中編
庭先で月子に話しかけられたのは、〈イポス〉の件があってから三日くらい後のことだった。
たまたま落ち葉が目について掃除をしていた私に向かって、塀の上からこちらを見下ろす形で話しかけてきたのだ。
「精が出るな」
「月子様……?」
立ち上がって近づいてみれば、月子は周囲を窺ってから軽く目を細めて見せた。
ヤヤ子の姿は見当たらない。
「今日はおひとりですか?」
「うん、そうだ。あなたも一人か?」
「あ、はい。霊さんは今、外出中で。あの……霊さんにご用でしたか?」
すると、月子はオッドアイの目を細めてから答えた。
「違う。今日はあなたに用があってきた」
「私に?」
「うん。だが、そうだな。厳密に言うと、あなたの方が私に用があるはずだ。そうじゃないのか、幽」
何の話か一瞬考えかけて、はっとした。
そんな私に対し、月子は頷いた。
「この間の別れ際の話だ。あの時、何か言いたかったのだろう? それも、女主人に聞かれたくないような事を」
それで、わざわざ来てくれたのか。
思ってもない機会に思わず飛びつきそうになった。だが、既のところで私の心にブレーキがかかった。
思い出したのだ。主人の言葉を。
──あのお家にこれ以上深く関わってはダメ。
私の正体を、月子は知っている。知った上で飼い主には黙っていてくれている。
そこは百花魁もそうであるし、釧だってそうだ。けれどそれは信頼で成り立っているに過ぎない。取り決めがあったわけでもないし、私と霊の間にあるような具体的な拘束力のある契約なんかがあるわけでもない。
月子の表情が、私には分からなかった。言葉を話すことは出来ても、猫は猫だからだ。いや、仮に月子が人の姿をしていたとしても、本心を見抜くのは難しいだろう。
罠ではないか。
簡単に信じていいのか。
疑問が頭を過っていった。けれど、最大の機会でもある。
「私の気のせいか」
黙っていると月子は言った。
「ならば、悪かったな。邪魔をした」
そう言って身を起こす彼女を、私は慌てて呼び止めた。
「待ってください」
覚悟を決めるしかなかった。
「雛芥子という名前に覚えはありませんか?」
周囲を窺いつつ訊ねると、月子は目を細めて私を見下ろしてきた。
「それは、魔女の名前か?」
「はい、あの……〈赤い花〉の魔女らしくて」
「なぜ、私が知っていると思ったのだ?」
心を見通すような眼差しに緊張感が増す。けれど、私は怯えずに告げた。
「無花果さんの噂を聞いたことがあったんです」
その言葉だけで、月子は眉間に皺を寄せた。
噂の内容など語るまでもないのだろう。不快そうでもあるが、悩んでいるようでもある。読み取りづらい猫の表情ながら、それでも話を切り上げて去ってしまうような事はなかった。しばらく考え込んだ末に彼女は口を開いた。
「そうだな。〈イポス〉を貸してくれるのならば、答えてやってもいい」
その答えに私はすっかり落胆した。
さすがにそれは出来ない。〈イポス〉は霊が管理している。彼女の許可なく持ち出す事なんて私には不可能だった。魔術のせいでもあるかもしれないが、そんな事をして霊の信用を失うことも怖かったのだ。
それに、そこまでする必要があるだろうか。
この答えだけで、月子は何かを知っていると分かる。何も知らない者の反応ではないだろう。それだけでも分かれば御の字だ。
「それなら、いいです。ありがとうございました」
そう言って引き下がろうとすると、月子は大きなため息を吐いた。
「冗談だ」
不機嫌そうに短く言って、月子は私の足元へと飛び降りてきた。視線でしゃがむように促され、大人しく従うと彼女は前脚を上げて背伸びをするように耳打ちしてきた。
「まずはあなたが聞いたという無花果の噂の内容を話してくれないか?」
小さいながらも脅すような口調に、私は少々気圧されながら答えた。
「無花果氏が〈赤い花〉の心臓を嗜好品にしていたという噂です」
すると、月子は軽く頷いた。
「なるほどね。どこで聞いたか知らんが、無花果の不利益になるような事は避けたい。これでもいい暮らしをさせて貰っているのでね」
「噂は本当なんですか?」
問いかけると月子は猫らしい声で小さく唸ってから、しぶしぶ答えた。
「結論から言えば本当だ。だが、そこには少し事情がある」
「事情?」
いったいどんな事情があってそんな事になるのだろう。警戒心と不信感が増す中、私は月子の答えに耳を傾けた。
「無花果の収集癖はよく知っているだろう。彼は珍しいものが大好きでね。魔の世界の存在を認識して以降、自身がただの人間であることを何度も悔やんだらしい。その反動で自身の周囲を人間でないもので固めているのだ。恋人だってそれは同じ。これまで何度か彼に恋人はいたが、そのいずれも人間じゃなかった」
月子は語る。
「中でも深く愛した女性がいた。彼女は魔女でね。〈黒鳥姫〉と呼ばれる心臓を胸に宿していたのだ。〈黒鳥姫〉は例外もあるが大抵の場合〈赤い花〉と因縁のある魔女でもあってね、彼女もそうだった。魔女の性として〈赤い花〉の心臓を常に欲していたんだ。これで分かるだろう。〈赤い花〉は彼女への贈り物だったのだ。そして、愛を深めるために共にその味を知ったのだという」
息を飲んでしまった。
あまり想像したくはない光景だった。それに、聞くだけで恐ろしかった。つまり、飛蝗が助けたいと願った雛芥子は──。
寒気を感じる私の耳元で、月子はさらに語った。
「──だが、その魔女はもういない。だいぶ前に事故でこの世を去ったのだ」
「亡くなった?」
「ああ。だから、それから久しく無花果も〈赤い花〉の心臓なんて食べていないはずだ。だが、〈赤い花〉の希少性には興味があるようでね。今の恋人への贈り物も〈赤い花〉だった。渡して以降、無花果は触れてもいないようだがね」
「その新しい恋人は……そのあと〈赤い花〉をどうしたんですか?」
「安心するがいい。食い殺してはいない。厳密にいえば、食っているようなものだが、殺してはいない。ただ閉じ込めて、身も心も枯れ果てるまで外に出さないつもりらしい」
でも、生きている。
高まる鼓動を抑えながら、私は月子に問いかけた。
「その〈赤い花〉が……雛芥子さんなんでしょうか?」
しかし、月子の返答は望んでいるものではなかった。
「さあね。分からない。私は話を聞いただけで、その〈赤い花〉と直接触れ合ったことはないのだよ。それに、無花果が手に入れた当初から心を閉ざしてしまっているようでね。過程が過程だけに無理もないことだが。ともかく、私はその〈赤い花〉の名前を全く知らないのだ。私が普段は立ち入れぬ場所──座敷牢の中に閉じ込められているのだ。そこで、無花果の新しい恋人……彼女にとっての女主人のためだけに咲いている」
確実ではない。だが、雛芥子かもしれない〈赤い花〉が監禁されているのは確かだ。その主人は無花果の新しい恋人。
──恋人?
緊張と恐怖を抑えながら、私は月子に問いかけた。
「その……無花果氏の新しい恋人って、どんな人なんですか?」
すると、月子はややあってから短く答えた。
「あなたもよく知っている人だよ」
結局、月子が教えてくれたのはそこまでだった。
その後はのらりくらりと質問をかわし、適当な言い訳を残して去っていってしまった。もっと色々聞きたかったが仕方がない。むしろ、ここまで答えてくれただけでも感謝すべきなのだろう。
この町に座敷牢に閉じ込められている〈赤い花〉の魔女がいると知れただけでも十分だろう。それが雛芥子かどうか確かめる手段はいくらでもある。
それに、仮に雛芥子じゃなかったとしても、放ってはおけない。
一度聞かされてしまった以上、知らなかった事になんて出来なかった。事情次第では助けた方がいいのではないか。そんな考えが頭を過って消えなかった。
簡単なことではないのは分かっている。だが、最初から諦めて手出ししないというわけにはいかない。
では、具体的にどうすればいい。
悩ましかった。無花果の事ならば、月子のほかによく知った人物は二人いる。片方は釧。口犬という身辺警護を任されている隊の一員である。そして、もう片方は百花魁。
──あなたもよく知っている人だよ。
間違いないだろう。敢えてその名を口にしなかったとはいえ、私がよく知る無花果側の女性といえば真っ先に思いつくのが百花魁だ。
でも、そうだとしたら、彼女は恐ろしい秘密を抱えていることになる。本当に、彼女だろうか。
霊に相談することも出来ない悩みが私の心を重くする。
そんな夜の事だった。一本の電話がかかってきたのだ。
応対した霊は、静かに会話を続ける。だが、端で聞いていて何となく理解した。警戒している。相手は一体誰だろう。疑問に思ったところで、霊は受話器を置いて酷く長い溜息をついた。
「電話、誰だったんですか?」
問いかけると、霊は額に手を当てながら答えた。
「無花果氏だったわ」
その答えに口籠ってしまった。ぎょっとしてしまったのが顔に出ていない事を願う一方で、霊は腕を組みながら苛立ちを隠しきれない様子で私に言った。
「残念だけど、明日も店は閉めましょう。また出かけてくる」
「無花果さんの所に行くんですね?」
「ええ、いい子で待っているのよ」
軽くあしらうようにそう言われるも、私は縋りつくように言った。
「私も一緒に行きます」
口から出たその言葉に霊の表情が強張った。
「どこに行くのかちゃんと聞こえた?」
「無花果さんの所ですよね。私も行きたいんです」
霊はさらに眉を顰めた。そんな反応になるのも分かる。これまでなら、もっといい子に出来ていた。無花果は〈赤い花〉に手を出す側の人間。そんな彼から守りたいという事は何度も聞かされてきたし、理解を示してきた。それなのに、自ら姿をさらすような真似をしたがるなんて愚かだとしか思われないだろう。
だが、だからこそ、霊もまた私の抱える悩みの断片に気づいたようだった。
「何か事情があるようね」
どこか冷たいその問いに、勇気を出して私は答えた。
「今日、月子ちゃんが家の庭に来たんです。その時に、無花果さんの噂について教えて貰って。彼、かつていた恋人のために〈赤い花〉の心臓を贈ったことがあるらしくて。それで、今の恋人にも今度は生きた〈赤い花〉を贈ったって……」
「それで?」
霊の氷のような問いに背筋がぞっとした。
「た……確かめたいんです。その〈赤い花〉がどんな人なのか」
「確かめてどうするの? あなたもその人の花になりたいの?」
「ち、違います。た、ただ──」
と、そこで霊は音もなく近づいてきた。逃げたくなる気持ちに耐えている事しかできない。ただただ突っ立っているうちに抱き寄せられ、動けなくなった。赤く染まったその目で覗き込まれると、心の隅々まで見透かされているかのような気持ちになる。怖かった。
「幽、何を隠しているの?」
霊の声が心臓に染み込んでくる。
「全部話して」
短いその命令に、私はもう逆らえなかった。




