後編
恐怖心を忘れるという効果を実感することは難しい。
霊が語るところによれば、その効果に気づくのは、効果が切れてしまった後なのだという。ならば、今の私にはどの道無理というものなのだろう。
そう、私は今、〈イポス〉の影響下にある。そして、霊と共に座らされているのは、これまで一度も訪ねたことのない得意先の応接間だ。得意先は、名前こそ知れども顔を見るのは初めての紳士であった。
「久しぶりにお呼び出しして申し訳ありませんね」
そう言って穏やかに笑って見せる彼は、実に優しそうな顔をしていた。
悪意というものがそこに宿ることがあるなんてどうして信じられよう。心の全てが慈悲で出来ていそうなその男性は、けれど、だからこそ、不気味に思えてしまった。
彼にまとわりつくオーラの色は青。海の聖獣リヴァイアサンの色であり、それはつまり彼が一滴も魔と呼ばれる者の血を引いていないことを意味している。
純血なる人間。未知の力を自ら使うことは出来ない種族。だが、それゆえに魔の力への耐性が強い者も多く、気づけば数の力で魔物たちの居場所をじわじわとなくしていった。
自分が魔女だと気づいた後で、どうしてそんな事が起こるのか不思議だった。人間は時に魔の者が守ってやらねばならないほどか弱いものであるような印象が心のどこかにあったからだ。だが、この人物を見て、それは違うのだとはっきり思い知らされた。
この男性──無花果には少なくとも魔物と対等にやり合える何かがある。それが気迫なのか、あるいは何らかの魔の力の恩恵によるものなのかは分からないが、少なくとも修行中の魔女である私が下手な真似をする相手ではない事だけは確かだ。
「ただちょっと気になる事がありまして、どうも直接窺った方がよいと判断したものでしてね……ええと、そちらは噂の助手の方でしたかな?」
視線を向けられるや否や、霊が即座に答えた。
「助手の幽です。一年ほど前から手伝って貰っておりまして」
「そう、幽さんね。見たところ、その方もただの女性ではないようだね」
鋭い。いつもならば動揺していたかもしれない。だが、これも〈イポス〉のお陰なのだろう。私も霊も眉一つ動かすことなくあっさりと認めることが出来た。
心配はいらない。何の恩恵を受けていようと、彼が今見抜けるのは私が人間でないということ。せいぜい魔女であるかもしれないということだ。自分では分からない〈赤い花〉特有の香りというものも、〈イポス〉の香りがしばらく誤魔化してくれるのだと霊は言っていた。それを信じるならば、彼にはまだ正体が知られていない。
「当ててみよう、魔女かな」
悪戯っぽく語る無花果に対し、霊は薄っすらと微笑みを浮かべた。偽りの笑みだ。いつも一緒にいる私には分かってしまうが他人にはきっと分かるまい。霊は穏やかな口調で無花果に対して囁いた。
「ご名答。さすがです、旦那様」
「やっぱりそうか。こういうのは顔で分かるんだよ。で、種類は……あはは、そこまでは分からないね。さすがにそれは教えてくれないよねぇ」
「そうですね。どこで誰が聞いているか分かりませんので。いま、彼女は魔女の修行中なんですよ。少々物騒な魔法も使えるようになってきまして」
「なるほど、それで同行しているというわけだね。そりゃ怒らせたらいけないね」
そう言って無花果は一頻り笑ったあと、改めて霊に向かって切り出した。
「さて、今日お呼びした件について話しましょうか。なに、大事というわけではないのだけれどね、お電話した内容の通り、古い友人から聞かされた話が今の僕の役に立ちそうだと思ったものでね……で、その主役の話なんですが」
「現物をお持ちしました。こちらですね」
そう言って、霊が差し出したのは、数日前に玉美に渡したあのポプリだった。集中力を高める効果のあるお守り。誰にでも販売できるような危険度の低いものではあるが、効果のほどは絶大だったらしい。おかげで玉美は琴の練習に専念できるようになり、その変化を不思議に思った琴の教師が玉美からポプリの話を聞いたらしい。そして、その琴の教師から世間話としてポプリの話を聞かされたのが、古い友人である無花果だったわけだ。
机に置かれたポプリを手に取り、無花果はじっくり観察する。
「なるほど、聞いていた通り、普通のお守りのようですね。年頃の女の子たちが好むような。まさかこれに噂のような力があるとは思えませんな」
「たまたまそのような結果になった可能性はあります。ですが、一応、補足いたしますと、こちらの商品は、魔女の手芸作家による作品なんです」
「魔女?」
「はい、こちらの幽ではなく、別の友人です」
「なるほど、そうですか」
軽く頷いてから、無花果はポプリの香りを確かめた。そしてふと呟いた。
「この香り。覚えがありますね。〈赤い花〉の香りにそっくりだ。しかし、作られた方は〈赤い花〉ではないでしょう。作ったものに不思議な力が宿るとなれば、もしや〈神の手〉ではありませんかな」
「仰る通りです」
霊は短く肯いた。
魔女の心臓の種類について、私はまだまだ勉強途中だ。だが、〈神の手〉という名前は〈アスタロト〉が教えてくれたのを少しだけ覚えている。その心臓を持つ者は、私が現在勉強しているような魔術を得意としない。代わりに願いを込めてその手で作ったものに魔力が宿るという話だ。
今日、お世話になっている〈イポス〉を作ったガンソも、この〈神の手〉の心臓を持っていたという伝承があるらしい。
「そうか、やはり〈神の手〉によるもの。……となると、もっと詳しくお聞きしたいところですな」
「勿論、構いません」
霊が淡々と受け答えするその横で、私はタイミングを見計らって口を開いた。
「あの……すみません」
二人の視線がこちらに向くのを待ってから、遠慮がちに私は言った。
「お手洗いをお借りしても宜しいでしょうか」
「ああ、勿論構いませんよ。部屋を出て廊下の突き当りを右へ。すぐ分かるはずですが、万が一迷ったときは誰かしらがいると思うので捕まえて聞いてください」
「ありがとうございます」
すぐさま立ち上がると、霊は何事もなかったように早くも話を再開した。そのやり取りに押されるように応接間を出ると、一気に心が研ぎ澄まされたような気分になった。
さて、ここからが本番だ。
霊に何もかも洗いざらい話した上で、何とか閉じ込められずに上手いこと同行させて貰うまで粘り続けたのは、他でもないこの時のためである。
その為に出来た服の下の無数の噛み傷がじわりと痛むのを感じながら、私は深呼吸と共に廊下を歩みだした。まずは、案内された通りにトイレのある場所へと向かう。そこから素直に戻るつもりは勿論ない。なんなら、本来の目的はたった今辿り着いたトイレなんかではない。ここからが肝心だ。何としてでも〈イポス〉の効果が切れるまでにこの屋敷を探索していかないと。
だが、どこへ行けばいい。気の向くままに行くしかないだろうか。そんな事を思っていたちょうどその時だった。音もなく背後から私の足元を何かがすり抜けていった。
驚いて視線を足元へと向けてみて、はっとした。
月子だ。オッドアイの目がこちらを見上げている。
「月子様」
名前を呼ぶと、月子は沈黙したまま軽く顔を左右に振った。そして、立ち上がると尻尾を上げて廊下を歩みだした。少し歩いて振り返るその様子を見て、私もようやくぴんと着て、その後をついて行った。
互いに無言のまま、迷路のような廊下を歩み続けてしばらく。辿り着いたのは、嫌に薄暗く、不気味な色合いの壁に囲まれた場所だった。
方角も分からなければ、玄関や応接間からどれだけ離れているかも分からない。そんな場所に物置のような存在感のない扉がぽつんとあった。
月子がその前で座り、私をじっと見上げてくる。その眼差しに誘導されるようにドアノブに手をかけるも、扉には鍵がかかっていた。
鍵の魔法を使うべきか。一瞬そう思ったのだが、月子の視線で促されたのは、ドアノブではなかった。扉の上部。よく見れば、目線の高さに蓋付きの小窓があった。
音が出ないように気を付けて蓋を開けて覗いてみれば、中の様子が確認できた。薄暗いもののはっきりと見える。
座敷牢だ。奥に人がいる。
着飾らされた人形のようにじっとしているが、生きていることが分かる。
息を飲みながら、私はそっと中に声をかけてみた。
「あの……」
私の声に気づき、閉じ込められたその人物が顔をあげる。
妙齢の女性だ。二十代か三十代かといったところ。閉じ込められているからだろうか、やつれているように見える。だが、聞こえていないわけではなさそうだ。
「雛芥子さんですか?」
すると、彼女はこちらをじっと見つめたまま、目を細めて返答した。
「あんた、アタシの仲間だね」
弱弱しいがしっかりとこちらの耳に届いた。
「多分そうですよ。あなたの心臓次第では。噂をお聞きして会いに参りました。少し、話を聞いてくださいませんか?」
「噂、ね」
そう言って彼女は視線を逸らしてしまった。いまだ名乗ってはくれない。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「いつからここに居るんですか? いったいどうして閉じ込められているんです?」
すると、彼女は肩を揺らして笑ってから、静かに答えた。
「さあ、いつからだっただろう。でも、どうしてかは答えられるよ。アタシが思い上がっていたせいさ。たかだか数百年生き延びた程度で敵なんかいないと思い込んでいた。あんたは何歳だい? 見世物にすらされない間抜けな婆さんを笑いに来たのかい?」
「違います。私は……人を捜しているんです。あなたは雛芥子さんではないんですか?」
「さあ、どうだっただろうね」
取り合おうとしてくれない。それとも本当に分からなくなってしまっているのだろうか。迷いが生まれつつも、私は切り出した。
「分かりました。では、あなたが雛芥子さんだと仮定してお聞きします。飛蝗という名前の男性に覚えはありませんか?」
「飛蝗……」
その動きがぴたりと止まる。手ごたえを感じ、私はさらに声をかけた。
「飛蝗さんに頼まれて捜しに来たんです。飛蝗さんは翅人の男性で……その……花売りを生業にしていて……でも、後悔していました。自分のせいで捕まってしまった雛芥子という人を捜して欲しいって。その願いのために捜しているんです」
「なぜ……見ず知らずのアンタが……」
その横顔は、遠目ながら動揺しているようにも見えた。
やっぱり彼女が雛芥子なのでは。そう思ったのも束の間、彼女は突如、敵意のある視線をこちらに向けてきた。
「帰っておくれ」
ぴしゃりと言われ、私は怯んでしまった。
「それ以上、哀れむような目で見ないでおくれ。アタシが何者であり、どんな経緯でここにいるかなんてアンタには関係のないことだ」
「……でも」
食い下がろうとしたその時、足元にいた月子がこちらを見上げてきた。
「幽、耳を澄ますのだ」
そう言われ、私は我に返った。
誰かが近づいてくる。これ以上は長居できそうにない。
「また必ず来ます」
中にいる彼女に声をかけ、歯痒い思いをしながら私は蓋を閉じた。直後、待ちきれないと言わんばかりに月子は歩みだす。それに黙って続きながら、私は今後のことを考えようとした。
来ると言ったものの、どうやって来ればいい。彼女が雛芥子であることは間違いない、と思うのだが、どうすれば飛蝗との約束を果たせるだろう。今すぐに答えは出ないなんてことは分かっている。それでも、考え続けずにはいられなかった。
だが、そう思った矢先、歩みだしてほんの一分も経たないうちに、私の思考と歩みは凍り付いてしまった。
「あらまあ珍しい」
廊下の途中で出会ってしまったのだ。
無花果側の人物の中でもよく見知った者の一人──百花魁に。
「霊様がいらしている事は聞いていたけれど、まさか幽ちゃんも連れてくるなんて、一体どういう風の吹き回しかしら」
「百さん……お、お久しぶりです」
口を開いてみて、まずい事に気づいた。〈イポス〉の効果が切れかかっているかもしれない。そうでなければ何故、ここまで口籠るだろう。何にせよ、あまり時間はかけられない。
だが、そう思った矢先のこと、百花魁はこちらに歩み寄ってきた。さり気なく手に触れられ、緊張感がさらに増した。
「応接間にいると思ったのだけれど、こんなところで一体何をなさっていたの?」
覗き込むように訊ねられ、答えに詰まってしまった。だが、そんな時に助け舟を出してくれたのが、月子だった。
「厠だよ」
百花魁を見上げながら彼女は言った。
「その帰り道で方向が分からなくなってしまったらしくてね。たまたま出会った私が応接間まで案内していたところだったんだ」
平然と語る月子を見下ろし、百花魁は薄っすらと笑みながら手を離した。
「そうでしたか、月子様。相変わらずお優しいのね。それなら、引き続き案内はお任せしても良さそうね」
「ああ、任せておけ。百はお勤めの後でお疲れだろう。ゆっくり休んでおればいい」
「お気遣いありがとうございます。それじゃ幽ちゃん、また今度じっくりとお話ししましょうね」
そう言い残し、百花魁はあっさり去っていった。これからどこへ向かうのかなんて探る勇気は残されていない。月子に言われるまま、私もまた大人しく応接間に向かうことしかできなかった。
廊下を歩きながら、私はそっと月子に言った。
「あの……ありがとうございます」
すると、月子は軽くこちらを振り返り、澄まし顔で答えた。
「礼なら、あのおやつでいい」
応接間に戻ってみれば、仕事の話はすっかり終わっていた。
後は帰るだけ。だが、その帰るだけの行為が嫌に緊張してしまった。幸いとして何事もなくようやく店まで帰ってみれば、慣れ親しんだ店内の香りに包まれただけでどっと汗が噴き出てしまった。〈イポス〉がなければ、とても耐えられなかっただろう。それくらいの異様さが無花果という人物とあの屋敷にはある。
けれど、その分だけ大きな収穫はあった。
「……そう、閉じ込められていたのね」
この目で見た光景を思い出せる限り語ると、霊はため息交じりに言った。
「でも、その女性が雛芥子なのかは分からなかった」
「はい。結局、最後まで肯定も否定もされませんでした。ただ、飛蝗さんの名前を出した時に動揺したのは確かです。やっぱり彼女が雛芥子さんに違いない」
「まだ断言はできない。でも、そうたくさん〈赤い花〉がいるわけでもない。……問題はそこではないわ。幽、どうして彼女は閉じ込められているのだと思う?」
「えっと、それは……月子ちゃんによれば、新しい恋人への贈り物だって」
「そうだったわね。で、その新しい恋人って誰だと思う?」
霊に見つめられながら、私は戸惑いつつ答えた。
「百さん……でしょうね」
月子の言っていたことから推測するならば、そうとしか思えない。霊は静かに頷いてから、呟くように言った。
「もしもその人が百花姐さんの花だとしたら、尚更のこと手出しは出来ないわ」
「どうしてですか?」
「覚えているでしょう。百花姐さんには借りがある。いいえ、借りというよりも、弱みを握られているというべきかしらね。そこを無視して花を盗んだりすれば、怒らせてしまうでしょうね」
「それじゃあ──」
見なかった事にしろと言うのか、と、言いたかった。
だが、反論もままならないうちに、私の体に異変が起きた。急に体の震えが起こり、膝から下の力が抜けてしまった。
床に座り込みながら、私は我が身に起こったことに呆然とした。状況を理解しようとした傍から、辛うじて把握したのは恐怖心だった。
怖い。その感情が大波のように押し寄せてきた。
「あ……ああ……」
涙目になりながら見上げる私を、霊はじっと見下ろしてくる。
そして、どこか冷たい声で彼女は言った。
「〈イポス〉の効果が完全に切れたようね」
ゆっくりとしゃがみ込むと、霊は私の体を抱き寄せながら囁いてきた。
「ああ、こんなに震えてしまって。今日は無茶をしすぎたわね。いくら可愛い奴隷の頼みだからって、何でもかんでも聞いてやるのは良くない事かしらね」
「そ、そんな事……」
喋ろうとするその唇を、霊は指で押さえつけてきた。
「無茶をしたのは私も一緒。今は黙ってその血をよこしなさい」
それから程なくして、久しぶりに乱暴かつ過激な夕食は始まった。
恐怖を忘れるには別の恐怖があった方がいい。そう言わんばかりの我が主人の振る舞いに、私はひたすら身を委ねた。霊の言う通り、今の私には無茶な事だったのだろう。〈イポス〉の効果が切れたくらいで一人では動けなくなる有様では。
それでも私は、身も心も蹂躙されながらも、痛みと欲望に何度も屈服させられながらも、どうしてもこの思いだけは捨てきれなかった。
あの人が本当に雛芥子なのか知りたい。そして、あの場所から出たくないのか、出たいのだとしたら、助けてやれないのか。その手段をどうにか探りたい、と。




