前編
飛蝗と名乗る彼の正体は、ひと目見ただけで私にも分かった。
これまでならばそのオーラが緑色──つまり、魔族のものだと見抜けただけでも凄い事だったが、この度は何故か彼の正体が翅人であるとはっきり分かったのだ。
これが魔女の勘というものだろうか。
しかし、翅人といえばネガティブなイメージしかない。〈赤い花〉の魔女を捕まえ、売りさばくという恐ろしい犯罪に手を染めている者はだいたいが翅人であるし、我が主人である霊には、知らない翅人を見たら敵と思えと散々言われてきた。
実際、翅人に攫われそうになったことはある。
だから、この度のお客様に対しても、私はどうしても警戒心を解くことが出来なかった。ひょっとしたら、警戒していたのは私だけではないのかもしれない。霊は表情に出さなかったが、心なしかわたしを遠ざける形で話を受けていた。
「──というわけで、日笠さんを頼ってここに来たのです」
来客用の蘭花のテーブルで、飛蝗は震えていた。蟷螂のような眼光の吸血鬼に怯えている……のではない。彼が怯えている対象は、彼自身が持ってきた風呂敷の中にあった。
「開けてくださいますか」
霊が落ち着いた声で促すと、飛蝗は息を飲みながら従った。
藤色の風呂敷が開かれ、中から現れたのは古びた両手鍋だった。正直、拍子抜けしてしまったのだが、その両手鍋の姿が現れると、飛蝗は一気に青ざめてしまった。
ただ事ではない。それは分かるのだが、一体全体、この両手鍋は何だろう。
「日笠より事前にお話は聞いております。けれど、確認のため、この両手鍋のことをもう一度、お話していただけますか?」
霊が訊ねると、飛蝗は何度も頷きながら口を開いた。
「魔法の鍋、って聞いていたんです。場所や期間は言えないのですが、翅人たちが多く集まる市場がありましてね、それはもう何でも売っているのですが……まあ、それはともかく、そこを歩いていた時に、知らない翅人商人に誘われるままに買ったんです。手順を踏めば、どんな願いも叶うのだって」
聞くからに怪しい話だ。
人間同士のやり取りならば、ほぼ間違いなく詐欺商品だろう。
しかし、今回は売る方も買う方も翅人。つまり、私や霊のような魔の世界に通じる者達のお話である。となれば、詐欺商品ではない。
それよりももっと、ヤバイものである気がした。
「手順、というのは?」
霊の問いに、飛蝗は答える。
「鍋に水を張って、自分の血を垂らした人形やぬいぐるみを中に入れ、蓋を閉じるんです。そのあと、火にかけて、中が沸騰する辺りで願いを唱えるんです。すると、どんな願いも叶ってしまうらしいのです。願いは七つまで。その七つは絶対に叶うと力説されました」
それで買ってしまったわけだ。買っただけではない。恐らく、使ったのだろう。
「願いは叶いましたか?」
霊の落ち着いた問いかけに、飛蝗は強く頷いた。
「はい、それはもう。……恐ろしいほどに」
なるほど。ではやっぱり、私の予感は当たっている。詐欺商品などではなく、本当にやばい代物がまたしても来てしまったらしい。
「それで……問題はその後なんです。先日、市場に再び向かったら、そこにはこの鍋を売ってくれたあの商人がいました。僕はお礼を言いました。お陰で願いが叶ったって。でも、商人はそうですか、とにたにた笑って僕の肩を叩くんです。今のうちに、幸せを噛みしめなさいって。その後なんです。やり取りを見ていた別の知らない翅人の女性が、この鍋の真実を教えてくれたんです」
その鍋が、いつから存在するのかは誰にも分からない。
ただ、飛蝗が出会ったというその女性は、鍋にまつわる恐ろしい逸話を語ったという。
この鍋は呪われている。持ち主は願う事で財宝も、名声も、権力も手に入れた。しかし、七つ目の願いが叶ってしばらく経つと、その全てが不審な失踪を遂げているというのだ。
どこへ消えたのか、誰にも分からない。
残されたのは、始終手放さず、大事にしていた魔法の鍋だけ。
そして、飛蝗にそれを売った商人は、自分では一切使うことなく、次から次に鍋を他人に売りつけては、持ち主が失踪する度に回収しているのだと。
「僕は恐ろしくなって、それから必死に鍋について調べました。でも、何も分からない。やっぱり、何も分からないままなんです。それで、調べているうちに、日笠さんに出会って──」
「そして、ここを紹介された、ということですね」
嫌に落ち着いた霊の声に、飛蝗は縋りつくように訴えた。
「お願いします。どうか力をお貸しください。預かってくださるだけでいいんです。迷惑料ならいくらでも支払います。だから!」
「落ち着いてください」
霊はそう言って目を細めた。気のせいだろうか。その目はどこか目の前の飛蝗という人を蔑んでいるようにも見えてしまう。
「お預かりはします。けれど、一つ確認させてください。飛蝗さん、あなたはこの鍋にいくつ願ったのですか? そして、それらは全て叶いましたか?」
鋭いその問いかけに、飛蝗は息を飲み、呻きながら俯いてしまった。
「七つ……全てです。全部叶いました」
「そうですか。分かりました。お預かりしましょう。ただし、私たちに出来ることはお預かりすることだけです。どうかその事はご理解ください」
「は、はい。もちろんです」
悲痛な思いを込めて、飛蝗はそう言った。
その後は霊に指定された金額を払うと、鍋を捨てて逃げるように立ち去ってしまった。慌ただしく帰っていく彼の背中を共に見送り、店内へと戻ると、霊はため息交じりに呟いた。
「可哀想に」
息を飲みながら、私は振り返る。
「可哀想って、飛蝗さんの事ですか?」
「ええ。あまり好きな類の人物ではないけれど、さすがに同情してしまう。この鍋を使ったからにはもう逃げられない。ここで預かっていようと、意味はないでしょう」
「助けて……あげられないんでしょうか?」
思わず問いかけると、霊は静かに私を見つめてきた。赤く光るその目に、心身がぞくりとする。
霊は店のカーテンと何故か鍵を閉めると、音もなく私の傍まで近づいてきた。
「深入りは避けた方がいいわ」
そう言ってちらりと見せてくる牙に、心臓が跳ね上がった。
時刻は真っ昼間。閉店には早い。昼食時と言われればそうかもしれないが、だとしても出来る事なら互いの食事は閉店後にしたいところだ。
それなのに、何故だろう。何故、私は期待しているのだろう。そんな私を霊は面白がるように見つめ、揶揄うように笑みを漏らした。
その表情に、私の中のなけなしの反骨精神が顔を覗かせる。魔女の性に抗うように、自ら望んで築いたはずの主従関係に抗うように、私は平静を装って霊に訊ねた。
「見殺しにするってことですか?」
すると、霊は少しだけ笑みを引っ込めた。頬に手を添えられて、震えそうになる。血を吸うのなら早く吸ってほしい。痛みを求める己の心身が疼いて仕方ない。それでも、あっさりと折れるのは何だか悔しくて、私はじっと耐えながら答えを待った。
霊は言った。
「そうよ」
何処か冷たいその言葉に、私は少しだけ戸惑いを覚えた。
「どうして? 助けられるのなら、助けてあげた方が──」
けれど、言いかけたところで霊は私の唇に人差し指を押し当ててきた。
「さっきの飛蝗さんの話を覚えている? 翅人商人が集まる市場の話。あの鍋はその市場の商人が代々受け継いでいる。恐らく、鍋の秘密を知った上で、わざと売りつけて鍋に餌を与えているのでしょう。となれば、飛蝗さんは既にその翅人商人に監視されているかもしれない」
「監視されていたら、不味いんですか?」
「不味いわね。そんな状況であなたがしゃしゃり出るともっと不味い。翅人は魔女よりも弱々しい生き物だけれど、魔力の正体を見抜くのはとても得意なの。あなたが少し魔法を使うだけでも、その心臓の種類を見抜くのはお手の物でしょうね」
霊の言葉に、私はようやく気付いた。
翅人の商人。それはもう何でも売っている市場。いつ何処で開催されているかも分からないその場所の事を深く想像すると、背筋が凍りそうになった。
それでも私は諦めきれなくて、霊に訊ねた。
「……絶対にしゃしゃり出ないって誓ったら、霊さんはあの人を助けてくださいますか?」
しかし、霊はすぐには答えず、鍋の方を見つめた。
ややあって、彼女は呟くように言った。
「大事な下僕のお願い事なら聞いてあげたいところではある。でもね、それは出来ない。曼殊沙華の方々にもきつく言われているの。古物は厳重に預かって欲しい。だが、余計な手出しはするなって」
「そんな」
酷く怯えた飛蝗の顔が思い浮かんだ。
これから先、彼に良くない事が起こると分かっているのに、助けてあげられないなんて。それを仕方のない事と割り切るほどには、私はまだ魔の世界の者になり切れていなかった。
「納得できません……」
正直に気持ちを吐くと、霊はため息交じりに私から離れていき、蘭花のテーブルに置かれっぱなしの鍋に触れた。
「名前は〈モラクス〉にしましょう。ランクは曼殊沙華の方々と話し合って決める事になるけれど、恐らくSになるでしょう。もう二度と、外には持ち出さない。あの人が最後のご馳走となるように」
「霊さん……」
縋るように名前を呼ぶと、霊はやや冷たい視線をこちらに向けてきた。
「覚えていて、幽。私は正義の味方ではないの。今の私にはこのお店と自分自身とあなたを守る事で精一杯。特にあなたを奪われれば、私はきっと生きてはいけないでしょう。だって今の私は、あなたの主人であるために存在しているのだから」
彼女の言葉に、私は口を閉ざすしかなかった。
その事を言われてしまったら、返す言葉は見つからない。
思い出すのはこの関係が始まった日の事。恐ろしく嫉妬深い異母兄に殺されそうになった私を守ろうとして、瀕死の重傷を負った霊。そんな彼女を咄嗟に思い出した禁断の魔術で救ってしまったあの日の事だった。
主従の魔術。
永遠に解けない主従関係を築く非常に危険なその魔術は、死神に攫われかけている大切な人を取り戻す禁断の魔術でもあるのだと、私は知っていた。
魔女にならば出来る。手を握り、永遠に従属することを誓えばいい。そうすれば、その者は魔女の主人として生まれ変わり、その時だけならば死を免れる。
半信半疑で試したあの日、術は成功し、今に至る。それによって、霊を助けることが出来たのは確かだが、あの日から私たちの関係は大きく変わってしまった。
私はいつも疑問に思ってしまう。
霊自身はその事を、一体どう思っているのかと。
「──無茶を言って、ごめんなさい」
小声になりながら謝ると、霊は軽く頭を抱えた。
「分かってくれたらいいの」
そして、再び目を光らせて、彼女は優しく囁いた。
「おいで」
伸ばされた手に、抗う事は出来なかった。




