前編
カレンダーにバツ印を付けるようになったのは、霊のもとに住み込むようになってからの習慣だったと思う。
それまでは日めくりカレンダーを気まぐれに購入して、捲ったり、捲り忘れたりしている程度のものだった。結局、面倒臭いという事で日めくりカレンダーはあまり購入しなくなり、普通の壁掛けカレンダーを利用していた。この店に住み込み始めてしばらくは、同じように日めくりカレンダーに触れ合わない生活が続いたけれど、ある日を境に私はバツ印や日めくりカレンダーの重要性を知ったのだ。
どちらがいいかと言えば、どちらも欲しい。そのくらい、私は近頃、起きる度に今が何月何日の何曜日なのかを確認していた。朝起きる度にカレンダーで確認し、新聞紙を見つめる。今が何月何日の何曜日であるのかを頭に植え付けなくてはならない。テレビやラジオで何と言っているのか、どんな番組があるのかを確認するのだ。
なぜこんなにも神経質なのかと言えば、霊の店にある古物のせいである。
目が覚めてすぐ、ベッドから身を起こすと、私はいつものように壁掛けカレンダーを見つめ、近くに転がっていた赤ペンへと目をやった。さて、習慣づけたのはいいが、頭がしっかりとしていない。昨日は何曜日だったか、今日は何曜日だったか、ぼんやりとしていて思い出せなかった。
のそのそと起きて、とりあえず昨日と思われる日付にバツ印をつける。今週末のあたりには友人との日帰り旅行の日に花丸が付けてある。霊の許しを貰ったので夢と魔法の国にちょっくら行ってくるのだ。しかし、その日まであと何日だったかいちいち数えていなかったのであまり参考にならなかった。
まあいい。こういう時のテレビとラジオの習慣だ。
私は顔を洗いに一階の洗面台へと向かった。霊はたぶんまだ寝ている。そのくらいの早朝だ。顔を洗うと歯ブラシを用意して、テレビのある部屋、ラジオのある部屋でそっとスイッチを入れ、歯磨きをしながら見つめ、耳を傾ける。
――今日は何月何日の何曜日なのか。
見つめてしばらく、耳を傾けてしばらく、私は首を傾げた。
いつも見る番組は同じだ。いつも聞く番組も同じだ。同じような朝が続くことはあるけれど、全く同じ日が繰り返されるなんてことはあり得ない。
そう、普通なら。
歯ブラシを手にしばらく考えながら、私は妙な気だるさを覚えながらラジオとテレビのスイッチをそれぞれ切った。口をゆすぎ、うがいをし、呑気にポストの新聞を回収してから、私は二階へと戻る。自室ではなく、霊の寝ている部屋だ。鍵なんて閉められたことのないその部屋へと向かい、遠慮なく開けて中へと声をかけた。
「霊さん、もう朝です。起きてください。ちょっと聞いてほしいことがあるんです」
ベッドで横になったまま起きる気を微塵も見せない主人の姿を確認し、ため息交じりに近づいた。
起きていないわけがないことを私は知っている。その証拠に、この部屋いっぱいに緊張感がただよっていた。ベッドに近づき、傍に座れば、掛布の中がもごもごと動く。そして手が生えたかと思えば、私の腕を掴んで強く引き寄せてきた。ベッドの中へと引きずり込まれるその感覚は、まさにホラーだ。実際、この主人はホラー映画で退治されてもいいような人ともいえるから、恐ろしい。
しかしもう慣れっこになっていた私は、怖がるより先にやれやれといった感じなのだ。
「霊さん……!」
とはいえ、本心は透け透けだった。抵抗する気が全く起こらないのだから、全く魔女の性というものは厄介なものだ。
掛布の中で組み敷かれ、あっという間に体制は整っていた。
「んねえ、朝ご飯ちょうだい」
やけに色っぽい声で霊は囁いた。
牙が首筋に当たり、心臓がときめいた。息遣いは隠すことも出来ず、霊は嬉しそうにその指を私の胸元へと這わす。
これは本来、スキンシップなどではない。食事だ。それもお互いの朝ごはん。必要だからやっている行為なのだが、こうして毎日2回以上、お互いにお互いを求めあう食事を続ければ、いやでも特別な感情は抱いてしまうものだ。
男女の関わりとは全く違うだろうけれど、この世界で霊ほど私を満足させられる生き物がいるとは思えないし、私は私で同じような自負があった。霊は私だけの吸血鬼。この美しい存在を誰にも渡しやしない。相手が男であっても、女でもあっても、同じこと。
「体が温かい。〈赤い花〉の香りがする。幽、あなたの声を聴かせて。可愛らしいあなたの鳴き声を聞きたいの」
真っすぐな言葉に体の芯が疼いた。
鋭い牙、鋭い眼差し、鋭い爪が私の身体を虐めてくる。それがとんでもないほど嬉しくて、気づけば涙目になっていた。牙はまだ打ち込まれていない。触れているだけだ。今から噛みつくという場所に何度も触れて、それを確かめさせる。
ああ、この人はすごい。魔女の性が満たされる。この人が傍にいるだけで、私は世界の終りまで生きていけるだろう。うっとりとした幸福感に満たされていた。
そんなわけで、私が霊に伝えたいことを言えたのはそれから約一時間後のことだった。
着替えを済ませながら元気よく立ち上がる霊の背を見つめ、私はふらつきを覚えながらどうにか起き上がった。
「ふうん、そう。それはきっと例の懐中時計の仕業ね」
「それ、私がたった今言ったことじゃないですか」
「細かい子ねー。まあとにかく、店に向かいましょうか。へそ曲がりな〈ウァサゴ〉ちゃんの為にもね」
にやりと笑う霊は、ちっとも私の身体の心配なんてしていない。
あれだけ血を吸っておいて、と思ったものの、私は私で血は失ったもののそれ以外の生きる気力は貰えたのだから文句はない。どうにか立ち上がってみれば、案外、身体も平気だった。
店に向かえば、しんとした空気が私たちを迎えた。
まだ朝は早く、開店の時間でもない。そもそも開店時間なんて霊の気まぐれに任せるだけだ。〈昨日〉は誰も来なかった。だから〈今日〉も誰も来ないことはもう分かっている。
店のガラスの戸棚を開けて、霊は懐中時計ウァサゴを取り出した。
「さてと」
乱暴にカウンターに投げ捨てる霊を前に、私は思いっきり動揺した。
「だ、だだだ駄目ですよぅ。時計が傷がついちゃいますよぅ。それ、エーデルワイス国からの舶来品で、すっごく高価なんだって笠さんが言ってましたけど!」
「高価であったとしても、売るわけじゃないもの。〈ウァサゴ〉は構ってちゃんなのよ。あなたと一緒でね」
「そんなことないです!」
といったものの、何だかむなしい。そんなこと、滅茶苦茶あるかもしれない。
〈ウァサゴ〉。その名を霊よりつけられた懐中時計は今、止まっている。しかし、この時計は本来止まることがないのだ。もちろん、機械式の懐中時計はねじを巻かねば普通は止まる。しかし、これに関しては止まるはずがないのだ。狂ってしまったとしても、それは時計が壊れたからではない。
この時計の中には意思がある。霊によって〈ウァサゴ〉と名付けられたのは時計そのものではなく、時計に宿った何らかの意思である。彼女――私は男の子だと思ったのだけれど霊の都合上は女の子らしい――は、非常に気まぐれで、強い力を持っている。ねじを巻かずとも時計が動くのはそのせいだ。
しかし、非常に気まぐれと言った通り、厄介な性格をしている。
たとえば今。私たちの時間は昨日の繰り返しとなっている。私たちは”今”の時間に閉じ込められている。
その理由は、〈ウァサゴ〉がそうさせているからなのだ。
悪魔とでも呼ぶべきかもしれない。きっと魔物の一種だろうけれど、巻き込まれる側からすれば、この迷惑なものを悪魔と呼んでも差し支えないだろう。
〈ウァサゴ〉の懐中時計を開きつつ、霊は大きなため息をついた。
簡易的に解決するならば、ねじを巻くだけでいい。そうではなく、〈ウァサゴ〉自身の言葉を聞くのならば、合わせ鏡を使った方法が試される。ねじを巻いても時間が元に戻らないのならば、その方法で〈ウァサゴ〉自身の心に触れあいに行かなくてはならない。そんな場面に接したことはすでに何度かある。
どちらの方法も持ち主である霊が率先してやるべきことだ。私に出来ることと言えば霊を見張り、フォローすることくらいだ。
しかし、肝心の霊は懐中時計の蓋を開けたり閉めたりしながら、こんなことを言い出した。
「どうしよっか」
「はい?」
「ねえ、幽。明日って本当に必要? 別にいいじゃない。何回今日が繰り返されたってさ」
「いやいや、何を言っているんですか。さっさとねじを巻くか、もしくは〈ウァサゴ〉ちゃんに会いに行って、頭でも撫でてやりましょうよ」
「引っ叩くの間違いでしょう。ああいうのは甘やかすよりも虐めてあげる方が悦ぶの。あなたと一緒でね」
「そんなことありません」
とはいったものの、そんなこと滅茶苦茶あるかもしれない。
霊のビンタの加減は絶妙なのだ。素人のビンタはただ痛いだけで何の得にもならないし、何なら腹立たしいくらいなのだが、霊は違う。この人のつねりとビンタは芸術と言ってもいいほどの価値がある。もちろん、最高の芸術は牙を打ち込むまでのタイミングなのだ。
――などと、言っている場合ではない。
「そうそう、いま思い返せば今朝のご飯は昨日の繰り返しだったわね。でも飽きる様子がないわ。私とあなたの息もぴったりで、あそこまで一つになれるのも滅多にないことよ。ずっと今日みたいな目覚めを味わえるのなら、素晴らしいと思わない? あなたの血の味、思い出すだけでぞくぞくしちゃう」
「いやそれは……あの、そうかもしれませ……ああ、いいや、駄目です。駄目ですよ。明日が来ないとつまらないじゃないですか!」
同じラジオ、同じテレビ、同じ新聞、同じ一日。同じであるという事が分かれば霊と二人で色んな事が出来るかもしれないが、たぶん面白くはない。
私たち以外のすべてが同じことを繰り返すのだから、たとえばギャンブルなどで成功したとしても、リセットされてしまうわけだ。笠も二度と訪れないし、続きが気になっている漫画やドラマもアニメも続きが楽しめない。そんな世界の何が楽しいのだろう。
だいたい、それでは友人と遊園地に行けないじゃないか。けっこう楽しみにしているのに。
「半分冗談よ。私だっていつまでも同じなのは困るわ。だいたい、頼んだままのアイアンメイデンはまだ見つからないのよ。これが一生来ないってなるとイライラしちゃうわ。せっかくクリスマスまでに楽しみたかったのに。あなたの血で満たした湯船にあなたと一緒に入って浴びるほど血を飲みたいくらいよ」
「霊さん」
色々突っ込みたいところだったが、とりあえず一言だけ。
「血のお風呂はさすがに私死んじゃうと思います」
「はあ。全く、幽ったら、なんであなたは不死の身体を持っていないのかしら。血を大量に抜いたくらいで死んじゃうなんて鍛錬が足りないのよ!」
「霊さんだって致命傷を負ったら死んじゃうのでしょう?」
「私はいいの。攻める側で攻められる側じゃないから。だって吸血鬼だもの。それにしても、血のお風呂か。この間やっていたテレビ番組からふと思いついただけなのだけれど、面白そうよね。このまま時計は放置して、今からちょっとお風呂場に行きましょうか」
時計を放り投げてしまいそうになる霊に縋りついて、私は必死に訴えた。
「いいえ、駄目です。駄目ですよ! 今はせめてねじを巻くだけでもしてください!」
「ケチ。じゃあ、いいわ。血のお風呂が怖いのなら、もう一回ベッドに行きましょうか。今朝のことが忘れられないの。もう一回、今度はロープの力を借りて、じっくりとお食事をしましょうか」
「霊さん、お願いです。〈ウァサゴ〉ちゃんにちゃんと向き合いましょう! その後でならお風呂場でもベッドでもついて行きますから!」
私の命を懸けた訴えが通じたらしく、霊はやれやれといった具合に両手を上げて、そして野良猫のように自由気ままに背伸びをした。
懐中時計のねじを巻くくらいで必要のないほどの準備体操を終えると、やっとのことで私の願い通りに動いてくれた。
「仕方ないわねえ。お友達とのお出かけも楽しみにしているみたいだし、甘えん坊な幽ちゃんのお願いを優しいお姉さんが聞いてあげましょう。お願い料は夕飯に上乗せするとして」
よかった。およそ優しい人とは思えないお言葉だし、自分で言ったとはいえ具体的に何をされてしまうのか不安で不安ですごく期待しちゃうけれど、そんなことよりも懐中時計だ。
霊の手でしっかりとねじは巻かれ、時計はぐるぐると動き出した。〈ウァサゴ〉の心に届いたのだろう。ひとりでに針は動き出し、おそらく本物の今の時間を示してくれた。
「これでいいわね。はあ、明日は今日のような朝ごはんじゃないのね。つまらないなあ」
「いいじゃないですか。それよりも霊さん、開店準備ですよ」
「幽は真面目な子ねえ。私なんて今日はもう定休日でもいいかなあってくらいの意識でお店をしているのに」
「そんなんじゃ駄目です! 困っている人の為にお店があるのでしょう?」
「半年に一回、物凄く面倒なお仕事をこなして大金を貰うだけでいい。お店なんてついでよ、ついで。笠のくそ親父に言われて仕方なくやっているだけ」
いつになく口が汚い。
せっかくの淑女らしい見た目が台無しだ。
「んもう、あんまりやる気ないと他所で働いちゃいますよー?」
主従の魔術が邪魔するからあり得ないのだけれど、私はそんな軽口を言って開店準備を始めた。ついでに先ほどの約束を有耶無耶にしてやろうという狙いもあった。
しかし、ふと訪れた静けさに気づくと、さすがに無視できずに振り返ってしまった。
軽い気持ちで揶揄ってやったのだと言い訳しておこう。だが、霊は私の姿をじっと見つめていた。その表情をなんと表現したらいいものか。あまりにじっと見つめてきたので、私は思わず下手に出てしまった。
「あ、あの、冗談ですよ」
すると、霊はやっと電池が入ったように動き出したのだった。
「……わ、分かっているわよ。つまらない冗談を言わないでちょうだい」
そうして、先ほどとは打って変わっててきぱきと開店準備を始めたのだった。
相変わらずおかしな人だ。でも、そこがいい。ただ美しいだけじゃなく変わったところもあるのが我が主人の可愛いところである。
私はそんな霊の魅力を再確認し、一人くすりと笑ったのだった。
その日は、一人だけ来店があった。純血の人間のオカルトマニアらしきお兄さんだった。
店内をうろつき、霊の説明を受けてから売品である犬のぬいぐるみを買って帰っていった。
笠の知り合いから流れてきた殺人事件の絡む血塗られた訳あり古物なのだけれど、それを聞くとすごく目を輝かせて買っていったのでたぶんあれでよかったのだろう。
あのワンちゃんも、それなりに愛してくれる人の元に居場所を得られるのならそれでいいのだと霊は言っていた。
今日はそれだけだったけれど、その展開が昨日とは違うことが起こって、なんだか嬉しかった。
ついでにテレビやラジオ、新聞の日付も、いつの間にかちゃんと今日のものに変わっていることを知って、ほっとした。
よかった。明日はまた新しい明日が来る。素晴らしい当たり前に感謝しながら、妙に甘えてくる我が主人と共に私の部屋のベッドで眠ることになったのだった。
もちろん、ただでは眠らせてはもらえなかった。