後編
百花魁に〈サロス〉を返して数日経った。
一夜の激しさが鬱憤晴らしとなったようで、一応は、私も霊もいつもと変わらない関係のままでいられた。
けれど、ふとした瞬間に思い出してしまう。
あの夜に抱いた憂鬱な気持ちを。嫉妬と悲しみが沸き起こり、理性を失ってしまいそうな瞬間があった。
だから、私は休みを貰った。
霊の傍を少しだけ離れて、一人で過ごしてみたくなったのだ。
この町は危険だ。一人で暮らしていた頃とはもう違う。私の事はあらゆる人に知られてしまっているし、身を守るだけの魔術も十分ではない。
それでも、一人で外の空気を吸いたかった。
意外なことに、霊はあっさりと許してくれた。怪しい気配に気を付けなさいというだけで、誰と会うのかとも、何処へ行くのかとも聞いてこなかった。有難いことだ。だって、誰と会うわけでもないし、何処へ行くわけでもなかったから。
一時の自由を手に、私は一人きりで生まれ故郷でもあるこの町を目的もなく歩きだした途端、世界が妙に広く感じてしまった。何度も見た景色のはずなのに。
さて、何処へ行こう。
何処だっていい。
思うままに歩きたい。
そうして向かったのは、かつて私が母と暮らした家だった。
今はもう新しい家が建って、知らない人が暮らしているその場所。改めてくることはあまりない。母の事を思い出してしまうから。もう会えない人を思い出してしまうから。
それでも、今回は良い気分転換になった。母の死もだいぶ遠い過去のものになってきているのかもしれない。
次に向かったのは、私が霊のもとに転がり込む前に借りていた古いアパートだ。あまり良い思い出はない。不気味だったこと、不安だったこと、怖かったこと、そういう暗い感情が押し寄せてくる。
景色だけは変わらず美しい。だが、ここで暮らしていた頃には戻れない。戻りたくもない。今はきっと相当恵まれているのだ。そう思うと、急に心細くなってきた。
その後は適当に過ごした。本屋に行ったり、商店に行ったり。憂鬱な気持ちを少しでも紛らわそうと飲食したり、買った本を読んだりして、そうこうしているうちに、日は傾きだした。
そうだ。帰る前にあの場所に行こう。
不意にそう思い立って向かったのは、私が霊と初めて出会った公園だった。
今となっては懐かしい。
あの日、私はここに呼び出された。恐ろしい父の話を知っていると名乗る者に呼び出され、向かったのだ。そこに現れたのが霊だった。
初めのうちは、彼女が呼び出したのだと信じていた。彼女だってそう信じさせてきた。だが、実際は違ったのだ。懐かしい。まだ、私の主人ではなかった頃の霊が。
――幽さん。
舞鶴の術で一瞬だけ見せた霊の表情を思い出し、私はさらに暗い気持ちになった。
私は、恐ろしい罪を犯したのではないか。
命を救うためといって魔術を使い、まんまと理想の主人を手に入れてしまった。
縛られて自由を奪われた霊は、今、幸せなのだろうか。
本心から、私の事を好いていてくれているのだろうか。
そこが何度も引っかかり続ける。何度確かめても、何度納得しても。
そんな私の気持ちを反映するように、空は暗くなっていく。真っ赤な空が段々と黒ずんでいく様子を見つめながら、私は自分に言い聞かせた。
そろそろ、帰らないと。
そんな時だった。
「やっぱりそうだ。〈赤い花〉のニオイだ」
よくない単語が聞こえてきた。
少なくとも、外で聞きたくはない単語が。
見れば、私の正面に人がいた。速やかにそのオーラを確認する。色は赤だった。人間の血を引いていない魔の色だ。
見た目は人間と変わらない。若い女性で、煌々と輝く目を持っている。何の種族かまでは分からなかったが、あまり良い出会いではなさそうだ。
一歩下がる私を見て、彼女は首を傾げた。公園の街灯がともると、彼女の表情がよく分かった。笑っている。その表情で、私は察した。
この女は危険だ。
「もう全て摘まれてしまったかと思っていたのに」
淡々と告げる彼女から、私はさらに距離をとった。
不用意に背を向ければ、襲い掛かられて終わるだろう。まずは冷静に、距離を離さないと。だが、そんなことはこの女だって分かっていた。
「お待ちなさいな。せっかく出会えたんだ。じっくりお話をさせておくれ」
そう言って、彼女は私の目を見つめてきた。
その途端、私の足は凍り付いたように動かなくなってしまった。まるで、蛇に睨まれた蛙のよう。あとは巻き付かれて飲み込まれるだけ。
そうだ。蛇だ。人間のような姿をしているけれど、脳裏に蛇が浮かんだ。
「ああ、懐かしい。豊穣を約束する代わりに美味しそうな〈赤い花〉をじっくりいただいたあの頃が。忌々しいキツネ共がいなければ、もっとたくさん食べられたのに。ああ、でもいい。久々に楽しい事が出来そうだ」
そう言いながら、女は近寄ってきた。
抗うにはどうしたらいい。
ここを掻い潜るには、何の魔術を使えばいい。
混乱ばかりが押し寄せて、何も判断できなくなった。
――気を付けなさいと言われていたのに。
後悔が遅れてやってきた。だが、そんな矢先、背後から私をそっと抱きしめてくる者がいた。霊だろうか。一瞬だけそう思ったが、違うとすぐに分かった。香りがしたのだ。霊が散々嫌っていた、あの香りが。
「もう大丈夫よ」
百花魁だ。
彼女の一言で、私の身体は呪縛から解放された。すぐに女から目を逸らすと、百花魁に抱き寄せられた。彼女は人間の姿のまま、蛇の気配のする不審な女を見つめている。
「さてと。首を突っ込んだからには最後まで責任を持ちましょう。蛇神様? せっかく長生きしたというのに、ここでつまらない死に方はしたくないでしょう?」
おしとやかだが煽るようなその言葉に、案の定、相手は憤怒した。
「忌々しい女狐が。私の毒で苦しみたくないならば、その娘を置いて今のうちに去れ」
「それは出来ない」
百花魁は片手をあげて、髪をまとめていた〈サロス〉を引き抜いた。
「仕方ないわね。ちょっとばっかし、本音を見せましょうか」
ため息交じりにそう言って、彼女は蛇の女に告げた。
「去るのはお前の方よ、蛇女。世間はもうお前の力を頼ったりはしない。だからお前はもう生贄を貰える身分じゃないの。かつて、白妙の血筋に逆らったお前の手下どもがどうなったか、忘れてはいないでしょう?」
百花魁の静かな威嚇に、私の方も緊張してしまった。
霊を揶揄っている時の彼女ではない。そのことを間近で感じた。対する蛇神とやらがどんな顔をしているかは確認できなかったが、すぐに返答はなかった。
黙りこくる相手に向かって百花魁は落ち着きを取り戻した声色で告げた。
「さあさ、蛇神様。分かったらお行きなさい。きちんと肥育されていない〈赤い花〉なんて美味しくないわ。時代は変わったの。昔のように美味しい思いなんてできない。危険を冒してこの子を食べるくらいなら、ネズミでもお食べなさい。その方が恨まれないし、ずっと世の為に働ける」
単なる説得でも、煽りでもない。その言葉には、確かに力があった。〈サロス〉だ。しっかりと握っている〈サロス〉の力が、百花魁の声に乗っている。
百花魁は蛇神から目を逸らすことなく、命じ続けた。
「さあ、去りなさい」
その直後、とげとげしい視線が急に消えた。
気になって恐る恐る振り返ってみると、そこにはもうあの女はいなかった。代わりに見えたのは、蛇だ。小さな蛇が背中を向けて、にょろにょろと逃げ去っていくのが見えた。
その異様な光景に目を奪われていると、百花魁はふうと一息ついて、再び〈サロス〉で髪をまとめだした。
「ありがとうございます……」
息を呑みながら礼を言うと、百花魁は髪をまとめ終わってから、私を見つめ、微笑みを浮かべた。
「当然のことをしたまでよ。見殺しにすれば霊様に呪われてしまうもの。それにね、私は白妙の血筋の者として、蛇神から〈赤い花〉を守る義務があるの」
「義務……ですか? そもそも、蛇神って?」
訊ねると、百花魁は小声でそっと教えてくれた。
「うんと昔の話だけれど、この辺りは蛇神が祀られていたの。蛇神は人々に豊穣を約束する代わりに、生贄を要求した。その頃から人間たちの中に〈赤い花〉が紛れて暮らしていたそうでね。蛇神は彼らの血筋を絶やすことなく、もっとも出来の良い娘を育て、定期的にこちらに寄越すようにと約束させた。その因習を辞めさせたのが、遠い地からここへ流れてきた白妙の一族なの。殺せば祟るから力を奪って追い払うしかない。けれど、生きている以上、彼女はきっと同じことをしようとする。だから、それ以来、キツネ達が代々ここを守ることにしたのよ」
「そう、だったんですか……」
全く知らない昔話だった。
そもそも、蛇神と呼ばれる魔物の存在だって知らなかった。かつては神とされた者のひとり。だが今は、その座も追われて狭間で生き延び続けている。生まれ故郷とはいえ、この町にはまだまだ私の知らない世界があるらしい。
恍惚としていると、百花魁は再び私を抱きしめてきた。
「蛇神が敗北した後はね、生贄用に囲われていた〈赤い花〉の血族を、白妙が護っていたの。長い間ずっと、白妙のお屋敷で〈赤い花〉は咲いていたのよ。ひょっとしたら幽ちゃんのご先祖様の誰かも、私のご先祖様の誰かがお世話していたかもしれないわね」
「白妙のお屋敷に〈赤い花〉が……?」
緊張する私の胸にそっと触れ、百花魁は頷いた。
そして、色気をたっぷりと含んだ声で彼女は囁いてきた。
「さて、雑談はこの辺にして、本題に入りましょう。ねえ、幽ちゃん。あなたを助けるのもまた義務とはいえ、助けてあげた報酬が貰えるのならばこの上ないこと。遅刻しているご主人様の代わりになったのだもの。そのお礼を貰えたっていいはずよね」
毒々しいその囁きに息を呑み、私は彼女に訊ねた。
「何が望みですか」
「女の身体が欲しい」
百花魁は冷たい声でそう言った。
「女体というものは白妙にとってご馳走でもあるの。もちろん、私たちは蛇神なんかじゃないから、命まで奪ったりはしないわ。痛い思いは一切させない。私たちが食べるのは欲に溺れた精気だけ。そうして力を貰って、この地域に豊穣を約束してきたのよ。とくに〈赤い花〉の女性は美味しかったのですって。私も味わってみたい」
まずい。
これは、〈サロス〉を使われているのだろうか。百花魁の強引な誘いが欲望を刺激してきた。いや、いけない。いくら助けてもらったと言っても、それだけは拒まないと。
そう思ってふと顔をあげると、さっきまで蛇神のいた辺りに別の人物がいた。あらゆる天候から守ってくれる傘〈フルフル〉を差しながら、こちらをじっと見つめている。
霊だ。
あの時と――初めて出会った時と同じような姿に、ぎょっとしてしまった。
「霊さん!」
ほっとして名前を呼んだが、百花魁にぎゅっと抱きしめられてしまった。
「遅かったわね、霊様。あなたが蛇神の気配を見落とすなんて。私が通りかかっていなかったら、今頃どうなっていたことか」
「その件に関しては、礼を言いましょう。百花姐さん」
そう言って、霊は〈フルフル〉を閉じた。
「追い払ってくれたのも非常に助かったわ。その対価として女体をご所望なら、私が払いましょう。だから、今すぐ幽を返して」
強いその言葉に、私は心から震えてしまった。
ああ、あれこそが。
あれこそが、私の理想の主人だ。
その感動が罪悪感を越えて、魔女の性をくすぐった。
だが、興奮はすぐに冷めてしまった。状況が、状況だからだ。
私を抱きしめながら、百花魁が笑いだす。
「それでこそ、霊様よ」
うっとりとした声でそう言うと、彼女は私を解放してくれた。
「お返しするわ。その代わり、約束は守ってもらいましょうか」
私は息を呑んでしまった。霊は険しい表情のままだが、頷いた。頷いてしまったのだ。そのやり取りに挟まれて、私は血の気が引くのを感じた。
いやだ。
その瞬間、私の心の中で、何かが弾けとんだ。
「いやだ……いやです!」
声を張り上げると、二人の視線が同時にこちらを向いた。だが、構いやしない。私はくるりと霊に背を向けると、百花魁に縋りついた。
「百さん。お願いです。お礼は私が払います。私に払わせてください」
「幽!」
背後より咎めるような声がして、心身が竦む。しかし、どうにか抗った。抗うことが、できたのだった。
「お願いです。私でもいいのなら、私に払わせて欲しいんです。だから、霊さんを……霊さんを私から奪わないで!」
掴みかかる私を払いのけようともせずに、百花魁はじっとこちらを見つめていた。その目は人間のものだが、何を考えているのかは全く分からない。ともすれば、冷たい視線のようにも思えた。
「幽……」
呆れたような声が聞こえる。霊はさぞかし怒っているだろう。失望させただろう。従属の魔女なのに、その性に抗ってまで、主人の意向を無視するなんて。
それでも、こうせざるを得なかった。
泣きそうになる私の頬に百花魁がそっと手を当ててきた。温かい手だが、触れられると鳥肌が立ってしまう。そのあまりの色気が私には毒のようだ。しかし、願った以上、逃げるつもりはない。私はじっと彼女を見つめた。
そんな私に百花魁はそっと微笑みかけた。
「純粋な人ね」
ぽつりとそう言ったかと思うと、あっさりと手を引き、私たちに背を向ける。呆気にとられている中で、下駄をカランコロンと鳴らしながら彼女は数歩進み、立ち止まった。
「お礼の事だけど」
振り返りもせずに彼女は告げた。
「夕顔屋っていうお豆腐屋さんを知っているかしら。あそこでいつも美味しい油揚げを売っているの。けれど、お店が開いている時間に立ち寄ることが出来なくて、滅多に食べられないの。いつでもいいから、それを届けてくださる?」
――油揚げ?
茫然とする私の手を、霊がそっと掴んできた。我に返るその横で、彼女は落ち着いた声で返事をした。
「分かったわ。早いうちにたくさん買ってきて届けましょう」
すると、百花魁は満足したように笑ってみせ、そのまま真っすぐ立ち去ってしまった。
二人で彼女を見送ってしばらく、その姿がすっかり見えなくなると、霊が手を引っ張ってきた。促されるままにその腕の中に納まると、霊は深いため息を吐いた。
「すっかり肝が冷えたわ。食欲すら衰退するくらい」
「ごめんなさい、霊さん」
「いいの。私がもたもたしていた所為でもある。それに――」
「それに?」
訊ね返すと、霊は薄っすらと笑みを浮かべた。だが、答える前に静かに首を振り、私の顔を見つめてきた。
「それよりも、幽。あなた、私の許しもなくあの女に身を捧げようとしたわね」
「それは……その……」
言葉が見つからずすっかり怯む私を見つめ、霊は目を微かに赤く光らせた。
「そんな身勝手なあなたには、後でお仕置きを受けて貰います」




