意味するの」
「なるほど、それで〈ナベリウス〉を使えばオルゴールも直るっていうわけですね」
「そうよ。でも、一つ問題があってね」
「問題?」
首を傾げると、霊は笑みを深めた。
「〈ナベリウス〉を使うにはね、たくさんの魔力が必要なの」
たくさんの魔力。それはつまり……そういう事だ。
ごくりと息を飲む私に、霊は囁いてきた。
「我慢の限界でしょう。さあ、おいで」
これ以上の抵抗なんて出来るはずがなかった。
お店の掃除が途中だったとか、まだお風呂に入っていなかったとか、そういう事すら考えられないまま食い散らかされて小一時間。あられもない格好で床に倒れる私を、霊はじっと見下ろしていた。
「もうちょっと頑張れそう?」
「……まだ、足りないんですか?」
「あと少しね。出来れば意識を保っていて。生気のみなぎった血であればあるほど強い魔力になりやすい。……それに、あなたの可愛い声をもう少し聴きたい気分なの」
そんな事を言われてしまって、頑張れないはずがない。全ての恥じらいなど吹っ飛んでしまった私は、惜しげもなく頷いていた。
快楽と苦痛にもまれながら意識の限界ぎりぎりの状態で霊に血を捧げて数十分後、気づけば私は畳間へと移動していた。店からここまでの長い廊下を歩いた記憶があまりない。風呂を入れている音が聞こえてくるから、霊はそちらにいるのだろう。寝返りを打って、周囲の状況を確認しようと視線を動かすと、机の上に日溜から預かった風呂敷と、指輪が置かれている事に気づいた。
〈ナベリウス〉だ。
朦朧とする意識の中では、はっきりと見えなかったが、指輪印章であることは間違いないし、色形も記憶と一致している。彫られているのは三つ首の鴉で、いつ誰がどこで作ったものなのかは分からないのだとか。
使うだけで魔力を消費するというが、血は足りているだろうか。心配になっていると、霊が戻ってきた。
「起きたのね。具合はどう?」
「まあまあです」
「受け答えできるくらいはいいのね。よかったわ」
「……血は足りそうですか?」
「分からない。だから、念のため、あなたにはもう少しここに居てもらうわ」
目を赤く光らせて、霊はそう言った。
その命令染みた口調が心臓に響き、私はただただ頷いた。




