中編
〈モラクス〉がお店に預けられた翌日、私は友人の桔梗との約束で町に出ていた。
喫茶店での時間はいつものように何気ない日常会話が始終続く。それでも、桔梗との会話はやっぱり楽しい。あっという間に時間は過ぎてしまい、あとは帰るだけとなった。
一人で町を歩くのは、昔ほど平気ではなくなった。花売りに襲われたこともあったし、蛇神という存在を知った今となっては、危なっかしいだろう。それでも、霊は私の自由を制限しすぎたりはしない。
その事に、私は度々疑問を覚えた。もしかして、支配的なご主人様であっても、その塩梅は私が望むものに調整されているのではないだろうか。
少し、もやもやしたものを抱えながら帰る道すがら、私の目に止まったのは霊と初めて出会った公園だった。不審な手紙でここに呼び出されたのがきっかけだった。その差出人は、本当は霊ではなかったのだが、霊は自分が出したのだと嘘を吐いて、知らないうちに危険に身を晒していた私を保護してくれた。
あれから一年は経ったのだろうか。
その日々を思い出しながら公園を眺めていると、ふと私はベンチに誰かが座っていることに気づいた。偶然も偶然。それとも、必然だったのだろうか。そこにいたのは昨日、お店に〈モラクス〉を預けて去っていった飛蝗だった。
吸い寄せられるように近づいていくと、彼の方もすぐに気づいて無言で頭を下げてきた。
「あ、あの……こんばんは」
「こんばんは。奇遇ですね」
そう言って彼は目を細め、暗い顔で肩を落とす。
「せっかくの休日だったのに、家でじっとしていられなくて。気づいたらこんな時間ですよ」
無理してでも苦笑する彼の表情に、私は昨日の霊の話を思い出し、心が痛んだ。
もう逃げられない。
霊の言った冷たい言葉を思い出し、私は息を飲んだ。割り切る事が出来る霊と違って、私はやっぱり納得することが出来ないらしい。
「あ……あれから変わったことはありましたか?」
言葉を選びながら訊ねると、飛蝗は首を振ってから答えた。
「特に何も。けれど、まだ油断は出来ません。七日目が鍵なんです。これまでの所有者は皆、七日目に消えてしまったのだと言われています」
「七日……ちなみに、今日で何日目なんですか?」
「五日目です」
落ち込んだ様子で飛蝗はそう言った。
五日目。つまり、明後日には彼の身に何かが起こるかもしれないわけだ。それが分かっていながら、どうして何もしないことが出来るだろう。
こんなに怖がっているのに。
息を飲み、覚悟を決め、私は彼に問いかけた。
「あの……もしよかったら、明後日、私が一緒にいましょうか?」
「えっ? あなたが?」
「もしかしたら、お節介かもしれませんが……もしかしたら、私が一緒だったら、お役に立てるかもしれませんよ」
驚く飛蝗の表情に、私は早くも怖気づいてしまった。
昨日の今日で出会った相手。それも異性相手に申し出る事ではなかったかもしれない。けれど、私はどうしても放っておけなかったのだ。
それに、私の魔術ならば、彼を守ることが出来るかもしれない。
飛蝗はそんな私をしばし見つめ、悲しそうに微笑んだ。
「あなたのような魔女さんが一緒だったら、きっと心強いでしょう。けれど、いいんですか? 店主さんはあまり僕みたいな人間と、あなたが関わるのをよく思っていないようでしたけれど……」
それは確かだ。
馬鹿正直に霊に許可を貰おうだなんて甘い。下手すれば、しばらくは鍵付きの部屋に閉じ込められることになるだろう。そもそもそんな事をしなくたって、霊が「駄目」と命じるだけで、私はきっと身動きが取れなくなってしまうだろう。
それでも、主人の顔色を無視することになったとしても、私は耐えられなかった。
何も試さずに、誰かの運命を諦めるということが。
「いいんです。私は大人ですし、店主は私の保護者ではありませんし」
そう言って、私は彼に尋ねた。
「明後日はご予定とかあるんですか?」
「いえ……何の予定もありません。鍋の真実を聞いて以来、何も手につかなくて、しばらく休暇をとっているんです」
「そうですか。でしたら、私と一緒にいましょうよ。この公園とか、そういった開けた場所で一日を過ごすんです。七日目さえ乗り切ってしまえば、心配はいらないかもしれませんよ?」
根拠も何もない励ましだと分かっていた。
けれど、そんな励ましが少しは役に立ったのだろうか。彼は先ほどよりも安心した表情になって、しっかりと頷いてくれた。
「ぜひ、よろしくお願いします」
そして、再び表情を暗くして呟いた。
「こんな僕の為に、すみません」
その後の話は速やかに終わった。
七日目である明後日の朝、公園で落ち合った後はひたすら共に過ごすだけ。冷静に考えるとまるでデートのような約束だが、互いにそんなつもりはない。そんな余裕もないだろう。
とにもかくにも約束だけ済ませると、後に残されたのは霊への休暇願いだけだった。
「お休み?」
夕食の前の申し出に、霊は怪訝そうな表情を浮かべた。
「それも明後日。珍しいわね、急に」
「すみません、急な話で。迷惑、ですよね」
「別にあなたがいなくたって困りはしない」
さらりと酷い事を言いつつも、霊は私の目をじっと見つめてきた。
「でも、気になるわね。なんで休みが欲しいの?」
「そ、それは……あっ、どうしても欲しかった本が明後日発売なんです。取り置きしてもらっちゃって、買いに行かなきゃいけなくて」
嘘を吐いてしまった。下手したら今すぐにでもバレるというのに。
だが、霊はふうんと興味なさげに聞き流しただけで、それ以上は何も追及してこなかった。
その代わり、夕食の時間は刻一刻と迫って来ていた。真っ赤に染まった目で見つめられ、私は身震いしてしまった。今にも食べられそうな状況下で、私はどれだけ嘘を貫き通せるだろう。
「いいわ。許可してあげる」
そう言いながら霊は、私の身体を畳の上に押し倒した。
「その代わり、絶対に油断しては駄目よ。〈赤い花〉であることを誰にも悟られては駄目。分かった?」
「……はい」
飛蝗を助ける。その際に、悟られてしまう事はあるかもしれない。そうなれば、霊の恐れるような事は起こってしまうだろうか。
不安ではあったけれど、だからと言って、やっぱり放ってはおけなかった。だって、裏切られるかもしれないという恐れよりも、決めつけで見殺しにしてしまう罪悪感の方が辛いもの。
ただ、同じくらい辛いのは、霊を騙すような形になっていることだ。
「いい子ね」
いつもならばご褒美でしかないその囁き声も、今日ばかりは心苦しかった。
「今日も浴びるほどあなたの血が欲しい」
切実なその訴えに、私はまるで罪滅ぼしでもするかのように、この身を捧げた。
そして、あっという間に飛蝗との約束の日はやってきた。
奇跡的に霊には悟られないままやり過ごし、何だかんだと理由をつけて、早朝から出かけることに成功した。
とはいえ、約束の公園に飛蝗がいるとは限らない。急な申し出だったから。それに、良くない可能性もあった。七日目という条件にゆらぎがあるという可能性だ。つまり、前日までに彼に何かが起こっているということ。
けれど、ドキドキしながら向かった先の公園には、幸いな事に彼の姿があった。一昨日と同じベンチに座っていた。ホッとしてその傍へと向かうと、彼は二日前に見た時よりもやつれた様子でこちらをふり返った。その痛々しい姿が目に焼き付いて、私は緊張してしまった。
助けるといっても、どうしたらいいだろう。
そもそも、今日の彼には何が起こってしまうのだろう。
「おはようございます」
声をかけると、彼はぎこちなく頷いた。
「おはよう……ございます。本当に来てくださったんですね」
その言葉に私はしっかりと頷いた。
「勿論です。私の言い出した約束ですから」
そう言って隣に座ると、彼は力なく微笑んでから、ぼんやりと前を見つめた。
開けた場所で共に過ごすだけ。緊張はしたものの、どうにかなりそうだ。
それからは、共にゆったりとした時間を過ごしながら、私はひたすら飛蝗の隣にいた。
沈黙が流れては、私が取り留めもない話題を振り、再び沈黙が訪れては、彼が自分の身の上の話をほんの少しだけする。そんなやり取りを何度も続けていくうちに、〈モラクス〉の事を忘れてしまうほど、飛蝗も落ち着いてきたように感じた。
そして、いつの間にか日が落ちかけて、夕暮れ時になった頃に、飛蝗はふと私の横で呟いた。
「今日は本当にありがとうございました」
彼はそう言って、その目に悲しそうなものを浮かべていた。
「幽さんが一緒に居てくれたお陰で、だいぶ心強かったです。……けれど、やっぱりこのままでは駄目だ。幽さん、僕はあなたに言わなくてはいけないことがあるんです」
「言わなくてはいけないこと?」
問い返すと、彼は自分の膝をぎゅっと掴み、大きく深呼吸してから口を開いた。
「僕があの鍋にお願いした内容のことです。それも言わずに、僕はあなたの善意に甘えてしまった。今は後悔しています。〈赤い花〉をお持ちのあなたに何も言わずに!」
〈赤い花〉と、彼は確かに言った。
魔法なんて一切使っていなくても、やっぱり翅人には分かるのだ。いや、彼が私の心臓を見抜いたのは、ただ翅人という種族であるからというだけではなかったのだろう。
「僕の一族は花売りなんです」
その言葉に、私は息を飲んでしまった。
霊が警戒する職種。それ以上に、私自身が警戒しなければならない人々。最初に彼を観た時に、真っ先に疑ったその正体。警戒していた態度は、決して間違いではなかった。だが、そんな人と、私は半日以上を共にしていたのだ。
飛蝗は両手で顔を覆い、泣きながら告白した。
「何でも夢が叶う魔法の鍋と言われて、願った内容の一つが叔父の仕事の成功でした。叔父は凄腕の狩人で、今でもひっそりと生きる〈赤い花〉を見つけ出しては攫っていたんです。その時は、ある富豪に多額の賞金をかけられていた美しい魔女を狙っていました。仕事が成功すれば、僕たちの一族は一生お金に困らない。だから、僕は願ったんです」
叔父の仕事の成功を。それはすなわち──。
「願いは叶いました。彼女はすぐに依頼主のもとに引き渡され、その後はどうなったのか知りません。僕たちは多額の報酬を貰い、お金に困らなくなりました」
彼の告白を、私はただ聞いていた。
何も言えない。名前も顔も知らない。けれど、私と同じ〈赤い花〉を持つ魔女の身に起こった不幸。それを引き起こしたのが〈モラクス〉であり、飛蝗であるのだと聞かされても、理解がすぐには追いつかなかった。様々な感情が渦巻いて、私は何も言えなかった。
飛蝗は自嘲気味に笑いながら言った。
「分かったでしょう。僕はあなたに助けられてはいけなかった。そんな権利はなかった。それなのに、あまりにも怖くて、あなたの申し出に甘えてしまったんです。卑怯、ですよね」
彼は花売りだ。心を許してはいけない。
それでも、私は気づけば首を横に振っていた。
「そんな事、ありません」
何故か必死になりながら、私は彼に言ったのだった。
「お金にはもう困っていないのですよね? もう二度と、花売りなんてしなくていいんですよね?」
確認するように問い質すと、飛蝗は両目を瞑った。泣いていた。
「すみません、幽さん。すみません、後悔したでしょう……」
震えながらそう言う彼を前に、私は少し冷静になった。
後悔した、だろうか。自分自身に問いかけた。〈赤い花〉を持つ者として、同胞の身に起こったことを思うと受け入れがたいものがある。
金のために囚われた、その美しい魔女はどうなってしまったのだろう。霊の表情を思い出す。翅人の市場への警戒も。何でも売っているその市場の現実を思うと、それを当たり前とする翅人達のことを思うと、やっぱり私は怖かった。
だが、後悔した、だろうか。
「いいえ、私は後悔していません」
私は飛蝗にそう言った。
「その代わり、あなたを救うことが出来たら、花売り撲滅のために協力してもらおうかな。ボランティアのつもりでしたが、そうはいかなくなりました」
そんな私の言葉に、飛蝗は驚いたような表情を浮かべた。
私をじっと見つめると、彼は戸惑いつつも少しだけ微笑みながら言った。
「あなたは変わった人ですね。それに、信じられないくらいお人好しだ。でも、そんなあなたのお陰で、僕も勇気がわいてきました。僕も、変れるかもしれない。……分かりました。無事に明日を迎えられたならば、あなたの言う通りにします。罪滅ぼしのためにも、協力します。花売りをやめて、僕のせいで売られてしまった〈赤い花〉──あの人を助けたい」
力なくそう宣言する彼を魔女の目で見つめ、私は少しほっとした。
彼は嘘を吐いていない。本当に後悔し、心を入れ替えている。その事が分かると、私は自信が持てた。この選択は間違っていないのだと。
「飛蝗さん、その〈赤い花〉の人って──」
と、私がそう言いかけた時だった。
夕日が沈み、公園の明かりがついたと思った矢先、嫌な風が吹いたのだ。本能的に何かを感じ取ったのか、飛蝗がすぐさま立ち上がる。私もまた、彼と同じように、妙な気配を感じて立ち上がった。何かが近づいてきている。そんな気がした。
そして、それが確証へと変わる頃に、姿ははっきりと見えた。黒い人影が宵闇からこちらを窺っている。鬼食いではない。じわじわと近づいて来るそれを、外灯が照らし出す。その姿が見えた途端、私は寒気を感じてしまった。
雄牛だ。だが、明らかにただの牛ではない。
人型の雄牛だ。腕だけが人間の、雄牛だった。魔物であることは間違いないが、魔女の目を使ってみてもオーラの色は何故だか見えなかった。
明らかにおかしな存在。
そんな雄牛が見つめるのは、私ではなく私の隣にいる飛蝗だった。




