後編
目が覚めた頃には外はもう暗くなっていた。
いつの間にか私は霊のベッドで寝かされている。ここまで運ばれた記憶は全くない。だが、記憶を辿ると微かにだが気を失った後らしき光景を思い出せた。ここまで運ばれた後か、その前かは定かではないが、随分といただかれてしまったらしい。それこそ、私がただの人間だったならば、今頃生きてはいなかっただろうと思うくらいには。
だが、身体はとても軽かった。痛めつけられ、蹂躙された分だけ、魔女の性が満たされ、栄養となったらしい。気分も爽快で、貧血など感じない。それでも、衣服を身につけていないことと、体中に残っている生傷が、何があったのかを裏付けている。
食欲をずいぶん満たしたらしき我が主人は隣ですやすや眠っていた。だが、声をかけようか迷った末に隣で寝直そうとしたその時、その目がぱっちりと開いた。
「起きていたの」
冷静さを感じるその声に少しだけホッとしつつ、私は霊の手を握って頷いた。
「はい」
「気分はどう?」
「とてもいいみたいです」
素直に答えると、霊は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。今度こそ食い殺してしまったのではないかって不安になったの」
頬に手を添えられて、私はしばしその温もりに甘えた。そして、ふと我に返り、問い返した。
「霊さんはどうですか?」
すると、霊は目を細めて小声で答えた。
「だいぶ良くなった。あなたの血のお陰ね」
「よかった」
心からそう言うと、霊はそっと抱きついてきた。温もりに再び睡魔が訪れる。けれど、眠ってしまうのは何だか惜しい。今日はあまりに寝てしまっていた。もう少しだけ、二人の時間を楽しみたかった。
「霊さん」
眠気を払いたくて、私は声をかけた。
「指輪の持ち主、ちゃんと見つかるのでしょうか」
問いかけると、霊は私に抱き着いたまま溜息を吐いた。
「そうねえ。真さんのおめめの調子次第ね。うまく自分の気持ちに気づけたらいいのだけれど、そればかりはお手伝いも出来ないもの」
「気持ち……ですか」
呟いてから、私はふと霊に問いかけた。
「真さん、何に悩んでいたんでしょう」
すると、霊は身を離し、私の顔をまじまじと見つめてきた。
「本気で言っているの?」
心底呆れたように言われ、困惑した。
「え、えっと」
言葉に詰まる私を見つめ、霊はため息交じりに呟いた。
「まあいいわ」
そして、身を起こすと私の身体に覆いかぶさってきた。間近で見つめられ、緊張と幸福感の間にそわそわしていると、軽く唇を奪われた。血の味が薄っすらとする。散々吸われた私の血なのだろう。
唇を離すと、霊は私を見下ろしながら言った。
「ともあれ、私達に出来るのはここまで。あの指輪と真さんたちの行く末の事はいったん忘れましょう」
柔らかくも命令染みたその言葉に、私は恐る恐る頷いた。
気にならないといえばうそになる。真の悩みの内容だけではない。聖女の指輪とやらの詳しい話も霊なら多少は知っているだろう。それに、あれと同じ指輪を霊が持っていて、〈ハウレス〉という名前がついていることも気になっている。それでも、それ以上聞くということは、私には出来ない。何故なら、霊の聞いて欲しくないという意思を感じるからだ。単なる興味でこの人の心中を抉っていいものか。
結局、私は口を噤むことを選んだ。
「素直でいい子ね」
霊はそう囁くと、私の胸部に耳を当てながら言った。
「そんないい子にはご褒美をあげる」
そして、眠れない夜の時間は続いていった。
翌朝になると、身体が異様に軽かった。きっと、夜の間に魔女の性をこれでもかというくらい満たしてもらえたからだろう。お陰で、その日は爽やかな気分のままお店にでることが出来た。霊の方も同様だった。私の血を思う存分吸ったからだろうか。いつも美しい彼女が今日は一段と美しく見えた。多分、明日も明日で私はきっと何かしら理由をつけて、霊の美しさに惚れ直しているのだろうけれど。そんなノロケに浸っているうちに、真や指輪への興味も次第に薄れていった。
再び彼らの事を思い出したのは、それから一週間ほど経って、曼殊沙華のお家から電話がかかってきたときの事だった。真が挨拶に来たいと言っている、という連絡だった。そして、その電話の三日後あたりに、彼は予告通りこの店を訪れた。
「先日は大変お世話になりました」
定番のお菓子の手土産を片手に彼は言った。その表情は心なしか非常に明るい。顔を見るだけで、その後の事も何となく察しがついた。
「お陰様であの一件もうまく事が運びそうです。ひと通り落ち着いたので、今日は改めてお礼を言いに参りました」
「わざわざありがとうございます」
落ち着いた様子で応対する霊を前に、真はもじもじしている。何か言いたそうにしているようだが、一体何だろう。お茶を運んできた私に小さく頭を下げてから、真は改めて切り出した。
「あの時は焦りのあまり失礼な態度をとってしまい、すみませんでした。大切なものを簡単に譲ってほしいだなんて」
頭を下げる彼を前にして、霊はそっとカップに手を運んだ。入れたばかりのマグノリア産のお茶を軽く口に含み、ゆっくりと飲み込んでから彼女は口を開いた。
「あれから目の調子はどうですか?」
すると、真はすぐに顔を上げて笑顔を浮かべた。
「とてもいいみたいです。その事も霊さんにはお世話になりました。あなたがはっきりと言ってくださったから、僕も勇気を持てたんです。その先に踏み出すことも出来ました」
「そうですか。それは良かったです」
穏やかに、ただ穏やかに、霊はそう言った。
それから真は簡単に今後の状況を報告し、何度もお礼を言いながら手土産を置いて去っていってしまった。短い時間を利用してわざわざ来てくれたらしい。彼の晴れやかな表情を思い出して、私もまた少し明るい気持ちになった。
何だか知らないけれど、困っていたことが解決するのはいいことだ。
「良かったですね、真さん」
お茶を片付けながら私は霊にそう言った。彼女はカウンターで〈ピュルサン〉の手入れをしている。時折そのレンズの先を覗き込んでは、何度も溜息を吐いていた。そして、今回も溜息を吐いてから、気怠そうに答えたのだった。
「そうね」
何処となく素っ気ない様子が気になって、私は盆を持ったまま彼女の傍へと近寄った。
「どうしたんですか。元気ないですね」
問いかけると、霊は〈ピュルサン〉を手に持ったまま頷いた。
「ちょっと蛇ノ目のことを考えてしまって」
「蛇ノ目のこと?」
「ええ、〈ピュルサン〉に力を授けたという人物は、蛇ノ目に生まれた者をとにかく羨望していたらしい。このルーペにはそれに近い力が宿っているけれど、やっぱり本物には敵わない。その事を思い知らされてね」
珍しく落ち込んだ様子の彼女を前に、私は言葉を探してしまった。だが気の利くひと言を見つけ出すより前に、彼女はぽつりと呟いたのだった。
「私も蛇ノ目だったら、色々と見通せるのかしら」
いつにもなく落ち込んだ様子の彼女を前に、私は少しだけ動揺してしまった。盆を置いてその顔をそっと窺うも、蛇ノ目でないのは私も同じ。彼女の真意はやはり見抜くことなど出来なかった。魔術の才に長けた魔女ならば心を読む力も備わるとも聞いているが、私にはまだまだ遠い道のりなのだろう。
仕方なしに私は彼女に言葉で訊ねた。
「霊さんの見通したいものって例えばどんなものなんですか?」
すると霊は私の顔を見つめ、微笑みを浮かべた。
「そうね。例えば、あなたの心の中かしら」
「え、私の……?」
一瞬ドキっとしたものの、すぐに首をかしげてしまった。
「でも、霊さん、とっくに色々と見抜いていそうですけれど」
「まあ、今はそうね。あなたの考えていることを読み取るのも容易よ。でも、あなたがこのまま魔女として成長していけば、そうもいかない。そのうちきっとあなたは自分の気持ちを隠すようになるでしょう。私が命じようと、無意識にね」
「そんなこと──ある……のかな」
あまり想像がつかなかった。魔女の性のことを思えば、見通される方が望ましい気もするのだけれど。
しかし、我が主人はそう思わないようだ。ため息交じりに霊は言った。
「そうならないとは言えない。だから、蛇ノ目が羨ましくなったの。モノの補正なしで好きな時に簡単に見通せるあの目が」
呟く彼女を見つめ、私はそっと告げた。
「私は霊さんの吸血鬼の力が時々羨ましくなります。あのくらい強かったら、私ももっと霊さんの役に立てるはずなのに」
性を満たさずとも不老で魔女にはない様々な幻術を使える能力。影に潜り込む力も、他人を魅了する力も、魔女の私には努力して身につくかどうかも分からないものだらけだ。血を飲まなければならないことは大変かもしれないし、鬼食いという恐ろしい捕食者のことは常に警戒しなくてはならないけれど、私は時々、霊のように自分もマテリアルだったらと思うことがあった。
しかし、そんな思いを胸に抱く私を見つめ、霊は肩を竦めたのだった。
「そう。私はあなたが〈赤い花〉でよかったって思うわ。だって今更、手放せないくらい美味しい思いが出来るもの」
妖しく笑うその表情に、ぞくりとした。
そんな私の反応を見て軽く笑うと、霊は言った。
「でも、お陰でちょっと分かった。結局、ないものねだりってやつなのでしょうね」
そう言いながら、霊は手入れを終えた〈ピュルサン〉をケースにしまった。
「この子もないものねだりで生まれたようなもの。誰かの羨望が形になって、今の私の生活の役に立っているのだから、そう悪い事ではないのかもしれないわね」
微笑む彼女を見つめ、私もまた目を細めた。いつも見せてくれるあの微笑みだ。そのことに心底ほっとした。
「〈ピュルサン〉も霊さんのもとにいられて、きっと幸せですよ」
これほどまでにモノの幸せを意識する人なんてそうそういない。もとが羨望だとしても、その力が憧れた先に敵わないのだとしても、十分役に立って愛されている。それだけで、言うことなんてないはずだ。
「そうね」
霊は私の顔を見つめたまま軽く相槌を打った。
「そうだといいわね」
何処となく憂鬱そうにも見えるその表情の奥で、我が主人が何を考えているのか、それは未熟な魔女である私には分からない。まったく、蛇ノ目が欲しいのは私の方だ。きっと霊よりも私の方が、〈ピュルサン〉に力を宿した人の気持ちに同調できるに違いない。
それでも、会話が終わるとともにさり気ない動作で口づけをされてしまうと、多少浮かんでいた不安くらいは弾け飛んでしまった。愛しい人の口づけ一つで、こうも気分が高揚するなんて。どうやら今の私には蛇ノ目なんて贅沢なものは必要ないらしい。




